践祚(1)
※曜日ミスを修正しました。(2022年10月23日)
1916(明治49)年11月6日月曜日午後10時4分、皇居。
「これから、どうしよう……」
奥御座所にあるお父様の居間。そこを病室として闘病していたお父様は、つい先ほど、息を引き取った。今、私の前に横たわっているのは、もう動くことは無い、お父様の亡骸だ。つい15分ほど前、そのお父様から、最後の力を振り絞るようにして内大臣に任じられた私だけれど、今はこう呟くしかなかった。天皇を……新天皇である兄を補佐するという重要な職に就いたのは分かるけれど、この重大な場面で、私はどうすればいいのだろうか。
と、
「……今からでは、時間がありませんな」
お母様の後ろに座っていた、皇孫御学問所総裁の伊藤さんが言った。
「あの、伊藤さん……“時間がない”、とは?」
私が恐る恐る尋ねると、
「践祚に関わる一連の儀式と事務手続きを、今日中に終わらせるのは難しい、ということでございますよ」
伊藤さんは微かに涙が混じった声で答えながら、両腕を胸の前で組んだ。「登極令の定めるところによりますれば、天皇は践祚の後、直ちに元号を改めなければなりません。しかし、元号は枢密院会議を経て決定するもの。践祚の儀式の準備にも時間が多少掛かることを考えると、日付が変わるまでにすべての儀式と手続きを終えるのは難しいのではないか、と……」
「……確かに、俊輔の言う通りだ」
宮内大臣の山縣さんが、鼻をすすり上げてから昔馴染みの友人に同意した。「剣璽渡御の儀に参列する諸員の身支度にも時が掛かる。日付が変わるまで2時間弱……その時間内で、一連の儀式と手続きを全て終わらせるのは不可能だ」
「では、喪を秘しますか」
私の背後に正座していた内閣総理大臣の渋沢栄一さんが、小さな声で提案した。
「はぁ……」
私は曖昧な表情で相槌を打った。要するに、渋沢さんが言いたいのは、公式に発表するお父様の死亡時刻を、実際の死亡時刻から遅らせよう、ということだ。確か、我が有栖川宮家の先代・熾仁親王は、この時の流れでは葉山の別邸で亡くなったのだけれど、“重態”ということにして列車でご遺体を東京に搬送し、東京の本邸にご遺体が到着した直後の時刻が、公式の死亡時刻として発表された……そんな記憶がある。
(だけど、お父様は自分の本宅で亡くなったから、遺体の移動にかかった時間を、死亡確認の時刻に足すわけにもいかないし……どうしたらいいのかしら?)
私が首を傾げていると、
「そうするしかあるまい。2時間遅らせて、11月7日の午前0時3分に崩御……これでいかがであろうか」
伊藤さんが渋沢さんに同意しつつ、周りに問いかけた。なるほど、これなら、践祚に関する一連の儀式や手続きは、明日、11月7日の午後11時59分までに終わらせればいい。今からなら丸1日以上あるし、公式の崩御時刻からでも、24時間近く猶予がある。一連の儀式や手続きに、どのくらい時間が掛かるか分からないけれど、時間に追われて大慌てで進めるより、時間に余裕がある中でやる方が、間違いが少なくなるだろう。現に、山縣さんをはじめ、並み居る閣僚たちも、伊藤さんの案に頷いていた。
「……章子はどうだ?」
お父様のそばに正座している兄が、硬い表情で私に尋ねた。
「……いいと思う、としか言えないよ。本当は、医学的な死亡時刻と、公式の死亡時刻は合致させたいけれど、そんなことを言っていられる状況ではないのは分かるわ」
私が軽くため息をつきながら兄に答えると、
「ならば、総理大臣と伊藤総裁の案を容れよう。お父様の崩御は、11月7日の午前0時3分で……」
兄はしっかりした声で言った。
「かしこまりました。それでは、午前0時20分から、賢所で祭典を行い、同時に正殿で剣璽渡御の儀を行う予定と致します」
