言い出しっぺ
1917(大正2)年2月3日土曜日午後2時15分、赤坂離宮の大食堂。
「アイテル・フリードリヒ殿下が乗った馬車がサグラダ・ファミリアの前に差し掛かった時、銃声が響きました。銃弾は馬車の窓ガラスを破り、ガラスの破片が殿下のお付き武官の腕を傷つけましたが、殿下はご無事でした」
先月末にスペインのバルセロナで発生した、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世の第2皇子であるアイテル・フリードリヒ殿下襲撃事件を受け、大食堂では、臨時の梨花会が開催されている。その冒頭、内大臣秘書官長の大山さんが、出席者たちに事件の経過を説明していた。
「沿道を警備していたスペインの警察官が、犯人をすぐさま取り押さえたのもあり、発射された銃弾は1発にとどまりました。犯人はナムク・ルザーと名乗り、スペイン警察の取り調べに対し、自分はオスマン帝国政府の命令でアイテル・フリードリヒ殿下を暗殺しようとしたと供述しました。これがドイツで報じられると、ドイツ国民は一斉にオスマン帝国を非難し始めました。ドイツ国内では、トルコ人が居住する建物に投石する者も現れています」
「ドイツは今まで、軍事顧問団を派遣するなど、オスマン帝国を何かと支援してきましたからな。恩を仇で返されたような気持ちなのかもしれません。国民ですらこの調子なら、政府や参謀本部は、更に激しい怒りを抱いているでしょう」
内務大臣の桂さんがそう言って、大きなため息をつく。彼はドイツに留学したことがあり、ドイツの事情にある程度通じていた。
「桂さんの言う通り……ドイツはオスマン帝国から軍事顧問団を引き揚げさせるようです」
大山さんが僅かに顔をしかめながら言った。「政府と参謀本部の動きも、オスマン帝国との戦争に向けて、慌ただしくなっています。特に、皇帝の怒りはすさまじいようです」
(そりゃあ、自分の子供が狙われたのだから、当然よねぇ)
私は大山さんの話を聞きながら頷いていた。アイテル・フリードリヒ殿下には、昨年、ドイツを訪れた際に1度会った。その時は、彼の父親である皇帝も一緒だったけれど、皇帝とアイテル・フリードリヒ殿下との仲は悪くないように思われた。激しい争いの末に親子の縁が切れた、というような事情が無い限り、自分の子供が殺されかけたと知った親は、犯人に激しい怒りを抱くだろう。
「オスマン帝国は一貫して、犯人と政府は無関係であると主張していますが、世界各国はその主張を信じていません」
大山さんがこう言って報告を締めると、
「軍事顧問団が引き上げた……それは、ドイツがオスマン帝国に攻め込む可能性が極めて高くなったということではないですか……」
内閣総理大臣の渋沢さんが暗い声で言った。枢密顧問官の松方さん、大蔵大臣の高橋さん、農商務大臣の牧野さん、そして大蔵省主計局長の浜口さんも、深刻な顔をして首を縦に振る。恐らく、戦争の規模が“史実”の世界大戦レベルにまで拡大し、物流が滞ったり物価が上がったりすることを懸念しているのだろう。
と、
「総理大臣閣下には、誠に残念な知らせになってしまうのですが……」
末席の方で、外務省取調局長の幣原さんが右手を挙げた。
「先ほど、駐英大使から至急電が参りまして……。イギリスの外務大臣が駐英大使を呼び出し、“今回のドイツとの戦いは、ヨーロッパとオスマン帝国内が戦場になる。従って、日英同盟の適用範囲には該当しないので、日本が参戦する必要は無い”……このように伝えてきたという内容でした」
「“戦い”ですか……」
前内閣総理大臣の陸奥さんが、軽く眉をひそめた。「オスマン帝国の石油利権を奪おうとするドイツを妨害する……そのような消極的理由でしょうが、イギリスは、ドイツと戦争しなければならないと覚悟を決めたようですねぇ」
「しかし、今は参戦しなくてよいという話でも、戦争の規模が大きくなり、更に長期化すれば、イギリスが日本に協力を要請する可能性は出てきます。ヨーロッパに軍艦を派遣して、船を護衛してほしい、とか、歩兵や戦車部隊をドイツ領ニューギニアやオスマン帝国に派遣してほしい、とか……」
斎藤参謀本部長がこう発言すると、出席している面々がざわついた。隣の席、あるいは向かいの席の人間と意見交換をする参加者も見受けられる。そんな騒がしい光景を玉座から見つめている兄が、わずかに首を傾げた。
「兄上、どうしたの?」
私が声を掛けると、大食堂が急に静かになった。
