新年は騒乱とともに
1917(大正2)年1月5日金曜日午前11時30分、赤坂離宮。
「それでその直後、私が乃木閣下に、“この机の上にある花瓶は、ホコリを払って布で拭けばいいですか?”と聞いたら、乃木閣下、私になんて答えたと思う?」
「なんとなく想像はつくが……なんと言ったのだ?」
「“ああ、お願いします”って言ったのよ!しかも、あっさりした口調で!」
「あっははははは……!珠子が掃除をするのは、“殿下に掃除をさせる訳には参りません!”と言って止めたのに、梨花が掃除をするのは止めないのか!」
兄の執務室で、私は、昨年末に参加した兄の長女・希宮珠子さまの輔導主任である乃木希典歩兵中将の家の大掃除の体験談を兄に披露していた。……こう言ってしまうと、お腹を抱えて笑っている兄と私が、年明け早々から、皇居にも行かずに仕事をサボっているように見えてしまうかもしれない。とんでもない。今日の午前中の仕事は、この赤坂離宮で既に終わらせたのだ。
お父様の崩御後、兄は極力、この赤坂離宮から皇居に出向く回数を減らすことを望んだ。お父様の棺に拝礼するのが嫌だったとか、皇居に住んでいるお母様に挨拶するのが嫌だったとかいう訳ではない。東京市民の生活への影響を考えてのことである。
天皇になったため、兄が公式の用事で外出する場合、警備のために付き従う警察官や近衛師団の騎兵の人数が増えた。更に、通過する道を走っている市電が、兄の鹵簿の通過時には、その場で停止してしまうのだ。
――これでは、皇居に行くたびに、市民に迷惑が掛かってしまうではないか!市電が通っていない道を使って皇居に行くようにできないか?!それか、わたしの移動を、全部微行にしてくれ!
兄は宮内大臣の山縣さんにかなり強い口調で要求した。けれど、赤坂離宮と皇居の間の移動は、兄が皇居で政務を執るための移動でもある。このため、“公式の用事での外出”とみなされてしまい、兄の鹵簿を簡略化することができなかった。そこで、赤坂離宮と皇居の間の移動には、極力、市電が通っていない道を使うことにしたけれど、兄はそれでもまだ不満で、お父様の大喪儀が終わった後は、親任式や昼食会など、皇居での開催が必要な行事がある時だけ皇居に出向き、それ以外の政務は現在の住まいである赤坂離宮で行うことを望んだ。それで、兄が桃山への行幸を終えて東京に戻った昨年の12月25日以降、兄が政務を執る場所は赤坂離宮に変わり、私の勤務場所も変わったのだった。
……話が横道に逸れすぎた。ともかく、兄が今日の午前中にするべき仕事は終わった。そして、裁可された書類も各省庁の使いに引き渡したので、私の仕事も終わっている。それで2人とも暇になったので、こうして人払いをして、おしゃべりを楽しんでいるのだ。
「しかし、本当に乃木中将は変わってしまったなぁ。山縣大臣も驚いていたが」
笑い声をようやく納めた兄は、私に穏やかな視線を向ける。
「静子さんと勝典さんもその場にいたけれど、乃木さんの言葉を聞いて呆然としていたわ。児玉さんは、今の兄上みたいに大笑いしていたけれど」
「児玉航空局長は、お前と一緒にあの場に居合わせたからな。だが、事情を知らぬ人間には、乃木中将の変わりように驚くしかない」
そう言った兄は、
「そうだ、これを先に言うべきだった。梨花、珠子の監督をしてくれてありがとう」
と、私に頭を下げた。
「ああ、気にしなくていいよ、兄上。私も乃木さんの家の襖、壊しちゃったから、大掃除を手伝わなきゃいけなかったし」
