脚気討論会(4)
大隈さんの家に戻ると、職員さんが、先ほどの洋間に私と大山さんを案内してくれた。
「梨花さま、いいですか」
大山さんが私にお説教をしようと口を開いた矢先、
「お疲れさまでした、増宮殿下、大山閣下」
洋間のドアが開いて、ベルツ先生が顔をのぞかせた。ベルツ先生の後ろには、森先生と、私の知らない、眼鏡を掛けた洋装の男性がいる。
「ベルツ先生、森先生、お疲れさまでした」
(ナイスタイミング!よし、お説教が回避できたぞ!)
私は笑顔でベルツ先生たちを出迎えた。
「えーと、後ろの方はどなたですか?」
私が眼鏡の男性に声を掛けると、
「初めまして、増宮殿下。東京専門学校で講師をしております、坪内雄蔵と申します。森先生に頼まれて、今日の会場を手配いたしましたが、まさか増宮殿下まで御成になるとは存じ上げず……大変ご無礼を致しました」
彼はこう言って、私に頭を下げた。
「“坪内逍遙”と言った方が、有名かもしれません」
森先生がこう付け加えて、微笑する。
「へ……?」
坪内逍遙。流石に私も、名前は知っている。「小説神髄」という評論や、「当世書生気質」という小説を書いたことは、“史実”の知識として覚えているけれど、読んだことはない。
「それならば森先生も、“鴎外”の方が有名ではないですか」
坪内先生がそう言って、ニコリとした。
(え?)
鷗外って……あの、森鴎外?
「う、嘘でしょ……」
私は呆然とした。
「舞姫」などを執筆した、明治・大正時代を代表する文学者の一人。それが、森林太郎軍医中佐と、同一人物だというのか。
(知らなかったわよ、そんなこと……“史実”に名の残る文学者に脚気の実験を手伝わせるって……歴史が変わったもいい所じゃない……)
「増宮さま?如何なさいましたか?!やはり軍医の身で文学を論じるというのが、お気に召しませぬか」
森先生が、心配そうな顔で私を見つめる。
「違います!単にびっくりしただけです。森先生を責めるつもりは毛頭ありません!というか、むしろどんどんやってください、文学の方を!」
私は慌てて首を横に振った。森鴎外の作品を前世では読んだことがないのだけれど、このままだと、日本文学の歴史が変わってしまう。
「はあ……しかし、増宮さまの実験が、面白くて忙しいものですから、東京専門学校と東京美術学校の講師を辞めても、執筆に充てる時間がなかなか作れないような状況でして」
「とはいえ、舌鋒は相変わらずではないですか、森先生。今まで何回となく、誌上でやっつけられましたが、今日の議論の様子では、また私が負けてしまいそうですよ」
坪内先生がそう言って苦笑する。
「今日も司会は私がするはずでしたのに、打ち合わせの時に、大隈閣下に“国家の命運を賭けた討論会ゆえ、専門学校の創設者であるこの吾輩が代わって行う!”と押し切られてしまいましたからね。どうも、私は押しに弱いようです」
(何やってんの、大隈さんーーーー!)
坪内先生の言葉を聞いた私は、頭を抱えた。どうもおかしいと思ったら、そういう裏の事情があったのか。
「あ、あの……大隈さまが、本当に申し訳ありません……」
私は討論会の本来の司会者に頭を下げた。
「いえ、増宮殿下が頭を下げるようなことではございません。それに、大隈閣下なら今頃、奥様にこっぴどく叱られているところでしょうから、私は気にしておりませんよ」
坪内先生が微笑しながら言った。
(まあそれなら、いいか……)
私は無理やり自分を納得させると、話題を変えるために口を開いた。
「ところで、森先生、坪内先生、誌上で論争ってどういうことなんでしょうか?」
「文学上の論争です。些か、論争は得意としておりまして」
森先生が少し胸を張った。
「石橋君や坪内先生とも、今まで何度も、雑誌で論争をしております。それに比べれば、今日の相手など雑魚ですな。しかも、私の後ろには増宮さまがいらっしゃるのです。負けるはずがありません」
(そりゃ、論争が得意なはずだよ……)
私はため息をついた。心配は、どうやら杞憂に終わったようだ。
「しかし、青山には失望しました。優秀な後輩だと思って、目を掛けていたのですが、交わりを断つ方がよさそうです。上司にも失望しましたがね」
「確かに、専門外の私から見ても、石黒軍医中将は、全く論についていけていませんでしたね」
坪内先生も頷く。医学の知識が無い者にも、石黒の稚拙さが分かってしまったのか。となると、この討論会、結果としては大成功だろう。
(コッホ先生の論文だけが、どうも引っかかるのだけれど……)
私がそう思った瞬間、
「ああ。しかも青山の奴、あろうことか、ベルツ先生を愚弄するとは……増宮さま、青山を叱り飛ばしていただいて、本当にありがとうございました」
森先生が私に向かって頭を下げた。
「殿下、本当にありがとうございました」
ベルツ先生もニコニコしながら、私に一礼する。
「あ、まあ……言っておかないと、気が済まなかったので……」
苦笑いしながら、こう答えておいた。余り調子に乗ると、大山さんのお説教が怖い。
「いえいえ、胸がスカッとしましたよ、殿下」
ベルツ先生は私を見つめながら更に言う。……顔が火照っているのだけれど、熱でもあるのかな?
