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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第8章 1891(明治24)年芒種~1891(明治24)年霜降
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濃尾地震

 1891(明治24)年10月28日、午前6時30分。

 私は起床して顔を洗うと、身支度を整えた。

 自分で和服に着替えるのにも、すっかり慣れた。最近では、たまに洋服を着ると、「窮屈だ」と感じるまでになっている。これで体が大人になったら、洋服を着る時にはコルセットを付けなければならない。一度現物を見たけれど、あんなもので身体をギュウギュウ締め付けるなんて、とてもじゃないけれど耐えられそうにない。ブラジャーで勘弁して欲しいところだ。

 着替え終わると、鏡を見ながら輪ゴムで髪をくくり、その上からリボンで髪を縛る。ただ、これは、後で花松さんに修正される確率が半分ぐらいある。

 そして、床に正座すると、皇居の方角に向かって拝礼する。爺に、そうするようにしつけられたのもあるけれど、前世の父方の祖父が、「天皇皇后両陛下は、国家と国民の安寧を祈っておられるのだから、敬意を払わねばいけない」と、私たち孫に事あるごとに言っていたから、転生してからは、「当たり前にするものだ」という意識になった。あと、前世の私のじーちゃん、「我が家にはそうする理由がある」と言ってたんだけど、なんだっけ……?

 まあ、今の私にとっては、皇居に向かって拝礼するのは「両陛下(りょうしん)に敬意を払う」ではなく、「離れて住んでいる家族の無事を祈る」という意味でしかない。皇居に拝礼した後、皇太后陛下がお住まいの青山御所の方角に拝礼し、続いて、異母妹の昌子内親王殿下と房子内親王殿下が住んでいる高輪の方向と、8月に生まれたばかりの異母妹、允子(のぶこ)内親王殿下が住んでいる麻布の方角に頭を下げる。祈ることは全員一緒だ。皇太子殿下には朝食の時に会うから、その時に心の中で、いつもと同じように、殿下の今日の無事と健康を祈っておこう。

 それから忘れてはいけない、今日は岐阜と名古屋の方向にも拝礼する。“梨花会”の皆が、濃尾地震に対してどういう対策を立てているのか、さっぱりわからないけれど、少しでも被害が減るように祈らねば。

(そう言えば、原さん、“濃尾地震は、東京でもかなり揺れた”って言ってたけれど……)

 拝礼を終えて立ち上がった瞬間、私はふらついた。起立性の低血圧でも起こしたか。とりあえず、もう一度床に膝をついた。

(おかしいなあ……大津事件の前の日よりは、眠ったつもりなんだけど……)

 ふらつきは収まらない。むしろ、どんどん強くなっていく。それが、私の身体のせいではなくて、外界の揺れのせいで起こっていると気がつくのに、数十秒かかってしまった。

(まさか……これ、濃尾地震の本震?!)

 激しい揺れは、収まる気配がなかった。

(うそ……こんなに?!)

 東京と名古屋の直線距離が、260km前後だろうか。震源の根尾と東京だと、もう少し距離があるだろう。地盤の固さだとか、建物の耐震性とかも考慮に入れないといけないから、単純に比較はできないけれど、この揺れ、震度4……いや、5ぐらいあるかもしれない。前世でも、経験したことのない揺れだ。

 私は、居間のテーブルの下に入って、じっとしていた。徐々にではあるけれど、揺れは収まってきた。しかし、揺れが収まるまでの時間が長い。揺れ始めて5分ぐらい経っていると思うけれど、まだ収まらない。

(東京でこれなら……名古屋や岐阜は……)

 内陸部にある根尾谷断層が起こした地震だから、津波の心配はない。けれど、朝食時に起こった地震は、火災を誘発する。そして、“史実”にあったのか、なかったのかわからないけれど、東海地方のダイナマイト大量放置の噂……。

(やっぱりダメ……なのかな……)

「章子!」

 不意に、声が響いた。テーブルの下から様子をうかがうと、学習院の制服を着た皇太子殿下が、居間の入り口に立っているのが見えた。もう、起きていたようだ。

「あ、兄上……」

 身体をずらせて、私はテーブルの下から出た。

「大丈夫か?!」

 皇太子殿下は、私の側に駆け寄ると、片膝をつき、私の身体を抱き寄せた。

「章子……そなた、泣いておるが……怖かったか?」

 皇太子殿下にこう言われて、私は初めて、自分が涙を流していることに気が付いた。

「ち……違う、兄上……始まったから……」

「ん?」

「始まっちゃったから……辛い……」

 泣いているから、言葉が上手く出ない。

 と、私の身体にかかる、殿下の腕の力が、一段と強くなった。

「章子、俺がついておる」

(あ……)

