ドイツ(7)
1916(明治49)年10月22日日曜日午後7時58分、ベルリン市内中心部にあるベルリン王宮の食堂。
「……ウソだよね、大山さん?」
報告を受けた私は、震える声で大山さんに確認した。
「お父様が重態だなんて、ウソの情報だよね……?」
けれど、
「残念ながら……」
強張った顔のまま、大山さんは頭を横に振った。「俺も、情報を持ってきた大使館の職員に何度も確かめました。それは本当に、山縣さんから発せられた電報なのか、と。しかし……何度確かめても、間違いなく、東京の山縣さんからの電報でした……」
「ウソよ……」
私は大山さんを睨みつけた。「そんなの、ウソよ……」
「章子さん」
隣に座っている栽仁殿下が、私の左手を握った。
「健康診断したのよ?皇居の敷地に医療棟まで建ててもらって、あなたたちにも協力してもらってお父様を無理やり引っ張って来て、今の医学でやれるだけの検査をして、“問題なし”と結論が出たのよ?私だって、お父様に嫌がられながら、東京帝大の先生方と一緒に、何度も……この外遊に出発する直前まで診察して、所見に問題がないことを確認して……それなのに、なんで……なんでお父様が重態になるの?!そんなの……そんなの、絶対おかしい!」
と、
「章子さん、落ち着いて」
栽仁殿下が私の手を離し、両手を私の両肩に置いた。
「栽さん……でも……!」
「落ち着いて」
反論しようとした私の目を真正面から見つめ、栽仁殿下は命じるように、そしてなだめるように私に言う。
「僕も……僕だって信じられない。僕たちが日本を発つ時、あんなにお元気そうに“三笠”から皇后陛下とご一緒にお見送りくださった天皇陛下がご重態だなんて、何が起こっているのか、さっぱり分からない。……でも梨花さん、落ち着いて。今は、公式の晩餐会の最中なんだ」
「……」
口を閉じた私の身体を、栽仁殿下が抱き寄せる。彼の胸に顔を埋めると、涙がひとりでに溢れてきた。
先ほどまで食堂内に漂っていた和やかな雰囲気は、今はすっかり消え去っている。日本側の出席者は、全員が明らかに動揺して、顔を青ざめさせている者、「そんなはずはない!」と叫び出す者、泣き出す者が続出していた。輝仁さまも、自分のところに知らせを持ってきた幣原さんに、「そんなのおかしいだろ!俺は信じないぞ!俺たちが日本を出発する時、お父様、あんなに元気だったじゃないか!」と食って掛かり、お付き武官の山本五十六航空大尉に止められていた。
日本側の出席者の様子が変わったのを訝しく思うドイツ側の出席者たちに、日本人たちの声を拾った通訳が、断片的な情報を伝え始める。次第に、ドイツ側の出席者たちからも、『日本の天皇陛下が重病らしい』『重病?!もう、最悪の状態でもおかしくないぞ……』という声が聞かれはじめ、一気に全体に広がっていった。
「……日本に、戻らねばなりません」
食堂がざわめく中、大山さんが声を絞り出した。
「それも、急いで、ということになりますね……」
私を抱き寄せたまま、栽仁殿下が暗い声で応じる。「スエズ運河を経由すれば、イタリアから東京まで、40日は掛かってしまいます」
イタリアのナポリから客船に乗り、スエズ運河を経由して日本に戻る……それは、当初、私たちの帰路として想定されていた経路だ。そのルートだと、栽仁殿下の言う通り、イタリアから東京まで1か月以上かかる。もちろん、このベルリンからナポリまでの移動時間も考慮しなければならないから、東京にたどり着くまで、1か月半は必要になるだろう。
「じゃあ、大西洋回りなら、もう少し早く東京に着ける?」
「それでも、1か月はかかると考えるべきです」
