砲声、闇夜に轟く前に(2)
「……児玉さん、確認してもいいですか?」
1916(大正元)年12月22日金曜日午後6時半。皇居・内大臣室の電話の受話器を持った私は、一度深呼吸をして心を落ち着けると、電話の向こうにいる国軍航空局長・児玉源太郎さんに尋ねた。
「乃木さんが“史実”でお父様の斂葬の時に殉死した……それ以外に、乃木さんがこの時の流れでも、今、この時に自殺するという根拠はありますか?」
もちろん、私だって、乃木さんが“史実”でお父様に殉死したことは知っている。日露戦争で2人の息子・勝典さんと保典さんを亡くし、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに自責の念を抱き続けていた乃木さんは、“史実”の1912年9月13日、お父様の葬列が皇居を出発する合図の号砲が発射された午後8時、奥さんの静子さんとともに自決した……それが“史実”における乃木さんの殉死事件の経過だったはずだ。
だからこそ私は、この時の流れでは乃木さんが自殺することはないと思っていた。この時の流れでは、日本とロシアとの戦争は起こったけれど、それはロシア対日本・清の連合軍という、“史実”とは違う形の戦争だった。“史実”のような大規模な陸戦は発生せず、乃木さんも戦地に出征することなく戦いは終結した。そして、乃木さんの2人の息子も亡くなることはなかった。だから、乃木さんがお父様に殉じる形で自殺する動機は、この時の流れでは無くなったと考えていた。
すると、
「乃木が新橋駅に、私にあてた電報をよこしたのです」
受話器の向こうから、絞り出すような児玉さんの声が聞こえた。
「“これまでのご厚情を謝す”……文面にはこうありました」
「!」
“これまでのご厚情を謝す”……まるで、最後のお別れをするような挨拶だ。これが、職場の同僚に宛てての文章ならば、退職の挨拶とも取れるかもしれないけれど、児玉さんのような親しい人間に、こんな挨拶をするということは……。
「乃木さんは、自決するつもりですか……」
私のすぐそばにやって来て、私と児玉さんのやり取りを聞いていた大山さんが呟いた。
「動機が見えないけれど、そうみたい……」
我が臣下に答えると、私は歯を食いしばった。自分の見通しの甘さを思い切り責めたいけれど、それは事態を解決してからのことだ。とにかく今は、乃木さんの自殺を止めなければならない。
「梨花会の面々は、既にご葬列に加わるために家を出ておりましょうから、連絡が付けにくい。山縣閣下には電話が通じましょうが、大喪使の副総裁、斂葬直前のこの時間、容易に動くことはできません。しかし、内府殿下に電話が通じれば、大山閣下にも連絡を取ることができます。内府殿下はご葬列に加わらなければなりませんが、大山閣下は比較的自由に動けると考えまして……」
私は児玉さんが喋っているのを黙って聞いていた。相変わらず、児玉さんの読みは鋭い。恐らく、梨花会の面々の大半は、身分の高い参列者の集合場所である皇居の東の間に向かっているところだろう。梨花会の中では官職が低い浜口さんと幣原さんは、大喪使職員として参列者の整理に当たっている可能性が高い。山本五十六航空大尉は、葬列の警護に駆り出されている。私の義父・威仁親王殿下は東の間にはいないけれど、兄の名代としてお父様の轜車について歩くから、葬列から絶対に離れられない。この時点で確実に連絡がつき、かつ、これから比較的自由な行動が取れるのは、大山さんしかいないのだ。
「児玉さん、乃木さんが立ち寄りそうなところを、大山さんに徹底的に……あ、でも、児玉さんと大山さんが直接話し合った方が、話が進みやすいかしら?」
私がこう言った瞬間、内大臣室のドアが激しくノックされた。「内府殿下、一大事です!」という、内大臣秘書官の東条英機さんの声も聞こえる。私と顔を見合わせた大山さんが黙って頷くと、歩いて行ってドアを開ける。
「あ、大山閣下!」
「騒がしいですよ、東條くん。どうしたのですか?」
私と児玉さんの会話を聞けなくなってしまった大山さんが、やや不機嫌そうな声で東條さんに尋ねた。と言っても、声色の変化はほんのわずかだったので、付き合いの長い私以外には、大山さんが不機嫌だとは分からなかったかもしれない。……それはともかく、緊張した表情の東條さんは、
「申し上げます。皇居に、賊が侵入しました!」
私たちに信じられないことを告げた。
「はぁ?!」
私は思わず顔をしかめた。警備が厳重なはずのこの皇居に、しかもお父様の斂葬がもうすぐ始まるという大事な時に、不審者が皇居に侵入するなんて、前代未聞の大事件だ。
「賊は東車寄から侵入し、豊明殿の前を通って、御座所の方向に近づきつつあるとのこと!ご用心あれ、と皇宮警察より連絡が参りました」
「ほう……こちらに向かって来るとは、命知らずな奴ですなぁ……」
大山さんが両手の指を鳴らしながら東條さんの言葉に応えた時、
「梨花叔母さまー!」
遠くから、可愛らしい声が聞こえた。
(ん?)
