極東から日本へ
※曜日ミスを修正しました。(2022年10月23日)
1916(明治49)年11月4日土曜日午後2時30分、新イスラエル共和国・ハバロフスク駅。
『大統領閣下自ら、ここまでお出迎えいただき、大変恐縮です』
特別列車内のサロン車。私の弟・鞍馬宮輝仁さまが英語で挨拶したのは、1906(明治39)年に極東戦争の講和条約の結果、ロシア帝国の沿海州と樺太を領土として建国された新イスラエル共和国の大統領、オスカー・ソロモン・ストラウスさんである。ストラウスさんは現在65歳。ユダヤ系の家庭に生まれ、ドイツからアメリカに移住した彼は、アメリカ政府でオスマン帝国駐在公使を何度か務めた。そして、新イスラエル共和国が建国されることを知ると沿海州に移住し、新イスラエル共和国の発展に尽くしてきた。
『しかも、ウラジオストックから、ここまでおいでいただくとは……』
栽仁殿下が英語で言って頭を下げる。このハバロフスクから新イスラエル共和国の首都・ウラジオストックまでは、列車で約16時間かかるそうだ。
『いや、このくらいは何ということはありません。建国の女神が我が国を通られるのであれば、我々は最大級のもてなしをしなければならないのですから……』
栽仁殿下に、ストラウスさんは神妙な顔つきで答える。
(建国の女神?)
栽仁殿下の隣に立つ私が首を傾げた時、
『章子妃殿下……維新以来、初の女性の軍医であり、初めて女性として貴族院議長を務められ、そして、この新イスラエル共和国を生み出したお方……あなた様にこうしてお会いできたこと、光栄に存じます!』
ストラウスさんは私に向かって勢いよく頭を下げた。
『ちょ……ちょっと待ってください、大統領閣下。私が貴国を生み出したというのは、一体どういうことですか』
私は極東戦争の講和会議には出席していない。そして、講和会議の後、新イスラエル共和国建国のために設置された“極東平和委員会”にも、もちろん参加していない。だから、ストラウスさんの言ったことが、さっぱり理解できなかった。
『何をおっしゃいますか、妃殿下。私はちゃんと知っているのですよ』
すると、戸惑う私に、ストラウスさんはニコニコしながらこう言った。
『黒田閣下と松方閣下と桂閣下から教えていただいたのですよ。この和平案は、陸奥閣下が提案したということになってはいるが、実はそうではなく、初めにこの案を言い出されたのは章子内親王殿下であると』
(え゛)
『しかし、その事実が世界に公表されれば、内親王殿下に世界中から結婚の申し込みが殺到してしまう。内親王殿下は元々、国軍条例で外国人との結婚を禁じられている身であらせられますのに、そのような事態になってしまっては、結婚を申し込んでしまった外国の方々にかえって申し訳がない。それゆえ、表向きには、和平案は陸奥閣下が提案したことになった、と……私はこのように、黒田閣下たちから教えていただいたのです!』
(黒田さん゛っっっっ!!)
なぜか誇らしげなストラウスさんの前で、私は頭を抱えたいのを必死に我慢した。私が提案したと言っても、誰も信じてくれないだろうと思ったので、あの和平案は陸奥さんが考えたということにしてもらったのだけれど、黒田さんはその裏事情を、ストラウスさんに話してしまったようだ。
「ウソだろ、章姉上……極東戦争の和平案って、章姉上が思いついたのかよ……」
輝仁さまがそう言いながら、目を丸くして私を見つめている。栽仁殿下も驚きの表情になっている。……そう言えば、この2人には、極東戦争の講和案がどういう経緯でできたかは話していなかった。誤魔化し笑いを顔に浮かべた私に、
『本当は、妃殿下にこの新イスラエル共和国にゆっくりご滞在いただいて、共和国の発展をご覧いただきたいのです。ハバロフスクに今度できる大通りには“フミコ通り”と名前を付ける予定ですし、ウラジオストックには、共和国建国10周年記念事業として、大統領府前の広場に章子妃殿下の銅像を建立する計画が進んでおりまして……』
ストラウスさんは、とんでもない話を投げつけた。“ヤメレ”と叫びかけた私は慌てて言葉を飲み込み、わざとらしく咳ばらいをすると、
『あ、あの……通りに私の名前を付けるとか、銅像を建立するという話は、是非取りやめていただければと思います!私、余り目立ちたくありませんので!』
ストラウスさんに必死にお願いした。
『そうですか……』
ストラウスさんは一瞬、残念そうに顔をゆがめたけれど、すぐに真面目な表情に戻り、
