浜離宮外相会談
1917(大正2)年3月3日土曜日午前9時45分、京橋区にある浜離宮。
「はぁ……まさか、本当に4か国外相会談が実現するなんて……」
浜離宮の中にある貴賓室。上座の椅子に座った私は、お茶を一口飲むとため息をついた。窓の向こうには美しく整備された庭園が見え、その上には雲一つない青空が広がっている。
「おや、4か国中立連合の提唱者であらせられるお方が、そのようなことをおっしゃるとは」
私の隣に座っていた大山さんが、私の呟きをすかさず捉えて微笑する。
「いけませんよ。今日の梨花さまは天皇陛下のご名代であらせられるのですから、もっと堂々としていなければ。このご様子を見せてしまえば、各国の外相たちも戸惑ってしまうかもしれません」
優しい声で私に言い聞かせる大山さんの横から、
「そうですよ、内府殿下」
前内閣総理大臣である陸奥さんが、真面目な表情で私に話しかけた。
「今回の策の要は、内府殿下なのです。美しく、優雅に、堂々と、世界平和を希求するプリンセスらしく振舞っていただかなければ……」
「陸奥君の言う通りですぞ」
東宮御学問所総裁の伊藤さんが、ずいっと一歩前に出る。「世界にも類が無い、才色兼備のプリンセス。なればこそ、清もロシアもアメリカも、こぞって内府殿下のご提案に賛同し、各国の外相たちも、この東京に馳せ参じて……」
(いや、それはあなたたちが、あの手この手で各国の政府を締め上げたからじゃないかな?)
伊藤さんに心の中でツッコミを入れたその時、
「内府殿下」
枢密院議長の黒田さんが私を呼ぶ。見ると、ちょうど入り口の扉が開けられたところで、
「内府殿下、皆様方をお連れしましたので、謁見の間へ御成りをお願いします」
貴賓室に入ってきた宮内大臣の山縣さんが、私に恭しく一礼した。
「さぁ、祭の始まりだ。派手に行きましょう、内府殿下」
口笛でも吹きそうな調子で言った井上さんを、「諒闇中なのですけれどね」とたしなめてから、私は椅子から立ち上がり、山縣さんの先導で謁見の間へと向かった。
謁見の間には、清・ロシア・アメリカ・日本の4か国の外相とその随員たちが顔を揃えている。私が謁見の間に入ると、彼らは私に一斉に最敬礼を送った。
一番右側に立っているのは、清の外務大臣・梁啓超さんだ。大山さんの読み通り、清には世界大戦に参戦する余裕は全く無かった。8年前の1909(明治42)年に発生したハルビン事件の余波により清が併合した朝鮮では、清の支配に対する蜂起が毎年のように発生している。清の軍隊はその鎮圧に全力を注がなければならないので、他の地域に出兵するなど不可能なのだ。
その一方、列強各国に治外法権を廃止させた清は、関税自主権を奪還するために、国際的地位も上げていかなければならない。このため、“4か国で連合を組んで、バルカン半島の騒乱を仲裁することができれば、清の国際的地位も上がる”という伊藤さんの言葉を清の政府は素直に受け入れ、梁啓超外務大臣を日本に派遣したのだった。
一方、ロシアでは、清のように簡単に話が進まなかった。皇帝・ミハイル2世は、日本からの提案に即座に賛成したのだけれど、軍の将官の一部が反発した。ロシアは過去、オスマン帝国と何度も戦争をしている。ドイツがオスマン帝国に出兵し、更に他の国々も出兵しようとしているこの隙に乗じて、黒海から地中海への出口であるポスポラス海峡とダーダネルス海峡の周辺地域を確保するべきだ……彼らはこう主張した。
そんな血気に逸る将官たちを、マカロフ海軍大将が一喝した。“ロシアがオスマン帝国を攻めれば、取り分を横取りされたくないドイツがロシアに戦争を仕掛ける。イギリスも今までの誼を捨て、取り分を確保するためにロシアを攻撃するだろう。2国はもちろん、今のロシアには、1国相手ですら勝つ力はない”……海軍だけではなく、陸軍の将兵からも尊敬を受けているマカロフさんの言葉に、オスマン帝国への出兵を主張していた軍人たちも矛を収めた。そして、ミハイル2世はローゼン外務大臣を、シベリア鉄道経由で日本に派遣したのである。
また、アメリカでは、2期目の任期に入ったばかりのウッドロウ・ウィルソン大統領が、日本からの提案に諸手を挙げて賛成した。
――国務長官の代わりに私自らが日本を訪問し、章子殿下の大いなる愛を全世界に知らしめる!