――章子も節子も、俺にとっては大切だ。

 以前、皇太子殿下が私に言ったことが、頭の中に蘇った。

(そうか、皇太子殿下にとって私は、大切な妹、なんだ……)

 私は初めて、そのことを実感した。

 そのことは嬉しい。すごく嬉しいのだけれど……。

(名古屋の桂さん……大丈夫かな……)

 濃尾地震の被害状況が、どうなっているのか、それがとても気にかかる。

 8歳の身体の私ができることは、今、少しでも被害が小さくなることを、祈る以外にない。

 それが、とても辛かった。

 ……私は、皇太子殿下の腕の中で、ずっと泣き続けた。


 平日だったから華族女学校(かぞくじょがっこう)には行ったけれど、授業には、まったく身が入らなかった。

 花御殿に戻ってから、日課の習字やピアノをこなそうとしても、どうしても、地震の被害状況が気になってしまって、気乗りが全くしなかった。

 剣道の稽古をしている時も同じだった。いつも、打ち込みの10本に1、2本くらいは橘さんに届くのだけど、今日は全く届かない。

「増宮殿下、どうなさいました!お心が、乱れておられますぞ!」

「申し訳ありません、師匠……」

 私は、橘さんに反論できずに、ただ謝るしかなかった。

「一体、いかがなされたのですか」

 稽古が終わった後、橘さんは心配そうに尋ねてくれたけれど、「なんでもないの」と答えるしかなかった。濃尾地震の被害の大きさどころか、今朝の地震の震源地だって、解明できていないのだ。事情を全く知らない橘さんに、「岐阜で起こった大きな地震の被害が心配で」などとは言えない。

 地震の被害の詳細がわかるのは、いつだろうか。電信線も途切れているだろうから、明日の新聞には、詳しい記事は載らないだろう。

前世(へいせい)は、恵まれていたんだな……)

 宿題を事務的に片づけると、私は電灯の明かりの下で、ため息をついた。夕食も、あまり食べる気になれなかったのだけれど、皇太子殿下が心配そうに私を見ているのに気が付いて、無理やり、という感じで食べた。夕食の後は、殿下の勉強の復習や、将棋の相手をさせられることが多いのだけれど、さすがに今日はパスさせてもらって、自室に引き上げた。

 未来(へいせい)だったら、今頃、テレビで、名古屋と岐阜の空撮映像が流れまくっているころだろう。各公共交通機関の運行状況、高速道路や国道の状況、避難所やライフラインの情報、家屋の被害の状況が、L字になった画面に、文字情報で絶え間なく映し出されている。出動する自衛隊の映像や、気象庁の会見映像も、繰り返し放映されているのだろう。インターネットで、リアルタイムの情報も流れているに違いない。

 それに比べ、(めいじ)の、なんと、もどかしいことか。

 情報は、全く手元に届かない。

 今、名古屋の桂さんが、必死に動いているのだろうけれど、第三軍管区が動かせる兵の数は、約3万人ほどだと聞いた。おそらく、発災から数日もすれば、消耗が激しくなるだろう。他の管区の兵を、東海地方に応援派遣するのに、今の時代、どのくらいの日数がかかるのだろうか?

 そして、一番心配なのは、濃尾地震に遭遇したはずの、前世の私の祖母の祖母だ。

 もちろん、実際には会ったことはない。前世の私が存在していた、ということは、祖母の祖母が、“史実”で濃尾地震を生き延びたということの証明になる。

 けれど、歴史は相当変わっている。もしかしたら、祖母の祖母が、この地震で亡くなる、という未来だってありうるのだ。東海地方に、大量のダイナマイトが放置されているとも言うし、それに火災の火が引火でもしたら……。

(ダイナマイトって、どのくらいの威力かわからないけれど……“史実”を超える大惨事になってしまったら、どうしよう……)

 頭を抱えたその時、

「梨花さま」

と、大山さんの声がした。

(こんな時間に?)