『事情は日本の大使から伺っています。今は一刻も早く、日本にお戻りになりたいと考えていらっしゃるでしょう。ウラジオストックまでの道中、列車が1分1秒でも早く、安全に到着するよう、そして、少しでもこの列車内で長旅の疲れを取っていただけますよう、精一杯おもてなしをさせていただきます』
そう言って、私たちに最敬礼したのだった。
1916(明治49)年11月5日日曜日午前6時30分、新イスラエル共和国・ウラジオストック駅。
『我々はここまでですね』
ベルリンからの特別列車が滑り込んだウラジオストック駅のプラットホームで、私たちと相対したストラウス大統領は名残惜しそうに言った。
『心のこもったおもてなし、本当にありがとうございました』
私は頭を下げ、丁重にストラウスさんにお礼を述べた。
ハバロフスクで列車に乗り込んだストラウスさんたちは、車内の環境を快適に保つよう気を配ってくれた。更に、イスラエル共和国に移住した日本人の料理人を何人か連れてきており、私たちに和食を振る舞ったのだ。日本を7月末に出発して以来、和食に全くありつけなかった私たちにとって、これは嬉しい出来事で、久々の日本の味を、私たちは心行くまで堪能したのだった。
『殿下方に喜んでいただけたようで、何よりでございます。本当は、もっと殿下方をもてなしたいのですが……時間がありません。このウラジオストックの港に、殿下方を迎えに来た日本の軍艦が待機しております。そちらにご移動願います』
『わかりました。本当にお世話になり、ありがとうございました』
輝仁さまがストラウスさんに頭を下げる。慌ただしく別れの挨拶を済ませると、私たちは港に向かった。ウラジオストック駅のすぐ近くに、ウラジオストック港の桟橋があるのだ。
「どの軍艦が来るのかしら……」
港に向かって歩きながら、私は呟いた。私たちを迎えに行くために、日本から軍艦が派遣されるという連絡はハバロフスクでもらっていたけれど、どの軍艦が来るかまでは分からなかったのだ。ただ、どの軍艦が来るにしても、客船を使うより、移動の時間は短縮できるだろう。
「駆逐艦なら、相当な速度が出るけれど、この一行全員を乗せるのは無理かな」
私をエスコートする栽仁殿下が、私の呟きを拾ってこう応じた。
「それに、どうしても船体が小さいから、かなり揺れると思うよ」
「……船酔いする人が出るかしら。私も船酔いになっちゃうかもしれないわね」
私は夫に苦笑いを向ける。幸い、私たち一行の中で、今までの道中で船酔いになってしまったのは輝仁さまだけだ。けれど、海兵中尉である栽仁殿下がそう言うのなら、私も覚悟しないといけないかもしれない。
「大丈夫だよ。もし章子さんが倒れたら、僕が看病するから」
栽仁殿下が微笑した瞬間、視界が開け、ウラジオストック港の全景が目に入る。桟橋に、どこかで見たことのある軍艦が横付けされていた。
「“筑摩”だ!」
軍艦を見た栽仁殿下が小さく叫んだ。
「ええと……“筑摩”って、利根型の2番艦だっけ?」
「そうだよ。章子さんは“利根”の進水式に出席したよね」
私の確認に、栽仁殿下は嬉しそうに頷く。「あの艦影、利根型のもので間違いない。それに、桟橋に立っている背の高い男性、“筑摩”の百武三郎艦長じゃないかな」
私たちが桟橋に近づいていくと、桟橋に立っていた数名の男性が私たちに向かって敬礼する。彼らに答礼をすると、栽仁殿下は「百武艦長、お久しぶりです」と声を掛けた。
「お久しゅうございます、若宮殿下」
2等巡洋艦・“筑摩”の艦長である百武三郎海兵大佐は、落ち着いた口調で栽仁殿下に挨拶すると、
「これより、殿下方を敦賀へ送り届けさせていただきます。敦賀からは特別列車で東京へ向かっていただく手はずとなっております」
と私たちに告げた。
すると、
「艦長、航海の間、何か僕にお手伝いできることはありませんか?」
栽仁殿下が一歩前に進み出て、百武艦長に申し出た。
「若宮殿下……」
目を見開いた百武艦長に、
「僕も海兵中尉です。どうぞ、何なりと役目を申し付けてください」
栽仁殿下は真剣な表情で言った。
「私も、何かあればお手伝いします。ちゃんと診察道具は持ってきていますし」
「俺も手伝います!」
栽仁殿下に続き、私と輝仁さまも百武艦長に申し出る。艦長は静かに首を横に振り、「それはなりません」と私たちを制した。
「殿下方のお気持ちはまことにありがたく存じますが、総理大臣閣下から、“殿下方には、敦賀ご到着まで、艦内でゆっくりお休みいただくように”と申し渡されております。殿下方にも、総理大臣閣下から、“御帰京まではしっかりお休みいただき、ご帰京の暁には、皇族としてのご本分をしっかり果たされますように”とご伝言を預かっております」
「「「……」」」
