大きすぎる波紋(2)
1917(大正2)年3月13日火曜日。
この日の午前中、ブルガリアとオスマン帝国の講和を更に後押しする情報が日本に伝えられた。デンマークが、4か国の共同声明に賛同したのである。
「デンマークが、か!」
午前の政務が終わり、赤坂離宮の執務室で私とお茶を飲んでいた兄は、大山さんからその情報を聞くと椅子から立ち上がった。
「よし、これでギリシャが共同声明に賛同する確率が上がったね、兄上!」
私も思わず、ガッツポーズを作って喜んだ。というのは、現在のギリシャ国王・ゲオルギオス1世は、デンマーク王家の出身だからである。
「ギリシャはオスマン帝国と、仲がいいわけではない。でも、本家筋に“オスマン帝国に手を出すんじゃない”と言われたら、流石にオスマン帝国に攻め込むわけにはいかないでしょ」
「ううん……しかし、改めて考えてみると、どうなるかは分からないな。ギリシャはオスマン帝国と、クレタ島の領有をめぐって対立している。どさくさ紛れにオスマン帝国領をかすめ取る可能性もゼロではない」
「でも、ギリシャの軍事部門は、実質イギリスの支配下にあるし、国家財政にもイギリスの眼が光っているはずよ。イギリスの動きが止まっている以上、国王も妙な気を起こせないと思うな」
私と兄がそれぞれの見方を言い合っていると、
「天皇陛下のおっしゃった通り、ゲオルギオス1世は、ドイツとイギリスがバルカン半島での戦争に参戦したら、ギリシャもオスマン帝国に出兵して、クレタ島を完全にギリシャのものにしてしまおうと考えていたようです」
大山さんがこう言って微笑した。
「しかし、ギリシャは、イギリスの意向を無視しては国家運営ができません。ですから、デンマークが賛同したこともあり、クレタ島に未練を残しつつも、ゲオルギオス1世は共同声明に賛同すると言わざるを得ない……という状況です。もう2、3日もすれば、ギリシャも共同声明に賛同すると正式に表明するでしょう」
「なるほど。いつもながら、院の諜報網は恐ろしいな。日本にとっては、本当にありがたいことだ」
兄は満足げに頷くと、
「セルビアのアレクサンダル1世の王妃は、オーストリアにゆかりがあるし、セルビアの政策もオーストリア寄りだ。モンテネグロはどうするか分からないが、人口25万人の小国、周囲の大国の意向には逆らえないだろう。遠からずこの2国は共同声明に賛同するだろうが……となると、気にかかるのはフランス・オランダ・ベルギーと、そしてブルガリアの動向だな」
と言った。世界各国が次々と共同声明に賛同してくれているけれど、関係国が賛同してくれないと意味がないのだ。
「新イスラエルと、彼らに関係するユダヤ系金融機関の協力がありますから、フランス・ベルギー・オランダも、遠からず共同声明に賛同の意を示すでしょう。しかし、ブルガリアからは反応がいまだにありません。院でもブルガリアに人員を増派して、反応を探ってはおりますが、共同声明に関しては黙殺するという方針は変わっていないようです」
ここまで報告した大山さんは、
「ところで、共同声明とは別件ですが、気になる情報が入ってきました」
と付け加えた。
「気になる情報?」
大山さんの“気になる情報”なら、後々、大勢を動かす可能性もある重要な情報につながる可能性もある。顔を向けた私に、
「はい、バルセロナの事件についてですが……」
と大山さんは静かな口調で言った。
「スペインの官憲が、襲撃の犯人と、襲撃直前まで一緒にいた5人組の男の存在を掴みました。彼らは事件直後、バルセロナからイタリアのジェノヴァに向かう船に乗り込んだとのこと」
「イタリアのジェノヴァ、か……」
そう呟いて両腕を組んだ兄は、
「その5人組がナムク・ルザーの一味で、捕らえられたナムク・ルザーを見捨てて逃げた、ということなのか?」
と、軽く眉をひそめながら大山さんに尋ねた。
「そこまでは分かりませんが、少なくとも、事件に何らかの関与はしている可能性が高いと思われます」
(その5人組……最終目的地はどこなのかしら?)
