アメリカ(1)
1916(明治49)年9月2日土曜日午後4時30分、アメリカ合衆国の首都・ワシントンに向かう列車の車内。
「なぁ、章姉上、ワシントンでの行事が終わったら、アメリカでの予定は全部終わりだっけ?」
あと30分でワシントンのユニオン駅に到着する列車の中、鞍馬宮輝仁さまが私に尋ねた。
「ニューヨークで予定があるはずよ」
軍装に着替えた私が、予定を思い出しながら答えると、
「ニューヨークかぁ……大きな街だよな、きっと。ちっ」
弟はなぜか舌打ちした。
「“ちっ”は無いでしょう、“ちっ”は……。ああ、もしかしたら、領事さん主催の食事会に出たくないのかしら」
私が弟の心中を推測してみせると、
「そうだよ。あんなつまらないもの、何度抜け出そうと思ったか」
彼はそう言って、しかめっ面になった。
「まぁ、私も、食事会自体が余り好きじゃないから、輝仁さまの気持ちも分かるけどね」
私は弟をなだめると、顔に苦笑いを浮かべた。アメリカ西海岸の街・サンフランシスコに上陸してから、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ……私たちが通った、日本から派遣された領事がいる大きな街では、必ず私たちを歓迎する昼食会や晩餐会が開かれたのだ。領事館の職員や、現地で活躍している日本人、そして地元の名士……様々な人間が宴席に連なり、その人たち全員に機嫌よく応対しなければならなかったので、毎回、かなり気疲れしてしまった。
「……でもね、これも大事な仕事なのよ。外国に暮らす日本人にとって、日本から人が来るのはとても嬉しいことの1つよ。まして、やって来た人間が皇族なら、その喜びは大きなものになる。だから、つまんないなんて、人に言っちゃダメよ」
「……分かったよ、章姉上」
輝仁さまはため息をつきながらも、私の言葉に頷いてくれた。私と輝仁さまのやり取りを聞いていた栽仁殿下が、小さく笑った。
8月13日に客船でハワイ王国・ホノルル港を発った私たちは、19日にサンフランシスコに到着すると、アメリカ大陸を西から東へ、列車を使って移動していた。途中で列車を降り、公式行事をこなす一方、微行で観光も楽しんだ。特に、アリゾナで立ち寄ったグランド・キャニオンの雄大な景色は、強く印象に残った。日本離れした景観には、私も栽仁殿下も輝仁さまも、ただただ圧倒されるばかりだった。
(グランド・キャニオンもそうだけれど、アメリカはこの時代でも、農業や工業のスケールが、日本と違って大きいわね。こんな国が、植民地獲得に乗り出したら危険だ。何とか、国民の意識を、国内の開発だけに向けさせないと……)
私が密かにこう思った時、列車は減速を始め、午後5時、列車は予定通り、ワシントンの玄関口・ユニオン駅のプラットホームに到着した。
プラットホームには、副大統領のトーマス・ライリー・マーシャルさん、そして国務長官のロバート・ランシングさんが立っている。主だったアメリカ側の出迎え者はその2人と聞いていたのだけれど、副大統領と国務長官に挟まれて、背の高い男性が立っていた。
「おや、大統領閣下、直々のお出迎えですか。どうやら、相当我が国を買っているようですな」
列車の乗降口のガラス越しにプラットホームの様子を窺っていた大山さんがこう言った。彼の背後からは、乗降口越しに、軍楽隊が演奏する“君が代”のメロディーが聞こえてくる。
「これは予想外ですが……副大統領閣下が、顔を引きつらせておられるのが気になりますね」
日本を出発して1か月余り、ようやく大山さんに慣れてきた、外務省取調局長の幣原喜重郎さんが首を傾げる。予想外の出迎えの意味を深く検討する前に、乗降口の扉は開いてしまい、私たちは列車から降りた。
『合衆国へようこそ、輝仁殿下、栽仁殿下、そして章子殿下。我々は殿下方のご来訪を、心より歓迎申し上げます』
私たちがプラットホームに降り立つと、トーマス・ウッドロウ・ウィルソン大統領が前に1歩進み出た。所属している民主党の党内では圧倒的な人気を誇り、今年11月にある大統領選挙でも、再選を目指して、民主党の大統領候補者になるそうだ。
そんな大統領の左隣に立つマーシャル副大統領は、私たちに挨拶するウィルソン大統領を忌々し気に見つめている。幣原さんの列車内での講義では、ウィルソン大統領とマーシャル副大統領は、仲が余り良くないということだった。副大統領の態度には、その辺りが関係しているのかもしれない。
大統領の右側のロバート・ランシング国務長官は、表情を動かさず、黙って立っていた。アメリカの“国務長官”という役職は、日本では外務大臣に相当する。何か彼なりに思うところはあるのかもしれないけれど、それを巧みに覆い隠しているのは、流石外交担当者である。
ウィルソン大統領は、まず輝仁さまと、次に栽仁殿下と握手を交わす。そして、私の前に立つと、じっと私を見つめた。
『ああ、あなたが、高貴な身でありながら医師となり、女性でありながら軍医となって極東戦争において平和をもたらし、そして、うら若き御身でありながら、帝国議会の議長を務められた、あの章子殿下ですか……』
大統領はそう言いながら、私に右手を差し出す。
『あ、はい、章子と申します。お会いできて光栄です』
握手はあまり好きではないけれど、外交儀礼なので、相手の右手をそっと握ると、ウィルソン大統領は左手も出し、私の手をガシッと握った。
『素晴らしい……!輝くばかりの美貌、白い軍服をまとった凛々しい佇まい、深い叡智を感じさせる漆黒の瞳……ああ、まさに、神がこの世に遣わした天使だ』
ウィルソン大統領の頬は赤くなっている。瞳も、心なしか潤んでいるように見えた。
『ああ、生ける天使よ、どうかその小さなお身体を、我が腕に抱かせてはくれまいか。そして、大いなる愛と温もりを、我が身と我が心とに恵んでいただき……』
(はぁ?)