私の問いに、大山さんは辛そうな声で答えた。「イギリスから大西洋を渡ってアメリカ東海岸へ、そしてアメリカ大陸を鉄道で横断して西海岸に出て、そこから太平洋を船で渡る……それで1か月弱の期間が必要です。ここからイギリスに移動する時間も考えなければなりません。スエズ運河を経由するよりは時間は短縮されますが、東京に戻るまで、1か月は掛かります」
「……」
私は歯を食いしばって、大山さんの説明を聞いていた。
お父様の“重態”というのは、具体的にはどのような状態なのだろうか。意識レベルはどうなのか。高熱は出ていないのか。脈拍数や呼吸数、血圧はどうなのか。現在、どんな症状があり、どんな治療がされているのか。そして、何が原因で、“重態”に至ってしまったのか……。
(全然分からない……情報が少なすぎる!そもそも、いつの時点で発信された情報なのよ!お父様は生きているの?それとも……)
頭の中に次々浮かぶ疑問は、適切な答えを与えられないまま宙をさ迷い、私の心を急き立てる。居ても立っても居られなくなり、更に情報を得ようと、私が口を開こうとしたその時、
『よし、朕の麗しく美しい女神のために、ポツダム駅からウラジオストック駅まで、特別列車を走らせるのだ!明日の正午までに、ポツダム駅を発車できるようにしろ!よいな!』
皇帝の堂々とした声が食堂に響き渡った。命令に応じて、皇帝の侍従たちが、食堂から小走りで去って行く。
「ウ……、ウラジオストックまでの特別列車?」
私が呟くと、
「そうか、シベリア鉄道か」
栽仁殿下が頷いた。「確かにそれが、東京まで一番早く到着する」
シベリア鉄道……新イスラエル共和国の首都となったウラジオストックから、シベリアを横断してヨーロッパへと連絡する鉄道だ。ヨーロッパ各地の駅との直通運転もしていると聞いた記憶があるけれど……。
『どうしたのだ、美しい女神よ』
皇帝が不思議そうな表情で私に尋ねた。『このベルリンからウラジオストックまで、列車が全速力を出せば2週間で到着するだろう。美しい女神をお父君の所へ一刻でも早く送り届けるには、これが一番よい』
『お、恐れながら、皇帝陛下……』
私は椅子から立ち上がると、皇帝に頭を下げた。
『皇帝陛下のおっしゃる経路では、必ずシベリア鉄道を……つまり、ロシア帝国の領土を通ることになります。ロシアの国民、特に軍人の中には、“皇帝に道を誤らせた魔女”と私を恨む者も一定数いると聞き及びます。だからこそ私たちも、シベリア鉄道を使わずに、このヨーロッパから日本に戻る予定でおりました。もし私がロシア帝国領を通ると分かれば、私を狙った襲撃がロシア帝国で発生する可能性が……』
『おのれ、ミハイル!』
私の言葉の語尾は、皇帝の怒鳴り声でかき消された。皇帝の立派なカイゼルひげの先が、小刻みに震えている。
「へ……?」
何が起こったのか、とっさに把握できない私の前で、
『女神の身を狙う愚かな兄に天罰が下った……ただそれだけのことであるというのに、あの青二才は……ミハイルは逆恨みして、朕の美しく麗しい女神の御身を害し奉らんとするのか?!』
顔を真っ赤に染めた皇帝は、ロシア帝国の皇帝・ミハイル2世に怒りを炸裂させた。
『かくなる上は、朕自ら、ドイツ陸軍300万の屈強な勇士を率いて陣頭に立ち、オーストリア軍と共にロシアに攻め込む!ナポレオン・ボナパルトが成しえなかったサンクトペテルブルク制圧を成し遂げてミハイルを朕の軍門に降し、朕の麗しい女神の往く道の先駆けをつかまつらん!』
「ヤメレ!」
私は思わず、皇帝に日本語でツッコミを入れてしまった。……言ってしまってから、今の時代の言葉ではないと気が付いたけれど、もう訂正する余裕は無かった。ドイツとオーストリアがロシアに攻め入る……どう考えても、世界大戦の開幕である。
『ん?どうなさった、朕の麗しい女神よ。“ヤメレ”……というのは、朕の行動を支持してくださるのか?』
なぜか私のツッコミを拾ってしまい、しかもそれを妙な方向に理解している皇帝に、