私は兄に微笑で応じる。そもそも、希宮さまが乃木邸の大掃除を手伝ったのは、希宮さまの母親・節子さまの命令があったからだ。希宮さまは乃木さんの自決を止めた一番の功労者だけれど、お父様の大喪儀の当日に、東宮御所を勝手に抜け出したり、自転車の機動力を生かし、警備陣の不意を突いて皇居の通用門を突破したり、皇居の中で皇宮警察と鬼ごっこを繰り広げたりと、すさまじいお転婆ぶりを発揮したのは事実である。それで、けじめをつけるという意味で、節子さまは娘に乃木邸の大掃除のお手伝いを命じた。乃木さんの家の襖にドロップキックを放った私も、成り行き上、その大掃除に参加せざるを得なかったのだ。
「ところで兄上、迪宮さまたちとは、お休みの間、いろいろと話し合えたのかな?」
このまま、乃木さんの家の大掃除のことを話し続けると、私のボロが出てきてしまう気がする。私がこの年末年始で一番気になっていたことを確認すると、
「ああ」
兄は力強く頷いた。「乃木中将が、お父様に殉死しようとしていたこと。それから、子供たちの輔導主任をどうするか、ということ。あと、子供たちと、これからどう暮らしていくかについても……」
「それは素晴らしいわ。ちなみに、輔導主任は今後どうなるの?」
「桃山に行く列車の中で、お前と節子と話していたことと同じような内容になるが」
兄はそう前置きすると、
「珠子の輔導主任は乃木中将。裕仁の輔導主任は空位にして、実務は乃木中将にやってもらう。珠子の輔導主任と東宮御用掛を兼務ということにしてな」
少し不満げな声で私に告げた。
「ああ……やっぱり、乃木さんは迪宮さまの輔導主任を続けるのを断ったのね」
「“私は希宮殿下に命を捧げております”というのが、裕仁の輔導主任を退く理由だった」
兄はそう言って苦笑した。「予想していた言葉ではあるが、実際に、面と向かって言われた時は少し堪えたな。珠子から命じてもらって、東宮御用掛を兼務して、輔導主任の実務をしてもらうのは乃木中将に了承させたが」
「仕方ないよ。乃木さんの唯一の主君は希宮さまだから」
軽くため息をついた兄を私は慰めた。あの大喪儀の日、希宮さまはお父様に殉死しようとした乃木さんを必死に止め、その結果、乃木さんと君臣の契りを結んだ。それ以来、乃木さんは希宮さまに忠実に仕えている。乃木さんの性格も考えると、希宮さまの命令が無い限り、乃木さんが希宮さま以外の誰かのために働くことはないだろう。
「……じゃあ、淳宮さまたちの輔導主任はどうなるの?やっぱり、乃木さんは輔導主任から退くけれど、御用掛として輔導主任の実務をする形を取るの?」
私の質問に、「さすがにそれは難しい」と答えながら、兄は首を横に振った。
「裕仁は大勲位になったから、ほぼ一人前に近いと見なしてもよいだろう。だから、輔導主任がいなくても別によいという理屈が成り立つが、雍仁と尚仁と興仁の場合はその論理を使うのが難しい。興仁はまだ4歳だしな。だから、雍仁と尚仁と興仁の輔導主任は、西郷大将に頼んだ。快く引き受けてくれたよ」
「ああ、西郷さんなら安心だね。……ちょっとスパルタになるかもしれないけれど」
西郷さんは、極東戦争開戦の際に国軍大臣に復帰するまでは、迪宮さまと淳宮さま、そして希宮さまの輔導主任を務めていた。自分の孫に対するかのように温かく、時に厳しく兄の子供たちを育てる西郷さんに、迪宮さまたちもよく懐いていた記憶がある。
「昨日、裕仁たちは桃山のお父様の御陵へ出発した。西郷大将も、それから乃木中将も、裕仁たちについて行っている。念のため、児玉航空局長も同行しているから、乃木中将がお父様の御陵の前で自決するなどということは無いだろう」
「絶対に無いわ。賭けてもいい。乃木さんが自殺しようとすることはない」
私が断言すると、