 いつも大山さん、定時になると、真っ直ぐ自宅に帰るんだけど……。

(なんでいるの、って……ああ……)

 大山さんが花御殿にいる理由に見当がついたのと、ほぼ同時に、

「お邪魔しても、よろしいですか?」

と彼の声が更に聞こえた。

「あー……ちょっと待って、机の上を片付けます」

 私は立ち上がって、テーブルの上の勉強道具を慌てて片付けると、「大丈夫よ、大山さん、入ってくださいな」と声を掛けた。

「大山さん、……今日、当直番なの?」

 居間に入ってきた大山さんに、私は推量の結果を投げてみた。東宮武官は10人くらいいるのだけど、そのうち一人は、当直勤務をすることになっている。恐らく大山さんは、今夜はその当番に当たっているのだろう。

「さようでございます」

 大山さんが一礼する。

「そう……私の所に来るなんて、一体どうしたの?」

 すると、

「皇太子殿下が、梨花さまの様子を見て参れ、と仰せになられた故……」

彼はこう答えた。

「あー……」

 私は、ため息をついた。

「私は大丈夫ですから、どうぞご心配なさらずに、と皇太子殿下に伝えてもらえますか?」

「梨花さま……」

 大山さんが、心配そうな表情になった。

「大丈夫、とは、とても思えませぬが」

「それは……その通りなんだけれど……」

 私はうつむいた。「でも、皇太子殿下には、大丈夫だ、と申し上げるしかないじゃない……だって、殿下は、“史実”の濃尾地震の被害を、ご存じないのですし……」

「梨花さま……ご心配ですか?」

「心配に決まっているでしょう!」

 私は大山さんを睨んだ。「前世だったら、震源がすぐに特定されて、各地の被害の情報も入って、今日の午前中には、国レベルの災害対応策が動き始めているわ。今朝の本震の震源地すら、全然解析できていないし……絶対、今、岐阜も名古屋も、ひどいことになっているのに……」

「梨花さま……」

「助けたいよ。助けたいのに、私の身体はまだ子供だから、実務は何もできない……それに、“史実”の知識も中途半端だし……東海地方に大量のダイナマイトが放置されているなんて、全然知らなかった……一生懸命、記憶を思い出したつもりだけど、それだけじゃどうにもならなかったんだって……それも辛いし、とても悔しいんだ……」

 大山さんは、困惑しているようだった。その顔を見て、私は、自分が涙を流していることに気が付いた。

「ごめん……“平静を保て”って、大山さんに言われていたのに……」

 私はハンカチを取り出して、手早く涙を拭った。

「びっくりしたよね……本当にごめんなさい」

 飛び切りの笑顔を作ってみる。けれど、大山さんの困惑の表情は消えない。

「梨花さま……(おい)が驚いたのは、そのことではなくて……新聞を、お読みになっていないのかと……」

「は?新聞?」

 私は眉をひそめた。

「大山さん、何を言っているの。電信線も途絶しているでしょうから、東海地方の詳しい状況が、東京の新聞に載るのは、どう頑張っても明後日になると思うけれど……」

「それは、そうでしょうが……あの、梨花さま、今日の新聞は、お読みになっておられないのですか?」

「今日の新聞?読んでいない。けれど、大山さん……さすがに、朝に起こった地震のことを、その日の朝刊に載せるなんてこと、前世でもできないわ。号外でも出れば別だけれど……」

 すると、大山さんは、「ああ、なるほど」と頷いた。

「これでは、そう思われるのも道理……」

「……どういうこと、大山さん?」

 尋ね返した私に、大山さんは、「少しお待ちください。今日の新聞と官報を、取ってまいります」と言って、いったん私の居間を出て行き、数分後、東京日日新聞と、官報を持って戻ってきた。

 まず、官報の方に目を通す。脚気実験のことや、コッホ先生の論文の翻訳作業があって、今年に入ってから、官報に目を通す余裕がなかった。今日の官報は、出張裁判所の開設と、郵便局合併の告示がまずあって、その後、人事の移動と、……伊勢にいる久邇宮(くにのみや)家の御当主・朝彦(あさひこ)親王殿下が病気で重体なので、近い親族の宮殿下たちが、京都や伊勢に向かっている、という記事が載っている。

「何の変哲もない、いつもの官報、という感じだけれど……」

 感想を漏らすと、大山さんは微笑して、「まあまあ、もう少し、読んでみてください」と言った。

「はあ……大山さんが言うなら……」

 私はしぶしぶ、官報を読み進めた。だけど、後ろの方の記事って、「役人が出張から戻った」とか、地方議会の開催期日とか、国軍の演習の場所とか、雑多なお知らせしか書いていないんだよね……。

(なんか今日は、国軍の告示事項が多いような……?)

