内府殿下の大礼服
※台詞を一部修正しました。(2023年3月11日)
1918(大正3)年1月12日午後2時、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「それでは、本日の梨花会を始めます。まず……」
月に1回、第2土曜日に開催される定例の梨花会。司会進行役を務める西園寺さんが議題を提示しようとした時、
「西園寺総理、ちょっとよろしいか?」
野党・立憲改進党党首である大隈重信さんが立ち上がりながら右手を挙げた。西園寺さんが反応する前に、
「宮内高等官女子大礼服の廃止を建議したいんである!」
大隈さんは牡丹の間を圧する大声でこう言った。
「……はい?」
私はキョトンとした。宮内高等官女子大礼服というのは、私がお正月の新年拝賀で兄と節子さまに付き従った時に着た服だ。腰骨の上あたりまでの着丈の黒紺のジャケットには、男子の大礼服と同じように、菊枝模様が金糸で刺繍されている。くるぶしまである白いロングスカートの側面には、幅3cmの金の帯が入っている。もちろん、供奉服や、今も着ている通常礼服に比べれば華美ではあるけれど、皇族女子の一番格式の高い服装である大礼服よりははるかに動きやすく、シンプルなデザインなので、私はこの宮内高等官女子大礼服が気に入っているのだけれど……。
そんなことを考えていると、
「大隈さんの言う通りだぜ」
元総理大臣で、立憲改進党に所属する貴族院議員でもある井上さんが、椅子からゆっくり立ち上がりながら言った。
「内府殿下は、皇族女子と同じように、大礼服でお出ましになるべきだ。新年拝賀のお姿、全然華が無くて……あの宮内高等官大礼服じゃダメだ!」
「井上さん」
井上さんの怒りの導火線に火がついて、血圧が上がるかもしれないけれど、ここはガツンと言っておくべきだろう。私は飛び切り冷たい声で井上さんを呼んだ。
「確かに私は内親王です。けれど、内大臣を拝命していますから、兄上の臣下です。新年拝賀には、私は臣下として兄上に付き従い、山縣さんたちと一緒に兄上のそばに立っていました。そのような人間が、皇族と同じ服を着ていたらおかしいでしょう」
「しかし内府殿下、剣璽渡御や先帝陛下の大喪儀の際、内府殿下は皇族女子と同じように、通常礼装をお召しだったんである!それならば、新年拝賀の折も、いいや、今この時も、皇族女子と服装を同じくして、場に華やかさをお添えになってもいいんである!」
立ったままの大隈さんが、私を睨みつけるように見ながら言う。大隈さんは背が高いし、声も大きいので、ものすごい迫力だ。けれど、これで負けてはいられないので、私は自分を励ましながら、大隈さんの目をしっかり見つめ返した。
「大隈さん、お父様の大喪儀までは例外です。本来なら制服が定められて然るべきところ、あなたたちも大混乱に陥るほどの騒動でしたから、女子制服を定める余裕は全くありませんでした。ですから私も仕方なく、皇族女子としての服装をしていたのです。しかし、本来、私は兄上の臣下、それにふさわしい服装をしなければなりません。兄上と節子さまに付き従う者が、兄上と節子さまより目立つような格好をするのは、臣下の分を超えた振る舞いです。その思いもあって、私は宮内高等官の女子制服を定めました」
あくまで冷静な口調を貫くことを心がけながら私が大隈さんに言うと、「ううん、その通りであるんである……」と言いながら大隈さんがうつむいた。
「なるほど、なるほど。これは内府殿下のおっしゃる通りじゃ。勝負あったのう。それに俺も、あの大礼服はすっきりしていて好みじゃ」
淳宮さまたちの輔導主任を務めている西郷さんがのんびりと言う。……私への賛同は示してくれているのだけれど、台詞の後半部分のせいで、有効な援護射撃にはなっていない。現に井上さんは、
「そりゃ、西郷さんの好みってだけだろうが!俺は内府殿下に大礼服を着ていてほしいんだよ!」
と、猛烈な反論を始めた。
すると、末席の方で、厚生大臣の後藤さんが立ち上がり、
「そうおっしゃるのならば井上閣下、我輩としては、西郷閣下と同じく、内府殿下は新年拝賀で宮内高等官大礼服をお召しになるべきと考えます!敢えて最低限の装飾しか施していないお召し物であるからこそ、内府殿下が本来お持ちの美が光り輝くのです!」