『ち、違います!……今のは、“絶対に、兵を出すというような野蛮なことはしないでくれ。さもなくば絶交する”、という意味です!』
私はとっさにこう答えた。
『おお……何とお優しい方なのだ、朕の麗しい女神は……。そこまでおっしゃるならば、兵を出すのはやめよう……』
私のドイツ語を聞いた皇帝は、両目からあふれる涙を手で拭う。どうやら、訳が分からない理由で世界大戦が始まるのは回避できたようだけれど……。
(ああ、もう、何なんだよ、この皇帝は……)
私が頭を抱えたくなった時、
「……皇帝陛下のお申し出は、受けられる方がよろしいでしょう」
大山さんが私の横からそっと囁いた。「特別列車を出してくださるというのならば、それをありがたく使わせてもらいましょう」
「……私がロシア人に嫌われていなければ、確かに渡りに船よ」
私は我が臣下に小声で答えた。「だけど、本当に……私を標的にしたテロが起こる可能性もゼロではないわ。それにみんなを巻き込んでしまうのは……こうなったら、みんなは特別列車で帰ってもらって、私だけアメリカ経由で日本に……」
すると、
「なりません」
大山さんは頭を左右に振った。「梨花さまには、1分1秒でも早く、天皇陛下のおそばに、そして、皇太子殿下のおそばについていただかなければなりません」
「それは、私もそうしたいけれど……」
「梨花さま」
迷う私の目を、大山さんがじっと見つめた。
「俺が、梨花さまをお守りいたします。俺の持つ、全ての力で」
大山さんの声は小さかった。けれど、彼の身体からは、少し浴びただけで死んでしまいそうな殺気が、静かに放たれていた。
と、
「大山閣下、ずるいですよ」
そう言いながら、栽仁殿下が椅子から立ち上がった。「愛する妻を守るのは、夫の役目です。大山閣下に、全てを取られる訳にはいきません」
「これは失礼いたしました」
大山さんが栽仁殿下に頭を下げる。その大げさな動作がおかしくて、少しだけ私の口元が緩む。普段なら笑い出しているところだけれど、今はとてもそんな気分になれなかった。
「鞍馬宮殿下」
皇帝の発言の内容をそばにいる通訳から聞き取った輝仁さまに、夫は固い表情で呼びかけた。
「皇帝陛下のお申し出、ありがたく受けさせていただき、特別列車で明日、ウラジオストックに向かうのがよろしいのではないかと考えます。鞍馬宮殿下のお考えはいかがでしょうか?」
「俺もそうしたいです、栽仁兄さま」
輝仁さまは大きく頷いた。「お父様が重態って……全然信じられないけど、一刻も早く日本に戻らないと」
「では、皇帝陛下のお申し出、受けさせていただきましょう」
大山さんの言葉に、私が首を縦に振ると、栽仁殿下は再び私の手を取った。
1916(明治49)年10月23日月曜日午前11時30分、ベルリン市内にあるポツダム駅。
「わざわざお見送りいただき、本当にありがとうございます」
ウラジオストックに向かう特別列車が停まったプラットホーム。乗降口近くに立った私たちの前には、このベルリンにやって来た時と同じように、ドイツ帝国の皇帝・ヴィルヘルム2世がいた。
『気にしないでくれたまえ、輝仁殿下。元々、朕は君たちをこうして見送るつもりでいたのだ』
ドイツ語に訳された輝仁さまのお礼を聞いた皇帝は、首を横に振ると、
『しかし、君たちの行先が、ウィーンではなくウラジオストックになるとは、まったく思いも寄らぬことだったが』
と、沈鬱な表情で言った。皇帝の言葉の日本語訳を聞いた日本側の人間は、一様にうなだれた。
『輝仁殿下よ。天皇陛下に、“どうか1日も早くご全快されるよう、心より祈っている”と伝えてはくれないか』
『……ありがとうございます。必ず、伝えさせていただきます』
輝仁さまがお礼を言ったのに合わせ、私も黙って、皇帝に頭を下げた。