 文字を追っていた、私の目の動きが止まった。

「ちょっと待って、何でこんなに、軍艦が伊勢湾に向けて出港してるの?」

 高雄……今、威仁親王殿下が艦長を務めている軍艦(ふね)だけれど、26日に品川から伊勢湾に向けて出港したと書かれている。高雄だけではない。扶桑、金剛、比叡、天龍、浪速、高千穂……官報に掲載されているだけで、7隻の軍艦が、伊勢湾に向けて、25日から27日にかけて、各々、所属する港を出港したと書かれている。水雷艇も何隻か、一緒に出発している。しかも、全国各地の歩兵部隊や工兵部隊も、軍艦に便乗して伊勢湾に出発していると書いてある。

 伊勢湾の奥には……名古屋と岐阜がある。

 更に、東京日日新聞に目を通す。すると、とんでもない文字列が、目に飛び込んで来た。

「名古屋・岐阜方面のダイナマイト放置問題につき、第三軍管区司令官の桂太郎歩兵中将は、愛知・岐阜両県知事と協議した。27日夕刻に、両知事から、愛知・岐阜両県民に対し、家屋からの退避命令が発せられ、第三管区工兵部隊は、爆発物処理の任務に就くこととなった……って……」

 私は、大山さんを見上げた。「あの……まさか、まさかとは思うけれど、東海地方に、大量のダイナマイトが放置されている、っていうのは……住民避難の命令を出す口実を作るために、意図的に流した情報?」

「その通りです」

 大山さんが頷いた。「大体、ダイナマイトは、今でも非常に高価なものです。それを幕府軍も新政府軍も大量に揃えるなど……当時の両陣営の財務状況を考えれば、無理な話です」

(って言われても、ダイナマイトの価値なんて知らないわよ……)

 そもそも、前世へいせいでも今生めいじでも、一般家庭で買えるような性質のものではないだろう。ダイナマイトのお値段を知る機会なんて、無いのが普通だ。

「じゃあ、軍艦が伊勢湾に向けて出港しているのも……」

「もちろん、地震の救援のためのです」

「そ、そうだったんだ……」

 私の全身から力が抜けた。

「そんな、そんなことになっているなんて……それなら、人命の喪失だけは、“史実”よりは押さえられる……でも一体、誰が、こんな?」

「皆が少しずつ、ですな」

 大山さんは微笑した。そして、私に噛んで含めるように、今までのいきさつを話してくれた。

 “史実”の濃尾地震では、特に岐阜と愛知で、家屋の倒壊や火災による被害が大きかった。

――組織だった消火活動が、余り出来なかった地域もあると聞きました。まだ、消防組織も、全国的に統一されていなかった頃のように記憶しています。岐阜や名古屋の消防組織が、今現在、どうなっているのか……。

 確か、原さんと初めて会ったとき、彼が私と大山さんにそう言って、

――何とか、組織だった消火活動ができればいいけれど……。せめて、大災害が起こったことを想定して、訓練してもらうとか、かなあ……。

と、ため息をついたことを覚えている。

「流石、原の力量は凄まじいですな。あの後、梨花さまが思い出したことにして、“全国的に統一された消防組織を作らなければならない”と、関係各所を説得して回り、消防組規則の公布にこぎつけたのですよ。“史実”では、3年後にできるということでしたが」

 大山さんはこう言った。

「そ……それっていつ?」

「先月の末でしたか。さらに、岐阜県と愛知県に、消防組を先行配置する、ということにして、夏ごろから両県に働きかけて消防組を設置し、大規模な火災を想定した訓練もするようにと指示しておりました。大規模災害が発生した際に、消防組を他の地域から派遣できるような法整備も行いましたし……梨花さま、官報はご覧にならなかったのですか?」