大山さんの答えを聞いた私は、軽くため息をつくと考え込んでしまった。ナムク・ルザーがオスマン帝国の命令でアイテル・フリードリヒ殿下を襲ったのだとしたら、彼らの最終目的地はオスマン帝国だろう。けれど、ナムク・ルザーがオスマン帝国以外の国の命令でアイテル・フリードリヒ殿下を襲撃したのなら、5人組の最終目的地は、事件の黒幕となった国になる。
「院でも、彼らの足取りを追っております。情報が入り次第、陛下と梨花さまにもご報告申し上げます」
恭しく頭を下げた大山さんに、「頼んだぞ、大山大将」と、兄は難しい顔をしたまま応じた。
1917(大正2)年3月19日月曜日午後3時、赤坂離宮内にある兄の執務室。
「はー……」
内閣総理大臣の渋沢さんの報告を聞き終わった私は、大きな息をついた。渋沢さんは、バルカン半島にあるギリシャとモンテネグロが、4か国連合の共同声明に賛同の意を示したと兄に報告したのである。
「そうか……これで関係国は、ブルガリア以外はすべて共同声明に賛同したな」
兄は満足げに頷く。ドイツ・イタリア・オーストリアは、3月14日、正式に共同声明に賛成すると表明した。そして、ベルギー・オランダは15日に、フランス・セルビア・ルーマニアも16日に、4か国連合の共同声明に賛同の意を示している。あとはブルガリアさえ共同声明に賛成してくれれば、講和会議が進められるのだ。
「これでブルガリア以外の周辺諸国も全部、共同声明に賛成してくれたけれど、ブルガリアはまだ共同声明を黙殺し続けるのかしら?」
私が口にした疑問に、
「それは困る。こうしている間にも、オスマン帝国の財政破綻が近づいてしまっているのだ。軍隊は臨戦状態に置いておくだけでも、通常より多くの金を消費するのだからな」
兄は首を左右に振ってため息をつく。
「さようでございます。オスマン帝国とブルガリアとの戦争を止めることも、世界大戦の危機を回避するためには必要ですが、オスマン帝国の財政破綻を止めることも、世界大戦を阻止するためには必要。余計な金を、これ以上オスマン帝国に使わせたくありません」
内閣総理大臣の渋沢さんは、兄の言葉に激しく頷いた。
「どうすればいいかしらね。ブルガリアに共同声明に賛同してもらうためには……」
「そうですね。ブルガリアに派遣した明石君の情報によると……」
大山さんが私に答えて言った時、執務室の外から、「大山閣下、よろしいですか?」と、内大臣秘書官の松方金次郎君の声がする。「少し失礼いたします」と一礼した大山さんが廊下に出ていくと、廊下からは何事かを話し合う大山さんと金次郎君の声が聞こえてきた。
「な、なんですか、この言葉は?」
廊下からの声を聞いた渋沢さんが首を傾げた。「英語ではありませんし、ドイツ語でもないように思いますが……フランス語ですか?」
大山さんと金次郎君の会話を聞き取ろうと耳を澄ませてから、
「ああ、……多分、津軽弁ですね」
私は渋沢さんにこう答えた。
「だなぁ。何を話しているかは分からないが」
兄は苦笑すると、
「どうも、薩摩弁と津軽弁は、いまだにわたしもよく理解できないのだ」
と、渋沢さんに向かって言った。
院の職員同士の連絡には、暗号で記された文書、あらかじめ決められた符丁を使った電話や無線でのやり取りなど、様々な方法が用いられている。ただ、仕事をしていると、どうしても、周りに敵がたくさんいる状況で、敵に知られたくないことを、口頭でやり取りしなければならないという場面が発生することがある。
そのような時、中央情報院の職員は、薩摩弁か津軽弁でやり取りをする。薩摩弁は、非常に難しい。ごくたまに、西郷さんや黒田さんなどの薩摩出身者と大山さんが、薩摩弁丸出しで喋るのを聞くことがあるけれど、何を話し合っているのか、さっぱり分からない。そして津軽弁も、独特な言い回しや単語が多いのでとても難解である。そんな薩摩弁や津軽弁を使った院の職員のやり取りを耳にした外国人は、100人中100人が混乱し、何を喋ったのか全く分からないのだそうだ。