山縣さんの言葉に、兄は「……よろしく頼む」と言って首を縦に振る。それを確認した山縣さんは、下座に詰めかけている皇族や政府高官たちに向き直り、
「皆様方にお伝えします」
と大きな声で呼びかけた。
「大行天皇のご崩御は2時間秘し、明日午前0時3分に発喪します。また、明日午前0時20分より、剣璽渡御の儀を行います」
大行天皇というのは、天皇が崩御した後、追号が贈られるまでの呼び方だ。まだお父様に追号は贈られていないので、“史実”と同じように“明治天皇”と呼ぶことはできない。山縣さんの言葉で、宮内省の職員たちは涙をこらえながらも動き出し、うなだれていた見舞客たちも、お父様の亡骸に頭を下げてから、席を立ち始めた。
「章子、お前もそろそろ身支度をして来い。剣璽渡御の儀での動きも確認しておけよ」
兄が私にこう言ったのは、広間に座っていた見舞客の半分ほどが退出した時だった。
「え……私、その儀式に出るの?」
私が問い返すと、兄はたちまち渋い表情になり、「当たり前だ」と小さな声で私を叱りつけた。
「剣璽と国璽・御璽を俺の前に置くのは、内大臣のお前の役目だ。それくらい把握しておけ」
皇居に入った時には、自分が内大臣になるなどとはこれっぽっちも考えてなかったのだから、そんなもの、把握している訳がない。そう兄に反論しようとしたけれど、止めた。お父様の前で兄と言い争いを始めたら、お父様が悲しむだろう。
と、
「いや、すまん……。俺も、気が立ってしまっていた。今のお前に、そこまで要求するのは無茶だ」
兄が寂しそうに微笑した。「お父様が重態だと聞いて以来、お前はお父様のご体調のことしか考えられなかっただろうし……」
黙って兄に頷くと、私の目からジワリと涙が溢れた。ベルリンで、あの第1報を耳にして以来の出来事が、一気に脳裏を駆け抜ける。様々な感情の混じった暴風に心をズタズタに引き千切られそうになり、私は慌てて頭を左右に振り、思い出を頭から追い出した。今は、悲しみに浸っている場合ではないのだ。
「お前の話を聞いてやらねばならないな。俺も、お前とゆっくり話したいが、今はその暇がない」
兄の優しい瞳が私に向けられる。その瞳の奥に、辛さを垣間見たような気がして、私はハッとした。……そうだ。辛いのは、兄も同じなのだ。私と同じ、お父様の子であり、しかも、天皇の位を継ぐ兄には、私のそれより、はるかに重いプレッシャーが掛かっている。そんな状態なのに、兄は私を思いやってくれているのだ。
「剣璽渡御の儀が終われば、朝までは暇になるだろう。お父様の夜伽をしながら、積もる話をしようか」
「うん……ありがとう、兄上」
微笑してくれた兄に深く一礼すると、私はお父様の亡骸にも一礼して、お父様の病室を後にした。
1916(明治49)年11月6日月曜日午後11時30分。
奥御殿の空いている部屋を借りて、黒い通常礼装に着替えた私は、表御座所に向かって歩いていた。私の後ろには、やはり黒の通常礼装を着た千夏さんが従っている。外遊中に、外国の要人の葬儀に急遽参列する事態になった時に備え、荷物の中に喪服は準備していたのだけれど、まさかこんな形で着用することになるとは、夢にも思っていなかった。
「宮さま……いえ、内府殿下」
後ろから千夏さんがこう話しかけたので、
「宮さまでいいよ、千夏さん」
私は立ち止まって振り返り、乳母子に苦笑を向けた。
「あなたにまでそう呼ばれると、流石に調子が狂うから」
「で、ですが……」
千夏さんは強張った顔で私を見た。「内大臣にご就任遊ばしたのですから、これからは、そうお呼びしなければ……」
「確かにそうだけれど、私は家に戻れば、単なる栽仁殿下の妻なのよ」
