疑惑
※セリフの呼び方ミスを訂正しました。(2019年4月7日)
1891(明治24)年、9月末。
私は、華族女学校の図書室で、独和辞書を繰っていた。
机の上には、2冊の“ドイツ医事週報”がある。花御殿から、ランドセルに入れて華族女学校に持ってきた。
まず、7月16日発行のもの。これには、森先生が書いた、脚気実験の論文が載っている。
もう一つは、コッホ先生とお弟子さんが書いた、脚気実験の追試についての論文と、森先生の論文についての、コッホ先生の短評が載っているもの。
発行日は7月30日だ。
(やっぱりおかしい……)
日付を確認した私は、眉根を寄せた。
私がベルツ先生と森先生の協力のもと、脚気の実験を始めたのは、今年の年明けだ。白米で育てたニワトリに変化が出始めたのは、2月に入ってからだ。つまり、結果が出始めるまでに、1ヶ月弱の時間が必要だった。
それなのに、追試の論文が発表されたのは、森先生の論文が出て2週間後……。森先生の論文を見て、すぐにニワトリが用意できたとしても、2週間でニワトリに変化は出ないのだ。しかも、データを分析して、論文の体裁を整える作業もあるはずだ。2週間でそこまでできるはずはない。
前世なら、医学の、“一流”と評価されるような学術雑誌に投稿された論文は、査読に回される。それでOKが出たら、初めて雑誌に論文が掲載されるのだ。査読には大体数か月ぐらい時間が掛かる、と前世の大兄、――二人いたうちの上の兄が言っていた。“ドイツ医事週報”は、まだ査読の制度がないようだけど、それを割り引いて考えても、この短時間で脚気実験の追試論文が出来るはずがないのだ。
もし、森先生の論文を読んでから、コッホ先生とお弟子さんが追試論文を書いたとしたのなら――その論文は、間違いなく捏造だ。
でも、その点を、ベルツ先生や森先生に指摘することは出来なかった。
この追試論文は、私たちの唱える脚気の栄養欠乏発生説にとっての、最高の援護射撃になってしまっている。私がこの論文の成り立ちそのものに異議を唱えれば、ベルツ先生たちは、「何故自分たちにとって有利な証拠を、わざわざ疑うのか」と思ってしまうだろう。
ただ、もしかしたら、このタイミングで追試論文が出たことにも、何かやむを得ない事情があるのかもしれない。それが追試論文にも記載されているから、ベルツ先生も森先生も騒がないのかもしれない。それを確認するために、私は、この追試論文をきちんと読むことにした。
論文を読むのは、華族女学校ですることにした。花御殿に独和辞書は無いし、買うようにお願いしたら、私に以前“フランス語の勉強をするように”と言っていた大山さんが、いい顔をしないだろうと思ったからだ。
(万が一、このコッホ論文が捏造だとしたら、私、どうしたらいいんだろう……)
私ですら名前を知っている、天下のコッホ先生が捏造論文を書いていたとしたら……大変な事件である。
(とにかく、まずきちんと読む所からね)
私は、コッホ先生とお弟子さんの論文に目を通し始めた。実験手順は私も知っているし、森先生の論文と見比べたら、同じような単語が同じような順番で並んでいたから、手順の説明に関しては読むのを後回しにしても良さそうだ。それを確認して、私は序文から読み始めた。
前世の大学時代に、第二外国語でドイツ語を少しだけやった。辞書を繰りながら論文を読んでいるうちに、少しずつ、ドイツ語の文法の知識が蘇ってきた。
(脚気は日本特有の風土病であるが、最近では都市部や軍隊などでしか流行せず、細菌での発生説もあるが、それは推測の域を出ていない……か)