そんなことを私が思い出していると、金次郎君と話し終えた大山さんが、執務室に戻ってきた。
「申し訳ありませんでした。セルビアから情報が入りまして」
「セルビアから?」
問い返した私に、大山さんは、
「バルセロナの事件の後、スペインからイタリアのジェノヴァに向かった5人組の男は、その後、オーストリア・セルビアを経由し、国境を越えてブルガリアに入ったということでございます」
と報告した。
「じゃあ、バルセロナの事件はブルガリアが黒幕……?!」
「そう決めつけるのは早計だが、もしそうだとすれば、フェルディナントは本当に悪辣な人間だということになる」
私の叫びに応じた兄は、眉をひそめた。「ドイツが動かないのに業を煮やし、自国の勝利のため、オスマン帝国によるドイツ皇族の襲撃事件をでっち上げ、ドイツ軍を否応なしにオスマン帝国との戦争に巻き込もうとしたか。世界中に戦火が広がる可能性を全く考慮しないとは愚かな奴だ」
「5人組の足取りについては、ブルガリアにいる明石君にも、金子さんが調査を命じたとのことです。しかし、ブルガリアの政情はこれから荒れそうです。明石君でも完璧な調査は難しいかもしれません」
大山さんの言葉に、
「ああ、MI6の件ですか。少しだけ聞きましたが」
と渋沢さんが頷く。
「MI6の件?何だ、それは?」
兄は訝しげに大山さんに尋ねる。イギリスの諜報機関・MI6……今回のバルカン半島での騒乱に関して、出張っていてもおかしくはないけれど、ブルガリアで何かしようとしているのだろうか。
すると、
「実は、MI6がブルガリアに潜入しておりまして、ブルガリア公に対するクーデターを起こそうと画策しているのです」
大山さんは少し楽しそうな声で兄に答えた。「イギリスは、ブルガリアとオスマン帝国の和平が成立しても、近いうちにオスマン帝国の財政が破綻し、アラビア半島の石油利権がドイツの手に落ちると見ています。その場合は、アラビア半島からドイツまで石油を運搬する列車が通過するブルガリアに親イギリス政権を作り、ドイツと敵対させて石油の運搬を妨害しようと考えているのです」
「そんなことをしなくても、バルセロナの事件が、本当にブルガリアの仕組んだものなら、それを世界中に暴露しただけで、ドイツはブルガリアと対立するわよ」
私はそう言って、両肩をすくめた。「とにかく、ブルガリアには、さっさと共同声明に応じてほしいわ。……ああ、でも、ブルガリアが今の体制のままでいるのと、ブルガリアでのクーデターが成功して、親イギリス政権が成立するのと、どちらが早く共同声明に応じてくれるかしら?」
「それは、クーデターが成功する方が早いだろうな」
私の疑問に、兄が即座に答えた。「恐らく、フェルディナントは共同声明に応じないだろう。軍事的な成功が得られていないうちに和平に応じれば、ブルガリアが和平の時に損をする。それをしたくないから、意地を張って共同声明を黙殺しているのではないかな」
「なるほど。それなら、クーデターがさっさと起こって、さっさと成功してくれるのが一番ね」
私が兄に言うと、「私もそう思います」と渋沢さんが頷いた。
「では、明石君に、クーデターに協力させましょう」
大山さんがニヤリと笑った。「イギリスは、ブルガリアの野党をたきつけ、更に軍の非主流派を抱き込んでおります。それで、フェルディナントをブルガリア公から退位させ、フェルディナントの長男のボリスをブルガリア公に就けようと画策しているようです。明石君には、そのクーデターに協力するよう指示します」
兄に向かって頭を深々と下げた大山さんに、
「血を流すのは、必要最小限で……明石さんに伝えておいてね」
私はこうお願いするのを忘れなかった。
※ゲオルギオス1世は、拙作の世界線でバルカン戦争が起こってないので一応生存ということにしました。




