大きすぎる波紋(1)
1917(大正2)年3月3日に東京で開催された清・ロシア・アメリカ・日本の4か国外相会談は無事に終了し、各国代表はそれぞれの国へと帰っていった。けれど、これで外相会談に関係した仕事が終わったわけではない。ブルガリアはもちろんだけれど、オスマン帝国の外債を保有している国々、また、バルカン半島に新たに出兵しようとしている国々が、4か国の共同声明にどう反応するか、それを確かめなければならなかった。
「関係国のうち、イギリスとオスマン帝国には、4か国連合が和平の仲介をすることの了承を得ていますが、他の国にはまだ根回しが十分にはできておりません。共同声明が発表された後の他国の反応を見極めてから態度を決めようと考えている国が多いのです」
3月3日の午後3時。記者会見と私主催の昼食会を終え、浜離宮から各々の宿舎へと戻る各国外相の見送りを済ませた時、前内閣総理大臣の陸奥さんは私に言った。
「……日本の国際的地位は、列強に及びませんからね。それでも、私が転生したと気が付いた時と比べれば、はるかに向上しましたけれど」
私は眉をひそめながら陸奥さんに応じた。
「4か国が集まってメッセージを出しても、“有象無象が何か言っている”と関係国に無視されれば、それでおしまいです。各国が、どんな出方をしてくるか……」
「おや、内府殿下がそのように弱気では、こちらも困るのですがね」
陸奥さんは私を見て薄く笑った。「内府殿下がいらっしゃるからこそ、この策は成立するのですよ。もっと、堂々としていただかなければ」
「あの、陸奥さん。私が言い出しっぺなのは確かですけれど、それ以外に、私がこの会談に立ち会う理由がありますか?」
「やれやれ、内府殿下には、ご教育をしっかりと受けていただく方がよさそうですね。大山殿に……いや、今度若宮殿下にお目に掛かったら、その旨、申し上げておきましょう」
「なんでそこで栽仁殿下が出てくるのですか?」
「もちろん、内府殿下のご夫君であらせられるが故でございますが?」
私と陸奥さんが言い争っていると、
「まぁまぁ、陸奥君。そう目くじらを立てんでもいいじゃろう」
見かねたのか、伊藤さんが陸奥さんと私の間に割って入った。
「しかし伊藤殿、これはきちんと、内府殿下にお分かりいただくべきです。ご自身がお持ちの価値というものを……」
「心配せんでも、近いうちに嫌というほどお分かりになるだろうよ」
食って掛かる陸奥さんを、伊藤さんは落ち着いた様子でなだめた。
「それでもお分かりにならなかったら、若宮殿下に言いつければよい。きっと、溢れんばかりの愛情でもって、内府殿下を分からせてくださるじゃろう」
(近いうちに嫌というほど分かるって、いったいどういうことよ……)
朝からずっと緊張していたので、抱いた思いを音声に変換する体力は、私に残されていなかった。とりあえず、伊藤さんと陸奥さんに愛想笑いを向けると、私は会談の首尾を兄に報告するため、自動車で赤坂離宮に向かったのだった。
会談から1週間後、1917(大正2)年3月10日土曜日午後2時5分、赤坂離宮の大食堂。
「そして共同声明に対する反応ですが、まず3月5日に、新イスラエル共和国から賛同の意が示されました」
月に1度の梨花会の冒頭、内閣総理大臣の渋沢さんが、共同声明に対する各国の反応につき、出席者一同に報告を始めた。
「同時に、オスカー・ソロモン・ストラウス大統領からは天皇陛下に、“貴国の崇高な考えに全面的に賛同する。可能ならば4か国連合に加わりたい”という内容の親電がございました」
渋沢さんの言葉の語尾に、
「だから言ったのです。新イスラエルは連合に誘ったら必ず参加する、と」
枢密院議長の黒田さんの声が重なる。
「しかしなぁ、黒田さん。あの国は永世中立国じゃ。だからこそ、中立であると宣言した国と連合を組んでよいと解釈するのか、それとも自国のみで中立を保たなければならないと解釈するのか、それが分からなかったからのう」
「まぁ、いいじゃねぇか。結局、賛同してくれたんだから。内府殿下のところにも、大統領閣下直筆の、熱烈な思いを綴った手紙が届いたんだろ?」
伊藤さんの弁解に、元内閣総理大臣の井上さんが陽気に続ける。「それもそうです」と黒田さんは納得して引き下がった。
「6日には、ハワイ王国、シャム王国、そしてスペインが共同声明に賛同の意を示しました」
場が静かになったのを捉え、渋沢さんは更に報告を続ける。そこに、