15分くらい掛けて、最初の一文を解釈し終えた時、
「章子お姉さま?」
急に声を掛けられた。
びっくりして飛び上がりそうになった私は、前に立っている人影を確認して、胸を撫で下ろした。
「ああ……節子さま」
九条節子さまが、心配そうに私の顔をのぞき込んでいた。
「章子お姉さま、お外で遊ばないなんて……おからだの具合がお悪いの?」
節子さまの、目鼻立ちが整った凛々しいお顔が曇っている。
「あ、ああ、大丈夫でございます、はい」
私は慌てて答えて、笑顔を作った。未来の皇太子妃殿下を、心配させる訳にはいかない。
そう、原さんが初めて花御殿にやって来た時、彼の“史実”の知識から、節子さまが、“史実”で皇太子殿下と結婚されていたことを知った大山さんは、「それはもう、皇太子妃殿下にする方がよいのではなかろうか」と言い始めたのだ。
――“史実”で、四人も親王殿下をお産みになられ、しかも皇太子殿下を支えられたのであれば……。
――ちょっと待って、大山さん、“史実”と今の状況は違うから、必ずしも上手くいくとは限らないと思うけれど……。
私は反論したけれど、
――大丈夫です。皇太子殿下は、節子さまに心を許していらっしゃるように見受けられますし……。増宮さま、この大山にお許しをいただければ、陛下にこの旨、増宮さまが思い出したことにして言上いたします。“梨花会”の残り全員にも了承を得ますので、なにとぞお許しを!
――皇太子殿下のためにも、是非皇太子妃のご内定を節子さまに!……それはあなたにも、ご協力をいただけるのであろうな、主治医どの?
大山さんも原さんも、強い口調で私にこう言ったので、私は頷くしか無かった。まあ、原さんはともかく、大山さんがああ言うのであれば、間違いないだろうし、未熟な私は逆らうことはできない。
そして、天皇の許しも、“梨花会”全員の了承も得られ、節子さまは皇太子妃に内定した。皇太子殿下が学習院の初等科を卒業するころに、婚約を発表するそうだ。皇太子殿下は12歳、そして節子さまは、まだ7歳である。戦国時代の政略結婚じゃあるまいし、いくら何でも早過ぎではないだろうか?
ちょっと心配になって、節子さまが皇太子妃に内定した後、皇太子殿下と二人きりの時に、婚約の件について聞いてみたところ、
――俺の嫁は節子がよい。
と、皇太子殿下に即答されてしまった。
――章子も節子も、俺にとっては大切だ。しかし、寂しいことだが、章子はいずれ、他家に嫁に行く身ではないか。節子が俺の所に嫁いでくれるのであれば、俺は寂しくはない。
皇太子殿下はこう言って、私に微笑を向けた。
(いや、そうおっしゃいますけどね、殿下、私、結婚するのは諦めてるんですよ?)
前世では、女性医師の結婚は“かなり大変”とされていた。医師の勤務は不規則で、勤務に拘束される時間も長いという、デートをしたり、家庭生活を営んだりする上で不利な条件もあるけれど、最も女性医師の結婚を阻んでいるのは、
――男ってのは、自分より学歴や収入が下の女と結婚したがるからよ。
前世の私の母親――麻酔科医だったけれど――が、こう断言していた。
――私も男勝りだからねえ、結婚は諦めてたんだけど……本当に、お父さんとなんで結婚できたのか、私も不思議なのよね。
彼女自身が、こんなことを言っていたけれど……。
それはともかく、女性蔑視が、前世より強いこの時代である。医師になろうとする私と、結婚しようと思う男性がいるのだろうか?