と、井上さんに向かって力説を始めた。「そうだそうだ!」「後藤さんの言う通り!」などと、桂さんや児玉さん、そしてなぜか原さんが後藤さんに同調して声を上げる。
「くっそー……おい、狂介!お前だって思うだろう?!新年拝賀の内府殿下は、もっと華やかであるべきなんだって!」
形勢不利と見たのか、井上さんは隣に座る宮内大臣の山縣さんに食って掛かる。
「聞多さん、大変申し訳ないのですが、内府殿下のおっしゃることは全面的に正しいのです。内府殿下は天皇陛下の臣下ですから、臣下の分を超えた振る舞いをすることは許されませんし……」
山縣さんは同郷の先輩に重々しい口調で意見を述べる。けれどすぐに、
「まぁ、実のところ、大礼服をお召しの内府殿下を拝見できないのは、非常に寂しいのですが……」
とても辛そうな表情で、山縣さんはこう付け加えた。
「むむ……それはわしとて同じ思いじゃ、狂介。規則なれば仕方は無い。しかし、大礼服をお召しの艶やかな内府殿下を拝見できないという事実は、この伊藤の心に一抹の寂しさを……」
山縣さんにツッコミを入れようとした瞬間、伊藤さんがしみじみと呟いたので、私は声を上げるタイミングを失ってしまった。伊藤さんの隣では、枢密院議長の黒田さんが「俺も同じ気持ちですよ、伊藤さん」と頷いている。枢密顧問官の松方さんも黙って首を縦に振っており、国軍大臣の山本権兵衛さんも、「うう、伊藤閣下のおっしゃる通り……」と言いながら涙を流している。牡丹の間は、収拾がつかない状況に陥っていた。
「大山さん……これ、梨花会で話し合うことなの?」
私の服装について己の主張と好みをぶつけ合ういい年をした男性たちを見ながら、私は大山さんに尋ねた。
「よろしいのではないでしょうか」
尋ねられた大山さんは、ニコニコ笑いながら私に返答する。
「昔はこのような争いも、よく起こったではないですか」
「その通りだけど、迪宮さまもいるのだから、この場では控えようよ……」
私は両肘を机につくと、両方の手で頭を抱え込み、大きなため息をついた。私の向かい側の席に座っている迪宮さまは、この訳の分からない争いをぼんやり見つめている。背筋を伸ばしてきちんと聞いているのが律儀だと思うけれど……迪宮さま、そんなお行儀よく聞いていなくてもいいのだ。激怒して“許し難い行為だ”と、梨花会の面々を叱責してくれる方がありがたいのだけれど、それは今の迪宮さまには無理かなぁ……。
と、私と同じようにため息をついていた参謀本部長の斎藤さんが立ち上がり、
「西園寺閣下、本来の議題を始めていただく方がよろしいかと。確か、即位礼の日程と大礼使の人事についての確認が、最初に取り上げる議題だったと記憶しておりますが……」
意を決したような表情で、総理大臣の西園寺さんに進言した。
ところが、
「止めなければなりませんか?面白いのに」
西園寺さんは不満そうな声で反問する。ずっと黙っているから変だと思っていたのだけれど、どうやらこの総理大臣、このくだらない言い争いを楽しんでいたようだ。
「西園寺総理、参謀本部長の言う通りだ。会議を進めてくれ」
未だに牡丹の間で続くくだらない議論を見かねたのか、玉座に座る兄が西園寺さんに言った。
「卿らが梨花の服についていろいろと考えてくれるのはありがたいし、わたしも議論に加わりたいのだが、時間が無限にあるわけではないからな」
「陛下がそうおっしゃるのならば、仕方がありませんな」
西園寺さんはとても残念そうに兄に答えてから、
「勅命もありましたことですし、内府殿下の新年のお召し物についての論議は後刻ということでお願いします」
と言い争いを続ける一同に呼びかける。“勅命”という言葉の威力は絶大で、騒がしかった牡丹の間が一瞬で静まり返る。
(そんなくだらない議論をする機会、後刻どころか、永久に来なくていいわ)
私は心の中で、こっそり毒づいたのだった。
即位礼の日程と大礼使の人事についての確認が終わると、話題は早々と海外の状況へと移っていった。
「昨年12月25日、国際連盟規約に、ジュネーブに集った各国代表が署名しました」
末席にいる外務次官の幣原喜重郎さんが、資料を片手に報告を始めたのは、ジュネーブの陸奥さんの状況……ではなかった、国際連盟の動向についてである。
「半年後の6月25日に、規約が発効して国際連盟が成立することを目指しまして、ジュネーブの陸奥閣下を中心として調整が進められています」
「6月25日か……節子と雍仁の誕生日だな」