「渋沢どの、ハワイとシャムは、我が国と交流が深いゆえ、賛成に回ったのでしょうが、スペインは自国を守るために賛同したと考えてよろしいのかな?」
渋沢さんの隣に座っていた宮内大臣の山縣さんが確認を入れた。
「恐らくそうでしょう。自国がアイテル・フリードリヒ殿下襲撃の舞台になってしまい、スペインは、オスマン帝国と通じているのではないかとドイツから疑われ始めています。戦争に巻き込まれたくない、というのがスペインの本音でしょう」
渋沢さんの説明に、
「冷静な判断ですね。世界大戦に巻き込まれれば、今のスペインには耐える力は無い」
陸奥さんがニヤリと笑いながら付け加えた。
「それで、ドイツ軍の動きが止まったと院から報告があったのが、7日のことじゃったかのう、渋沢さん?」
淳宮さまたちの輔導主任を務める西郷さんが、のんびりと尋ねると、
「ええ。続報では、ドイツ南部に集結をほぼ終えていた陸軍の一部は、本拠地に戻り始めたとのこと。漁夫の利を得ようとして軍の動員を検討していたオーストリアも、共同声明を受けて動員を取りやめました。イタリアもオスマン帝国への出兵を考えていましたが、軽騎兵軍団と艦隊の司令官が出兵に猛反対したため頓挫しています」
渋沢さんは冷静に西郷さんに返答した。
「例の“古代ゲルマン語”が、絶大な効力を発揮したようです」
私の右隣に座る大山さんがニヤニヤしながら言った。「共同声明の内容を知った皇帝は、“このままオスマン帝国に砲火を浴びせてしまえば、朕の女神の怒りに触れて、日本との国交が断絶してしまう!一時の激情に流されて戦いを始めようとした朕が愚かであった”とさめざめと泣き始め、オスマン帝国への出兵を取りやめるよう命じたとのこと」
「うむ、流石内府殿下であるんである!内府殿下の存在そのものが、世界に平和をもたらすんである!」
文部大臣で立憲改進党党首の大隈さんが叫ぶ横で、
「更に8日には、ポルトガルとスイスが、9日にはスウェーデン、ノルウェー、フィンランドが共同声明に賛同し……」
渋沢さんは淡々と報告を続ける。もうその頃には、受けた衝撃が大きすぎて、私の耳は渋沢さんの声を受け取ることを拒絶していた。まさかこんな形でドイツ軍の動きが止まるとは、全く予想していなかったのだ。
「梨花叔母さま、大丈夫ですか?」
渋沢さんの報告が終わるやいなや、迪宮さまが立ち上がった。そのまま、私の方へ向かおうとした迪宮さまを、「大丈夫よ……」と私は慌てて制止した。
「ですが、梨花叔母さま……まるで、魂が抜け出てしまったようなお顔をなさって……」
なおも心配そうに私を見つめる迪宮さまに、
「ご心配なく、皇太子殿下。梨花さまはただ、現実について行けてないだけでございますよ」
と、大山さんが優しく言った。
「叔母さまが、現実について行けていない……?」
「内府殿下は、世界の様々な要人たちからの敬愛を一身に集めていらっしゃる……という現実に、でございますよ」
首を傾げた迪宮さまに、伊藤さんが厳かな声で言う。
「幼い頃からでございました。8歳の時には、ロシアの廃帝ニコライとギリシャのゲオルギオス王子を虜にし、それから2年後には、当時皇太子だったオーストリアのフランツ2世を魅了なさいました。イタリアで現在軽騎兵軍団の司令官を務めているトリノ伯と艦隊司令官を務めているアブルッツィ公は、内府殿下を敬慕する余り、内府殿下を巡って決闘したことがございます。亡くなられた清の李鴻章どのは、張之洞どのや康有為どの、梁啓超どのと語らって、内府殿下のような美少女が大活躍する芝居の脚本をいくつも書きました。アメリカのウィルソン大統領や、もちろんドイツのヴィルヘルム2世も……」
「伊藤総裁、そのくらいにしてやってくれ」
次々と各国の要人の名を挙げる伊藤さんを、兄が苦笑しながら止めた。
「しかし陛下、わしらがいかに内府殿下に心奪われてきたかを、まだ皇太子殿下に申し上げられておりませんぞ」
「伊藤総裁の気持ちは分かるが、梨花の顔が、ますます魂が抜け出てしまったようになってしまったぞ」
兄が伊藤さんをたしなめると同時に、大山さんが「梨花さま、大丈夫ですか?」と私の肩をゆすった。
「だ……大丈夫なわけ、無いじゃないの……」
言ってやりたいことは、山のようにある。私は我が臣下に向かって反論を始めた。
「なんで、世界の要人が私に惚れるのよ……。いや、惚れるのまではまだ許すけど、決闘したり派兵を止めたり、果ては戦争を起こしたり……女一人に入れ込んで、関係ない他人の命を犠牲にするな!」
