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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第8章 1891(明治24)年芒種~1891(明治24)年霜降
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脚気討論会(3)

 脚気は細菌感染で発生するのか。それとも、栄養の欠乏で発生するのか。

 論戦が始まって、20分ほどが経過した。

「どうですか?」

 大山さんが、私に小さな声で問いかける。

「……明らかに、細菌感染派の分が悪い、と私は思う」

 ノートに鉛筆を走らせながら、私も小声で返した。「私に言わせれば、論理がめちゃくちゃすぎるし、レベルが低すぎる……」

 そして、森先生の議論の進め方が、非常に水際立っている。自分の論がいかに正しいかを、根拠を挙げて説明し、相手の論の矛盾を的確に突く。

――森は、論争に慣れていると聞いております。

 大山さんはそう言っていたけれど、壇上で論を戦わせる森先生は、本当に頼もしく思えた。

 しかも、栄養欠乏説側は、“ドイツ医事週報”に論文が掲載されたという権威付けもされている。

 石黒中将は、最初の方こそ、「脚気は細菌で起こるのだ」と自説を主張したけれど、森先生に「細菌で起こるのであれば、なぜ他国では脚気が起こらないのか」と言われて、言葉に詰まった。その後も、壊れたレコードのように「脚気は細菌で起こるのだ」と繰り返していたけれど、彼が喋るほどに細菌感染派に不利になることは明らかで、途中で青山先生に「黙っていてください、あなたが喋るほど、私に不利になる!」と言い切られてしまい、口をパクパクさせるばかりだった。

 石黒中将を黙らせた青山先生は、「人の脚気と、今回のニワトリで起こった病気は同じではない」という主張を軸に、森先生に反論していた。ただ、これは私とベルツ先生の予想通りだった。

「では、こちらの幻灯をご覧下さい」

というベルツ先生の声で、大講堂の窓のカーテンが一斉に閉じられ、演壇の後ろの壁に鶏の解剖写真が映し出された瞬間、聴衆からどよめきが漏れた。

「左が正常なニワトリ、右が今回、脚気を起こしたニワトリの解剖写真です」

というベルツ先生の説明に、

「おお……ニワトリで心肥大が起こっている!これは脚気の所見だ!」

「間違いないな。ニワトリで起こることが、人間でも発生しているのだ。それが、脚気ということか……」

聴衆の医者たちがしきりに頷いている。

(ベルツ先生……“苦手な人は見ないで”って、言わないと……)

 心配になって、そっと辺りを見渡すと、みんな、食い入るように幻灯を眺めている。目を背けたり、気分が悪くなって倒れたりする人は、どうやらいないようだ。

「これは、ベルツ・森説が正しいな」

「一目瞭然だ。発表で幻灯を使うのは初めて見たが、こんなに分かりやすい結果が出るなんて」

 周りの声から察するに、会場の聴衆は完全に、脚気の栄養欠乏発生説を支持しているようだった。

(もしかして、幻灯、かなり効果あり?)

「大山さん、幻灯ってもしかして、今の時代では珍しいものなのかな?」

 隣の大山さんにそっと尋ねてみる。

「そうですね……一般の家にあるものではないでしょう。このような大きな講堂や劇場には、備えてあるところもあると思いますが」

 大山さんの答えに、「なるほどね……」と私は頷いた。

(そんな状況だったら……幻灯で視覚に訴えるというのは、私の予想以上に強い影響を聴衆に与えるのかな……)

 私が考え込んでいると、

「いいや違う!これは、たまたまこうなっただけなのだ!人の脚気と、森さんのニワトリの病気とは、同じものではない!」

幻灯写真を見た青山先生が叫んだ。

「たまたまこうなっただけ、という証拠はあるのですかね、青山君?」

 森先生がすかさず応戦する。青山先生は顔を真っ赤にして、言おうとした言葉を飲み込んだ。

「既にコッホ先生が追試をされ、同様の症状が、白米のみで育てたニワトリで起こったと、最新の“ドイツ医事週報”で発表されている。もし脚気が感染で起こるとするならば、脚気が存在しないドイツでは、たかが飼料を違えた程度で、脚気は発生しないと推定されるが、実際にはそれがドイツでも発生したのですよ」

「その通りだ!」

「いいぞ、森先生!」

 会場からは、森先生を応援するヤジが飛んだ。

(追試がされたというのは、本当に大きいことね)

 脚気は日本でしか起こっていない。いや、「ベリベリ」という別名があったはずだから、他の国でも発生するのだろうけれど、少なくとも、ドイツでは発生していない。それはドイツが、ビタミンB1が充足するような食生活を送りやすい国だからである。

(ソーセージの国だものね。ソーセージの肉って、確か豚肉とか牛肉とかだったかな?豚肉なら、ビタミンB1が多いもんね)