更にウィルソン大統領はこう叫んで、自らの日本訪問を強く訴えたけれど、そちらはマーシャル副大統領に拳で止められたらしい。はるばる東京までやってきたランシング国務長官は、昨日、皇居で開催された歓迎の昼食会で私と顔を合わせた時、
――我が大統領閣下を抑えるのに、大変苦労しました……。
しみじみと私に向かって述懐したのだった。
そして、謁見の間の端近くには、総理大臣の渋沢さんと、外務大臣の加藤高明さんが、緊張した表情で突っ立っている。私の時代ほど交通手段が発展していないこの時代、他国の大臣同士で会談が行われることは稀だ。それを4か国で、しかも今までそのような会談をほとんど開催したことがない日本でやろうというのだ。渋沢さんと加藤さんに掛かっているプレッシャーは相当なものになっているだろう。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
謁見の間、玉座の前に立った私はこう言うと、なるべく優雅になるように心がけて、各国の代表たちに一礼した。今日の私の役目は、外相会談に出席する人たちのおもてなしを、兄の名代として行うことだ。だから本来、表に出るべきではないのだけれど、梨花会の面々は、各国代表に挨拶するよう、私に強く求めた。それで仕方なく、私はこうして謁見の間に出てくる羽目になった。
「皆様に日本においでいただいている間にも、バルカン半島での戦雲は、日に日に濃くなっております。本格的な春が来れば、オスマン帝国とブルガリアの国境地帯では、大規模な陸戦が発生するでしょう」
今のところ、ドイツはオスマン帝国に宣戦布告をしていない。しかし、ドイツ陸軍の多くの部隊は、ドイツ南部に移動を終えている。宣戦布告がなされれば、彼らは鉄道でブルガリアに入り、ブルガリア軍とともにオスマン帝国領に攻め入るのだろう。また、ドイツ軍の動きをMI6による諜報活動で察知したイギリスも、インドやペルシャに展開している軍の一部を、エジプトに移動させつつある。ドイツがオスマン帝国に宣戦布告すれば、イギリス軍はエジプトから船でバルカン半島に上陸し、ドイツ・ブルガリア連合軍と戦うのだろう。
「しかし、そうなってしまえば、別の戦争が連鎖的に次々と発生し、ヨーロッパに彼らを仲裁できる国は無くなります。戦いはヨーロッパのみならず全世界に広がり、世界は荒廃するでしょう。そうなる前に、我々は全力で戦争を止めなければなりません」
喋りながら、私は各国代表の様子をそっと観察した。渋沢さんは私の言葉に力強く頷いているけれど、加藤さんの顔は強張っている。ローゼンさんとランシングさんは揃って無表情だった。梁啓超さんは、なぜかうっとりした目で私を見つめている。そういえば、昨日の昼食会で、揮毫を求められたので書いてあげたら、とても喜ばれたのだけれど……まさかとは思うけれど、どこかのセクハラ大統領と同類項なのだろうか。
「世界平和のため、破滅的状況を回避するため、皆様が議論を尽くし、強い言葉を全世界に向けて発信してくださることを期待しております」
謁見の間には、宮内省写真班のカメラマンが入り、私や外相たちにカメラのレンズを向けている。また、活動写真の撮影カメラも回っていた。お父様の子供たちの誰かの御殿になるだろう……そう考えられて、20世紀になる頃に建て替えられた浜離宮に、このような形でカメラが入るのは初めてのことだ。写真や映像は、今回の外相会談の成果を大々的に宣伝する際に使うらしい。お願いだから、皇帝が作らせた私の活動写真のような仕上がりにはしないで欲しい。
