砲声、闇夜に轟く前に(3)
1916(大正元)年12月22日午後7時32分、東京市赤坂区新坂町。
「到着しました!」
川野さんが運転する車は、東宮輔導主任兼皇子女輔導主任・乃木希典さんの家の前に到着した。玄関の方を見ると、ドアの前に誰か立っている。それが児玉さんだというのは、着ている空色の軍服ですぐに分かった。
「児玉さん!」
自動車のドアを開けて呼ぶと、ドアに向かって拳を振り上げようとしていた児玉さんが弾かれたようにこちらを振り向き、「内府殿下!」と叫びながら駆けてきた。
「今、玄関のドアを叩いておりましたが、鍵がかかっている上に、誰も応じません。普段、書生や下女がいるはずなのですが……」
「皆、お父様の葬列を見に行ったのかしら……」
児玉さんに答えた私は眉を曇らせ、乃木さんの家を見上げた。部屋の窓に掛けられたカーテンは全て閉じられていて、中に人がいるかいないか、窺い知ることはできない。
「裏口に回りましょう、内府殿下。もしかしたら、鍵が開いているかもしれません」
児玉さんの提案に首を縦に振ると、私は自動車から降りながら、
「平塚さん、私の診察カバンを持ってついてきてください」
と助手席に座った平塚さんに命じた。すると、
「叔母さま、わたしも行きます!」
私の隣に座っていた希宮さまが言った。
「ダメ!」
私は振り返って希宮さまに叫んだ。
「なんで?!叔母さま、なんで!」
希宮さまが私を見つめる目付きが途端に鋭くなる。その目を見つめ返しながら、
「今はダメ!」
私は彼女に負けないよう、お腹の底から大きな声を出した。もし、乃木さんが、この家の中で既に自決していたら、希宮さまはその凄惨な現場を、不用意に目にしてしまうことになる。負ってしまう心の傷の深さを考えると、それだけは絶対に避けたい。
「……入っても大丈夫になったら、平塚さんに迎えに来てもらう。そうしたら、中に入っていいから。だから、ここで待っていてちょうだい」
今度は声の調子を優しくすると、希宮さまはしばし考えて、黙って頷いた。私は車の外に出ると、児玉さんの案内で裏口に向かった。
「しめた、鍵が開いている」
裏口のドアノブに手を掛けた児玉さんが嬉しそうに呟く。そして、勢いよく扉を開けると家の中に踏み込み、「誰かおるか?!」と叫びながら、1階の部屋の扉を全て開けて回った。しかし、児玉さんの声に応じて出て来る書生や下女の姿はなく、電灯に照らされた廊下は静まり返っていた。
「1階は全て探しましたが、誰もおりませぬ」
児玉さんが首を左右に振りながら私に報告する。電灯の下で見ると、彼の眼が血走っているのが分かった。
「誰も出てこないのに、電灯が付いているなんて、妙ですね……」
緊張した表情で呟いた平塚さんに、
「それに、裏口の鍵が掛かっていないのも変だわ」
と私は応じた。家の人が全員出かけていて、裏口の鍵を掛け忘れた可能性もあるけれど、それなら、留守の間に使わない電灯は消していくだろう。電灯がつけっ放しになっているのは、まだ家の中に誰かが……私たちの声に応じない誰かがいるからと考えるのが自然だ。
「では、2階ですな。乃木が早まっていなければいいが……」
その思いは私も同じだ。私たちの声に応じる声が無いということは、声を発するべき人間が、既に声を出せない状態であるという可能性もある。上階への階段に素早く飛びついた児玉さんに続き、私と平塚さんも階段を駆け上がった。
「乃木!そこにいるのか?!」
2階に着いた児玉さんは、書斎や応接室の扉を開けて回る。私と平塚さんは児玉さんとは別の方角に走り、廊下に面して襖が並ぶ一角に入った。ドアのすき間からチラッと見えた書斎や応接室は洋風だったけれど、こちらは明らかに和風の造りだ。
と、私とは反対側、廊下の右側の襖に手を掛けた平塚さんの動きが止まった。一生懸命、襖を開けようとしているけれど、襖が全然動かない。
「内府殿下、この襖、変です……」