と、
「増宮さま。そろそろ、花御殿に戻られませんと」
(あ……)
大山さんが微笑しながら言った。いや、正確に言うと、口元は笑っているのだけれど、目が笑っていない。これは、たっぷりお説教されそうだ。
「そうですね。……では、皆さま、ごきげんよう」
私は引きつった笑顔で挨拶して、洋間を出た。
洋間を出たところに、私と大山さんを待ち構える人影があった。原さんだ。
「原さん?あなた、何で、脚気討論会にいたの?」
「もちろん、これが重要な討論会だったからですよ」
身構える私に、原さんはこう答えた。
「これで、多くの将兵の命が救われる」
「……どういうこと?」
首を傾げる私に、「そう言えば、あなたの時代では、脚気は殆ど撲滅されていた、ということだったな」と原さんは薄く笑った。
「わたしが生きていた頃は、まだ脚気は撲滅されていなかった。一般の国民でも、1年に1万人以上は、脚気で死んでいたのだ。特に、陸軍で脚気予防食が広まっていなかった明治の御代は悲惨なもので……日清戦争で4千人以上、義和団事件で2千人以上、そして日露戦争で2万人以上の将兵が、脚気で亡くなった」
「?!」
私は目を見開いた。
――脚気を解決しなければ、十分な兵力増強は図れない!
脚気の解決を頼まれた時に、山縣さんが言っていたことを、私は思い出した。
「そんなに……」
「日露戦争だと、数え方によっては、もっと脚気で亡くなっているかもしれない」
原さんが重々しい口調で付け加える。
(そりゃあ、解決しないとまずいわけだよ……)
私はため息をついた。
大騒ぎの結末になったけれど、脚気が栄養欠乏で起きるということは、この討論会によって日本の医学界の共通認識になっただろう。だから、正しい脚気の予防策を講じることはできる。
「石黒は日清戦争の時、脚気の適切な予防策を取った台湾の陸軍軍医局長を、己の保身のために解任している。青山も、鈴木博士の“糠が有効である”という説を、“百姓風情が何を言う”と一蹴したのだ。その二人を、あなたが叱り飛ばしてくれたので、思わず快哉を叫びそうになった。山縣が隣にいたので、我慢したが……礼を言う」
(え?!)
「原さん、待って、まだこれで終わりじゃない」
私は両手を振りながら、慌てて言った。余り私を褒めるようなことを言われてしまうと、その反動で大山さんのお説教がひどくなりそうだし、それに……。
「原さん、ビタミンって何種類あるか知ってます?」
「は……?」
私の言葉に、原さんは首を傾げた。それに構わず、私は口を開いた。
「脚気はビタミンB1の不足で起こるけれど、ビタミンB1の他にも、ビタミンB群の中にはB2、B6、B12とナイアシン、葉酸なんかがあるし、その他にもビタミンA、C、D、E、K……合わせて10種類以上ある。それが全て、摂取が不足すると何らかの症状を起こすの。それをできる限り見つけることが次の一歩。それから……」
私は一度言葉を切った。これから言うことが、私にとっては一番重要だ。
「それらをバランスよく含んで、なおかつ必要な熱量を与えられ、そしてこれが重要だと思うけれど、味もいい……そんな糧食や調理法を開発しなければならない。そして、栄養学的に優れた食料をきちんと前線に運べるように、しっかりとした補給線を構築する作戦を立てなければならない。そこまで出来て、初めて軍隊での脚気が根絶できるのよ。違う?」
「ふ……やはり面白い娘だな、あなたは」
原さんがニヤリと笑った。
「“医科研”で研究させるのか。ビタミンの概念など、出てきたのは大正の御代になってからだ。アセチルサリチル酸のことと言い……恐ろしいな、あなたは」
「何とでも言いなさい。私は、できることをやるだけよ」
私が冷たく言うと、原さんは肩をすくめ、「さて、討論会の慰労の集いに呼ばれていますので、わたしはこれで失礼します」と言い残して、廊下を奥の方へ歩いて行った。
「打ち上げがあるんだ……」
原さんの背中を見ながら、私は呟いた。彼の去った方角から考えると、この邸内で、大隈さん主催でやるのだろう。
「そのようですね」
大山さんが答える。
(よし、その打ち上げに参加して、帰りが遅くなれば、大山さんも流石に、お説教するとは言わないはず……)
私がそう思った瞬間、
「いけません、梨花さま」
大山さんが、私の右手を掴んでいた。
「?!」
「淑女の何たるかを、きちんと学んでいただかなくては」
「あ、あのー、大山さん?私も、その、打ち上げに参加したいな、なんて……」
ダメもとで言ってみたけれど、
「花御殿に戻りましょう」
大山さんにこう返されてしまった。
「え、いや、あの、その……」
「そうそう、先ほどの行動も、少し反省していただかなくてはなりません。あのような場合には、淑女は自ら前に出るのではなく、傍らに控えている護衛にすべてを任せるものです」
「あ、はあ……」
「活躍の場を淑女に奪われては、護衛としての立場がありません」
大山さんがそう言って、軽くため息をつく。
「あの、大山さん?」
嫌な予感がして、私は恐る恐る尋ねた。「もし、私があの時、あなたにすべてを任せていたら、一体どうしていたのかしら……?」
「もちろん、梨花さまの意を呈して、行動しておりましたよ。ふふ……」
大山さんの眼が、一瞬鋭くなった。明らかに、殺気を纏っていると分かる眼光だ。
(何をするつもりだったのよー!)