私は千夏さんにこう言ってみた。
「それに、私と千夏さんは、生まれた時からの仲じゃない。そんな親しい人にまで堅苦しい呼び方をされると、息がつまってしまうわ。だから、千夏さんは、私のことを今まで通り、“宮さま”と呼んで」
私の命令に、千夏さんは不満そうな表情になった。
「何で不満なのよ……」
私のため息交じりの問いに、
「ここは宮中でございます」
千夏さんは声を潜めて答えた。「女官や侍従の方々の目もございます。その方々の前で、千夏が“宮さま”と呼んでしまえば、千夏は礼儀知らずと馬鹿にされてしまいます」
「んー……じゃあ、家では、私のことを“宮さま”と呼んでちょうだい。女官さんも侍従さんもいないのだから。ね?」
私が両手を合わせ、拝むようにして千夏さんに頼み込んだ時、
「母上……?」
可愛らしく、そして、懐かしい声が私の耳に届いた。
「ま、万智子……?」
お父様の御座所の方角、行く手の廊下の先に、黒橡色の袿に柑子色の袴を付けた女性が立っている。大山さんの奥様の捨松さんだ。そして、その隣には、捨松さんと同じ格好をした、私と栽仁殿下の長女・万智子が立っていた。私は娘に向かって駆け出し、滑り込むようにしながら、彼女の前に両膝で立った。
「母上、お帰りなさい!」
「ただいま、万智子……」
微笑する長女に、私は精一杯の笑顔を作って応じた。そして、万智子の身体を抱き寄せた。何十日かぶりに味わう我が子の温もりが、身体と心にしみわたっていく。
「……万智子、あなた、どうして宮中にいるの?」
万智子の温もりを一通り味わったところで、ふと気が付いた私は彼女に尋ねた。例え皇族の一員といえども、成人していない皇族の子女が、こんな夜遅くに宮中にいるのはあり得ないことだ。
すると、
「お子様がた、皆さまでお別れのご挨拶を……と、宮中からご連絡がありまして、お連れ申し上げたのです」
万智子のそばにいた捨松さんが答えてくれた。「謙仁王殿下と禎仁王殿下も、向こうにいらっしゃいます。今は若宮殿下とお話していらっしゃいますが」
「なるほど……」
それで事情が飲み込めた。これから始まるお父様の葬儀の一連の儀式には、直宮でない限り、未成年者が参列するのは難しい。けれど、私の子供たちや昌子さまたちの子供たちのように、お父様には外孫が何人もいる。その子たちに、お父様とお別れをしてもらおう……どうやらこういう趣旨で、万智子たちが呼ばれたようだ。恐らく、兄かお母様の配慮だろう。
と、
「母上?」
私の腕に抱かれていた万智子が、心配そうな表情で私を見つめた。
「なんだか、とてもお辛そう……。どうなさったの?」
「うん……。万智子のおじじ様が亡くなったから、悲しいの」
何でもないと取り繕うのは、かえって良くないだろう。私は正直に娘に答えた。
「それとね……母上は、今日から、伯父上の御用をすることになったの」
万智子と目をしっかり合わせて告げると、彼女は「伯父上の御用?」と可愛らしく首を傾げた。
「そう、伯父上の御用を、ずっと。だから、万智子たちに、また寂しい思いをさせてしまう……」
それ以上言葉を続けられなくなり、私は目を伏せた。万智子はそんな私をしばし見つめた後、
「でも、母上。毎日おうちに帰ってくるでしょう?」
と私に尋ねた。
「うーん……伯父上の行幸がある時や、今日みたいに本当に忙しい時は帰れないだろうけれど、大体の日は帰れる……かな?」
三条さんと勝先生が内大臣を務めていた時、内大臣の仕事が忙しくて宮中から帰れなかった、という話は聞いたことがない。だから、私がよほどのヘマをしなければ、毎日家には帰れるだろう。
すると、
「なら、私は大丈夫よ、母上」
万智子は私に笑顔で言った。
「万智子……」