平塚さんは襖を必死に開けようとしている。けれど、襖の引手は1つしかないから、私も彼女を手伝いようがない。
「そこは、確か乃木の居室だったはず……」
書斎や応接室を一通り検分し終わった児玉さんが、私たちの方に駆け寄りながら言った。
「ということは……!」
「ええ」
私と目を合わせた児玉さんが頷いた。この開かない襖の奥に、乃木さんがいる可能性が高い。……生死の別はともかくとして。
「平塚さん、襖から手を離して!」
私の命令に、平塚さんが無言で従う。それを確認すると、私は開かない襖の向かい側にある部屋まで下がり、
「……とおっ!」
助走をつけると高く飛び上がり、乃木さんの居室の襖に向かって、渾身の力を込めてドロップキックを放った。襖は意外と簡単に外れ、中へ倒れて大きな音を立てる。
(くっそ……着地、失敗した……)
身体をひねってうつ伏せに着地するつもりが、左腕から床にぶつけてしまった。私が何とか上体を起こし、黒い通常礼装の左腕についたホコリを払った時、
「乃木っ!」
開いた入り口から、児玉さんが室内に足を踏み入れた。畳が敷かれた室内の左手の壁際に、小さな文机が置いてある。白い布が掛けられたその文机の上には、お父様の写真が置いてあった。
「児玉と……内府殿下……?」
お父様の写真と相対するように、乃木さんが畳の上に正座していた。歩兵中将のカーキ色の正装をまとった乃木さんは、虚ろな目で私たちを眺めた。そんな乃木さんのそばに児玉さんは片膝をつき、
「貴様、なぜ死のうとする!貴様には、まだやることがあるだろう!」
と叫んだ。
「その通りですよ、乃木閣下!」
私は乃木さんの方ににじり寄った。「皇太子殿下たちの輔導主任のお役目を放棄なさるというのですか?!皇太子殿下たちには、閣下が必要なのですよ!だからこそ、天皇陛下も閣下の役職を変えずにいるのです!」
すると、
「恐れながら、内府殿下」
乃木さんは静かな声で言いながら、私に身体を向けた。
「皇太子殿下は、ご立派に育っておられます。御人格も御学問もますます磨きがかかり、先日大勲位となられて、日嗣の御子として申し分なし……。ですから、私が輔導主任として、皇太子殿下に教えられることは最早ございません」
「なっ……?!」
目を見開いた私に、
「淳宮殿下も、英宮殿下も、倫宮殿下も……そして希宮殿下も、皆さま、ご立派になられました。もう、私は必要ございません」
乃木さんは淡々とした調子で言った。
「この40年近く、死のう死のうと思いながら、思いがけず、先帝陛下の思し召しにより厚遇を受け、生き永らえてしまいました」
「40年……?!乃木、まさかお前、まだ連隊旗を無くしたことを気に病んで……!」
乃木さんの言葉に、児玉さんが顔を引きつらせる。40年前というと、明治9年か10年ごろのことだろうけれど……。
「おお、もちろんだ。西南の役で賊軍と戦った末、恐れ多くも先帝陛下より賜った連隊旗を喪失した私の罪は軽くない。だから待罪書を提出し、幾度も死のうとしたが、そのたびにお前が止めたな、児玉」
乃木さんは淡々と、そして穏やかな声で旧友に答える。西南戦争。1877(明治10)年に起こった、国内で最後の、そして最大の不平士族の反乱……。梨花会の面々に深い心の傷を負わせたこの戦いで、乃木さんもまた、心に傷を負ったらしい。
「当たり前だ!連隊旗が喪失したのは不可抗力だ!あの乱戦の中では致し方ない!」
児玉さんの叫びに、
「私の責任だ!」
乃木さんは大きな声で言い返した。
「しかしお前は、同じ死ぬのなら、天皇陛下のお役に立ってからに死ねと私に言った。そのような考え方もあるかと思って、以後、先帝陛下のお役に立とうと一生懸命務めた。……けれど、私も年を取った。最近は、剣道の稽古をしていても、淳宮殿下や希宮殿下に負かされることもある。そして、殿下方も、日に日に態度がご立派になっていかれる。私が輔導主任として殿下方にお教えできることは、もう残っていないのだ」
「……」
