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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第64章 1918(大正3)年秋分~1918(大正3)年小雪
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天長節祝日

 1918(大正3)年10月1日火曜日午後0時30分、皇居・表御殿にある豊明殿(ほうめいでん)

(ヤバいわ、これ……忙し過ぎてヤバいわ……)

 内大臣として宴席に連なっている私は、周囲を見渡すと大きなため息をついた。

 今日は“天長節祝日”……本来は兄の誕生日・8月31日に行われるはずの天長節観兵式と天長節宴会が開催される日である。祝日なので、余程の緊急案件がない限り政務は無いのだけれど、予定は朝からたくさん詰め込まれていた。

 今日は参内すると、宮内大臣の山縣さん、そして、侍従長の奥保鞏(やすかた)さん、侍従武官長の島村速雄(はやお)さん以下の侍従さんたちや侍従武官さんたちと兄の執務室である御学問所に集まり、兄に誕生日のお祝いを申し上げた。その後、兄に従って表御殿の鳳凰の間に行き、皇族や重臣たちが兄に誕生日のお祝いを申し上げるのに立ち会った。更に、正殿で伯爵以下の華族たちが兄にお祝いを申し上げるのに立ち会い、正午からは豊明殿での天長節宴会に出席している。

(今日は雨が降っているから無かったけれど、天長節観兵式があったら、朝早くから出ないといけなかったからもっと忙しかったわね。軍籍を持つ内親王として、観兵式や宴会に呼ばれるのは大変だと思っていたけれど、内大臣として一連の祝賀行事に参加するのはもっと大変だわ……)

 再び大きなため息をつこうとして、私はふと、兄の様子が気になった。お父様(おもうさま)の崩御が2年前の11月7日に発表された後、1年間の諒闇があったので、今回が、兄が天皇の位に就いてから天長節が祝われる初めての機会となる。立て続けに大人数との謁見に臨んで、兄は疲れてはいないだろうか。

 私は自分の席から、兄の様子をそっと窺った。800人近くの招待客がひしめく豊明殿では、宮内省職員による室内楽の演奏が始まっている。その演奏に、兄は笑顔を見せながら耳を傾け、隣に座る青い大礼服(マント・ド・クール)姿の節子さまに、時折何かを話しかけている。疲れている様子は、微塵も感じられなかった。

(よかった、兄上、元気そう。……っていうか、私がへこたれていたらダメね。もっとしっかりしないと、兄上にも大山さんにも笑われちゃうわ)

 気合を入れ直した時、室内楽の演奏が終わった。奥侍従長が静かに立って兄のそばに行き、兄に声を掛ける。1つ頷いて玉座から立ち上がった兄に従い、私は奥侍従長や山縣さんとともに表御座所に引っ込んだ。