「内府殿下、賊がどうとか聞こえましたが、一体何が起こっているのですか?」
「え、ええと……」
電話の向こうの児玉さんに、今の状況をどう説明しようかと、頭を回転させ始めたその時、
「梨花叔母さまー!!」
先ほどの可愛らしい声が、今度はハッキリと聞こえた。「くそ!あの女学生、なんてすばしこい!」という男性の声もする。
(ま、まさか……)
「大山さん!そこにいるの、希宮さまだわ!なんだかよく分からないけれど、とにかく保護して!」
大山さんが無言で廊下へと向かう。「あ、大山の爺!」と嬉しそうな声がした直後、少女の悲鳴が聞こえ、
「……保護して参りました」
程無くして、我が臣下は、兄の長女・希宮珠子さまの身体を引きずりながら内大臣室に戻ってきた。
「放して!爺、放してよ!」
紫の矢羽根模様の着物に海老茶色の袴を付けた希宮さまは、大山さんに引きずられながらも拘束を振りほどこうと、必死にもがいている。そんな彼女を見ながら、
「先ほど、東條くんが報告してくれた“賊”というのは、希宮さまのことだったようです」
大山さんは私に穏やかな声で報告し、「悪戯が過ぎますよ、希宮さま。淑女は宮殿で鬼ごっこはしないものです」と言って、希宮さまの手首を握る手に力を込めた。
「そ、そうよ、希宮さま。それに、私は章子だし、今電話で、とても大事な話をしていてね……」
送話口を押さえながらこうたしなめた私に、
「でも、叔母さま!私も、大事な話を叔母さまにしたいの!」
希宮さまはもがきながら、私を睨むように見つめた。
「乃木が死のうとしているの!わたし、乃木が死ぬのを止めたいの!梨花叔母さま、力を貸して!」
可愛い姪っ子の言葉に、私は再び、目を見開いてしまった。
「希宮さま」
私より一瞬早く反応した大山さんは、希宮さまに呼びかけた。
「そのお話、手短にお聞かせください」
「実はね、今、叔母さまも、児玉の爺と電話でその話をしていたの。乃木閣下が死のうとしているって」
大山さんのセリフにかぶせるように、私も姪っ子に言った。
「だから、希宮さまがどうしてそう思ったか、話を聞かせてちょうだい。だけど、時間が無いから、要点だけを教えて欲しいの。できる?」
なるべく優しい声で念を押すと、
「はい!」
希宮さまはしっかりした声で答え、1時間半ほど前にあった出来事を私たちに語り始めた。
午後5時ごろ、乃木さんが東宮御所――お父様の崩御を契機に皇孫御殿から改称された――にやって来て、皇太子の迪宮さまに面会を求めた。15分ほど2人きりで話した後、謁見所を退出した乃木さんは、今度は迪宮さまの弟たち……淳宮雍仁さま、英宮尚仁さま、倫宮興仁さまの3人との面会を求め、そこでもまた15分ほど話していた。兄や弟たちが乃木さんに会っているのが、人の動きや気配で分かったので、乃木さんが自分のところにも来るだろうと思いながら希宮さまは自分の部屋で待っていたのだけれど、一向にお呼びがかからない。おかしいと感じた彼女が部屋の外に出ると、乃木さんは東宮御所の玄関から出ようとするところだった。
――乃木!
