内大臣、特別大演習に供奉する(1)
1917(大正2)年11月10日土曜日午後4時、赤坂御用地に新しく造営されたお母様の住まい・東京大宮御所。
「おばば様、こちら、夏におばば様にいただいた筆で書きました。ご覧になっていただけると嬉しいです」
大宮御所内の謁見の間。正面の長椅子に座るお母様に向かって歩いていき、半紙を差し出したのは、私と栽仁殿下の長女・万智子である。茜色の着物に薄紫の女袴を付け、ポニーテールにした髪の根元を紅いリボンで飾った万智子から半紙を受け取ると、
「まぁ、いろは歌ですね」
淡い丁子色のデイドレスをまとったお母様が穏やかな微笑みを見せた。
すると、
「おばば様、僕が書いたのも、ご覧になってください」
「僕のも!」
私を挟むようにして立っていた、5歳の謙仁と4歳の禎仁が競うように元気な声を上げる。
「そうですね。では、謙仁さんも禎仁さんも、こちらにおいでになって」
お母様の優しい声で、水兵服を着た謙仁と禎仁が、上座へ半ば駆け出すように進む。転んでしまったら大変なので、宮内官の制服を着た私も長男と次男の後を追い、お母様のそばまで移動した。
「なるほど、謙仁さんと禎仁さんは、いろは歌の途中まで書いたのですね。お2人とも、とても元気で、ゆったりしたご手跡です」
子供たちが筆で書いたいろは歌を見比べながら、お母様は嬉しそうにこう言った。
「万智子さんは、いろは歌を全部お書きになって……とても優雅で美しい筆運びですね。これは、華族女学校の習字の授業でお書きになったのかしら?」
お母様の質問に、娘は短く「いいえ」と答える。流石にそれでは説明不足になってしまうので、
「実はこの子、華族女学校で習字の授業は受けていないのです。有栖川宮家の方針で」
私は横から言い添えた。
「ああ、なるほど。有栖川宮家の流儀ではない書き方を身につけさせたくないということですね」
お母様はすぐに納得して、深く頷く。これはもちろん、私の義父・威仁親王殿下が華族女学校に手を回した結果である。後で聞いたところによると、栽仁殿下も、栽仁殿下の妹の徳川實枝子さまも、学生時代は習字と書道の授業は免除され、有栖川流の書道を自宅で学んだということだった。
「では、万智子さんも謙仁さんも禎仁さんも、有栖川のおじい様とおばあ様から習字を教えてもらっているのですか?」
お母様が優しく尋ねると、子供たちは「「「はい!」」」と声を揃えて答える。
「僕、有栖川のおじい様に、母上より筋がいいって言われました!」
末っ子の禎仁は更に、こんなことまでお母様に暴露する。「禎仁、そんなことは言ったらダメだよ」「そうよ、母上の面目が丸つぶれじゃない」と、謙仁と万智子は弟に注意したけれど、当の私は小さく笑った。
「まぁ、仕方ない。母上、習字はあなたたちより修業していないからね。おじい様がそう言うのも無理はないよ」
笑い声を収め、私が子供たちに正直に話すと、
「習字以外のことをたくさんご修業なさったから、万智子さんたちの母上は、お上の御用を立派になさっているのですよ」
穏やかな口調でお母様が言う。その温かい、誰を責めるでもない言葉に、私も子供たちも、頭が自然に下がった。
「ねぇ、万智子さん、謙仁さん、禎仁さん。おばば様の隣にお座りになって。あなたたちの母上もご一緒に」
更にお母様が優しく声を掛けてくれたので、子供たちは前に進み、お母様が座る長椅子に遠慮なく腰を下ろす。自然と、お母様が禎仁を、私が謙仁を膝の上に座らせ、お母様と私の間に万智子が挟まれるような形になった。
「増宮さんは、お仕事の方はいかがですか?」
嬉しそうに膝の上に座っている禎仁の頭を撫でながら、お母様が私に尋ねた。
「やっと、落ち着いてきました。先月は、台風のことやノーベル平和賞のことで大変でしたけれど」
私は顔に苦笑いを浮かべた。
ノルウェー国会ノーベル委員会が、前内閣総理大臣の渋沢さんと、前外務大臣で枢密顧問官に就任した加藤高明さんにノーベル平和賞の受賞を伝えてきたのは、先月1日の夕方だった。今年3月に、浜離宮で日本・清・ロシア・アメリカの外相会談を開催し、バルカン半島の平和への道筋をつけたこと……それが授賞理由だった。
しかし、連絡を受け取った渋沢さんは、
――そもそも、日・清・露・米の4か国のうち、どれか1国が突出するのは良くありません。4か国の立場は同等であるべきです。ですから、ノーベル平和賞は辞退します。
と主張した。それに前外相の加藤さんも、梨花会の面々も、そして兄も賛同したので、“受賞は辞退する”とノルウェーに返事をしたところ、“浜離宮外相会談に参加した4人の外相全員に平和賞を授与する”という連絡が、改めてノルウェーから入った。確か、“史実”では、ノーベル賞を同時に受賞できるのは3人までだったと思うのだけれど、この時の流れでは規定が変わっているのか、それとも、ノルウェーに何らかの圧力が掛かったのか……詳しく追及してはいないけれど、ともかく、無事に4か国が平等な立場でノーベル賞を受賞することになった。そして、加藤さんはノーベル賞を受け取るため、ヨーロッパへと向かったのだけれど……。