しかも最近、学習院の男子たちの、私に対するビビりっぷりが、ますます悪化している。先日は、皇太子殿下と遊ぶために花御殿にやってきた伏見宮邦芳王殿下までが、私の姿を認めた瞬間、明らかに怯えていた。確か、私より3歳年上のはずなのだけれど……。
おそらく、内親王の私の結婚相手となると、皇族か華族、ということになるのだろうけれど、相手側の同年代の男子が私を恐れているから、まず嫁に欲しがらないだろう。無理やり嫁いだとしても、愛のない結婚になることは目に見えている。
(そんな不幸な家庭生活を送るんだったら、私、独身でいいや……)
8歳にして、結婚の可能性を完全に諦めた私は、皇太子殿下にあいまいに微笑み返すしかなかったのだけれど……。
「あ、あの、節子さま」
私は思い切って、口を開いた。
「節子さまは、私の兄上のこと、どう思っていらっしゃるの?」
すると、節子さまがさっと頬を赤らめて、下を向いた。
「どうって……す、好き、です」
(りょ、両想いじゃないか……)
小さな声でそっと答える節子さまは、とても可愛らしかった。
(“史実”でも夫婦になって、節子さまが皇太子殿下を支えたんだし……元々相性がいいのかな?)
まあ、このまま恋が順調に育てば、皇太子殿下と節子さまは、きっと良い夫婦になるだろう。それは、皇太子殿下の健康を守るためには、とても大きな力になる。
(それでいいや。私はこの時代で医者になるんだもの。恋愛や結婚をする暇なんてない……)
彼氏いない歴は、既に前世で24年。それが今生の寿命分長くなったところで、どうということはない。
「頑張って、節子さま。私も応援しますね」
私は節子さまに、飛び切りの笑顔を向けた。
私がコッホ先生の論文を全て読み終えたのは、10月27日のことだった。
(捏造じゃなくてよかったけど……)
私は、翻訳内容を書いたノートに目を通して、ほっと息をついた。
論文に書いてあったのは、以下のようなことだった。
コッホ先生とお弟子さんは、5月中旬から私たちと同じ実験に取り組んだ。6月中旬に、白米で育てたニワトリが、よろめいたり動けなくなったりして、重症のものは呼吸困難で死亡した。死亡したニワトリを解剖すると、心肥大や末梢神経炎の所見が認められた。
このことを論文にまとめて、“ドイツ医事週報”に投稿しようとした矢先に、私たちが同様の実験を行ったということを、“ドイツ医事週報”の編集部に告げられた。このため、彼らは急遽論文の体裁を、私たちの実験の追試を行った、というものに変更して“ドイツ医事週報”に投稿した。
(一応、2週間で一から全部脚気実験をやった、ということにはならないか……)
書き上げた論文の文言を変更して、体裁を整える程度なら、2週間でもできるだろう。つまり、私が疑った論文の捏造の線は消えたことになる。
ただ、不自然な点は残る。
なぜ、コッホ先生は、脚気の全くないドイツで、脚気の実験をしようと考え付いたのだろうか。
もちろん、コッホ先生の所では、北里先生が働いているし、三浦先生もドイツに留学している。彼らから脚気の情報を得た、ということは十分にありうるけれど……。
(でも、お米のないドイツで、わざわざお米を取り寄せてまで実験するって、なんか変な感じがするんだよね……)
ドイツで主食としてお米が食べられているという話は、前世でもあまり聞いたことはない。ということは、実験に使ったお米は、他の国から持ってきた、ということになる。今のドイツで、お米は簡単に手に入るものなのだろうか?
実験手法も、あまりにも私たちのものと似すぎている。というより、全く同じだ。遠く隔てた日本とドイツで、全く同じ実験が行われたことになる。
(まさかとは思うけれど……私や原さんみたいな人が、ドイツにもいるの?)
