大西洋
※地の文を一部訂正しました。(2022年8月9日)
1916(明治49)年9月11日月曜日午後1時25分、大西洋上をイギリス・リヴァプール港に向かって航行している客船“マージー号”の一等特別室。
「その情報は正しいのね?」
午後1時半からの講義に向けて準備をしていたところにもたらされたその知らせ……本当のことなのかと耳を疑ってしまい、私は思わず、知らせを持ってきた大山さんに、強い口調で確認した。
「はい、間違いございません」
手に電報用紙を持った大山さんが、沈鬱な表情で頷きながら答えた。「去る10日の朝、激烈な狭心症発作に襲われ、お亡くなりになった、と……。霞ケ関の本邸から、至急電で参った情報ですから」
「そうですか。慶喜公が、お亡くなりに……」
栽仁殿下は、そう言うと目を伏せる。
「激烈な狭心症、か……私の時代なら、助ける術もあるけれど……」
私もため息をつきながら、大山さんにこう応じた。
(7月に会った時には、元気だったのになぁ……)
徳川慶喜さん。徳川幕府最後の将軍であり、栽仁殿下の妹・實枝子さまの舅でもある人だ。3年前の秋、私がお父様の命令で慶喜さんの肺炎を治療した後は、数か月に1度、往診に行っていた。
最後に慶喜さんに会ったのは、7月15日の夜、有栖川宮家の親族だけが集まる私と栽仁殿下の送別会を、義父の威仁親王殿下が霞ケ関の本邸で開いてくれた時だ。
――聞けば、アメリカのニューヨークには、高さ200mを超える建物がいくつもあるとか。是非ご見学になって、その時のご様子など、この老人に聞かせていただければ幸いでございます。
帰り際、慶喜さんは栽仁殿下と私にこう言った。ニューヨークでは現時点で世界一高いビルに上る機会もあったので、そこで買ったニューヨークのビル群の絵葉書を、今度慶喜さんに会った時に渡そう……そう考えていたのだ。しかし、それは叶わぬことになってしまった。
「絵葉書、無駄になっちゃったね……」
私がポツリと呟くと、
「日本に戻ったら、慶喜公のご位牌なりお墓なり、お参りさせてもらおう。その時に、實枝子と慶久どのに絵葉書を渡そうよ」
栽仁殿下が慰めるように私に言った。慶久どの、というのは、實枝子さまの夫で、慶喜さんの嗣子である。
「でも、まずは慶久どののところに弔電を打たないとね。それから、僕たちの代理で、盛岡町の誰かに弔問に行くように頼まないと」
「そうね。本邸の方でも手配をしてくれているかもしれないけれど、お葬式にも私たちの代わりに、誰かに参列してもらわないといけないわね」
夫婦2人で頷き合うと、栽仁殿下はペンを持った。手元の紙に書き付けられたのは、弔電の文章だ。
「大山閣下、これで良ければ、この文章を弔電として、東京に打電してください」
夫が差し出した紙を、大山さんは恭しく受け取る。文面に目を通すと、
「これでよろしいかと存じます。では、東京に打電して参ります。弔問や葬儀の代拝の手配もしなければなりませんから、今日の午後の講義は中止とさせてください」
そう言った大山さんは私たちに一礼し、部屋から去っていった。
「……梨花さん、どうしたの?」
栽仁殿下が、私の顔を覗き込みながら尋ねた。
「何か、心配なことがあるのかな?」
「……渋沢さんが、気落ちしてないかなって」
私は再びため息をつきながら、こう言った。内閣総理大臣の渋沢さんの主君は、慶喜さんである。武士の世の中はとうに終わっているけれど、渋沢さんは慶喜さんの伝記を編纂するなど、今も慶喜さんのことを大事に思っている。慶喜さんも満で78歳だから、いつかは死に別れる時が来ると覚悟はしていただろうけれど、この突然の死に、渋沢さんは深く悲しんでいるに違いない。
「確かに、少し心配ではあるね」
栽仁殿下は私の頭をそっと撫でた。「でも、渋沢閣下も、ご自身の務めている職の重要さは分かっておいでのはずだ。一時は落ち込まれると思うけれど、きっと立ち直って、前に向かって進んでいくさ」
優しい声で栽仁殿下は私に語り掛ける。彼の瞳の奥にある、澄んだ光を見つめていると、不安で揺さぶられようとしていた私の心が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「……そうね。お父様の譲位のこともあるから、落ち込んでいる暇なんてないものね」