一時期、乃木さんと一緒に、剣道の朝稽古をしていたころのことを私は思い出した。乃木さんは相手が皇族の私であっても、重く、鋭い一撃を容赦なく打ち込んだ。余りの攻撃の重さに、攻撃を受け流すこともできず叩き潰されてしまうのが日常茶飯事だった。そんな乃木さんが、剣道で淳宮さまや希宮さまに負けてしまう……乃木さんにコテンパンにやられていた私には、俄かには信じがたい言葉だった。
「それはないだろう、乃木!」
児玉さんが乃木さんを睨みつけた。
「お教えできることがもうないなどと……よくも言えたものだ!お前には、経験があるだろう!維新以来、戦場を往来して培ってきたお前の考え方、生き様……それを迪宮さまたちに伝えることは、迪宮さまたちにとって、どんな書物よりも大事な知識を得られることなのだぞ!」
「……新しき世には、私の持つ古い考え方は不要だ」
乃木さんは児玉さんに向かって、寂しそうに微笑んだ。
「国内が士族の反乱で荒れた時代は終わった。極東戦争の結果、我が国の周辺のほぼ恒久的な平和が固まり、私のような、戦い一辺倒の人間の出番は無くなった。私はお前ほど器用ではないから、自分の持った考えを変えることはできないのだ、児玉」
「……」
「だから、このまま生きていても、新しい世では、何の役にも立つことができない。ならば、自刃する力のあるうちに、先帝陛下に殉じ奉り、あの世で先帝陛下に仕える。……児玉よ、私はそう決めたのだ。だから、自刃を止めてくれるな」
黙り込んでしまった児玉さんに言い聞かせるように言った乃木さんに、
「……そんなことをしても、お父様は喜びません!」
私は大声を叩きつけた。
「お父様なら、自分に殉死などせずに、兄上に……天皇陛下に仕えろと言うはずです!」
すると、
「恐れながら内府殿下」
乃木さんは意外にも、私に鋭い視線を投げた。
「それは違います。先帝陛下は、そのようなことは絶対におっしゃいません。先帝陛下ならば、この私に殉死しろとおっしゃいます」
「何ですって……?!」
「乃木!貴様、内府殿下になんたる不敬を!」
思わず腰を浮かせた私と児玉さんに動じることなく、
「恐れながら……内府殿下のお生まれ年は、明治16年でございます」
乃木さんは言葉を紡ぎ続けた。
「しかしながら私は、明治初年に召し出されて以来ずっと、先帝陛下のために働いて参りました。ですから、内府殿下のご存じない先帝陛下の姿も、よく知っております。少なくとも、私の存じ上げている先帝陛下は、殉死をするなとはおっしゃいません。この私に殉死をしろとお命じになります」
「貴様……」
手を震えさせながら乃木さんを睨みつける児玉さんのそばで、
(ああ、そうか……)
私は不意に、乃木さんの言動が腑に落ちてしまった。
正義や正しさが、人が持つ価値観の数だけあるように、1人の人間に対する見方も、この世に生きとし生ける人の数だけ存在するのだ。お父様は、私にとっては、恐れ多くて、ちょっと怖いと感じてしまうこともあったけれど、強くて、そして優しい人だった。けれど、乃木さんにとってのお父様は、この世だけではなく、あの世でも自分に忠誠を求める、強く厳しい大元帥なのだろう。その見方は、容易には変えられないだろう。本人が変えようと思わない限りは。
(このままだと乃木さんは、お父様に……自分の中に作り上げたお父様に殉死する……。でも、乃木さんの中のお父様を作り変えるなんて、この状況じゃ難しい。こうなったら、従ってくれるか分からないけれど、私が令旨を出すしか……)
私が歯を食いしばって乃木さんを睨むように見つめた時、
「乃木!」
部屋の中に、可愛らしい声が響いた。
「乃木!」
その声で、乃木さんを見つめていた私は、パッと後ろを振り向いた。怒りの表情を見せていた児玉さんも、顔を入り口の方に向ける。そこには、紫の矢羽根模様の着物に海老茶色の袴を付けた美しい少女が立っていた。希宮さまだ。
「希宮さま、あなた……」