『心配するな、輝仁殿下。日本は、我がドイツ帝国と同じく、医学が目覚ましい進歩を遂げている国ではないか。天皇陛下は、きっと快復される。諦めてはいけない』
皇帝はこう言いながら、輝仁さまに近づき、右肩を優しく叩く。皇帝の率直な、真心のこもった言葉を聞いた輝仁さまは、眉のあたりを曇らせると、「ありがとう、ございます……」と再び一礼した。
『貴女もだ。貴女は医師でもあるから、医学の素人である朕よりも、見えているものが多くあるだろう。……だからこそ、言っておこう。諦めてはいけない、と』
私はまた、黙って皇帝に一礼した。実は、彼が指摘した通りなのだ。私は医師として、病気の治療がうまく行った例を、何十、何百と見ている。けれど、残念ながら不幸な結末となった例も、同じように、何十、何百と見てきているのだ。それらの経過や転帰が頭にあるから、いい選択肢も悪い選択肢も、それらの時間経過も……何千、何万、いや、それ以上の組み合わせが、次々と脳裏を掠めてしまう。そして、悪い結論が私の心を蹴り飛ばす。思考でそれを打ち消しても、蹴り飛ばされた心の痛みが残ってしまうのだ。
『案ずるな、朕の女神よ。東京までの貴女の旅路は、朕の名に賭けて安全を保障しよう。朕は、御身を守る騎士なのだから』
『あ、あの……平和的な方法でお願いします』
私は何とか、皇帝に返答した。皇帝なりに私を励ましてくれているのはありがたいけれど、暴走して軍を動かすことだけは絶対にやめて欲しい。
『栽仁殿下よ、どうか女神の御身を守護していただきたい。真心こもった愛で女神の心を開かせた殿下ならば、きっと、女神の御身を朕の代わりに守れるであろう』
「……章子さんの守護に、全力を尽くします」
皇帝の呼びかけを通訳に訳してもらうと、栽仁殿下は緊張した様子で皇帝に応じた。栽仁殿下の横顔が、私にはとても頼もしいものに思えた。
「……これからたどる経路については、可能な限り、脅威を取り除いております」
特別列車がポツダム駅を発車すると、大山さんが私と夫、そして輝仁さまに小声で告げた。
「ロシアの政府・宮廷に対しては、様々な方向から、殿下方が無事にロシア帝国領内を通過できるよう、圧力を加えております。先方も、俺たちが無事に領内を通過できなかった場合、自分たちがどんな目に遭うかは分かっているでしょう。何としてでも、無事に通そうとするはずです」
「章姉上を狙った襲撃を起こして、極東戦争の再来になったら、目も当てられませんからね」
輝仁さまが大山さんに言う。確かに、今のロシアが、私を狙った襲撃事件を起こしてしまったら、全世界から非難されてしまう可能性がある。もちろん、報復の構えを取る日本に、清は賛同するだろう。ロシアの仮想敵国であるドイツとオーストリアは、皇帝の暴走が無くても、ロシア領に攻め込むかもしれない。ロシアが今、必死に関係を深めようとしているイギリスも、日本の同盟国なのだから、ロシアに敵対的な態度を取る可能性は十分に考えられるのだ。
「問題は、それを分かってない人が、私の襲撃を強行しようとする場合ね……」
私はこう呟くと顔をしかめた。私を恨んでいるロシアの人には、末端の軍人が多いと聞く。彼らが、国際情勢が分からないまま、上官の命令に違反してでも“皇帝を狂わせた魔女”を殺そうとする可能性はゼロではない。
「それも、何とかなりましょう」
大山さんは短く言うと、
「妃殿下は、お身体を少しでも休めることを心掛けてください。東京に到着した後は、どのような状況になっていようとも、妃殿下のお力が必要になりますから」
こう付け加えて、私の目を真正面から見つめる。私がそれに黙って頷くと、栽仁殿下がそっと私の身体を抱き寄せた。
……こうして、行く手への一抹の不安と、お父様の病状についての大きな心配を載せつつ、皇帝が仕立ててくれた特別列車は、遥か東方、ウラジオストック目指して、ドイツの鉄路を驀進し始めたのである。