「渋沢どのは、結局、ノーベル平和賞を逃したのですね。何かおっしゃっておられましたか?」
「それが……渋沢さんは、“本来なら、内府殿下がノーベル賞を受賞するべきだ”と言うのです」
お母様の質問に答えると、私は頬を膨らませた。
「“4か国連合によるバルカン戦争の講和の斡旋を、最初に言い出されたのは内府殿下ですから”って……確かにその通りですけれど、ノーベル賞なんて絶対に欲しくありません。授賞理由が本当に平和に貢献したかなんて、少なくとも私が死んだ後ぐらいにならないと分かりませんし、それに、私、兄上と離れてノルウェーに行くなんてまっぴらごめんです!」
すると、
「母上、お顔が怖いです」
私の膝に座っている長男の謙仁が、私を不安そうに見つめた。私は左右に首を振ると、「ごめんね、母上、仕事に夢中になっちゃった」と謙仁に謝った。
「増宮さんは、お小さい頃から、お上と本当に仲がよろしいですからね」
お母様はクスっと笑うと、
「そう考えると、内大臣という職は、増宮さんに本当に合っておりますね。内大臣はお上に付き従って動かなければなりませんから、今度の特別大演習にももちろん供奉なさいますし」
微笑みながらこう付け加える。3日後の13日から静岡県で行われる特別大演習を統監するため、兄は明後日から静岡県に行幸する。私も国璽と御璽を持ち、兄と一緒に静岡県に行くのだ。
「正直言って、不安です。私、大演習を陪観する側はもちろんですけれど、統監する側にもいたことがありませんから。去年の特別大演習は、お義父さまが兄上の名代で統監しましたから、私は参加していないのです。だから、余計に不安になってしまって……」
私が素直に思いを吐き出すと、
「大丈夫ですよ、増宮さん」
お母様が優しい瞳で私をじっと見つめた。
「お上は2年前と3年前、先帝陛下に付き従って、特別大演習に参加なさっておられます。ですから、統監する側が何をなすべきか、よく分かっておられるはずですよ」
「……そうですね」
お母様の優しい言葉が、私の緊張をそっと解いていく。私は自然と、首を縦に振っていた。
「分からない所は、少し兄上に甘えて、教えてもらうことにします。それに、山縣さんも大山さんもいますから、事前に聞くこともできますし」
私がお母様に微笑すると、
「母上、大演習、頑張ってくださいね」
お母様と私に挟まれて長椅子に座っている万智子が、私の目をしっかり見ながら言った。
「父上も大演習に参加なさいますから寂しいですけれど、私たち、福島の爺と一緒に、留守をちゃんと預かりますから」
しっかり者の長女の言葉に、「僕も頑張ります」「僕も!」と謙仁と禎仁が続いた。3人とも、頼もしく成長している。義理の両親や千夏さん、捨松さんなど、子供たちに関わってくれている人たちのおかげだろう。
「分かった。母上、大演習でちゃんとお役目を果たしてくるね。だから、万智子も謙仁も禎仁も、留守番、頑張ってね」
1人1人と目を合わせながら頼むと、子供たちは揃って「はい」と元気よく返事をしてくれたのだった。
1917(大正2)年11月12日月曜日午後3時5分、東海道線を西に向かって走る御召列車の車内。
「そろそろ、静岡に着くな」
御料車の御座所に設えられた玉座に腰を下ろした兄は、前にある大きな窓から外を覗いた。波がほとんど立っていない穏やかな駿河湾の海面の上には、雲一つない青空が広がっている。
「ここまで無事に来られてよかった……」
青空を見上げながらほっと息をついた兄に、
「先月の台風で、東海道線も1週間くらい不通になっていたからね。復旧してよかったよ」
私はこう言って微笑した。
ところが、
「ただ、このあたりの住民たちには、これから迷惑を掛けてしまうからな……」
兄の眉は急速に曇った。
「大演習は戦況がどのように推移するか分からないから、演習参加部隊の宿営地もその日の夕方まで分からない。住民もそれを踏まえて、兵士たちを家に泊める準備をしてくれているとは思うが、兵士が自分の家に泊まるのか泊まらないのか、大演習の期間中、やきもきしながら過ごすことになる」
国軍の宿泊を伴う演習では、野営をすることもあるけれど、演習地近辺の住民の家を将兵の宿舎として使うことも多い。もちろん、対価は支払われるけれど、食事や寝具は住民が準備しなければいけないし、兄が言うように、当日、自分の家が宿舎として使われるかどうかも直前まで分からないので、住民にはかなりの負担が掛かるのだ。
「それに、兵士が田畑に入り込んで農作物を踏み荒らしたら大変だ。このあたりも、先月の台風で被害を受けたというし……」