 そのソーセージの国でも、ニワトリの飼料を白米にすれば、ニワトリが脚気になる。

 まあ、“白米に脚気菌が潜伏していたのだ”という論法も成り立たなくはないけれど、玄米に潜伏しない菌が、白米には潜伏するとするのも少し無理があるし、そもそも、白米にだけ脚気菌が潜伏しているとするならば……それは、大きく言えば“白米が脚気の原因である”と解釈することも可能なのだ。

 更に、森先生とベルツ先生は、ニワトリの第2弾の実験……ニワトリを白米だけで育てて脚気にしておいてから、そのニワトリを2群に分けて、1群は玄米、もう1群は玄米の炭水化物・タンパク質・脂質と同じ組成にした飼料で育てて、経過を観察する……という実験の結果も発表した。

「ここから導き出されるのは、たんぱく質の量が脚気発症に関わっているということではない。未知の栄養素が、玄米、特に米ぬかに含まれていて、それが脚気発症に関わっているということでしょう。こちらは現在、“ドイツ医事週報”に投稿中です」

 幻灯で映し出された図表を見ながらなされた森先生の解釈に、会場の聴衆は興奮状態になっていた。

「脚気になりたくなければ、米ぬかでも食っていろということか!」

 幻灯が終わって、大講堂のカーテンが開けられると、青山先生が反論した。

「その通り。それが人にとって必要なことならば、そうするしかないだろう」

「ふざけるな、ドイツの女に未練を残しているバカと、耄碌したドイツ人が、何をほざく!」

 森先生の言葉に、青山先生が顔を真っ赤にして叫ぶ。

(こいつ……本当に、私の嫌いなタイプの人間ね)

 私は眉をしかめた。自分の論が通らないのを見て取るや、森先生やベルツ先生の悪口を言い始めるなんて……。

(森先生がドイツ人の女性にお熱だとして、それを気にする人がどこにいるのよ。そんなの、個人の問題なのに……帝大教授って、こんなにレベルが低いのかな?)

 内心、呆れていると、

「ベルツよ、貴様が、ボケた頭で実験事実を捻じ曲げたのだろう!正直に言ったらどうだ、自分は耄碌していると!お前のような人間など、生きている価値はない!」

青山が更に、ベルツ先生を罵倒した。

(なっ……?!)

 私は目を見開いた。

(この野郎っ!)

 許せない。

 私の医学の師匠を……私の大切な、今生での医学の師匠を、ここまで酷く罵るなんて。

 私は無言で立ち上がると、大講堂の通路を、舞台に向かって駆けた。


 舞台の袖に設けられた階段を駆け上がると、

「おい、何だ、そこの娘っこ。ここは、お前なんかの来るところじゃない」

石黒軍医中将が、私の姿を見つけて立ち上がり、手で追い払う仕草をした。

「私もそのつもりではなかったのだけれど、師匠を誹謗されたので、黙っていられなくてね」

 私は、石黒中将を睨みつけた。

「何ぃ?師匠と言うが、一体誰のことだ」

「ベルツ先生よ」

 こう答えると、

「何だ、ドイツ語の師匠か、お嬢ちゃん?」

石黒中将は、尊大な態度で言った。

「違う。医学の師匠よ。ベルツ先生は、私の医学の師匠」

「ふん、女が医学を学ぶなど、できる訳がなかろう。バカなことを言っていないで、とっとと帰れ」

 石黒中将は、私を鼻で笑った。

(こいつ……女性蔑視がはなはだしいみたいね)

「帰るもんですか。私の師匠を侮辱した青山に、一言言ってやらないと気が済まない」

 石黒を睨み返すと、

「で、殿下……?!」

ベルツ先生が私に気が付いて、立ち上がった。

「ま、増宮さま?!」

「客席においででは?!」

 森先生と大隈さんが、私の姿を認めて目を丸くした。

 その様子で、石黒も青山も、私が誰なのかを認識したらしい。

「な……」

「増宮殿下、だと……?!」

 2人とも、顔がいっぺんに青ざめた。

「ふん、……ようやく気が付いたか」

 私はできる限り、威厳のある姫君っぽく喋った。言葉遣いが古めかしすぎるかもしれないけれど、この際関係ない。

「私が会場にいるとわかれば、登壇者が遠慮して、自由な討論ができなくなると思ったゆえ、客席に隠れていた。しかし、自由な討論とは言え、討論相手に礼儀を守らず、相手の論理ではなく、相手の人格そのものを誹謗するとは、いかがなものであろう。帝大教授だ、軍医中将だと威張っておるが、そなたらは、人に相対(あいたい)する礼節というものを知らぬのか?」

 言っているうちに、激しい怒りが更に湧き上がって、体中を駆け巡る。

(ああもう……こいつら、絶対に、絶対に許さない!)

