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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第61章 1917(大正2)年冬至~1917(大正2)年小満
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福祉問答

 1917(大正2)年5月28日月曜日午後0時35分、皇居・豊明殿(ほうめいでん)

『うん、内府殿下がご提案なさった国際連盟構想は、本当に素晴らしい』

 明日から浜離宮で開かれるオスマン帝国の外債返済に関する会議。その会議に参加する各国代表をゲストとして招いた兄と節子(さだこ)さま主催の昼食会の席で、私にとても嬉しそうにフランス語で話しかけたのは、イタリア銀行の総支配人であるボナルド・ストリンゲルさんだ。

『恐れ入ります』

 営業スマイルと一緒にフランス語で返答すると、

『実のところ、あの弩級戦艦とやらに、我が国の財政は振り回されていたのですよ』

ストリンゲルさんは私にこう教えてくれた。

『殿下もご存じでしょう、我が海軍の司令官・アブルッツィ公を……。あの方が、フランスがたくさんの軍艦を建造しているのに刺激されて、“弩級戦艦を12隻建造しろ”という無茶な要求を政府にしたのです。何とか6隻は建造できましたが、それ以上は資金繰りがつかずに建造が止まってしまい、それを知ったアブルッツィ公が大蔵省に何度も怒鳴り込んだのです。しかし、内府殿下の構想が世間に公表された途端、アブルッツィ公の動きが止まったと本国から連絡がありました。いやぁ、そのことだけでも、内府殿下には感謝してもしきれません』

(うわぁ……)

 私はイタリアの大蔵大臣に心から同情した。アブルッツィ公と言えば、私に武芸をさせるか、登山をさせるかで、兄のトリノ伯と対立して決闘までしてしまったという、よく分からない王族である。きっと、イタリアの大蔵大臣は、相手が王族であることもあって、アブルッツィ公の抗議に苦労して対処していたのだろう。

 と、

『ところで、内府殿下は世間の評判通り、大変にお美しいですね。まさに咲き誇る大輪のバラのような方だ』

ストリンゲルさんが、なぜか私に熱い視線を向けた。

『いかがですか?会議が終わりましたら、私に東京の名所をご案内していただけ……』

 刹那、私の首筋を、嫌な感覚が撫で上げた。私の隣に座っている栽仁(たねひと)殿下が、ストリンゲルさんを刺すような目で睨みつけたのだ。ストリンゲルさんは慌ててあさっての方向に首を動かし、手近な雑談の輪の中へと逃げ込んだ。

「……全く、油断も隙もあったもんじゃないね。僕の眼の前で、梨花さんを口説こうなんていい度胸だ」

 ストリンゲルさんが私から目を逸らしたのを確認した栽仁殿下は、小さな声で怒りの言葉を吐いている。

「まぁまぁ、国際連盟構想に好意的なのは間違いないから、これ以上の騒ぎは起こさないであげて」

 私がなだめると、栽仁殿下は渋々首を縦に振り、

「まぁ……国際連盟構想の評判は、とてもいいからね」

と私に言った。

「うん、嬉しい誤算だわ」

 私は声を潜めて夫に答える。「まぁ、誤算した原因は、私が各国の軍事費の裏側にある事情を、資料から上手く読み取れなかったからなのだけれどね。私、まだまだ修業が足りないなぁ……」

 そう言って、私が軽くため息をついた時、

「内府殿下」

昼食会に一緒に出席していた大山さんが私を呼んだ。

「早速、そのご修業の機会がやって来たようですよ」

 大山さんが示したのは、イギリス代表のロイド・ジョージ大蔵大臣とチャーチル海軍大臣だ。陸奥さんの隣で、ワイングラス片手にこちらを見ていた2人は、私と目が合うと同時ににっこり笑った。

「……この場で色々と議論してしまうと、問題になるんじゃないかしら?」

「おや、内府殿下は、フランス語より英語の方がお得意ではありませんか」

 私の問いに大山さんはこう返し、優しくて暖かい瞳で私を見つめる。どうやら、先日マカロフさんとやりあった時のように、私に喋れということらしい。仕方がない。私が頭のギアを戦闘モードに入れた時、