(せっかく外相が集まったから、この会談、成功してほしいけれど、一体どうなるかしらねぇ……)
会談の結末が心配だけれど、それを口にするわけにはいかない。私は再び頭を下げると、伊藤さん・黒田さん・山縣さん・井上さん・陸奥さん・大山さんという、梨花会の中で最も危険な人たちを従え、謁見の間を後にしたのだった。
1917(大正2)年3月3日土曜日午前10時10分、浜離宮・貴賓室。
「梨花さま、いかがなさいましたか?」
椅子に座ったまま、黙って顔をしかめた私に、大山さんが話しかけた。
「先ほど、外相たちを御引見なさった時も、心ここにあらず、と言った風情でございました。表面は、見事に取り繕っておられましたが」
「……大山さんには、本当に隠し事ができないわね」
私は苦笑いすると、大山さんに向き直り、
「そうよ。この会談がうまく行くかどうか不安なの。こんな立場でなかったら、メイドに化けて会議室の隅に立って、会談の様子を探りたいくらいよ」
と、思っていることを素直に答えた。今日の私は兄の名代という役目を与えられているので、会談に参加することはできない。この貴賓室で、会談が終わるまで、デンと構えていなければならないのだ。貴賓室と会談が行われている部屋は少し離れているので、会談の様子を窺い知ることはできなかった。
(ああ、私の時代だったら、隠しカメラと隠しマイクを仕掛けておけば、会談の様子がすぐに分かるのになぁ……)
心の中で無いものねだりをしたその時、
「ならば、僕が様子を見て参りましょうか」
陸奥さんがにっこり微笑みながら立ち上がった。
「……余り、会談を引っかき回さないで下さいよ」
「僕を誰だと思っていらっしゃるのですか?」
嫌な予感がしたので、一応釘を刺したけれど、陸奥さんに響いた様子は全くない。陸奥さんは楽しそうな足取りで、貴賓室から出て行ってしまった。
「内府殿下、いかがなさいましたか?お顔色が悪いような……」
黒田さんが心配そうに私に尋ねた。「大切な御身です。ご体調が芳しくないのでしたら、昼食会が始まるまで、横になってお休みになられては……」
「あー、黒田さん、大丈夫です。陸奥さんが、じゃない、会談の出席者たちが、陸奥さんにひどい目に遭わされないか、心配になってしまって」
私が黒田さんにため息交じりに答えると、
「おやおや、内府殿下は、陸奥君を相当恐れておいでのようで」
伊藤さんがクスリと笑った。「“内府殿下に怖いものなし”……世間ではそう噂されておりますが」
「伊藤さん、私、怖いものはたくさんありますよ。あなたたちとか、万智子とか……」
「おや、女王殿下のお名前が出てくるとは。ケンカでもなさったのですか?」
「ケンカはしていませんけれど、万智子がこの頃、ますますしっかりしてきてですね。私の起床時刻になると、必ず私を起こしに来るようになったのです。“母上、起きてください。お目覚めにならないと、伯父上の御用に遅刻してしまいますよ”って……」
「へー、流石、女王殿下ですね。まだ6歳なのに、本当にしっかりしていらっしゃる。有栖川宮殿下が可愛がられるのも無理はないですねぇ。謙仁王殿下と禎仁王殿下もお元気ですか?」
伊藤さんと話している横から、井上さんが文字通り首を突っ込んで、私に質問する。更に、「そういえば、最近、盛岡町にはお邪魔できていませんな」「俺たちがお目にかかれなかった間に、若宮殿下と内府殿下のお子様方も大きくなられたのでしょうな」と言いながら、山縣さんと黒田さんも話に加わってくる。私はしばし、最近の子供たちの様子について、伊藤さんたちに話すことになった。
(あれ?陸奥さんは戻ってきたかしら?)