呼んでいないのに、どうしてここまで来たのかと問う間もなく、希宮さまは突進するように部屋の中に入る。そして、乃木さんの前に正座すると、
「乃木!」
希宮さまは涙の溜まった眼で、呆けたような顔をしている乃木さんをキッと見つめた。
「希宮殿下……どうしてこちらに……」
呟いた乃木さんに向かって、
「死んじゃダメよ!どうして乃木は死のうとするの!」
希宮さまは前のめりになりながら叫んだ。
「……恐れながら、希宮殿下」
乃木さんは姿勢を正すと、希宮さまに深く一礼した。
「私はもう、希宮殿下のお役には立ちません。老いたこの私は、お兄君たちのお役にも、弟君たちのお役にも立ちません。元々、西南の役で連隊旗を紛失した私は、先帝陛下のお慈悲をもって生かされていたのです。その先帝陛下がいらっしゃらない今、この世で役に立たぬ私は、あの世に行きまして、先帝陛下のお役に立つしか道はございません。どうか、私のわがままをお聞き届けください」
希宮さまに相対する乃木さんは、穏やかな声で、希宮さまに言い聞かせるように語り掛ける。しかし、
「許さない!」
希宮さまは即座にはねつけると、
「乃木、面を上げなさい!」
と乃木さんに命じた。乃木さんがゆっくりと上体を起こすと、
「乃木がいてくれなければイヤよ!」
希宮さまは素早く乃木さんににじり寄り、乃木さんの右手をつかんだ。
「乃木がわたしの役に立ってないなんて、そんなことはない!乃木は役に立っているの!」
「希宮殿下……どうか、どうかお手をお離しください」
目を伏せた乃木さんは、力無く言った。「私は……希宮殿下に、剣道では勝てないではありませんか……。それに、私は古い時代の人間ですから、私が希宮殿下にお教えできることは、もう無いのですよ……」
すると、
「それでもいいの!」
希宮さまは乃木さんを見つめて言った。
「乃木がわたしに教えられることが、無くたっていいの!乃木はそこにいるだけで、わたしの役に立っているのだから!」
「……!」
目を見開いた乃木さんに向かって、
「そこにいて、わたしのことを見ていて欲しいの!わたしが大きくなって、お嫁に行って、子供を生んで、子供を育てて……全部、全部、見ていて欲しいの!」
希宮さまは言葉とともに激情を叩きつける。彼女の両眼から、涙がポロポロとこぼれ落ちたのが見えた。
「……しかし、希宮殿下」
しばらくの沈黙の後、希宮さまに答えた乃木さんの声は、微かに震えていた。
「私の命は、とうの昔に、先帝陛下に、捧げているのです……。殿下のご厚情は、誠に恐れ多いのですが、私としては……」
「じゃあ、乃木の命は、わたしがもらう!」
希宮さまは、涙に濡れた声で乃木さんに反論した。
「命をおじじ様に捧げたのなら、その命、おじじ様からわたしがもらう!」
「希宮殿下……」
「毎朝、おじじ様に拝礼して掛け合うし、わたしが死んだら、おじじ様に直接掛け合う!だから……だから、わたしのそばにいて、おじじ様の代わりに、わたしのことを、見ていて……」
希宮さまの言葉は止まってしまった。ただ、想いだけが涙に変わり、彼女の美しい顔に筋を作っている。大人たちが沈黙している中、希宮さまのすすり泣きだけが部屋の中に響いていた。
「……かしこまりました」
どのくらいの時が経ったのだろうか。うつむいていた乃木さんが居住まいを正し、希宮さまに深く頭を下げた。
「この私の命を、希宮殿下が、先帝陛下から譲り受けられるということであるならば……私は、只今をもちまして、希宮殿下に仕えさせていただきたく存じます」
「乃木……」
涙の嵐の中、ようやくこれだけ言えた希宮さまに、
「どうか、お許しいただけないでしょうか」
乃木さんは再び最敬礼する。
「もちろんよ……。乃木、わたしに仕えなさい。そして、二度と、自分から死のうなんて、しないで……」
新しい主君の、涙まじりの命令に、乃木さんは「かしこまりました……」と応じる。その時、お父様の轜車が皇居を出発する合図の砲声が、闇夜を震わせ、新坂町にいる私たちの耳に届いたのだった。