私たちが外遊を終え、年末ごろに日本に戻れば、皇族会議が招集され、そこでお父様の退位が正式に決まる。本当は、もっと早く皇族会議を開催してもいいのかもしれないけれど、お父様から兄への譲位という大事なことを決めるのに、筆頭宮家の当主である輝仁さまが不在の状況で皇族会議を開くのは非常に体裁が悪い。だから、私たちが帰国してから皇族会議を招集する……梨花会の内部では、そう定められていた。
譲位が正式に決定すれば、宮中三殿にそのことを奉告する。そして、伊勢神宮と神武天皇陵、更には孝明天皇・仁孝天皇・光格天皇・後桃園天皇の陵所に、譲位をすることを奉告する勅使が派遣される。更には、お父様とお母様が伊勢神宮・神武天皇陵・孝明天皇陵を参拝する。そういった一連の諸儀式を経て、来年の3月31日にお父様が退位し、翌日の4月1日に兄が新しい天皇として即位するのだ。
「兄上が即位したら、すぐに即位礼の準備だね。その直前の来年の9月には、衆議院議員の総選挙もあるから大変だけど、まぁ、何とかなるかしら」
私が漏らした言葉に、
「何とかなるよ、きっと」
栽仁殿下は私の目を覗き込みながら応じた。
「そうね。立憲改進党にも立憲自由党にも、人材は揃っているもの。即位礼の準備中に政権交代が起こったって、即位礼はちゃんとやれるわ」
私はそう言って微笑した。梨花会の面々だけではない。立憲改進党にも立憲自由党にも、有能な人材は育っている。彼らが力を合わせれば、多少の困難は乗り越えられるだろう。
「だね」
私に相槌を打つと、栽仁殿下は、
「梨花さん、午後の講義が無しになったから、一緒にこの船の中を探検しようか。この船、総トン数が3万2500トン……金剛型より大きい船なんだ。きっと、面白いものがたくさんあるよ」
と言って、私を誘った。小さいころから好奇心旺盛な栽仁殿下は、目新しいことには首を突っ込みたがるのだ。
「いいよ、行こう」
私が頷くと、栽仁殿下は手を差し伸べる。その手をつかんで立ち上がった私を、栽仁殿下は優しくエスコートしながら歩き始めた。
夫にエスコートされながら、私は“マージ―号”の船内を歩き回った。一等食堂と一等談話室はよく使っていたけれど、読書室や郵便局、売店、大階段、プロムナードデッキ……私たちは船員さんたちに道を尋ねながら、船内の様々な場所を見物した。
太平洋航路と違って、大西洋航路の船の乗客は、欧米人がほとんどだ。だから、日本人の私と栽仁殿下は、すれ違う乗客たちから好奇の目を向けられた。けれど、蔑むような視線を投げつけられないのは、アメリカでもヨーロッパでも、日本人をはじめとするアジア人に差別的な考え方がはびこっていないからだろう。
上甲板まで来ると、見知った人物の姿があった、外務省取調局長の幣原喜重郎さんが、手すりに身体を預け、1人でぼんやりと海を眺めている。そばまで近づいて「幣原さん」と声を掛けると、彼は慌ててこちらを向き、最敬礼をした。
「申し訳ありません、幣原さん。驚かせてしまいました」
栽仁殿下が一礼すると、
「い、いえ……」
と呟きながら、幣原さんは首を左右に振り、
「午後の講義はもう終わったのでしょうか?」
と私と栽仁殿下に尋ねた。
「午後の講義は、中止になったのです。だから今は、栽仁殿下と一緒に、この船の中を見て回っていたのですけれど……幣原さん、驚かせて本当にごめんなさい」
「いえ……どうぞお気遣いなく、妃殿下。陸奥閣下に、大山閣下の裏の仕事のことを明かされた時よりは驚いておりませんから」
私の謝罪に、幣原さんはこう応じる。
「あの時は本当に……私が、“浜口さんと幣原さんをいじめるな”と、梨花会の面々にもっと強く言えていればよかったのですけれど……」
3年前のことを思い出し、私は恐縮しながら幣原さんに頭を下げた。3年前の2月、“多すぎる宮内省の予算を削って、生じた余剰金を諜報機関の創設に充てるべきだ”と、大蔵大臣の高橋是清さんに直談判しに行った幣原さんと浜口雄幸さんを、梨花会の面々は、“面白い遊び道具が手に入った”とばかりに、散々にいたぶったのだ。
すると、
「恐れながら」
幣原さんが再び頭を下げながら言った。