「だって、母上、ご旅行中はずっとおうちにいなかったもの。最近は、おじじ様のご体調が悪かったから、桂のおじ様や山縣のおじい様も、有栖川のおじい様もおばあ様も、おうちにいらしてくれなくて、私たち、ずっと寂しかったの。でも、これからは、母上がおうちに帰って来てくださるから、私、寂しくありません」
万智子は元気に答えると、可愛らしい目で私をじっと見た。
(ま、まだ5歳なのに、なんでこの子は、こんなにしっかりしているのよ……)
普通なら、親が恋しくて仕方がない時期のはずだ。それなのに、万智子は「寂しくない」と、気丈に笑顔を見せている。まだ小学校にも上がっていない娘に、無理をさせてしまっているのではないか、という思いが胸にこみ上げ、私は涙をこぼした。
「母上、どうしたの。泣かないで。私がよしよし、ってしてあげます」
私の涙を見た万智子は、私の頭に右手を伸ばし、優しい手つきでなで始めた。
「ま、万智子……どうしてそんなに、よくできた娘なのよ、あなたは……」
剣璽渡御の儀が始まるまで、あと1時間を切っている。そんな大事な時なのに、万智子と、万智子の呼びかけで集まった謙仁と禎仁と栽仁殿下に頭を撫でられながら、私は涙をポロポロこぼし続けたのだった。
1916(明治49)年11月7日火曜日午前0時15分、皇居。
表御座所の廊下には、黒いフロックコートを着た宮内省の職員や侍従さんたち、そして軍服をまとった皇族の成人男子や侍従武官たちが整列していた。服装はバラバラではあるけれど、全員、左腕に黒い紗の腕章を巻いているのは共通している。ただ1人、黒い通常礼装をまとっている私だけが浮いている気がするけれど、内大臣がこの儀式に参列することは登極令で定められているので仕方がない。
やがて、黒いフロックコートを着た兄が廊下に姿を現す。私たちが兄に一斉に最敬礼した後、列は兄を含めた上で再び整えられ、静かに前へと進み始めた。
剣璽渡御の儀で、まず正殿の中に入るのは兄と、兄に供奉する皇族たちである。彼らが所定の位置についた後、宮内省の式部次官と一緒に、私が兄の前に進み出る。私に従う侍従さんたちが奉じるのは宝剣と神璽、そして、その後ろを歩く内大臣秘書官が捧げ持つのは国璽と御璽だった。お父様が天皇として所持していた宝剣と神璽、そして国璽と御璽を、兄が受け継いで天皇となる……それは私が、それらを兄の前にある“案”と呼ばれる机に置くと成立するのだ。
(っ……!)
宝剣が納められている錦に包まれた長細い箱を侍従さんから受け取った時、息がつまりそうになった。歴代の天皇が受け継いできたものを、今、私が捧げ持っているという、その事実に打ちひしがれそうになったのだ。けれど、私がちゃんと役目を果たさなければ、兄は天皇になることができない。私は必死に心を落ち着けると、箱を作法通り案の上に置いた。続いて神璽、そして国璽と御璽を、兄の前の案に、丁寧に置いていった。
御璽を置いて一礼し、頭を上げると、兄が私の目を見つめ、軽く頷いた。「よくやりおおせた」……兄の目は、そう言っているように思われた。
(私……頑張るよ、兄上。主治医として、私の持つ全てを使って、兄上を、あらゆる苦難から守る。必ず……)
幼い頃から、胸の中で、何度も誓っていたこと。私は今、新しい天皇となった兄に、改めて誓ったのだった。
※本章の参考文献は「大正天皇実録」「昭憲皇太后実録」の他、「明治宮殿のさんざめき」(米窪明美、2013年、文芸春秋)「女官」(山川三千子、2016年、講談社)「宮中五十年」(坊城俊良、2018年、講談社)あたりや官報がベースになります。他にも多数参照することになると思います。
※なお、式次第については、想像で補って書いているところが多数ありますのでご了承ください。