私も、栽仁殿下も輝仁さまも、艦長の言葉に黙り込んでしまった。国軍の指揮権は、内閣総理大臣にある。だから、軍人として、私たちは総理大臣の命令に従わなくてはならないのだ。
「さぁ、時間が惜しいですから、一刻も早く“筑摩”にお乗りいただきますよう、お願いいたします」
百武艦長に従い、私たちは2等巡洋艦“筑摩”に乗り込んだ。人員と荷物の移動が終わると、“筑摩”は直ちに桟橋から離れた。
“筑摩”の船内で、私は百武艦長から大きな封筒を受け取った。“極秘”と表に大きく書かれた封筒の中身は、“筑摩”が舞鶴港を出発する前日、11月2日の朝までのお父様の診療録の写しだった。恐らく、山縣さんをはじめ、梨花会の面々の配慮で、写しが私の手に渡ったのだろう。丁寧な文字で書かれた診療録を、私は一文字一文字、食い入るようにして読んだ。
「梨花さん、もう寝ないといけないよ。軍艦の朝は早いんだ。それに、明日には東京に戻れるんだから、しっかり寝て体調を整えないと」
食事の時以外、割り当てられた部屋にこもって診療録の写しを読んでいた私に、栽仁殿下が後ろから声を掛けた。ハッと気が付いて時計を見ると、もう消灯の時刻になっている。
「そ、そうね。寝ないと……」
私が返事して、机の上に広げていた診療録を封筒の中にしまっていると、
「梨花さんの読んでいるそれは……天皇陛下のご病状について書かれた書類かな?」
栽仁殿下が私に尋ねた。私は黙って頷いた。
「どんなご病状なのか、教えてもらってもいいかな?」
「……今はダメ」
夫の問いに、私は首を左右に振った。
「どうして?やっぱり、極秘扱いだから?」
「そういうことじゃなくて……」
私は夫に向かって、もう一度首を左右に振ると、
「考えの整理がつかないの」
と小さな声で言った。
「私が最後に取ったお父様の診察所見と、この診療録の診察所見とが全然違っていて……本当にお父様の所見なのか、納得できない、納得したくない気持ちもあって……だから、今、他の人に上手く説明できない」
「そうか」
「……お父様を診察したい。それか、お父様を診察した先生の話を聞きたい。そうしないと、私、納得できない。私自身が納得しないと、他の人に説明できない……」
冷静にならなければいけない。そう自分に言い聞かせても、湧き上がる感情に結論が揺れ、事情を説明する声が震える。この期に及んで、醜態を晒してしまっている私の両肩を、栽仁殿下が後ろからそっと支えた。
「……事情は分かったよ、梨花さん」
「……」
「でもね、それならなおさら、今はベッドに入るべきだ。明日東京に着いたら、梨花さんは天皇陛下の診療に当たらないといけないんだから、しっかり体力を回復させないと」
肩に置かれた手から、栽仁殿下の温もりが伝わってくる。口を引き結んだ私は、黙って頷いた。確かに、栽仁殿下の言う通りだ。私は診療録の写しを全て封筒の中に入れると、封筒を机の上に置き、静かに立ち上がった。
1916(明治49)年11月6日月曜日午前6時40分、敦賀港。
「はぁ……久しぶりの日本だ」
敦賀港の岸壁。“筑摩”の艦載艇から降り立った輝仁さまは、港の周囲を見渡しながら呟いた。
「そうね……」
夜が明けたばかりの空をぼんやりと見ながら、私は弟に応じた。最大速力の30ノットに近いスピードを出したので、“筑摩”はウラジオストックと敦賀の間を約24時間で航行した。今の時代の客船なら約40時間かかるので、東京までの時間をかなり短縮することができた。“筑摩”をウラジオストックに派遣してくれた内閣総理大臣の渋沢さんには、感謝するしかない。これなら、今日の夜には東京に戻れる。
(けれど、それで間に合うかしら……こうしている間にも、診療録の記載が事実なら、お父様は、もしかしたら今頃……)
「章姉上、どうした?」
考えに沈んでいた私の意識を、輝仁さまの声が急に引き戻した。ハッとして見ると、弟は訝しげな視線を私に投げている。
「あ……ごめんね。ちょっと、ぼーっとしちゃって……」
慌てて誤魔化し笑いを顔に浮かべると、
「ま、いいや。とにかく、さっさと駅に行こうぜ。列車が待ってるし」
輝仁さまはそう言って、前方を指さした。この敦賀港は大規模な改修工事が行われたばかりで、岸壁に鉄道の駅がある。プラットホームに停車した蒸気機関車の煙突からは、盛んに煙が吐き出されていた。
その列車のそばに、1人の男性が立っている。駅員かと一瞬思ったけれど、彼が着ているのは駅員の制服ではなく、フロックコートだ。そして、その男性の顔は、私のよく知る人物のものだった。
「近藤先生?!」
私の声に、東京帝国大学医科大学外科学教授の近藤次繁先生は、黙って深く頭を下げた――。