「意外だな。お前なら、乃木中将のことをもう少し心配するかと思った。その備えだけで本当に大丈夫なのか、と」
兄は薄く笑いながら私に言った。
「君臣の絆は絶対だよ。希宮さまが乃木さんに“死ぬな”と命じている以上、乃木さんが死を選ぶことはない。たとえそれが、前の主君の陵墓の前であったとしてもね」
「なるほど。経験者の言葉は重みが違う」
「不甲斐ない主君を、もう25年もやっているからね。私の時代じゃ全く馴染みがないことだけれど、少しは慣れたわ」
「“不甲斐ない”などと言ってしまうと、その臣下がこちらに飛んでくるのではないか?“梨花さまにはご教育が必要なようです”と言いながら」
「兄上の言う通りね。自分を必要以上に傷つけないようにしないと」
微笑みながら私が兄に返した時、私の感覚に、暖かくて優しい気配が引っ掛かった。噂をすればなんとやら……内大臣秘書官長の大山さんがこちらに向かってきている。
「やだ。大山さんに今の会話、聞かれてしまったかな?」
「それはないだろうが……」
兄の眉が僅かに跳ね上がった。「大山大将だけではない。もう1人いる。しかも、足の運び方が荒いような……」
「何か妙なことがあった……とかじゃないといいね」
「ああ」
兄と話し合っていると、廊下に面した障子の向こうから、
「陛下、青山御殿の金子どのが、拝謁を求めております」
という、我が臣下の声が聞こえた。
「「?!」」
私と兄は顔を見合わせた。金子堅太郎さんは、私の弟・鞍馬宮輝仁さまが住む青山御殿の別当を務めている。けれど、それは世間を欺く仮の姿で、本当は、日本の非公式の諜報機関・中央情報院の2代目総裁なのだ。
青山御殿別館にある中央情報院の本部には、世界中から様々な情報が集まってくる。集まった情報は必要に応じて、電話連絡や、あるいは宮内省の職員に化けた中央情報院の職員が使いをする形で、関係する省庁にもたらされる。もちろん、重大な情報が天皇に伝えられることもあるけれど、その時使いに立つのも、明石元二郎さんや福島安正さん、それに秋山真之さんや広瀬武夫さんといった中央情報院の幹部で、総裁が動くことはめったにない。その殆ど動かない総裁が、急いで天皇に面会を求める……金子さんが日本にとって憂慮すべき重大な情報を手に入れたのは間違いない。
「とにかく、入ってもらおうか」
私の言葉に、兄が黙って頷く。「どうぞ、お入りください」と私が声を掛けると、静かに障子が開き、黒いフロックコートを着た大山さんに続いて、中央情報院総裁・金子堅太郎さんが、緊張した表情で執務室に足を踏み入れた。
「金子別当、久しいな」
「はっ」
兄の前に立った金子さんの後ろに、大山さんは音も無く移動する。私は彼のそばに近づくと、
「人払いはしているの?」
小さな声でこう尋ねた。
「はい、ぬかりなく」
「そう……話が長くなりそうだから、椅子を持ってこようか」
私が大山さんに提案すると、
「そうしてやれ、梨花」
上座から兄が私に命じた。金子さんも、私に前世があることを知っている。だから兄は、私をいつもの呼び方で呼んだのだろう。私が大山さんと一緒に執務室に椅子を運び入れると、私と兄、そして大山さんと金子さんは椅子に腰を下ろした。
「……で、何があった、金子総裁?」
真面目な顔で尋ねた兄に、金子さんは、「先ほど、情報が入りまして」と前置きをしてから、
「ブルガリア公国が、オスマン帝国からの独立を宣言し、オスマン帝国の領土に攻め入りました」
と、低い声で報告した。
これが後に、この時の流れで、“バルカン戦争”と呼ばれることになる、世界を巻き込む騒乱の始まりだった――。