希宮さまは後ろから大声で呼んだけれど、普段なら振り向いて、ニコニコと微笑んでくれる乃木さんが、今日に限って全く反応してくれない。それどころか、何者も寄せ付けようとしないただならぬ雰囲気が、乃木さんの後姿から放たれていた。それでも希宮さまが、もう一度乃木さんに声を掛けようとした時、
――何で乃木閣下を止めないんだよ、兄上!
希宮さまの次兄・淳宮さまの怒鳴り声が応接間の方から聞こえた。希宮さまがそっと応接間に近づいて中の様子を窺うと、応接間で淳宮さまと、長兄の迪宮さまが言い争いをしていた。
――閣下は、俺たちが勉学に励んで兄上を助けることが一生の願いだ、って俺と尚仁と興仁に言ったんだぞ!明らかに、死のうとしている人間の言葉じゃないか!
激しい調子で言う淳宮さまに、
――それは分かっている。閣下は自決なさるおつもりだというのは、会った時の様子を見てピンときた……。
迪宮さまは沈んだ声で答えた。
――だったら、一緒に乃木閣下を止めようぜ、兄上!お父様も、勅語で、おじじ様に殉じるなっておっしゃったじゃないか!
――それも分かっているよ、淳。
――じゃあなんで、乃木閣下の自決を止めないんだよ、兄上?!
なおも言い募る淳宮さまに、
――閣下は覚悟なさっている。
迪宮さまは静かに言った。
――おじじ様に仕えると思い定めている。そんな人間の殉死を止めるのは、かえって残酷だよ。
――そんな、兄上……!
――僕はね、閣下が殉死してまでおじじ様に仕えると言うのなら、その意思を貫かせるのが優しさじゃないかと思うよ、淳。
「……そんな感じで、迪兄上と淳兄上、ずっと言い争っていたから、わたし、じれったくなって……だから、普段着に着替えて、自転車で皇居まで来たの。乃木が自殺するにしても、葬列に出てからかもしれないから、それなら、皇居の集合場所にいるだろうと思って……。でも、集合場所を探したけれど、乃木はいなかったわ。だから、叔母さまの力を借りることにしたの。賢くて優しい叔母さまなら、きっと助けてくれるだろう、って」
希宮さまの話が終わると、内大臣室の騒ぎを聞きつけて集まってきた秘書官や侍従さんたちがざわめいた。電話の向こうの児玉さんに、希宮さまの話の重要と思われる項目を伝えていた私も、大きなため息をついてしまった。……間違いなく、乃木さんは自決するつもりだ。しかも、“史実”と同じように自決するのだとしたら、お父様の轜車が、皇居を出発する、その瞬間に……。
「乃木さんのご長男は、小倉の連隊にいるんでしたっけ……」
私の呟きに、
「ええ。次男も今は外国にいます。さて、静子どのは……」
大山さんが素早く答える。その語尾にすかさず、
「桃山に先発しているわ。お母様を迎える準備をしないといけないから」
希宮さまが答えをかぶせた。
(乃木さんの自殺を止められそうな家族が、この近くにいないとなると……)
考え込んだ私の耳に、
「内府殿下」
児玉さんの声が飛び込んできた。
「私は直ちに、乃木の家に向かいます。前例を考えれば、決行するならそこでしょう」
乃木さんが“史実”で亡くなったのは、赤坂区新坂町にある自宅だ。私の時代では、その周辺は“乃木坂”と呼ばれていた。もちろん、乃木さんにちなんだ地名だ。
「恐れながら内府殿下、希宮さまをお連れになって、乃木の家に御成いただけませんか」
「私と希宮さまが?」
私が児玉さんに聞き返すと、
「今を時めく内府内親王殿下と、先帝陛下ご鍾愛の姫宮さまであらせられる希宮さま。まさか乃木も、お2人の言葉を聞き入れぬということはないでしょう」
児玉さんは理由をこう述べた。
「……確かに、令旨を出すより、私と希宮さまが乃木さんの家に行く方が早いわね」
けれど、問題が1つある。私は内大臣として、お父様の葬列に加わるのだ。皇居から青山練兵場までの約6kmの道のりを、私は午後8時過ぎから歩かなければならない。
