悲しい知らせは突然に
1917(大正2)年12月7日金曜日午前11時、皇居・表御座所内にある内大臣室。
「野外で自分が狩った動物以外の倒れている動物を見つけた場合、動物には触らずに、最寄りの役場に通報すること……うん、農商務省令はこれでいいと思います」
渡された文章に目を通すと、私は前にある長椅子に腰かけている農商務大臣・牧野伸顕さんに微笑した。
「それは良かった」
牧野さんは穏やかな表情で私に応じてくれる。初めて出会った20年前には、私と兄の型破りな行動の数々に振り回されていた牧野さんだったけれど、陸奥内閣、渋沢内閣、そして現在の西園寺内閣で農商務大臣を務め、様々な経験を積んだ今では、どんな物事にも動じない立派な大臣だと世間からの評価も高い。
「野生動物も、この省令で対応することができます。家畜の方は、10年前に公布された家畜伝染病予防法で対応できますから、内府殿下がおっしゃる“インフルエンザウイルス”が動物の間で伝播することを、ある程度防ぐことができるでしょう」
「ありがとうございます、牧野さん。あとは、同じような法律や条例が世界に広められるかですけれど、これは難しいですね。WHOもですけれど、国際連盟すらできていませんし……」
「ああ、そこは厚生省で手を打つそうです。内府殿下と医科研の北里先生の談話という形で、野生動物や病気の動物に不用意に触った場合、人間が感染症に罹患する危険性について訴える内容の雑誌記事を作り、それを世界中にバラまくとか……。近々、後藤さんが内府殿下のご予定を伺いに参るはずです」
「なるほど。それなら多少は効果が出るでしょうね。話す内容を考えておかないと」
私が答えながら頷くと、
「しかし、不思議なものですね。人にも動物にも感染する病原体とは」
牧野さんは苦笑を顔に閃かせてこう言った。
「そうかもしれませんね」
「インフルエンザウイルス……というものですか。それには、人間に感染するもの、鳥に感染するもの、豚に感染するものなど、色々と種類がある。そして、豚は、人間のインフルエンザウイルスにも、鳥のインフルエンザウイルスにも感染しやすいのですね」
牧野さんの言葉に、私は「ええ」と相槌を打った。今回の農商務省省令を作ってもらう上で、牧野さんには私の時代で得られていたインフルエンザについての知識をかみ砕いて教えたのだけれど、専門外の彼にも、ちゃんと伝わっているようだ。
「そして、そのインフルエンザウイルスは、変異というものを非常に起こしやすい。鳥や豚の間で感染を繰り返していくうちに、人にも感染しやすいインフルエンザウイルスが生まれる可能性がある。また、豚が、豚のインフルエンザウイルスと同時に、人間や鳥のインフルエンザウイルスに感染した場合も、今までにない、人間に感染しやすいインフルエンザウイルスが生まれる可能性がある。そういった新しいインフルエンザウイルスが人間に感染すれば、大流行を引き起こす……」
「それが、致死率が高いインフルエンザウイルスなら、大変なことになります。前世の私が15、6歳だった頃に、豚のインフルエンザウイルスが人間に感染して、世界中で大流行を引き起こしたことがありました。その時流行したウイルスは、致死率が高いものではなかったのですけれど、“史実”のスペインかぜを引き起こしたインフルエンザウイルスは、当時の世界人口約12億人に対して、4000万から5000万人もの人を死に追いやったという、致死率が高いウイルスでした」
「そして、その“スペインかぜ”が“史実”で発生するのが1918年、つまり、来年……」
「ええ」
私は大きなため息をついた。“史実”の日本では、スペインかぜの第1波の流行が1918年10月から1919年3月、第2波の流行が1919年12月から1920年3月、第3波の流行が1920年12月から1921年3月だった……原さんがそう言っていた。ちなみに、原さんも“史実”の流行第1波の際、スペインかぜに罹患したのだそうだ。
「スペインかぜを引き起こしたインフルエンザウイルスが“史実”通りに発生してしまうと、第1波の流行時期が、兄上の即位礼とぶつかってしまいます。もしそうなれば、即位礼は中止・延期を考えなければなりません。参列の人もたくさんいますし、見物の人も大勢出るでしょうから、その人混みのせいで、インフルエンザウイルスが蔓延してしまうでしょうし、それに、兄上の性格を考えると……」