「ああ、こうやって、改めて事件の経緯を聞くと、どうも腑に落ちないところがあって……」
兄は眉間に皺を寄せながら、
「なぜ、オスマン帝国は、アイテル・フリードリヒ殿下を暗殺しようと考えたのだ?」
と私に尋ねた。
「それは、オスマン帝国政府が、ドイツとブルガリア公国とがグルになって、オスマン帝国の財政を破綻させようとしていることを知ったからじゃないの?」
私が答えると、
「それなら、オスマン帝国が最初に考えることは、外債の償還を待ってもらうように、オスマン債務管理局やオスマン帝国の外債を購入している国に働きかけることではないのか?」
兄は私にこう反論した。
「それがいきなり、ドイツの皇族を暗殺しようとするのは、思考が飛躍し過ぎていると俺は思うのだ」
「……ブルガリアと戦争している最中だから、冷静な判断ができなくなっていた可能性は?」
「無くはないが、クラトヴォの会戦で勝利し、その勝利に乗じてブルガリア領内まで攻め入ってもよさそうなところ、オスマン帝国政府は防衛線を堅持するよう軍に命じているのだぞ。そんな冷静な判断をしているオスマン帝国政府が、ドイツの皇族を暗殺するという軽率なことを考えるとは、俺にはどうしても思えないのだ」
「じゃあ兄上、この事件、オスマン帝国の仕業じゃないということなの?」
「そこまでは分からない」
兄は難しい顔をして、両腕を胸の前で組む。「俺はシャーロック・ホームズの小説を、お前から何冊も借りて読んだが、だからと言って、ホームズのような名推理をひねり出せる訳ではない。ただ、この事件に裏はあるのか、あるとすればそれは何なのか、きちんとつかんでおくべきだと思うのだ」
「……」
私が黙り込んでしまった時、
「陛下のおっしゃる通りです」
私の隣で大山さんが言った。
「大山さん?」
「入ってきている情報だけからの判断になってしまいますが、諜報機関に属している人間の眼から見ますと、今回の事件で捕まった男の技量は素人同然です。取り調べで自分の所属をあっさりと自白していますし、しかも、多少なりともピストルを扱っていれば、もう1発は弾丸を発射できたはずですが、それもできていない」
「ですな。院の人間ならば、黙秘するか、偽の所属を自白するかします。MI6の人間でも、同じことをするでしょう」
そう発言したのは、国軍航空局長の児玉さんである。極東戦争の時、児玉さんは大山さんと一緒に、対ロシアの謀略に手を染めていた。だから、諜報分野に関しては素人ではない。
「ということは、捕まった男は単なる囮で、アイテル・フリードリヒ殿下を暗殺しようとした犯人は別にいる……?」
「その可能性もありますし、単に騒ぎを起こすために仕組まれたという可能性もあります」
私の呟きを拾った大山さんが、真剣な目を私に向けた。「しかし、確たる証拠はありません。スペインにいる院の者に調査させてはいますが」
大山さんの言葉に、出席者一同が再びざわつく。そんな中に、
「しかし大山大将、何のために騒ぎを起こすのだ?」
兄の問う声が響いた。
「アイテル・フリードリヒ殿下を、オスマン帝国の者が暗殺しようとしたという騒ぎを起こすのは、一体、何のために……いや、待てよ……」
そう言ったきり、兄の口の動きが止まった。瞳は、虚空の一点を見つめたまま動かない。頭の中に一気に湧き上がってきた考えをまとめるのに必死なのだ。兄の様子が心配になったのか、こちらを覗き込むようにしながら立ち上がった浜口さんを、私は右手で制した。
やがて、
「……梨花、こういう場合には、引き起こされた事件の結果、一番得をする者が黒幕という可能性が高いのだろう?」
兄は再び、私に質問を投げた。
「一般的にはそうだと思うよ。その黒幕が、自分の指した一手で、どこまで事態が動くと想定していたかにもよるけれど」
私がこう答えると、
「……今回の事件の結果、ドイツの世論は一気に沸騰し、オスマン帝国との戦争へと向かっているな」
兄は状況の確認をしつつ、自分の考えを述べ始めた。
「そうなれば、オスマン帝国の財政破綻は遠からず……というより、この春には起こるだろう。オスマン帝国は崩壊し、領土や地下資源、ありとあらゆる利権が債務国に貪られる。それが、この事件を引き起こした者の狙いなのではないか?」
「つまり……この事件を仕組んだ国が、オスマン帝国とは別にあるとして、その国の狙いは、オスマン帝国の利権を奪うこと?」
私の問いに、「短く言えばそうなる」と言って兄は頷いた。
「だとすると、今回の事件の黒幕になりうる国は……」