(どうしたらいいかしら。平塚さんを私の身代わりに立てて、葬列に入ってもらう?でも、平塚さんにそんな大胆なことができるかな……)
私が思考の海に沈もうとしたその時、
「内府殿下はご都合により葬列には加わらず、名代を立てるということにすればよいだけの話です」
私のそばで大山さんが言った。
「……あなた、私の考えを読んだの?」
「いえ、児玉さんの声も漏れ聞こえておりますので、次はどうしたらよいかと考えているだけでございます」
私の質問に、大山さんは落ち着き払ってこう答える。彼の取った行動自体が、正しく私の考えを読んでいることそのものだと思うけれど、反論している暇は無いので私は黙っていることにした。
「大山さん、あなたと児玉さんが直接やり取りする方がいい。その方が、話が早く済む」
私が受話器を差し出すと、大山さんは恭しくそれを受け取り、電話の向こうの児玉さんとやり取りを始める。4、5度の言葉の往復の後、大山さんは丁寧に受話器を所定の位置に戻した。
「……内府殿下、希宮さまとご一緒に、有栖川宮家の車で新坂町の乃木さんの家に向かっていただけますか?平塚くんをお供につけます」
大山さんの言葉に私は黙って頷くと、
「希宮さまもそれでいいかな?」
と、可愛い姪っ子に尋ねた。
「もちろんよ。ありがとう、叔母さま」
希宮さまが深く頭を下げる。艶のある絹糸のような黒髪の毛先が、肩から下にサラサラと流れた。
「俺は、ご葬列に内府殿下のご名代として加わります。ご葬列が動き出すまでに皆を指揮して、陛下へのご報告や、各所への連絡も済ませておきましょう」
「ありがとう。助かるわ」
兄一家は、お父様の棺を載せた轜車が皇居から出るところを、南車寄の近くから見送ることになっている。うっかり忘れていたけれど、東宮御所は今頃、希宮さまがいなくなったと大騒ぎになっているに違いない。そちらにも連絡をしないといけないし、もちろん、現在奥御座所にいる兄と節子さまにも、希宮さまの無事を伝えないといけない。大山さんの指揮で、東條さんと金次郎くん、平塚さんがテキパキと動き始め、集まってきた侍従さんたちも、急に言い付けられた用事を済ませるために走った。
そして、1916(大正元)年12月22日金曜日、午後7時5分。
「……梨花さまは急なめまいを起こされたため葬列には加わらない、と、表向きには触れ回りました」
児玉さんとの通話を終えてから約15分後。大山さんは有栖川宮家の自動車に乗り込もうとする私に囁いた。
「急なめまいね、なるほど。じゃあ、練兵場に着いたら、それっぽくお芝居しないとね」
私は大山さんに微笑んだ。もちろん、乃木さんの件を片付けたら、葬場殿の儀が行われる青山練兵場に急行するつもりだ。明日の午前2時10分、青山の仮停車場を発車する御召列車に、私は必ず乗り込んでいなければならない。
と、
「梨花さま」
大山さんの視線が、私の瞳を捉えた。
「どうか、お願いいたします。梨花さまなら、必ず乃木さんを止められます」
「うん……」
軽く頷いて見返すと、大山さんの瞳の奥に、様々な想いが渦巻いているのが見えた気がした。もしかしたら、遠い昔のことを思い出したのかもしれない。私と君臣の契りを結んだ、25年前のあの日のことを。
「止めてくるよ、必ず」
私が大山さんの右手をそっと握った時、
「叔母さま、早く乃木の家に行きましょう!」
自動車の座席の奥から、希宮さまが私に叫んだ。確かに、もう時間がない。私は握った大山さんの手を離し、素早く車の座席に座った。
午後7時7分、川野さんの運転する自動車は、皇居東車寄から静かに走り始めた。
※実際に1915年前後、電報でこんな出し方ができるかどうかは、今回検討しておりません。ご了承ください。