「即位礼の時期にスペインかぜが流行すれば、天皇陛下は間違い無く、即位礼を中止するか、遅らせるように仰せになるでしょうね」
「……それが嫌なのです」
そう答えると、私は顔をしかめた。
「兄上の即位礼は、挙げさせてあげたいのです。一生に一度のことだし……それに、“史実”で兄上が亡くなってしまうまで、あと10年もありません。兄上がいつまで健康でいられるか……だから、兄上の即位礼は予定通り、来年の11月に執り行いたいのです。スペインかぜを引き起こしたインフルエンザウイルスの発生は遅らせられないかもしれませんけれど、兄上の即位礼を来年、無事に執り行うためにも、できることは少しでもやらないと……」
「そうですね。内府殿下のお気持ちは、よく分かります」
泣き出しそうな私の声に牧野さんは頷き、
「内府殿下、後藤さんとも話していたのですが、実は私、この件については楽観的なのですよ」
と穏やかな口調で言った。「はぁ……」と間の抜けた返事をした私に、
「“史実”でのスペインかぜ、発生時期は第1次世界大戦の末期に当たると推察しますが、その時の人の移動状況と、この時の流れでの今の人の移動状況は、だいぶ異なるのではないでしょうか?」
牧野さんはこう尋ねた。
「それは、その通りです。世界大戦の最中ですから、“史実”では、一般人の往来が極端に減っていたと思います。それから、“史実”では兵士の輸送が多かったでしょうから、大勢の人がまとまって輸送される機会はそれなりにあったと思います。少し話は逸れますけれど、国民の衛生状態や栄養状態は、“史実”よりもこの時の流れの方が断然良いはずです」
私の回答に、牧野さんは満足そうに頷くと、
「私もそう思うのです。ですから、スペインかぜは、例え“史実”と同時期に発生したとしても、“史実”とは異なる伝播の仕方をするのではないでしょうか」
そう私に言った。
「ならば、最悪の事態にも備えつつも、良い方向に捉えるべきでしょう。特に、内府殿下におかれましては、そのような考え方が必要かと考えます」
「……確かに、牧野さんの言う通りですね」
肩と顔から、ふっと力が抜ける。気が付くと、私は自然に微笑んでいた。
「私は、深刻に考えてしまいがちなのです。特に、自分や兄上に関することだと。けれど、少しは肩の力を抜いていいのかもしれません。ありがとうございます、牧野さん」
「いえ……」
サッと頭を下げた牧野さんに、
「それにしても、牧野さんは冷静ですね。伊藤さんたちと違って、私を巡ってくだらない争いをすることもないですし、本当にありがたいです」
私は正直な気持ちを吐露した。
「私も、色々と経験を積ませていただきましたから」
牧野さんが微笑んだその時、私の感覚に優しい気配が引っ掛かる。大山さんの気配だと分かった瞬間、廊下から内大臣室のドアがノックされた。
「いいよ、入って」
ドアに向かって声を掛けると、「失礼いたします」と声がして、大山さんが内大臣室に入ってきた。彼の表情は強張っている。どうしたのか、と訊こうとした瞬間、
「梨花さま……山田さんが今朝、亡くなりました」
大山さんは思いがけないことを私に告げた。
1917(大正2)年12月8日土曜日午後7時30分、東京市小石川区音羽町3丁目にある山田さんの自宅。
「有栖川宮の若宮殿下と内府殿下のお2人にご弔問いただけるとは……誠にかたじけなく存じます」
山田さんの弔問に訪れた私と栽仁殿下に、山田さんの養嗣子である山田英夫歩兵少佐は深く頭を下げた。彼は元会津藩主・松平容保さんの息子で、山田さんの1人娘と結婚して山田家に婿入りした人である。
「いえ……山田閣下には、僕も妻もお世話になりましたから」
海兵の通常礼装の左腕に黒い喪章を巻いた栽仁殿下が、英夫さんに深く頭を下げる。それに合わせて、黒い通常礼装を着た私も英夫さんに最敬礼した。
「あの……山田さんのそばに行かせてもらってもいいでしょうか?」
私が英夫さんに尋ねると、
「ああ、顔を見ていただけますか」
英夫さんは再び深く頭を下げる。そして、私と栽仁殿下を家の奥へと案内してくれた。