「妃殿下が強くおっしゃっても、あの時の結末は変わらなかったでしょう。妃殿下と梨花会の方々との関係性を考えますと、そのように思います」
(ですよねー……)
私は曖昧な笑みを顔に浮かべることしかできなかった。いくら私が元貴族院議長だと言っても、伊藤さんに大山さん、陸奥さんに山縣さん、原さんに西郷さんに大隈さん……梨花会の面々の力量に、私の才覚は遥かに劣るのだ。
「僕が余計なことをしなければ……とは思いますが、自分をより成長させてくれるような様々な経験が出来ているのも事実。運命を甘んじて受け入れるしかないのでしょうな」
そう言って渋い表情になった幣原さんに、
「あの、幣原さん。1つ質問してもいいですか?」
私は周囲に、幣原さんと栽仁殿下以外に誰もいないのを確かめてから尋ねた。
「何でございましょうか、妃殿下」
「幣原さんが、宮内省の予算について疑問に思ったきっかけは、どんなことだったのでしょうか?」
「疑問に思ったきっかけ?」
私の言葉に小首を傾げた夫に、
「うん、宮内省の予算に対して、貴衆両院の予算委員会や本会議で質問をする人は全然いないの。多分、議員たちに“宮内省の予算は、天皇陛下がお使いになるものだから、臣下が口を差し挟んではいけない”という固定観念があるから、質問をするという発想自体が湧かないのだと思うのだけれど……」
私は背景の事情を説明し始めた。
「官僚たちにも、同じような固定観念があると思う。宮内省が提出する予算には、決して削減要求をしてはいけない、という……。その固定観念を打ち破るには、強いきっかけになる出来事が必要だと思うの。それが何なのか、気になってね」
すると、
「実は、少し悪さをした……自分ではそう思っておりました」
幣原さんが、少し不思議な答え方をした。
「5年前、僕は皇太子殿下と皇太子妃殿下のご外遊にお供致しました。……あれは、日本に戻る船の中だったと思います。僕はご外遊の会計責任者に用事があり、彼と約束した時間に、彼の船室を訪問しました。ドアをノックしましたが、中から返答はありません。もし船室の中で彼が倒れていたら……そう思って、扉を開けて船室に入りましたが、中には誰もいません。用を足しに行っているのだろうと考え、部屋の中でそのまま待たせてもらうことにしたのですが、ふと机の上を見ると、ご外遊費用の帳簿が、ページが開かれたまま置かれていたのです。興味本位で帳簿の中身を覗いたところ、ご外遊に掛かった費用が約70万円……僕の予想の半分以下であることが分かりました」
「あー……兄上と節子さま、贅沢は嫌いだし、普段使う品物も、なるべく国産品で揃えるようにしているから……」
今の時代、大体の国産品は、輸入品より値段が安い。兄夫妻が服地や家具、装飾品などを、輸入品ではなく国産品で賄っているのは、国内産業の奨励のためだけれど、それだけで、必要経費は自然に抑えられるのだ。
「はい。それがどうも引っかかりまして、日本に戻ってから、宮内省の予算の内訳をそれとなく調べました。すると、様々な経費が、比較的安く抑えられていることが分かったのです。例えば、妃殿下と若宮殿下の婚儀に掛かった費用……妃殿下のドレスやお嫁入りの道具類には、最低でも30万円の費用は掛かったと僕は思っておりました。ところが、実際に掛かった費用は10万円未満でした。……それで考えたのです。宮内省の予算は多過ぎるのではないか。宮内省の役人が、天皇陛下の威光を笠に着て、予算と、実際に掛かった金額との差額を着服しているのではないか、と。もしそうならば、その金は、もっと国家のためになることに使わなければならない。そう考えて、浜口と語らって、高橋閣下の所に押し掛けたのですが……それが罠でした」
そう言うと、幣原さんは両肩を落とした。
「罠というのは、穏やかではないですが……。一体、どういうことでしょうか?」
栽仁殿下が質問すると、
「試験だったのですよ。我々が、梨花会に入るにふさわしい人物であるかどうかを試す……」