 大山さんの問いに、私はあいまいに微笑するしかなかった。

 避難命令は、皆が出したかったらしい。しかし、ただ「地震がある」という理由で命令を出してしまうと、パニックになる可能性も、本気にしないで全く避難命令に従わない可能性も、両方あったので、どのような理由をつけて命令を出すか、全員悩んでいたそうだ。

 そこに、児玉さんが、「いい案があります」と手を挙げたらしい。

――試してみたいこともありますので。

と言いながら提案したのが、あのダイナマイトの噂をばらまくことだった。

「住民は待避命令にほぼ全員従って、落ち着いて行動していると、昨日の夜、桂さんから報告をもらいました。そして、ダイナマイトが爆発してしまう恐れがありますから、この場合は当然、火気厳禁ですな」

 大山さんが、いたずらっ子のようにクスッと笑った。

「つまり、火災が発生する確率も低くなる、ということか……そして、救援も、地震の日が分かっているのだから、その日に合わせて、あらかじめ派遣をしておけばいい、ということね」

「さようでございます。細かい所では、梨花さまから、未来では軍隊が災害救援に出動すると伺いましたから、国軍合同の際、国軍が災害救援のために出動できるよう、規則を作りました。“史実”で濃尾地震の復興にかかった金額や内訳も原に聞きましたから、まず、緊急勅令を発して、差し当たって必要な金額を国庫から支出し、議会開会後に、支援のための特別予算を成立させるよう、すでに根回しを……」

(手回しが良すぎるでしょ……)

 私はため息をついた。私には、到底ここまでの策は思いつかない。超一流レベルの人物たちが、知恵を出し合って協力しているからできることだ。

(原さんと統合させた“史実”の記憶も、大山さんが持っているし……もう私、いなくてもいいんじゃ……)

「被害状況の確認のため、明後日あたりには“史実”と同じく、総理大臣の了介どんが現地の視察に出発して……おや、どうなさいました、梨花さま?」

 私の顔を覗き込んだ大山さんと目が合って、心臓が飛び上がりそうになった。

「あ、いや、なんでもない……」

 慌てて笑顔を作ってみたけれど、どうやら誤魔化せなかったようだ。大山さんは微笑すると、じっと私の目を見つめて、こう言った。

「梨花さま、お忘れですか?……梨花さまは、扇の要なのですよ」

(!)

「梨花さまがこの世にいらっしゃらなければ、必ず起こる天災に対して策を立てるなど、我々は考えもしませんでした。今の内閣も、“史実”通りに、とうの昔に崩壊していたでしょう。梨花さまは、ご自身を“未熟”とお思いでしょうが、扇の要になることは、梨花さまにしかできませぬ」

 大山さんは、一度言葉を切った。彼が私に向けている眼差しは、やっぱり優しくて、暖かかった。

「梨花さまのご性質を過度に矯めることなく、その御名の通りに美しくお育て申し上げて“上医”とし、より強き扇の要とするのが我々の役目です」

「……だんだん、要求がエスカレートしてない?」

「気のせいですよ」

 私のツッコミを、大山さんは軽く受け流した。「梨花さまには、引き続き、ご修業に励まれますよう。この大山も、助力いたしますゆえ」

「はあ……」

(本当に、敵わないなあ、この人達には……)

 私はため息をついて、微笑した。

 自分の未熟さが悔しくはあったけれど、この高官(ひと)たちのそばにいられることに、どこか心地よさを感じた。

※資料を調べていてびっくりしたのですが、実際の濃尾地震でも、時の松方首相が10月31日に愛知・岐阜両県の被害状況を視察に出発していました。東海道線は途中までしか復旧していないだろうし、よく行ったなあと思います。

※あと、国軍の規則云々に関しては、実際、軍隊の災害出動に関する規則が当時無かったらしい……ということで書いてみました。本当は法整備しなきゃいけない部分もまだあるのでしょうが、このくらいでご勘弁を……。

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― 新着の感想 ―
[一言] 前世のお祖父さんがそういってたって事は、 やっぱ主人公の「半井」って公家の半井家の末裔か…… まあ半井家の末裔なら医者家系なのも当然っちゃ当然だよなー
[良い点] 異世界転生モノやタイムスリップモノの魅力は、現代知識を武器に多くの人々を救うと言う「後悔先に立てる」快感だと思います。 その骨子となるのは、見知らぬ人の苦しみを自らの苦しみと思える共感性や…
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