「お疲れ様でございました」

 内大臣室に戻り、帰り支度をしていると、内大臣秘書官長の大山さんが、ノックの音とともに姿を現した。

「今日は、お帰りになるのですか?」

「そうね……」

 大山さんに、これからの予定を正確に伝えるべきか迷ってしまい、私が少し歯切れの悪い返答をすると、

「ほう、(おい)に黙って寄り道とは……どこに行かれるのですか?」

大山さんは、凄みのある微笑みを顔に湛えながら私に迫ってきた。

「……大山さんに言う必要は無いと思うわ」

 これから向かう場所には、大山さんがついてくるのはご遠慮いただきたい。私がわざと冷たい口調で答えると、

「これは意外なお答えを賜りました。梨花さまは、(おい)から拷問を受けたいとおっしゃるのですか」

大山さんは凄みのある微笑みを崩さぬまま、おどけたように私に言った。

「主君を拷問するって、一体どんな臣下なのよ。それ、もう、下克上じゃない……」

 私はツッコミを入れてからため息をつくと、「輝仁(てるひと)さまの所」と、大山さんに短く言った。

「あなたはついて来ないでちょうだい。あなたのせいで、蝶子(ちょうこ)ちゃんが体調を崩したら大変なのだから」

 軽く睨みつけると、大山さんもそれ以上は追撃せず、「分かっております」と呟くように答えた。

「あれは、もう、(おい)の手の届かぬ所へ行ってしまいました。(おい)が叱りつけたくても、叱ることはもはや叶いません」

「そうね。だから私が、大山さんの代わりに蝶子ちゃんの所に行くんじゃない」

 私はそう言いながら、荷物の入ったバッグを手にした。

「どんな様子だったか、明日会ったら話してあげるから、今日はついてこないでね」

 念押ししてから立ち上がり、内大臣室のドアを開けた私に、大山さんは深く頭を下げた。


 1918(大正3)年10月1日火曜日午後2時、赤坂御用地内にある鞍馬宮(くらまのみや)邸。

「お身体の具合はいかがですか、妃殿下?」

 輝仁さまと蝶子ちゃんが寝室として使っている和室。布団の上に身体を起こした蝶子ちゃんに、正座した私が畏まって尋ねると、

「内府殿下……」

白い寝間着の上に桃色の羽織を着た彼女は、私に向かって頭を下げようとした。

「妃殿下、どうぞそのままで」

 私は慌てて義妹を止めた。彼女の顔は青白い。先週の日曜日にお見舞いした時よりはマシだけれど、体調はまだ良くないのだろう。彼女は今、輝仁さまの子供を身籠っている。今は妊娠3か月から4か月で、ひどい悪阻(つわり)に苦しめられていた。

 と、

「あのさ、(ふみ)姉上」

私の隣に正座している航空少尉の正装姿の輝仁さまが私を呼んだ。

「先週も思ったんだけどさ、その……“妃殿下”っていうのはどうなんだよ。もっと他に言い方があるだろ?“蝶子ちゃん”とかさ」

「仕方がないでしょう。筆頭宮家当主の奥様だから、そちらの方が私より目上なのよ」

 不満げな弟を、私は軽く睨みつけた。いくら私が内親王であると言っても、宮家継嗣の妻に過ぎない私は、筆頭宮家当主の妻である蝶子ちゃんより立場が下なのだ。目下の者が目上に砕けた言葉遣いをするのは、許されることではない。

 すると、

「ですが、私の義理のお姉さまで、内大臣でいらっしゃいます」

蝶子ちゃんがはっきりとした口調で言った。

「並の男子に後れを取らない、全女子の憧れの的でいらっしゃいます。そのような方ならば、私と同等、いや、それ以上のお立場にいらっしゃると考えるべきだと思います。ですから私のことは、どうぞ“蝶子”と呼び捨てにしてください」

「い、いや、いきなり呼び捨てにするのは、どうなのかな、それ……」

 困惑する私に、「なあ、頼むよ、(ふみ)姉上」と輝仁さまが懇願するように言った。

「人払いならしてある。だから、他人に聞かれることは気にしなくていいんだ」

(ああ……なら……)

「……じゃあ、蝶子ちゃん、そっちも私のことを、“内府殿下”とか、“妃殿下”とかじゃなくて、“お義姉(ねえ)さま”か“章子さま”と呼んでもらっていいかしら?」

 ほっと息をついた私が蝶子ちゃんにこう言うと、

「はい、もちろんです、章子お義姉(ねえ)さま!」

蝶子ちゃんは微笑んで返答した。

「よし。じゃあ、仕切り直して……今の体調はどうかしら、蝶子ちゃん?」

 私が砕けた言葉遣いで問い直すと、

「はい、だいぶ良くなりました」

蝶子ちゃんは微笑んだまま、私に答え始めた。

「……って、まだ、固形物は食べられないだろ」

 横から輝仁さまが指摘した。

「先週、(ふみ)姉上が見舞ってくれた次の日に、経口補水液も吐いたから水分補給の点滴をされていたじゃないか」

「でも、その後は、経口補水液も飲めるようになったわよ。それに、スープや果汁だって飲めるようになったし。先週の一番ひどかった時とは違うの」

「そりゃそうかもしれないけどさ……」

「あー、とにかく、徐々に回復はしている、っていうことね」

 私は何とか、輝仁さまと蝶子ちゃんの間に割って入った。「なら、食べられるものもだんだん増えていくよ。大丈夫だ」

「本当か、(ふみ)姉上?」

 輝仁さまがとても心配そうな表情で私に尋ねた。「(さだ)義姉上(あねうえ)(ふみ)姉上、それに(まさ)姉上たちの出産も見聞きしてきたけど、悪阻がひどくて点滴をした、って話を聞いたことが無くてさ……(ふみ)姉上、本当に、蝶子の身体は大丈夫なんだよな?」