自宅の2階、寝室として使っていた和室に、山田さんの亡骸は横たえられていた。白布の下から現れた死顔に、苦痛の色は一切見られない。最後に会った先月20日の観菊会の時と同じように、優しげで、少し困ったようないつもの表情だった。
「昨日の朝、立憲改進党の会合に出席しようと玄関まで出たところで、“頭が割れるように痛い”と言って倒れてしまったそうです」
私と栽仁殿下が山田さんの亡骸に拝礼を終えると、英夫さんが静かに言った。
「すぐさま家扶が助け起こしたのですが、既に意識がなく……義父を普段診てくださっていた医科大学からも先生方が駆けつけてくださったのですが、その時には事切れていたそうです。急を聞いて、私も近衛師団から馬を飛ばして帰宅したのですが、義父の臨終に間に合いませんでした」
「そうでしたか……」
それだけ答えてうつむくと、私は両方の手をぎゅっと握りしめた。隣に座る栽仁殿下が、「何か思い当たる病気があるの?」と尋ねたのに黙って頷く。恐らく、山田さんの命を奪ったのは、クモ膜下出血だろう。私の時代で、山田さんの持病である高血圧が発症のリスク因子として知られる疾患の1つだ。
(この時代じゃ、クモ膜下出血が起こっても治療ができない。渋沢さんが総理大臣になった時の騒動でも思ったけれど、私が医科研の研究リソースを、降圧薬の開発にもっと振り向けられていれば……)
私が更に強く両方の拳を握りしめた時、
「内府殿下、申し上げたいことがございます」
英夫さんが強い視線を私に突き刺した。
「何でしょうか」
私が英夫さんの方に身体を向けて正座し直すと、
「義父は常々、こう申しておりました」
英夫さんはやはり静かに話し始めた。
「自分は内府殿下に命じられて高血圧の治療をしているから、図らずも命をつないでいるのだ。いつ死んでも悔いはない。そう思えるよう、1日1日を大切にしながら、国のために働いてきた。内府殿下はお優しいお方だから、もし私が死ねば、私の死に責任があるとお考えになり、ご自身をお責めになるだろう。だから、お前から申し上げてほしい。“私は内府殿下のおかげで、国のために働き、己の使命を果たすことができました。人生に悔いはございません”、と」
(ああ……)
視界が涙でぼやけ、私は下を向いた。同じようなことを、山田さんは4年前、山田さんが内閣総理大臣になる機会を奪ったと詫びる私に言ってくれた。そして更に、自分の死に際して私が思うであろうことを読んだ山田さんは、英夫さんにメッセージを託してくれたのだ。
山田さんとの思い出が、次々と頭の中に浮かんだ。
初めて彼と出会ったのは、私がこの時代に転生したと分かった直後、後に梨花会を作ることになった面々に“史実”のことを教えた時だ。当時、山田さんは黒田内閣の司法大臣を務めていた。その後、9年余りの司法大臣在任中、山田さんは民法・商法の施行という大仕事を成し遂げた。司法大臣を辞職してからは、立憲改進党に入党し、貴族院伯爵議員として、貴族院に立憲政治を根付かせるための努力を続けた。1905(明治37)年に成立した井上内閣では内務大臣として入閣し、1908(明治41)年に腕の負傷で退任するまで、職務を誠実にこなしていた。くせ者揃いの梨花会の中では影が薄い方だったかもしれないけれど、山田さんの奮闘は、日本をより良くする確かな力になっていたのだ。
私は山田さんの顔をもう一度見た。優しげで、少し困ったような顔で横たわる彼は、声を掛けたら起き上がりそうだ。その山田さんの顔が、不意に思い出と重なる。あれは今から26年前、大津事件が起こって、山田さんと一緒に特別列車で京都に向かった時のことだ。まだ寝台車が無かった時代、夜を徹して走る列車の中で、私と山田さんはロングシートの座席に足を投げ出し、寝転がって仮眠を取った。その時の山田さんの寝顔と、今、目の前にある彼の死顔とが重なったのだ。
「山田さん……」
幼い頃から見慣れた山田さんの顔を見つめながら、私はただ、涙を流し続けた。固く握りしめていた私の手は、いつの間にか優しく開かれ、夫の両手に包まれていた。
※インフルエンザウイルスについては、かなりおおざっぱに書いています。ご了承ください。
※伯爵山田家については、実際には英夫さんの前に2代挟んでいますが、拙作の世界線での没年を考慮してこのような形にしました。