「これは異なことを仰せになられますな」
山縣さんが不満そうに立ち上がった。「この山縣、一介の武辺として、内府殿下をお守りしなければならないと心に決めておりますが、それはわしにとって、内府殿下にそれだけの価値があればこそでございます。それなのに内府殿下は、またご自身を不必要に貶め、ご自身を傷つけるおつもりですか?」
「そうだ、狂介、よく言った!内府殿下が途方もない価値をお持ちだから、俺たちは内府殿下に惚れ込んでるし、可愛がりたいと思ってるんです!」
山縣さんの隣に座る元内閣総理大臣の井上さんがこう叫ぶと、「さようさよう!」「内府殿下は、ご自身の価値がまだお分かりになっておられないのか!」などと、井上さんに同調するような声が続く。
「あ、あのですね。私を可愛がるのと、愚かな行動をするのとは別の話です!このロリコンどもめ……ってか、私、もう三十路だけど、……とにかく、みんなまとめて後世の歴史家に怒られろ!」
私が唸るように、魂からの叫びを叩きつけると、大山さんがそっと私の頭をなで、
「いけませんよ、梨花さま。淑女が怒りを露わにしては」
と優しい声で注意を与える。これ以上怒りをぶちまけ続けると、久々に“ご教育”を受けさせられることになるかもしれない。私は渋々口を閉じた。
「内府殿下のお怒りはごもっともですが、世界に内府殿下を慕う者たちが多くいるのも事実でございます」
渋沢さんが私に一礼すると、恭しく言った。
「ならば、それを利用しない手はありません。内府殿下にご負担を強いることになるのは非常に心苦しいのですが、どうか堪えていただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……渋沢さんがそうおっしゃるのならば、仕方ないのですけれど」
私は大きなため息をつくと、更に続けた。
「問題は、関係国が私たちの仲介を受け入れてくれるかですよ。ブルガリアからは全く反応がありません。イギリスとドイツ・イタリア・オーストリアは、この様子なら共同声明に賛同してくれそうですけれど、オスマン帝国にお金を貸しているフランス・ベルギー・オランダが、まだ態度を表明していませんし……」
共同声明では、オスマン帝国とブルガリアの講和会議だけではなく、オスマン帝国の外債を所有している国が集まって、今後の外債の返済計画について話し合う会議を開催するという提案も盛り込まれた。オスマン帝国からの報告によると、財政破綻はギリギリで回避されそうだということだけれど、オスマン帝国が財政破綻してしまえば、オスマン帝国の利権を貪ろうとする各国の間で争いが起き、世界大戦が発生する可能性が跳ね上がるのには変わりない。それを回避するためには、まず、オスマン帝国の外債を持つ各国を、交渉のテーブルにつかせなければならない。
すると、
「フランスは何とかなると思いますよ」
陸奥さんが微笑を私に向ける。そして彼はすぐに、
「さて、皇太子殿下、フランスを4か国の共同声明に賛同させるには、どのようにすればよいでしょうか?」
迪宮さまの方を振り向いて問いかけた。
「……フランスはロシアと同盟を結んでいます。ロシアからフランスに働きかけてもらうのでしょうか?」
迪宮さまは一瞬目を丸くしたけれど、すぐに陸奥さんにこう回答した。
「そうですね。それに、新イスラエルが、我々の共同声明に賛同したのも追い風になるでしょう」
陸奥さんの言葉を聞きながら、
(ああ、金融関係で締め上げるのか……)
と私は思った。ヨーロッパでは、ユダヤ人が多く金融業に進出している。オスマン帝国の外債の件にも、それなりに関わっているだろう。彼らはもちろん、ユダヤ人の国である新イスラエルと縁が深いから、新イスラエルの意向は無視できないはずだ。彼らを使って、オスマン帝国の外債を保有する各国政府に働きかけるのだろう。
「卿らのことであるから、きっと金融の方面からも、各国に圧力を掛けるのだろうが……とにかく、関係各国が、共同声明に賛同すると言ってくれるよう、粘り強く働きかけるしかないな」
「はっ。我々も全力を挙げて取り組む所存です」
兄の言葉に、渋沢さんが最敬礼する。今の時点でも、私にとっては大きすぎるぐらいの波紋ではあるけれど、目標を達成するには、この反応の大きさでもまだ小さいのだ。世界大戦を阻止するため、私は心を無にして耐え抜くことを決心したのだった。