玉座に座る兄はそう言って微笑する。兄の即位に伴い、“地久節”……皇后誕生日は、節子さまの誕生日である6月25日に変更された。
「陸奥さん、国際連盟が成立したら日本に戻りますよね?」
私は思わず幣原さんに尋ねていた。というのは、今年の新年宴会で、出席していた各国の大使たちから、“ジュネーブでの交渉が苛烈で、各国の代表者が次々と胃を病んでいる”という話を聞いたからだ。各国代表の胃病の原因の一端を担っているのが陸奥さんなのは明白である。このまま“国連事務総長に就任する”などと言い始めたら、ジュネーブが各国外交官の墓場になってしまう。
「戻ると思われます。思われますが……まだその辺りについては陸奥閣下から言及がありません。最終的にどうなるか……」
顔を強張らせながら答えた幣原さんに、
「陸奥さんが日本に戻ってきたら、内田さんと君が胃を病むことになるなぁ」
西園寺さんはニヤニヤしながらこう言った。内田さん……外務大臣の内田康哉さんのことだけれど、確かに陸奥さんが帰国したら、幣原さんとともに陸奥さんが放つ鋭い質問の餌食になるのは間違いない。幣原さんがごくりと唾を飲み込んだ。
「幣原くん、6月末に国際連盟が成立するとなれば、軍縮会議が開催されるのは来年になるだろうか?」
そんな幣原さんに、国軍大臣の山本さんが質問する。幣原さんは弾かれたように顔を上げ、メガネの位置を直すと、
「恐らくはそうなると思われます。イギリスとドイツの出方次第にはなりますが……」
山本国軍大臣にこう返答した。
「となると、“三笠”の代艦を今作るのは難しいか?もう、起工はしてしまっているが……」
「いや、権兵衛。もし主力艦の保有トン数に引っ掛かったら、その新しい軍艦は航空母艦に改装してしまえばいいのではないか?」
「児玉閣下、軍縮がどのように進んでいくかは分かりません。我が国の主力艦の保有トン数は、“史実”の今頃と比べればだいぶ少ないですが、“史実”のワシントン軍縮会議には参加していなかったドイツやオーストリア、それに清とロシアも参加するでしょう。保有トン数によっては、チリとアルゼンチンも参加させなければ均衡が取れないでしょうし……」
山本国軍大臣、児玉航空局長、斎藤参謀本部長が次々と発言する。そのまま、将来開催されるであろう軍縮会議のことが掘り下げられていくのかと思ったけれど、
「そりゃあ、この場で結論を出せることではないじゃろう」
西郷さんののんびりした声が、激論を戦わせようとした国軍幹部たちに被さる。山本さんたちが途端に背筋を伸ばし、西郷さんに頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「つい、気が逸りまして……資料を集めてからに致します!」
慌てて最敬礼する国軍幹部たちに、西郷さんは「うん」と鷹揚に頷いた。国軍大臣を退いてから数年経つけれど、国軍における西郷さんの影響力は根強いようだ。
「あの……オスマン帝国の件を報告してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。続けてくれ」
おずおずと申し出た幣原さんに、兄が穏やかな口調で許可を出す。幣原さんは一礼すると、
「オスマン帝国領のアラビア半島で試掘に成功した石油は、本格的な生産体制に入りつつあります。油田から既存の路線に接続する鉄道も、今年の春までには完成するという連絡を浜口からもらいました」
と、オスマン帝国の現況を説明し始めた。
「ドイツにとっては朗報ですなぁ。経路にあるブルガリアは、今までの出資を引き上げるとドイツに脅されていますから、ドイツの石油運搬を妨げることはないでしょう」
立憲改進党に所属する貴族院議員である桂さんが、何度も大きく頷くと、
「イギリスがドイツと同じように資金援助をすれば、ブルガリアはイギリスになびくでしょうが、今のイギリスに、他国に出資するだけの財力は残っていないということですし」
大蔵大臣の高橋さんが、ふっくらした顔をほころばせた。
「院からの情報によれば、イギリスとドイツは、軍艦の建造も一時中断しているとのこと。両国とも、ヨーロッパの火薬庫に火をつけるだけの財力はないようです」
大山さんが静かな声で高橋さんの言葉に付け加えたのに、
「ドイツとイギリスには、是非このまま、他の国に永久にちょっかいを出さないでいただきたいな。特に、オスマン帝国に対しては」