顔をしかめて呟き続ける兄に、
「紳士淑女たる国軍兵士に、そのような不届き者はおらぬでしょう。万が一、陛下の戦況視察中にそのような者を見つけたら、罰をくれてやります」
私の隣の椅子に座っていた奥保鞏侍従長が厳かに言う。奥侍従長は歩兵大将で、維新以来の古強者の1人でもある。きらりと光ったその瞳には有無を言わせぬ迫力が宿っていて、私は思わず背を伸ばした。
「確かに、“国軍将兵は紳士淑女たれ”と軍人勅諭にもある。ぜひ、将兵の皆にはそれを頭に入れて行動してほしいものだ」
兄が真面目な表情で言った時、御召列車が減速を始めた。
「陛下、内府殿下。そろそろお支度を」
奥侍従長が腕時計を確認すると、私と兄に声を掛ける。どうやら、間もなく目的地の静岡駅に到着するようだ。私も兄も手早く身支度を整えだした。
静岡駅のプラットホームには、1本前の特別列車で先着していた内閣総理大臣の西園寺さん、国軍大臣の山本権兵衛さん、内務大臣の原さんをはじめ、政府高官が立ち並んで兄を出迎えた。その一団の中に貴族院議長の徳川家達さんがいるのは、明治初年にこの静岡の街で駿府藩の藩主として過ごしていたからだろう。私が目礼を送ると、家達さんは恐縮したように最敬礼した。
静岡駅から大演習の大本営となる静岡御用邸までの1kmほどの道の両側は、人で埋め尽くされていた。静岡県内の自治体の長や地方議会の議員、在郷軍人や赤十字社の社員、小学校や中学校、女学校の生徒たちなどがひしめき合っていて、全部で何人いるのか見当もつかない。今まで公式の行幸に供奉したことがほとんどない私は、その人の多さに面食らってしまった。
「内府殿下、いかがなさいましたか」
御用邸に向かう馬車に一緒に乗った奥侍従長が、私の異変に気が付いたのか、そっと声を掛けてくれた。
「いや、余りにも出迎えの人が多いので、びっくりして……」
私が小声で答えると、
「“奉迎せよ”と指示された者以外も、奉迎に大勢加わっているようでして」
奥侍従長が囁くように教えてくれた。
「静岡市始まって以来の人出ではないだろうか……先ほど、静岡県知事からそう聞きました。やはり、陛下の初めての大演習ご統監ですから、市民も自然と集まるのでしょう」
「なるほどねぇ……」
敬礼する老若男女をかき分けるようにして兄の鹵簿は進み、駿府城跡のそばにある静岡御用邸の門をくぐる。御用邸に入ると、兄はすぐに謁見の間に行き、演習統監部の幹部たちと顔を合わせた。今回の特別大演習の統監部のトップは、国軍機動局長の長岡外史機動中将……あの“ヒゲさん”である。
「今年の甲軍司令官は児玉航空大将ですが、乙軍司令官は秋山です。きっと、甲軍を叩きのめし、乙軍に勝利をもたらしてくれるでしょう」
ヒゲさん……ではない、長岡機動中将は、兄と、兄の斜め前に立つフロックコート姿の西園寺さんに熱く語る。中央情報院の秋山真之さんの兄・好古さんは、6年前に兵科を騎兵から機動に変えた。国軍の騎兵部隊は、徐々に機動部隊に置き換えられてきており、彼の兵科変更もその一環である。
「それは、身内を贔屓しているのではないですかねぇ?」
西園寺さんが首を傾げると、国軍大臣の山本さんが横から「まあまあ」と西園寺さんをなだめる。この時の流れの大日本帝国憲法では、天皇は国軍の統帥権を持ち、内閣総理大臣に指揮権を委譲している。だから西園寺さんも、統監部幹部からのあいさつを兄と一緒に受けているのだ。
「熱戦を期待しているが、住民に迷惑を掛けないよう心掛けてくれよ」
兄は意気込んでいる長岡機動中将に苦笑交じりに言った。
「住民の協力あってこそ、この特別大演習ができるのだ。それに、このあたりも東京近辺と同じように、先月の台風で被害を受けている。住民を更に苦しませるようなことはしないようにな」
「ははっ。ありがたきお言葉、責任をもって、全将兵に伝達いたします!」
長岡機動中将が兄に答えるのを聞きながら、
(さて……無事に大演習は終わるのかしら?)
私は内心危ぶんでいた。というのは、この特別大演習、参加した将兵からは毎年のように“滅茶苦茶大変だった”という感想が漏れるほどの厳しい演習なのだ。ただ、軍医は特別大演習に参加しても、後方の野戦病院でケガ人を治療する担当になることがほとんどなので、私はその大変さに巻き込まれたことがないのだけれど。
(ま、児玉さんが一方の司令官である以上、無事に終わるわけがないか)
近い未来に展開されるであろう光景を、頭の中から急いで消し去ると、私は統監部幹部たちに退出を促し、後ろにいる侍従さんに、控えの間で待っている静岡県知事や静岡市長たちを、入れ替わりで謁見の間に連れてくるよう頼んだのだった。
※実際に栽仁殿下と實枝子さまが、習字の授業を受けていなかったかは不明です。