『やはり、内府殿下がご提唱なさった国際連盟構想は素晴らしいですね』

チャーチルさんが私に穏やかな調子で話しかけた。

『恐れ入ります。……けれど、海軍大臣のあなたのご不興を買うようなお話を褒めていただけるなんて、信じられませんわ』

 私が英語で慎重に答えると、

『とんでもない。これでも、平和のために何かできることはないかと、日夜考えているのですよ』

チャーチル海軍大臣は顔に苦笑いを浮かべた。

『数年前、ドイツ側に言ったことがあるのです。このまま両国が戦艦を建造し続ければ、双方の財政は近いうちに破綻する。こちらも新規の戦艦建造を取りやめるから、そちらも戦艦の建造を中止してはいかがだろうか、とね。無視されてしまいましたが』

(そりゃ当たり前よ)

 私は心の中でツッコミを入れた。イギリスとドイツは、仮想敵国同士である。もし、仮想敵国の海軍大臣が“戦艦の建造を休止しませんか”と言ってきたら、何かの罠と思うのが自然だ。

『しかし、内府殿下が軍縮を言い出したのであれば、話は別です。あの皇帝(カイザー)は、どういう訳か、内府殿下のおっしゃることは素直に聞き入れる。現に、国際連盟構想と、それに続く軍縮に賛成していると今朝の新聞に載っていたと聞きました』

『ティルピッツ海軍大臣のことを忘れてはなりませんわ、チャーチル閣下。あの方は、簡単には自説を撤回なさらないと思いますよ』

『その時は、内府殿下が、ティルピッツ海軍大臣をお手紙で説得なさればよろしいのです。ロシアのマカロフ海軍大将を屈服せしめた内府殿下ならば、ティルピッツ海軍大臣のこともきっと説得できます』

(調子のいいことを言ってくれちゃって……)

 大真面目に言うチャーチルさんに言い返してやろうかとも思ったけれど、返し方を間違えれば、皮肉の1つか2つは飛んできそうだ。なので、

『マカロフ閣下と、日本でお会いになったのですか?』

私は代わりに、チャーチルさんに質問した。

『一昨日、一緒に飲みましてね。内府殿下のことを非常に褒めておられた。ですから私も、内府殿下に対する認識を改めた訳です。内府殿下は、ご夫君の陰にただ隠れている女性ではない。全世界の女性、いや、男性を含めても、五指に入る賢さをお持ちの方だ、と』

『……』

 私のことを褒めているようだけれど、これも作戦かもしれない。ここから皮肉を浴びせてきたり、議論を吹っ掛けてきたりすることは十分考えられる。気を引き締めてチャーチルさんの話を聞いていると、

『……ですから、少しお伺いしてみたいのです。軍縮が成れば、国家予算にゆとりができます。その金は何に使えばよいか、と』

彼はやっと、私に質問のボールを投げた。

(やっぱりね)

『それは、各国によって事情が違いますから、一概に言うことはできませんわ』

 ある意味ほっとしながら私は答えた。

 すると、

『では、福祉に使うのはどうでしょうか』

チャーチルさんの隣から、ロイド・ジョージ大蔵大臣が言い始めた。そう言えば、このロイド・ジョージ大蔵大臣は、高齢者が受け取れる年金制度や、国民保険……私の時代で言う傷病手当についての政策を実現させた人だ。

『老齢年金や傷病手当を拡充したり、あるいは医療にかかる金を国が補助したり……いかがですかね?』

 ロイド・ジョージさんの問いに、

『ものすごく難しいことを質問されてしまいましたね……』

私は、両腕を組んで考え込んでしまった。


『これは意外なことをおっしゃる』

 チャーチル海軍大臣が、戸惑ったように笑いを見せた。『内府殿下ならば、簡単に答えを出されると思っていたのですが』

『チャーチル閣下、そうおっしゃられても困ります』

 私は首を左右に振った。『考えなければならない不確定要素が多すぎるのです。それらを一部、あるいはすべて組み合わせて考えるのは、とても難しいですよ』

 これからの未来をすべて正確に予測できても、答えるのはとても難しい。私が困り果てていると、

『では、その不確定要素とやらを、1つずつ考えていけばよろしいのではないですか』

ロイド・ジョージさんが、少し得意げに私に提案した。

『うーん……では、老齢年金のことを例にして考えてみますけれど……』

 私は両腕を組んだまま言うと、

『貴国の65歳以上の国民の数は、全国民の何%ほどでしょうか』

と2人に尋ねた。

『確か、5%ほどでしたね』

 ロイド・ジョージさんがこう答えたので、

『では、100年後も、65歳以上の国民の数は、全国民の5%ほどでしょうか?』

私は更に質問した。

『おそらくそうでしょうな』

 チャーチルさんが即答したので、

『違いますね』

私は言い返してやった。

『医学は、どんどん進歩しています。細菌感染症に対して、抗生物質がいくつも開発され、非常に効果を発揮しています。結核菌に打ち勝つ薬も発見されています。今まで細菌感染症で死んでいた人が、死の淵から救われ、天寿を全うする時代が来たのです。次第に、人間の平均寿命は延びます。65歳以上の国民が、全国民に占める割合も増えていくでしょう』