「大丈夫だよ、輝仁さま」

 私は弟に身体を向けて正座し直した。

「医者をやっていると、悪阻がひどすぎて点滴をして水分補給をしたという話は結構聞くよ。でも、そんな悪阻でも、赤ちゃんの成長とともにだんだん治まって、安定期に入っていく。だから、蝶子ちゃんの体調の回復を待ってあげて」

「あ、ああ、分かった……」

 ぎこちなく首を縦に振った輝仁さまは、蝶子ちゃんを心配そうに見つめている。

(ああ、輝仁さま、蝶子ちゃんのこと、本当に愛しているのね……)

 弟の妻への愛情の深さを目の当たりにして、思わず私が胸を高鳴らせてしまった時、

「章子お義姉(ねえ)さまがそうおっしゃるなら安心しました。これからいろいろと、食べられるものを探してみます。……そうだ。皇太后陛下にいただいた梨があるから、あれを少し食べてみようかしら」

蝶子ちゃんは明るい声で言う。

「お、おい、やめる方がいいんじゃないか?万が一、戻しでもしたら……」

 横から止めた輝仁さまに、「平気よ。もしダメなら、すり下ろして果汁を飲めばいいから」と応じながら立ち上がると、蝶子ちゃんは職員さんを呼び、梨を切って持ってくるように言いつける。しばらくして、切り分けられた梨が寝室に運ばれてきた。お皿に山盛りになっていたのでびっくりしたけれど、フォークが3本添えられているところを見ると、私と輝仁さまと蝶子ちゃんの3人でどうぞ、ということらしい。私は遠慮なく、梨をいただくことにした。

「どうだ?」

 ハラハラしながら見守る輝仁さまの視線の先で、蝶子ちゃんはフォークに突き刺した梨をじっと見つめている。そして、意を決したように口を開くと、梨の先っぽを少しだけかじり取った。

「あ……うん、食べられた!」

 梨のかけらを咀嚼して飲み込むと、蝶子ちゃんは小さく叫んだ。次の瞬間、

「そうか!」

輝仁さまが力強く蝶子ちゃんの身体を抱き締めた。

「よかった!よかった……」

 蝶子ちゃんがようやく固形物を食べられたという喜びからか、輝仁さまはほとんど泣き出しそうになっている。そんな彼に、

「身体、揺らさないでよ。また気持ち悪くなるから」

蝶子ちゃんの冷たい声が突き刺さった。

「そ、それに、夫婦とはいえ、ひ、人前で抱き合うのは、ど、どうなのかなぁ……」

 私も顔を背けながらツッコミを入れると、

「あ……ご、ごめん、(ふみ)姉上」

輝仁さまは慌てて蝶子ちゃんから離れた。

「と、ところで……お母様(おたたさま)は、最近もこちらにいらしたの?」

 無理にでも、話題を変えなければならない。若い2人から目線を逸らしながら尋ねると、

「はい、先週の木曜日、ご運動の途中でこちらに立ち寄られました。その時も、私をお見舞いいただいて……」

蝶子ちゃんがハキハキと答えた。

「皇太后陛下は、いつも私たちを気に掛けてくださるので本当にありがたいです。先週こちらにいらしたときも、お優しいお言葉を頂戴しました」

「それはよかったわ」

 この鞍馬宮邸のある赤坂御用地には、お母様(おたたさま)の住む東京大宮(おおみや)御所がある。お母様(おたたさま)は天気のいい日には必ず外に出て、御用地の敷地内を散歩しているのだけれど、その途中で、鞍馬宮邸に立ち寄ることがあるのだ。それが、輝仁さまに嫁いだばかりの蝶子ちゃんを気に掛けてのことだろう、というのは、容易に想像がつく。お母様(おたたさま)は蝶子ちゃんにとっては姑に当たるのだけれど、この様子だと、蝶子ちゃんとお母様(おたたさま)はいい関係を築けているようだ。