考えようとした私は、頭を左右に振った。
「ダメだ。怪しい国が多すぎる。ドイツ以外にも、オスマン帝国にお金を貸している国があるもの。イギリス、フランス、ベルギー、ええとそれから……」
「オランダとイタリアとオーストリアです」
私の言葉に、大蔵大臣の高橋さんが付け加えた。「もしドイツがこのまま、オスマン帝国に宣戦布告すれば、他の債務国が、近い将来発生するオスマン帝国の破綻に備え、自国の取り分を確保するために出兵する可能性もあります」
「そうなるとマズいな。オスマン帝国の債務国だけじゃなく、今はまだ事態を静観しているバルカン半島諸国も、オスマン帝国に攻め込む可能性が出てくる。セルビア、モンテネグロ、それからギリシャ……」
元内閣総理大臣の井上さんがそう言って歯を食いしばると、
「最悪ですな。利益の取り分を巡って、ヨーロッパ各国がオスマン帝国の領内で……いや、それどころか、本国の領土でも干戈を交える……同盟や協商を結んでいる国同士であっても、利益に目が眩み、今までの関係を解消して戦争をするような事態になるやもしれません」
井上さんの隣に座っている宮内大臣の山縣さんが眉をひそめた。
「どこか、仲裁ができるような国はありませんかな?」
「さて、それは難しいかもしれませんぞ、黒田さん」
枢密院議長の黒田さんの問いに、東宮御学問所総裁の伊藤さんが力無く首を横に振る。
「伊藤殿のおっしゃる通りですね」
黒田さんの右隣に座っている陸奥さんがそう言って顎を撫でた。「今回の件に関して、中立に回る列強はアメリカとロシアでしょう。しかし、アメリカは国際社会において、発言力がそれほど強くはありません。仲裁に乗り出しても、イギリスやフランスに無視されるでしょう。ロシアも、オスマン帝国と何度も戦ったことがある国です。しかも、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の仮想敵国でもあります。オスマン帝国とドイツ、双方が不信感を抱いてしまい、交渉が進まない恐れがあります」
「それでは、戦が延々と続くことになりますぞ」
児玉さんが天を仰いだ。
「戦争は止め時が肝心です。一、二合打ち合って、ある程度の勝負がついたところで、第三国が仲裁に入ることで、双方何とか手打ちができるというものです。しかしこの状況では、打ち合っている相手が死ぬまで戦争が続きます。最終的に、“史実”の世界大戦以上の凄惨な状況になってしまうのでは……」
大食堂に集まった人々が、一様に難しい表情になった時、
「梨花叔母さま」
今まで黙って話を聞いていた迪宮さまが私を呼んだ。
「このような時、叔母さまの時代では、どう解決するのですか?」
「うーん……」
可愛い甥っ子からの質問に答えるべく、私は必死になって、古い記憶を引きずり出した。
「国連が和平の斡旋をするのかなぁ……。あ、“国連”というのはね、“史実”の第1次世界大戦の後でできた“国際連盟”ではなくて、第2次世界大戦の後でできた“国際連合”のことよ。国際連合になって、連盟の頃より、機能は強化されたはずなのだけれど、結局、大国間のパワーゲームになってしまって、国連だけで解決できない問題も多……」
(あ……?)
「梨花さま?」
「どうした、梨花?」
大山さんと兄の声が、大食堂に同時に響く。どちらに話せばいいか、一瞬判断に迷ったけれど、
「何か思いついたのか?」
兄が更に私に尋ねたので、私は兄の方に身体を向け直し、
「パワーゲームって、一国で戦わないといけないという法はないよね?」
と兄に言った。
「“ぱわーげーむ”というのは、要するに駆け引きということか?なら、似たような境遇の国々が手を携えて、他の国に対抗するのはよくある話だろう。それがどうしたのだ?」
「だからさ、中立の国が連合を組んで、その連合が講和を仲介すればいいんじゃない?アメリカとロシアを組ませて和平を呼びかけさせたら、流石にヨーロッパの各国も、合計した国力と軍事力の大きさにビビッて、話に乗って来るんじゃないかな?」
私がそう言った時、大食堂を、声にならない叫びが駆け抜けた気がした。兄も迪宮さまも、そして伊藤さんや山縣さんなどの梨花会の面々も、丸くした目を私に向けている。
と、
「足りませんなぁ」
我が臣下が、私にダメ出しをした。
「ああ……やっぱりダメか」
私は顔に苦笑いを浮かべた。「そうよね。今、急に思いついたことだから。こんなこと、実際にできっこな……」