私は思わず、心の中で激しいツッコミを入れた。口に出しては、とても言えない。
「おや、どうなさいました、梨花さま?交渉や説得と言うものは、時として、相手を完膚なきまでに叩き潰せる強力な武器が、己の手の内にあるということをちらつかせながら行うものですよ」
微笑しながらこう言う大山さんは、とても恐ろしかった。
(これ、私が出て行って、かえってよかったのかもしれない……)
私はこっそり、胸を撫で下ろした。大山さんが本気で怒ってしまったら、一体どうなるのだろう。……ちょっと想像がつかないし、想像しない方が幸せかもしれない。
「梨花さま?」
大山さんが、ジロリと私を見やる。
「あ、いえ、何でもありません。私の護衛は、とても優秀だなと思っただけです、はい」
私は背筋を伸ばして、緊張した声で答えた。
大山さんは、そうですか、と頷いて、
「しかし、あの啖呵は素晴らしかったですな。“アスクレピオスや大国主命が許しても、この章子が許さぬ”」
と笑顔で言った。
「?!」
私は目を丸くした。
一気に頭に血が上る。
アスクレピオスはギリシャの医療の神で、彼の象徴である“アスクレピオスの杖”は、前世では世界中で医療のシンボルとして使われている。大国主命も、日本では医療の神として有名だけれど……。
「わ、私、そんなこと、言ってたの……?」
あの時は逆上していたので、そんな中二病っぽいセリフを吐いてしまったことなど、全く記憶にない。
「ええ。若宮殿下や、信吾どんに確認してみましょうか?」
大山さんに名を挙げられた2人の顔を思い浮かべて、私は激しい絶望感に襲われた。
あの2人にそんなことを聞いたら……絶対、今回私が言い放ってしまったセリフをネタに、からかってくるに違いない。
そんな拷問には、とても耐えられない。余りの恥ずかしさで、簡単に死ねそうだ。
(なんでそんなセリフを吐いたのよ……私のバカバカバカ!)
その場にいたたまれなくなった私は、猛ダッシュで逃げようとしたけれど、
「逃がしませぬよ、お転婆で恥ずかしがり屋のお嬢様」
大山さんが掴んだ私の右手を、振りほどくことができなくて、私は体勢を崩した。前のめりに倒れそうになったところを、大山さんが後ろから素早く抱きかかえた。
「穴を掘って埋まりたい……」
「ダメですよ。そのようなことはさせませぬ。しかしまあ……お説教の必要はなさそうですね」
大山さんが微笑した気配がする。
「さて、花御殿に戻りましょう、梨花さま。俺がエスコート致しますゆえ、先ほどのように、急に飛び出さないようにお願いしますよ?」
「はい……」
私は大山さんと手をつなぎ直して、大隈邸の玄関に向かって歩き始めた。
この上もない恥ずかしさに、我が身を苛まれながら。
※どうもドイツ留学から帰った直後の森先生は、論争を盛んにしていたようです。文学上では、石橋忍月さんや、坪内先生がその主な相手。
※史実では、実際には森・青山は交流があり、死病の床にあった樋口一葉の往診を森先生が青山氏に頼んでいたそうです。また、石黒氏と大山さん・児玉さんあたりも交流があり、石黒氏と大山さんに至っては連れ立って旅行に行ったこともあるようですが……おそらくこのあたりの関係は、拙作では完全に壊れそうです。