そう気が付いたのは、伊藤さんたちの万智子たちに関する大量の質問を何とか捌いて、お茶を一口飲んだ時だ。腕時計を覗くと、既に時刻は11時近くになっていた。
「陸奥さん、戻りが遅くないですか?」
「そう言えば……様子を見て参りましょうか」
私に答えながら、椅子から立ち上がりかけた黒田さんに、
「大丈夫じゃ、黒田さん。そのうち戻ってくる」
伊藤さんは明るい声で請け負う。
「あの、伊藤さん。陸奥さんがこの部屋を出て行ってから30分は経っていますよ?もしかしたら、どこかで倒れているんじゃ……」
不安を感じた私が伊藤さんに反論した瞬間、貴賓室の扉が開き、
「只今戻りました」
部屋の中に一歩足を踏み入れた陸奥さんが、私に向かって一礼した。
「ああ、陸奥どの。いかがでしたか、会談の様子は?」
山縣さんの問いに、
「いや、参りましたよ」
陸奥さんはこう応じると、両肩をすくめてみせた。
「少し様子を見るだけと思っておりましたのに、部屋に入った途端、ローゼン殿が、“陸奥男爵、今回の会談は貴殿が仕組んだものか?”と無礼なことを聞いてきたのです。“もちろん、我が天皇陛下と内府殿下の思し召しによって開催されたものである”と、率直に事情を伝えましたが、その横からランシング殿が、“日本がこの連合に参加すること、どのようにしてイギリスに納得させたのだ”と問うて来ましたので、イギリスの了解を得た経緯の一部を説明して、更に、今後の見通しと、この4か国連合による仲裁の策を披露して……」
(それ、渋沢さんと加藤さんの立場が無くなっちゃうじゃない……)
気だるそうに、けれど少し得意げに語る陸奥さんに、私は心の中でツッコミを入れた。確かに、有能な日本の外交官として、陸奥さんは世界的な名声を得ている。日本を含む4か国連合に、ドイツとの和平を斡旋してもらうことに、当初、イギリスは難色を示したそうだけれど、陸奥さんが自分の持つコネクションを使って、イギリスの高官たちに働きかけたこともあり、何とか了承したらしい。ただ、そういった事情を必要以上に明かしてしまうと、渋沢さんと加藤さんの顔を潰してしまう。それは大丈夫なのだろうかと私が心配していると、
「内府殿下、内府殿下が考えていらっしゃるようなヘマを、僕がやらかすはずがないでしょう」
私に視線を投げた陸奥さんは、呆れたように言った。
「世界では多少名が知られておりますが、僕は今やただの貴族院議員、現役の大臣たちの地位を脅かすつもりはありませんよ」
「……陸奥さんはそう思っていなくても、加藤さんと渋沢さんがどう思っているか分からないでしょう。それに、加藤さんは陸奥さんの元部下ですから、重圧は感じると思いますよ」
私は陸奥さんに指摘してみたけれど、
「おや、一国の大臣たるもの、この程度の重圧とやらでへこたれてもらっては困りますね」
陸奥さんは気にする様子もなく、平然と言ってみせた。
「渋沢殿は、万が一世界大戦が起こってしまった時に発生する世界経済への影響を分かりやすく話していましたし、加藤君も、和平の斡旋が、4か国の国際的地位の向上につながることを理路整然と説明していました。内府殿下がご心配なさっているようなことは、一切起こっておりませんから、どうぞご安心ください」
陸奥さんはそう言うと、私をじっと見つめる。彼の両眼の奥には、鬼火がちらついていた。私が「あ、はい……」と力無く頷くと、
「なるほど、世間の評判というものは、あてになりませんなぁ」
伊藤さんが私を見てニヤリと笑った。
程なくして、宮内省の職員が、私たちを呼びに来た。会談は無事に終了したようだ。浜離宮の建物の前に広がる芝生の広場に設けられた会見場へと、私たちは移動を始めた。
「大山さん、なんでこの会見、外でやることになったの?」
今日は晴れているけれど、3月上旬の東京は、日中でもまだ寒い。寒さに耐えて会見場へと歩きながら、大山さんにそっと尋ねると、
「写真や活動写真の構図として最適ですから」
大山さんはこう答えた。
「天皇陛下のご名代であらせられる梨花さまの見守る中、世界へ向けて平和への呼びかけがなされるのです。最大の宣伝効果が得られるようにしなければなりません」
「はぁ……」