私は軽くため息をつきながら応じた。またバルカン半島で騒動が起こって、講和会議を開催する羽目になるのは勘弁してほしい。
「内府殿下のおっしゃる通りです。今のオスマン帝国は、行政改革の途上にあります。外部からの不安定な要素は、できる限り排除しなければ」
「その通りです。でも幣原さん、オスマン帝国の行政改革は無事に終わりますか?去年の年末に、オスマン帝国の役人の人数が従来の3割に減った、と聞きましたけれど」
私は軽く顔をしかめた。役人の数がなぜ減ったのか……役人が自発的に退職したのならばまだいい。ただ、減少原因の中には、官憲に汚職で逮捕されたり、何者かによってこの世から消されたり……深く考えてしまうと恐ろしい原因が含まれているはずだ。
(オスマン帝国の役人たちが腐敗しきっていたのは百も承知だけれど、お願いだから、人員の削減は穏便な方法でしてほしいなぁ……)
私が心から願った時、
「内府殿下のご心配はごもっともです。ですが、浜口も、オスマン帝国政府も手をこまねいている訳ではありません。急遽、軍から退役者を募り、行政官に回すことにしたとのことです」
幣原さんは私に回答した。
すると、
「ということは、ムスタファ・ケマルが来ますか!」
斎藤さんが興奮しながら立ち上がった。ムスタファ・ケマル。“史実”でのトルコ共和国初代大統領である。“史実”では、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導し、数々の近代化政策を実行した。彼は軍人出身だと斎藤さんから聞いたことがあるから、今回の軍からの役人登用に応じていてもおかしくはないけれど……。
「斎藤さん、早すぎますよ。ムスタファ・ケマルが出てくると決まったわけではありませんし」
前内閣総理大臣の渋沢さんがたしなめるように斎藤さんに言う。
「彼を取り巻く状況は、“史実”とかなり異なっているはずです。政治家としての資質は秘めているでしょうが、この時の流れに適した人物になるかどうかはまだ分かりません」
「しかし、鍛えて損はないでしょう」
大山さんが渋沢さんに微笑を向けた。
「明石君を中心とする面々が、ムスタファ・ケマルをはじめ、政治家・行政官として有望な軍人を退役させ、行政官として鍛えているとのこと。それで、腐敗した役人たちを処分した穴は埋まるでしょう」
「ああ、それならば、彼らもある程度は力を発揮できるようになりましょう。いずれ浜口君や明石君はオスマン帝国を去ります。それまでに、オスマン帝国の舵取りを、明石君と浜口君が鍛えた者たちがしっかりできるようにならなければなりませんからね」
渋沢さんがホッとしたような笑顔になった。
「さて、今日用意された議題はこれで終わりだと思うが……」
あらかじめ議題を知らされていた兄が、西園寺さんに確認すると、
「用意したものはこれで終わりですが、先ほどの議題を片付けておりません」
西園寺さんはこんなことを言いだした。
「内府殿下が新年にお召しになる服が、このままでいいのかどうか……その結論を出さなければなりません。あの宮内官女子制服、僕らに断りなく決められてしまいましたからねぇ」
「ちょっと、西園寺さん!なんてことを言うのですか!」
慌てて私は抗議したけれど、時すでに遅し。井上さんや大隈さんは、「流石総理、よく分かっている」と言いながら激しく頷いているし、伊藤さんや松方さんも首を縦に振っている。迪宮さまは目を丸くしているし、渋沢さんや牧野さん、そして高橋さん、斎藤さん、幣原さん、山本航空大尉は一様にぎょっとしたような顔をしているけれど、その他の梨花会の面々は「然り」「決着は付けなければならない」などと発言していた。
「あ、あなたたち、迪宮さまの前で、くだらない争いを続けるつもりなの?!」
私は一同を睨みつけたけれど、
「迪宮殿下には、我々がいかに内府殿下を慕っているか、それを知っていただかなければなりません」
迪宮さまを教え導く立場にいるはずの伊藤さんの口から、とんでもないセリフが飛び出した。余りのことに、私は開いた口がふさがらなかった。
「では、皆様、議論と参りましょうか」
ニヤニヤ笑う西園寺さんが、闘志をむき出しにしている梨花会の面々に、けしかけるような口調で呼びかける。
「ヤメレーっ!」
私の悲痛な叫びが、牡丹の間に響き渡ったのだった。