『しかし、それは65歳未満の人口が増えれば変わらないのでは?』

 ロイド・ジョージさんがすぐに私に反論した。『老人だけが感染症で死ぬ訳ではありません。働き盛りの若者、幼い子供……そういった人々も感染症に罹患して死にます。その人々も助かるのですから』

『そうですね。けれど、65歳未満の人々の数が減る要因は、感染症以外にもたくさんありますよ。例えば、私たちの努力にもかかわらず、世界大戦が発生し、多くの働き盛りの男性が戦場に送られて死ねば、将来生まれる子供の数も減ります』

『それは……確かにそうだが……しかし、それを回避するために、内府殿下も我々も、こうして世界平和のための方策を立てているわけで……』

『ええ、その通りです。これはあくまで極端な要因です。けれど、普遍的な要因を考え出すと、途端に難しくなりますよ』

 なぜかうろたえ始めたロイド・ジョージさんに私は言うと、『個人の……特に、子供を出産できる家庭の所得がどのくらいになるかによっても、将来生まれる子供の数が変動します』と更に続けた。

『子供を一人前にするためには、食事も与えるのはもちろんですが、衣服や住まいも確保しなければなりません。国の未来を担う社会の一員とするために、教育も施さなければなりません。子供を育てるにはお金が掛かるのです。けれど、子供を出産できる家庭が、子供を育てられるだけの所得を得られるかどうかは、経済状況に左右されます。好景気が永遠に続けばいいのでしょうけれど、そんなことは無いのは、歴史が証明しています』

『……』

 ロイド・ジョージさんは黙り込んでしまった。しかし、私は手を緩めず、

『普遍的な要因はまだありますよ。社会の価値観によっても、将来生まれる子供の数は変わってきます』

と畳みかけるようにして言った。

『今は、年頃の男女は結婚するのが当たり前です。しかし、その“当たり前”が変化して、“結婚はしなくていいし、子供も作らなくていい”という価値観になればどうでしょうか』

『なっ?!そんな……結婚は、当たり前の話で……!』

 顔を真っ赤にしたチャーチルさんに、

『あくまで仮定の話です。しかし、チャーチル閣下が子供の頃に社会で広く信じられていた価値観は、今でもすべて残っているでしょうか?』

私はこう尋ねてみた。チャーチルさんが、目を見開いて黙り込んだところで、

『私は、福祉政策は、対象となる世代の次の世代が同じ利益を受け取れないのであれば、行うべきではないと考えておりますの』

私はチャーチルさんとロイド・ジョージさんに言った。

『福祉政策にはお金が掛かります。しかし、そのお金が、いつまであるかは分かりません。100年後まで財源が確保されているかもしれませんし、3年後には財源が尽きているかもしれません。でも、確実なことが1つあります。自分が福祉政策による利益を享受する順番となった時に、約束されていたはずの利益が受け取れない、あるいは受け取れるとしても、税率の上昇など、自分が損をしないと受け取れないと分かれば、国民は必ず時の政府に反発します。一致団結して革命を起こすこともあり得ます。ですから、福祉政策は、有権者の一時的なご機嫌取りや、党利党略のために行うのではなく、可能ならば、私たちが死んだ後の未来まで続くようなものを行わなければならない……私はこう信じています。ですから、私はお2人に、“ものすごく難しいことを質問された”と申し上げましたの』

 喋り疲れて、私は白ブドウジュースの入ったグラスに手を伸ばし、中身を一口飲んだ。気が付くと、隣にいる栽仁殿下だけではなく、大山さんも、チャーチルさんもロイド・ジョージさんも、そして視界に入る昼食会の出席者全てが、私に視線を集中させ、言葉を失ってしまっていたのだった。