「最初、蝶子はお母様(おたたさま)のことが怖いって言っていたけれど、今ではすっかりお母様(おたたさま)と仲良しになったぜ」

 輝仁さまが私に向かって自慢げに言うと、

「だって、お話したことがなかったもの」

と蝶子ちゃんは反論するように言った。「女学校時代、華族女学校に行啓があった時にも、皇太后陛下のお姿を遠くから拝見するだけだったから。お祖父(じい)さまに、“皇太后陛下には、くれぐれも粗相のないように”と何度もきつく言われたから、きっと、怒ると恐ろしい方なんだろうな、と思って……」

お母様(おたたさま)が怒ったところは見たことがないよ」

 私は蝶子ちゃんに微笑んだ。「私は、和歌と書道が苦手でね。特に、和歌は全然詠めないから、さんざんお母様(おたたさま)の手を焼かせたけれど、お母様(おたたさま)に怒られたことは一度も無い」

「で、でもそれは、章子お義姉(ねえ)さまが、皇太后陛下のお身内だからでは……」

 反論した蝶子ちゃんに、

「何を言ってるの。輝仁さまのお嫁さんなのだから、あなたも立派なお母様(おたたさま)の身内よ」

私はこう言い返してみた。

「だから輝仁さまのそばで、堂々としていらっしゃいな」

 私の言葉に、蝶子ちゃんは深く頷く。そして、

「あの、章子お義姉(ねえ)さま、皇太后陛下のこととは全く関係ないのですが、1つ、お伺いしたいことがあるのです」

と私に言った。

「悪阻が治まったら、外出して構いませんか?例えば、来月の即位礼に出席する、とか……」

「流石に即位礼は難しいなぁ。京都まで往復して、おまけに一連の儀式に参加したら、身体に負担が掛かり過ぎるわ」

 兄の即位礼は、京都で執り行われる。これは、天皇の践祚(せんそ)や即位礼などについて取り決めた“登極令(とうきょくれい)”という皇室令で定められているからである。そして、東京から京都までは、この時代、列車で片道12時間ほど掛かる。こんな大移動を妊婦にさせてしまったら、妊婦と胎児の健康に影響が出てしまう。

「ええ……」

 蝶子ちゃんは不満そうな声を上げた。

「先月妊娠が分かってから、悪阻もひどくて、ずっと外に出ることができないから、私、辛いんです。本当は外に出てテニスや乗馬をしたり、野球の試合を見に行ったりしたいのに……」

「ああ、野球の試合を見に行くのは大丈夫よ」

 私は義妹をなだめるように言った。

「もうすぐ、東京学生野球のリーグ戦が始まるじゃない。それを見に行けばいいのよ」

「ああ、そうか。それはいいな」

 輝仁さまが明るい顔を蝶子ちゃんに向ける。「確か、来週末から始まるんだよな。体調が落ち着いていたら、試合を見に行こうぜ、蝶子」

「いいわね、それ。もし、身体が本調子じゃなくても、ラジオで実況を聞けるしね」

 蝶子ちゃんも声を弾ませる。第一高等学校、東京専門学校、東京高等師範学校など、東京市内にある高等教育機関の野球部が集まり、年に1度、秋にリーグ戦を行うようになったのは4年前のことである。徐々に普及し始めたラジオでも、試合の模様が全国中継されるようになり、野球の人気はますます高まっていた。

「全日本陸上選手権大会は見に行けるかしら?」

「行けるだろ。あれは確か12月だし。それに、年が明けたら、中等学校のラグビーフットボール選手権大会と蹴球選手権大会があるし、春には東京箱根間往復学生駅伝があるし……」

「でも、その頃には、この子が生まれているんじゃない?そうなったら、流石に見に行けないわよ」

「それこそ、ラジオで実況を聞けばいいだろ」

 輝仁さまと蝶子ちゃんの間には、飾り気のない言葉が飛び交っている。その遠慮のないやり取りを聞いていると、2人の仲がいいことがよく分かった。輝仁さまも、蝶子ちゃんも、屈託のない笑顔だ。

(大山さんに、いい報告ができそうだな……)

 喋り続ける若い2人を眺める私は、自然と微笑んでいた。

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[一言] 鞍馬宮殿下と蝶子妃殿下、闊達に仲睦まじく何よりですなぁ・・・
[一言] 大山さん こじらした爺馬鹿。
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