この世界にもたらされている“史実”の記憶。私には、この先の約130年分が、原さんには、暗殺されるまでの約30年分がある。私と原さんの記憶に関しては、大山さんが一つ一つ突き合わせて統合させて、3人で共有している。ただ、医学の知識そのものに関しては、ほとんど共有はしていない。
だけど、もしドイツに、私と同じように、未来の医学の知識を持っている人がいるならば……。
(会った方がいいのか、会わない方がいいのか、ちょっとわからないなあ)
その人と協力して、医学を発展させられれば、それはすばらしいことだ。ただ、ドイツという国が、その知識をどう使っていくのか……正直分からない。
(あの皇帝の国だもんね……なんかやらかしそうで怖いんだよな)
ヴィルヘルム二世。“史実”では、この後に“黄禍論”などという物を唱え始める。既に、ビスマルク首相は昨年、“史実”の通りに失脚して、皇帝による親政が始まったそうだ。
医学の知識は、使い方によっては、人を害する知識にもなりうる。私は、人を助ける知識として使いたいけれど、そうは思わない人もいるのかもしれない。
(カギになりそうなのは、この論文をコッホ先生と一緒に書いた、ベラーっていうお弟子さんと……結語に書いてある“親愛なる日本の友人、タカハシ氏”か……)
この2人のうちどちらかが、私と同じように、未来の医学の知識を持っているのかもしれない。
(ベラーって人と、タカハシって人について、何か知っていることがないか、森先生かベルツ先生に聞きたいけれど……)
ただ、明日は濃尾地震が起こる日だ。そんなことを考えている場合では、実はない。
どうやら、“梨花会”のみんなが、色々考えてくれているらしいのだけれど、大山さんにその対策がどうなっているかを聞いたら、
――梨花さまは、我々をお信じになられて、平静をお保ちになり、ご自身のご修業にお励みください。
と答えられてしまった。
(いや、全然無理だってば。私は前世で愛知県民だった時間が長いし、そもそも、前世の私のばーちゃんのばーちゃんが、この地震に遭遇するんだし……)
大山さんに反論しようとしたけれど、言い負かされるであろうことを察して、私は黙り込むしかなかった。経験豊富で有能で、天皇に“我が師に等しい”とまで思われた、絶対に敵いっこない私の臣下……本当に、なんでこんな人が、大臣の座を惜しげもなく捨てて、東宮武官長になっているのだろう?
他の“梨花会”のメンバーに聞いても、濃尾地震に関しては、言葉を濁して教えてくれない。磐梯山噴火や、熊本地震の時と違って、明日の朝に起きるということまで覚えていたから、せめて、避難命令ぐらい出してほしいのだけれど……。
しかし、一番心配なのは、数日前から新聞に、「東海地方に、大量のダイナマイトが放置されている疑いがある」という話が出ていることだった。
戊辰戦争の時に、旧幕府軍や新政府軍が使用しようとしたダイナマイトが、東海地方に大量に放置されている、ということが判明したのだ。危険な爆薬がどこかで眠っていると知った東海地方の住人の間に、動揺が広がっている……新聞にはそう書かれていた。しかも、一紙だけではない。東京日日、国民、郵便報知、時事、東京朝日……在京の主な新聞数紙が、その記事を掲載していた。
世間知らずのお嬢様が多い華族女学校のクラスメートたちの間でも、ダイナマイトのことが、休み時間のお喋りの話題になっている。大人たちの間では、もっと大きな騒ぎになっているだろうし、もちろん、東海地方では大変な騒ぎになっているだろう。
(よりによって、濃尾地震の被害が大きくなる地域に、そんな物騒なものが放置されているなんて……)
濃尾地震では、火災も発生して、被害が大きくなったはずだ。もしその火が、放置されている爆薬に引火したら、大惨事になる可能性がある。でも、「その対策は大丈夫なのか」と尋ねようにも、今日は大山さんは非番だし、伊藤さんも枢密院で議事があるということで、花御殿に来ないと言っていた。親王殿下も演習があるとかで、ここ数日は花御殿にやってこない。
(被害が少しでも減ることを祈りつつ、平静を保つしかないのかなあ……)
私はノートを閉じながら、ため息をついた。
※査読が当時のドイツ医事週報で行われていたか、確認が取れず、査読がなかったという筋で話を書いています。ご了承ください。
あと、ドイツから日本への船便の届く日数も、大体の目安で書いています。
※実際には1893(明治26)年に、伏見宮禎子女王が皇太子妃に内定しますが……、拙作の世界では、その内定自体がなくなりました。