「その連合に、清も加えるべきです」
私の言葉に、大山さんが被せた。
「へ?」
「ですから、清も加えるべきです。併合した朝鮮の統治に手こずっている清も、我が国と同じように、世界大戦などには巻き込まれたくないと考えているはずです。同時に、清は関税自主権の奪還のため、国際的な地位を何とかして上げたいとも考えており、ロシアには若干劣りますが、陸戦兵力も60万人ほど動員できます。今回の和平を仲介すれば、清の国際的地位を押し上げることができると誘えば、清は必ず乗って来るでしょう」
戸惑う私に、大山さんは大真面目な口調で語り掛ける。彼の瞳は、飛び切りの悪戯を思いついた子供のように、キラキラと輝いていた。
「そうじゃ、そうじゃ!」
大山さんの右隣で、伊藤さんが嬉しそうに叫んだ。「アメリカ、ロシア、清、そして日本。この4か国で合同すれば、軍事力も、そしてもちろん国力も、オスマン帝国を巡って争おうとしているどの国にも負けん。イギリスやフランス、そしてドイツも、我々のことを無視できんはずじゃ!」
「イギリスの了解は、僕が取り付けましょう」
陸奥さんがニヤリと笑う。「戦争は止め時が大事。その際の仲介役に同盟国の我が国が加わっていれば、貴国も安心であろう、とね」
「うむ、そうなれば、ドンドン進めるんである!」
文部大臣の大隈さんが、両方の拳を固めながら立ち上がった。「渋沢総理!天皇陛下と内府殿下の平和への希求を世界に大々的に訴えるため、東京において4か国による外相会談を開催するんである!」
「そりゃいいな、大隈さん!花火を打ち上げるんなら、思いっきりデカくしないとなぁ!」
元内閣総理大臣の井上さんも陽気な声を上げる。
「会場は、浜離宮か芝離宮でよろしいでしょう。各国代表の宿舎も、空いている大臣官舎を使えば間に合います」
「接待も何とかなります。御大喪の時ほどの騒ぎにはならないでしょう」
「今からなら、外相会談に必要な追加予算案も、帝国議会の通常会で通せますな」
「事が事です。立憲自由党はその追加予算案、全面的に賛成しましょう」
「もちろん、立憲改進党も賛成するんである!」
山縣さん、桂さん、松方さん、西園寺さん、そして大隈さんが次々と発言する。彼らに続き、「ロシアを説得するのは俺に任せていただきましょう」「清にはわしが話をつける」「アメリカ大統領はもちろん賛成でしょうが、他の閣僚が文句をつけてきたら、例の件を持ち出して黙らせます」と、黒田さんと伊藤さんと大山さんも決意の言葉を口にしている。大食堂は騒々しくなり、完全に収拾がつかなくなっていた。迪宮さまが両目と口を丸くして身じろぎもしないのは、この場の雰囲気に圧倒されてしまっているのだろう。
「あ、兄上、これ、どうする……?」
「どうするも何も、お前の一言でこうなったのだぞ」
恐る恐る尋ねた私に、兄が悪戯っぽく微笑した。
「しかし、面白い策だ。個々の国が仲裁しても争いの当事国が聞かないのであれば、その国々が連合して、当事国たちが無視できない大きな力を持てばよい……もちろん、連合したところで、やはり当事国たちが仲裁を無視する可能性はあるが、それでも、やらないよりははるかにマシだ」
「陛下のおっしゃる通りです」
渋沢総理大臣が、私と兄の会話に割り込んだ。「我々は、“史実”の世界大戦が引き起こした凄惨な状況と、それに伴う社会の混乱を知っております。それは、この時の流れの世界でも絶対に起こしてはならないことです。ならば、それを避ける可能性が一番高い策……内府殿下のおっしゃった策を、直ちに取らなければなりません」
ここで一度言葉を切った渋沢さんは、
「梨花会の面々が騒がしいのは目に余りますが」
と言って、大きなため息をついた。
「……ってことは、やってみるしかないのか。でも、仕方ないわね」
私は渋沢さんに負けないくらい大きなため息をつくと、姿勢を正した。
「4か国の外相が集まるかは未知数だ。それに、集まれたとしても、4か国の仲裁を騒乱の当事国たちが受け入れるかどうかは分からない。でも……世界大戦を起こさないために、できることはやらないとね。私、言い出しっぺなんだし」
「ええ」
私の隣で、大山さんが頷いた。
「どうか4か国連合の提唱者として、上医として、存分に腕をお振るいくださいませ。俺たちも、全力でお助け申し上げます」
振り向くと、大山さんの微笑が視界に入った。彼の優しくて暖かい瞳を見つめ返すと、私は首を軽く縦に振った。
※ナムク・ルザーはもちろん架空の人物です。