幣原さんは顔をしかめた。「僕が、皇太子殿下と皇太子妃殿下のご外遊に関する帳簿を目にしたところから、既に仕組まれていたのです。あの帳簿は、ご外遊に同行していた中央情報院の者が、わざと僕の目に触れるように置いたもの……。帳簿の内容や他の情報から、“宮内省の予算に口を出さない”という暗黙の了解を乗り越えて、宮内省の予算に疑問を抱けるかどうか。そして、宮内省の予算を削って得られた金を何に使おうと考えるか。それが合格点に達して初めて、その人間を梨花会に入れるかどうか、審査が行われる……そういう仕組みになっておりました」
(毎度毎度、梨花会の面々は本当に恐ろしいわね……)
幣原さんの話を聞いた私は、思わず頭を抱えた。盗み見た帳簿が、実は自分の力量を測るために置かれたものだと、初見で看破できる人はいないだろう。
「大山閣下の正体が見抜けていれば満点だったと、後で陸奥閣下には言われましたが、あの状況で大山閣下の正体を見抜けというのは無理難題というものです」
「幣原さんの言う通りですね。そんなこと、誰にもできませんよ」
ため息をつきながら答えた私は、
「あの……もしかして、この試験、幣原さんと浜口さんの他にも受けさせられた人がいるのでしょうか?」
と幣原さんに尋ねた。
「ええ。詳しく明かすことはできないのですが、過去に何人かの閣僚、議員、軍人が、同じような課題を仕掛けられたと聞きました。しかし、合格点に達したのは、僕と浜口が初めてだったそうです」
「そうでしたか……」
幣原さんの答えを聞いた私は、ふと、幣原さんと浜口さん以外に、梨花会の面々が“課題”を仕掛けたのは誰だったのだろうか、と疑問に思った。官僚なら、外務大臣の加藤高明さん、厚生次官の若槻禮次郎さん、宮内次官の平田東助さん、外務次官の内田康哉さんあたりは、課題を仕掛けられたのかもしれない。国会議員だと、農商務次官の河野広中さん、逓信大臣の尾崎行雄さん、司法大臣の犬養毅さん、そして立憲自由党なら星亨さん、松田正久さん、岡崎邦輔さん……2大政党の重鎮となっている人たちは、知らない間に梨花会の面々に力量を測られていた可能性がある。軍人で梨花会の面々の餌食になっていそうなのは、田中義一さん、寺内正毅さん、加藤友三郎さん、島村速雄さん……このあたりだろうか。ともかく、確実なのは、梨花会の面々は、次世代の育成のことを常に考えているということだろう。
「人材の育成……それも考えないといけないのですよね」
私が呟くように言うと、
「おっしゃる通りです」
幣原さんは深く頷いた。「維新の元勲の方々も、軒並み、ご年齢が70を超えておられます。未来の医療知識を持つ妃殿下が、皆様の健康状態に気を配っておられますから、全員お元気ですが、いつ何時、万が一の事態が起こるかは分かりません」
「もう、色々と起こり始めていますよ」
私は幣原さんに苦笑いを向けた。「井上さんは3年前に脳卒中を起こして、左足に軽い麻痺が残っています。山田さんも血圧が下がらないから、高血圧が危険因子になる致死的な疾患を起こす確率は他の人より高い。持病の無い大山さんだって、2年前に急性胆嚢炎に罹って手術をしましたし……。幣原さんの言う通り、いつ何時、梨花会の面々が亡くなってもおかしくないのです」
“史実”での詳しい情報は得ていないのだけれど、梨花会の面々のほとんど……特に、私が幼いころから付き合っている人たちは、この時の流れにおいて、“史実”での没年を超えて生存している。みんなが元気に過ごしているのは喜ばしいことだけれど、元気な1日を過ごすということは、裏返せば、いつ訪れるか分からない永遠の別れの日に1日近づくということでもあるのだ。
「まあ……育成についてどうこう言う前に、自分の修業をしろ……大山さんにはそう言われてしまいそうですけれど」
私がこう付け加えると、
「僕も恐らく、大山閣下から同じことを言われるでしょう」
幣原さんが大きなため息をつき、
「僕もきっと、同じようなことを言われるよ。“これでは国軍大学校に合格するなど、夢のまた夢ですぞ”って」
栽仁殿下も困ったように微笑んだ。
「じゃあ、少しでも大山さんたちに安心してもらえるように、私たち、頑張らないといけないですね」
私の言葉に、栽仁殿下も幣原さんも、首を縦に振ったのだった。
※“マージ―号”はもちろん架空の船舶です。マージ―川の河口にリヴァプールの街があるので、船名として拝借しました。