何か馬鹿なことを言っている、と思った次の瞬間、ウィルソン大統領が私に更に近づいた。大統領の胸に顔がついてしまいそうなところまで、距離が詰められてしまう。
(え、ちょ……こ、これ、マズくない?)
私が慌てて後退しようとしたその時、突然、空気が刺々しくなった。皮膚にピリピリと痛みが走る感覚もする。
『僕の妻に何をなさいますか、大統領閣下?』
私の右隣りに立っていた栽仁殿下が、更に動こうとしたウィルソン大統領の左上腕をつかんでいた。
『これ以上、僕の妻に近づかないでください。もしこれ以上、妻に近づくのならば、妻を守る者として、僕はあなたに決闘を申し込まなければなりません』
栽仁殿下はものすごい目つきで、ウィルソン大統領を睨みつけている。知り合ってから20年近く経つけれど、こんなに彼が怒ったところを、私は初めて見た。
『おい、馬鹿!章子殿下から離れろ!外交問題になったらどうすんだ!』
顔を青ざめさせたウィルソン大統領の左側から、マーシャル副大統領が大統領の腕を引っ張ると、
『馬鹿とはなんだ、馬鹿とは!』
大統領は顔色を青から赤へと急変させ、副大統領の方にくるりと振り向きながら叫んだ。
『馬鹿だから馬鹿だと言ってるんだ!いいか、お前は夫のいる女性に手を出そうとしたんだぞ!それは神の教えに反することじゃないのか?!』
『貴様!まさかこの私が、不貞を働こうとしたというのか?!私は神が遣わした使いに、敬愛の念を示そうとしただけだ!』
『何言ってやがる、この野郎!奥さんが亡くなったのには同情するが、だからと言って、公衆の面前で新しい女に手を出そうとするもんじゃないだろう!』
大統領と副大統領は、私たちのことをそっちのけでにらみ合っている。これ以上ヒートアップすれば、お互い殴りかかるだろうと思われたその時、
『ああ、もう!お父様たちは落ち着いて!』
私と同じぐらいの年齢の眼鏡を掛けた女性が、真っ青な顔をして2人の間に割って入る。ファーストレディ役を務めている、ウィルソン大統領の長女・マーガレットさんだ。
『……申し訳ございません。大統領は、章子妃殿下への崇敬の念が強く、ごくまれに、常軌を逸した行動をとることがありまして……』
ランシング国務長官が渋い顔で弁解すると、
『確かに、常識では考えられない行為でした』
私を守るように抱き寄せた栽仁殿下が、厳しい口調でランシング国務長官に言った。彼がまだ怒っているのは明らかで、もし国務長官が失言をすれば、実力行使に及ぶのではないかという様子も感じられた。
「幣原さん、どうしましょうか」
私は大きく後ろを振り向いて、幣原さんに話しかけた。
「今の一件、このまま日本に伝わってしまうと、国内の世論が沸騰する可能性が……」
私がそう言ったのは、少女時代にあった事件を思い出したからだ。イタリアの王族・トリノ伯が、私との剣道の試合に負けた後、私に突然抱き付いたことで、日本では反イタリア感情が国民の間に湧き上がった。その時のように、日本国民に反米感情が生じてしまったら大変なことになる。
すると、
「なるほど、妃殿下のおっしゃる通りでございます」
私のそばにいた大山さんが、にっこり笑って言った。殺気は巧みに覆い隠しているけれど、大山さんとの付き合いが長い私は、彼が非常に怒っているのを察してしまった。
「……では、こうしてはいかがでしょう。幸い、この場には、報道機関の諸君はいませんし、一般市民も立ち入っておりません。ですから、ここにいる全員に緘口令を敷きましょう。それで、アメリカ側にたっぷりと貸しを作るのです」
そして、怒れる我が臣下は、真っ当ではあるけれど、とても恐ろしいことを言い出した。
「……それが一番いいかしらね」
この場で何か具体的な要求をするのは難しい。それに、このまま“貸し”を作っておけば、何かの時に役に立つかもしれない。そう考えて私たちは、この場では矛を収めることにしたのだった。