曖昧に頷いた時には、もう私たちは会見場に着いてしまった。大きな白い台の上に私が上がると、スタンバイしていたカメラのレンズが一斉に私に向けられる。日本の新聞記者、そして海外の新聞の日本特派員たちが、この会見場に招待されているのだ。数十はあると思われるカメラのレンズに向かって、私はにこやかに微笑み続けた。
「アメリカ合衆国、大清帝国、ロシア帝国、そして大日本帝国の4か国は、オスマン帝国とブルガリア公国で発生している戦争の即時停戦を強く求めます」
やがて、4か国の外相を左右に従えた渋沢さんが、共同声明文を大声で読み上げ始めた。カメラのシャッターを切る音が切れ間無く響く中、いくつもの活動写真のカメラが回っている。共同声明文には、オスマン帝国とブルガリアとの戦争の即時停戦、そして、他国がこの戦争に新たに参戦しないことを強く求めることが記載され、4か国は中立な立場から、この戦争の和平を仲介するということも明記されていた。
(だけど……なんで、“戦争に新たに参戦しないよう強く求める”って部分のドイツ語訳が“ヤメレ”になるのよ……)
共同声明文の読み上げを聞きながら、私は心の中でツッコんだ。
共同声明文は、会談が開催される何日も前から、4か国の間で文言が調整された。だから、各国語の訳文も作られていて、今日発行される官報の号外にも掲載されることになっていた。ところが、共同声明文のドイツ語訳には、“戦争に新たに参戦しないよう強く求める”という文句の横に、なぜか“Yamere”というローマ字が付け加えられていたのだ。
――皇帝に、“ヤメレ”とは、“絶対に、兵を出すような野蛮なことはしないでくれ、さもなくば絶交する”という意味だと梨花さまがおっしゃっておられたので、ドイツ語訳に付け加えさせました。外務省には、“ヤメレ”とは、古代ゲルマン語で“戦争は絶対にしないでくれ”という意味だと説明してあります。
先日問い質した時、大山さんはこう嘯いていたけれど……。
(それ、通じるとしても皇帝だけじゃないかなぁ……しかも、本来の意味とは絶対に違うし……)
共同声明文を巡っての我が臣下とのやり取りを思い出していると、
「内府殿下、記念撮影となりますので、こちらへ」
山縣さんが私に声を掛けた。いつの間にか、声明文の読み上げは終わったらしい。会見場の隣に設けられた撮影会場には椅子が何脚か並べられている。どこに座ればいいか、とっさに判断ができないでいると、
「内府殿下はあちらへ」
山縣さんが中央の、立派な装飾が施された椅子を指し示した。
「あの、山縣さん、私が真ん中でいいのですか?」
恐る恐る質問した私の声は、「当たり前でございます」という山縣さんの力強い返答にかき消された。
「恐れ多くも内府殿下は、天皇陛下のご名代であらせられます。そんなお方が、他の出席者より目立たなくてどうしますか」
「だ、だけどね、今回の会談の日本代表は、渋沢さんと加藤さんですよ。ここで、2人を世界に売り込まないと……」
私は山縣さんに反論してみたけれど、
「なりません。内府殿下は中央の椅子にお座りください」
「さよう。ここは内府殿下のお席でございます。そうでなければ、我々の策は成り立ちませぬ!」
山縣さんだけではなく、総理大臣の渋沢さんまで、必死の形相で私に強く言う。私はやむなく、言われるままに、中央の立派な椅子に腰を下ろした。
「おおっ、いつ拝見しても美しい」
「内府殿下は素晴らしいな。この溢れ出る気品と美しさ……まさに、我が国の誇る、世界一のプリンセスだ」
こんな声とともに、カメラのシャッター音が盛んに聞こえる。集まった新聞記者たちが、私を中心として横に並んだ4か国の代表団を撮影しているのだ。「Beautiful!」と叫んでいるのは、アメリカかイギリスの新聞の特派員だろうか。うんざりしてしまったけれど、
「よいですか、内府殿下。優雅な笑顔を崩してはなりませんよ」
椅子の後ろに立つ大山さんが、ドスの利いた声でこう囁いてくる。私は必死に、したくもない微笑を顔に貼り付け続けた。
そして、後に“浜離宮外相会談”と呼ばれるようになったこの会談が、世界に様々な影響を及ぼしていくことを、この時の私はまだ、全く認識していなかったのである。