 1917(大正2)年5月28日月曜日、午後2時30分。

「いやぁ、面白いものを見せていただきましたよ」

 赤坂離宮の兄の執務室。昼食会の後、呼んでもいないのにやって来た前内閣総理大臣の陸奥さんが、ニヤニヤしながら言った。

「お得意の分野が題材ではあったとは言え、内府殿下があの2人の食わせ者を一度に片付けるとは……感服いたしました」

「私は喋り疲れました」

 兄のそばの椅子に座った私は、そう言ってからお茶をすすった。「あの2人を、私と議論をするようにけしかけたのは陸奥さんでしょう。全く……何とか黙らせられたからよかったですけれど、“内府殿下のように社会進出する女性が増えれば、生まれる子供の数が減るかもしれない”と指摘されたらどうしようかと思いました」

「何、その時は、“だからこそ、社会進出した女性が妊娠・出産しても問題ないように、国軍では内府殿下のご結婚と同時に制度を整えた”と返せばよかったのです。……満点をつけても良かったと思ったのですが、今のご発言で減点ですね」

 陸奥さんが相変わらず容赦の無いことを私に言った時、

「しかし、梨花の話は、妙に現実味を帯びていたな」

いつもの執務用の椅子にかけた兄が、不思議そうな表情で感想を述べた。「“福祉政策は、有権者の一時的なご機嫌取りや、党利党略のために行うのではなく、可能ならば、私たちが死んだ後の未来まで続くようなものを行わなければならない”……あれに実感がこもっていたが、お前の時代にそういう事例があったのか?」

「正確に言うと、前世の私が生まれる前の話ね」

 そう前置きしてから、私は前世の祖父から聞いた話を記憶の中から引っ張り出した。

「東京府……私の時代は東京都に変わっていたけれど、その知事が、高齢者の医療費を無料にする政策をやったの。その頃にはもう、将来、日本の高齢化は更に進行するだろうと言われていたのにもかかわらずね。“財源が無いからそんなことはできない”と言っていた与党は、選挙で敗北し続けたから、方針を転換して、日本全国の高齢者医療を無料にする政策を実行した」

「ふむ。ここまで聞いただけだと、美談のように思えるが……」

「でもね、兄上。だんだん増えていく高齢者の医療費を全部無料にするだけの財源は、やっぱり国にも地方にも無かったのよ」

 私は椅子から少し身を乗り出して、兄に説明を続けた。「それに、高齢者の医療費が公費で賄われるということは、医者にとっては、治療費の取りっぱぐれが絶対に無いことになるから、高齢者が過剰な医療を施されたり、家で邪魔になっている高齢者がずっと病院に入院させられたりする事例も多発した。だから、10年ぐらいで、高齢者医療の無料化は撤回された。もちろん、高齢者からも不満が出たし、いずれ自分が高齢者になった時、医療費がタダになると思っていた働き盛りの世代も反発した。その時に生じたひずみが、前世の私が医者になる頃にも残っていて……“後先考えずにやった政策が、未来の人間も振り回すことになった”って、じーちゃんは嘆いていたわ。その言葉の意味が本当に分かったのは、転生して、政治をちゃんと勉強してからだけれど」

「なるほど。内府殿下は、前世で聞いたお話を、今生で得た知識と考え方で分析し、今後に生かそうとしているということですか」

 陸奥さんは満足そうに頷いた。「僕たちが施した教育も、無駄ではなかったということですね。伊藤殿たちも……いえ、亡くなられた勝先生や三条殿も、きっと喜んでいるでしょう」

 すると、

「しかし、まだ鍛え足りないという顔をしているな、陸奥男爵は」

兄が苦笑いしながら言った。「よくできる生徒を見ると、ますます鍛えたくなるのが卿らだ。きっと今も、梨花をどう鍛え上げてやろうかと、うずうずしているのだろう」

「陛下と皇太子殿下も、それから将来有望な若手たちも、でございます」

 陸奥さんが兄に向かって恭しく一礼した。「命ある限り、僕らは陛下のため、国のため、そして未来のために最善を尽くす所存でございます。そのためには取りうるすべての手段を取らせていただきますので、どうかご覚悟くださいますよう、伏してお願い申し上げます」

「仕方がないな……励もうか、梨花」

「だね、兄上」

 どうやら、まだまだ楽はさせてもらえないようだ。兄と私は目を合わせると、お互い苦笑いを顔に浮かべたのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言]  年金はともかくとして、健康保険だけはなんとかしてもらわないと困ります。確か、第二次世界大戦前は日本にはなかったはずなので。  
[気になる点] 日本国内では、今回の国際連盟構想をどう受け止めているか。言い出しっぺだから、章子様を高く持ち上げる。 そうなると、列強諸国をはじめとした海外の女性達も、日本と同じ位の女性の権利を叫びだ…
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