 完全に理性を失った私は、石黒と、ベルツ先生を罵倒した青山を睨みつけた。

「まして、私の大切な……大切な医学の師であるベルツ先生を侮辱するとは……たとえアスクレピオスや大国主命(おおくにぬしのみこと)が許しても、この章子が許さぬ!」

 と、

「増宮さまのおっしゃる通り!」

客席から、大きな声が飛んだ。

(あれ?)

 聞き覚えのある声だ、と思った瞬間、客席の中で、フロックコート姿の男性が立ち上がった。

「論理もなっておらん。自分が不利だと悟った瞬間、相手の素行を攻撃するとはな。文明国の討論は、そんな風にするものではないが」

「い、伊藤さん?!」

 伊藤枢密院議長が、不敵な笑みを浮かべたのが、遠目でも分かった。客席でも、「枢密院議長だ!」「嘘だろう?!」という声がする。

(あれ?今日って、私についてくるのは、大山さんだけだよね?)

 我に返った私が混乱していると、

「偉くなったものだな、石黒」

客席で更に、立ち上がる人影があった。

「聞こえていたぞ。“女が医学を学ぶなど、できる訳がなかろう”と申したか?……医師免許発行の規定上、医術開業試験に合格した女子には、医師免許を与えることになっているのだがな。しかも、ベルツ先生と森君の誹謗中傷に及ぶとは」

「は……まことに、許しがたいですな、閣下」

 こちらは、羽織袴姿の山縣さんと、フロックコートを着た原さんである。山縣さんの全身からは、明らかに殺気が放たれていた。

「げぇっ、山縣閣下?!」

 立っていた石黒が、その場にへたり込んだ。

(ていうか、何で原さんまでいるのよ?!)

 山縣さんは、私に脚気の解決を依頼した一人だから、この場にいるのは分かるけれど、なぜ、関係のない原さんまでここにいるのだろう?

「まあ、国軍としては、森君の説を採用する。決定じゃ。細菌発生説は、明らかに筋が立っておらん」

 更に客席の中で立ち上がったのは、西郷さんだ。しかもその両隣には、児玉さんと山本さんもいた。

 よく見ると、井上さん、黒田さん、山田さん、松方さん、そして勝先生も客席にいる。手前の方には、転地療養を終えて東京に戻ってきた三条さんがいる。その隣に、フロックコート姿の威仁親王殿下がいて、ニヤニヤ笑いながら私を見ている。東京にいる、爺と両陛下(りょうしん)以外の“梨花会”の面々が、大講堂の舞台と客席に顔を揃えていた。

(なんでみんな、ここに来てるのよ……)

 客席の聴衆も、政府高官たちが多数客席にいるという事態にざわめいている。おそらく、これ以上討論を続けることは、色々な意味で難しいだろう。……冷静に考えれば、私もその原因の一端を担っているのだけれど。

「大隈さま、判断」

 私は大隈さんに向き直った。

「へ?」

 司会席の大隈さんが、キツネにつままれたような表情で私を見る。

「ですから、脚気の病因についての、討論の優劣についての判断。細菌感染派と、栄養欠乏派、どちらが勝っていて?」

「え、あ、はい」

 私の問いかけに、大隈さんは頷いて、右手を挙げた。

「今回の討論会、ベルツ氏と森氏の論が、勝っていると、吾輩は判断する!」

 大隈さんが高らかに宣言すると、会場から歓声と拍手が沸き起こった。

 それを確認すると、私は段を駆け下りた。

「梨花さま……言っていただければ、(おい)が出ましたのに」

 階段の下で、私のランドセルを持った大山さんが苦笑している。

「ごめんなさい、大山さん。……私、完全にレディ失格ね」

 私は頭を下げた。

 日本史上、最もキレやすい内親王として、名前が残ってしまうかもしれない。でも、ベルツ先生を目の前で侮辱されて、どうしても、黙ってはいられなかった。

「まあ、反省会は後です。とにかくここを出ましょう」

「確かに、人に捕まると厄介ね。とりあえず、大隈さんの家に戻りましょうか」

 私と大山さんは、駆け足で、大講堂から去った。

※幻灯がこの時代、学術発表等で使われていたかについては、調べる手が回りませんでした。教育用や、災害の説明用なんかで幻灯がこの時代に使われていた記録はあるので、もしかしたら、学術発表のプレゼンテーションツールとして、一般的に使われていた可能性もあります。ただ、お話の都合上、こうさせていただきました。


※アスクレピオス(アスクレーピオス)は、古代ギリシアの医学の神様です。杖に蛇が巻き付いている“アスクレピオスの杖”は医療のシンボルとして世界的に使われています。大国主命も医学や農業の神として信仰されていますね。

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― 新着の感想 ―
[一言]  どこの美少女仮面だー!  この小説、毎回考証と空想の融合店に感心する事はあってもオタク的笑いのツボを刺される事は今回が初めてでした~!でも気分は爽快でしたー!  アスクレピオスの杖は今や…
[一言] 幻灯って私は見たことがありませんが、今風に言うとOHPみたいな感じですかね。
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