ハワイ(2)
1916(明治49)年8月12日土曜日午前9時30分、ハワイ王国・ワイキキ海岸。
「準備は一応したけれど、本当に水着を着ることになるなんて……」
海岸に張られた天幕の下で、私はため息をついた。
私が今着ているのは、日本で購入した紺色のワンピース型の水着である。幼いころに泳ぎの練習をした時には、私の時代の競泳用水着に似せた、膝丈まである水着を作ってもらったけれど、この水着の丈は太ももぐらいの高さだ。袖はかなり短くて、ほとんど無いも同然だった。
ちなみに、結婚指輪は宿に置いてきた。海水で濡らしてしまったら、指輪が傷んでしまうだろうし、万が一海辺で無くしてしまったら、見つけ出すのがとても大変になると思ったからだ。
一方、男性たちは、白地に黒い横縞が入った、半袖で太もも丈のつなぎのような形をした水着を着ていた。ただ、輝仁さまと栽仁殿下は、
「こんなに布面積が広くて大丈夫かな……」
「日本で泳ぐ時は、褌一丁ですからね」
などと話しあっている。確かに、今の時代の日本の男性は、水着を着ないで褌一丁で泳ぐことも結構多いから、戸惑っているのかもしれない。
と、
「あの、宮さま」
水色の地の浴衣を着ている千夏さんが、私に呼びかけた。手にはカメラを持っている。
「せっかくですから、記念に水着をお召しになっているお写真を撮りましょうか?」
「い、嫌よ!絶対ダメ!」
私は両腕をクロスさせて胸のあたりを隠しながら、首をブンブン横に振った。
「え?いいと思いますよ?日本へのお便りにお写真を付ける方が、皇太子殿下もご様子がよくお分かりになるのでは……」
なおも食い下がる千夏さんに、
「それでもダメよ!何が楽しくて、兄上にこの貧相な身体を見せないといけないのよ!」
私は胸をガードしたまま叫んだ。
「千夏さん、そのカメラをしまってちょうだい!しまわないなら、そのカメラ、海の中に放り投げるわよ!」
私の剣幕に恐れをなしたのか、千夏さんは「は、はいですぅ!」と引きつった声で叫んで、カメラをカバンの中にしまった。
『じゃあ、始めましょうか』
赤いワンピース型の水着を着たカイウラニ王女殿下は、私の手をつかんで自分に引き寄せる。私がバランスを崩しながらも王女殿下のそばに立った時、彼女はこちらを見つめるカハレポウリ王子殿下を睨みつけ、
『あんたたちはそっちでやって!私は章子殿下を教えるから!男女別よ!』
と叫んだ。怒鳴られた王子殿下は慣れているのか、王女殿下に反論することは無く、『わかってるよ』と軽く答え、輝仁さまと栽仁殿下に声を掛けて海に入っていく。
(王女殿下と王子殿下、仲が悪いのかしら……)
そんなことを思っていると、
『章子殿下、こちらに来てください』
私の手をつかんだままの王女殿下がこう言ったので、私は慌てて彼女の指示に従った。
サーフィンのボードは、身長よりも長さのある木の板だった。私の時代だと、プラスチックが主な材料なのかな、と思うけれど、前世でサーフィンをしたことが無いのでよく分からない。これで波に乗ることができるのか、少し不安になったけれど、カハレポウリ王子殿下が言った通り、カイウラニ王女殿下の教え方は上手だった。コツをきちんと教えてくれ、問題点がどこにあるか、的確に指摘してくれる。2時間ほど経った頃には、私は何とか波に乗れるようになった。
『休憩しましょうか』
カイウラニ王女殿下の誘いに応じ、私は天幕の下に入った。海ではまだ、輝仁さまと栽仁殿下が、カハレポウリ王子殿下と一緒に波乗りをしている。2人とも、もうコツをつかんだようで、とても楽しそうに波に乗っていた。
と、
『章子殿下と栽仁殿下は、政略結婚をしたわけではないのよね』
カイウラニ王女殿下が、突然私に尋ねた。
『え、ええと……一応、そうかしらね』
私が戸惑いながらもこう答えると、
『いいわね、うらやましいわ』
王女殿下は寂しそうに言った。
『私はね、政略結婚をしたのよ。小さいころには、あなたの国の皇族とも縁談があったらしいけれど、それは無しになって、その代わりに伯母さまが、あいつと結婚しろと私に命じたの。私の次の王位継承者はカハレポウリだ。だから、カハレポウリと結婚して、少しでも王家の血が濃い子供を産んでくれ、……伯母さまにはそう言われたわ』
そこまで言葉を紡ぐと、王女殿下はため息をついた。
『すごく嫌だったわ。愛の無い結婚だから。でも、伯母さまが、“子供が生まれたら離婚してもいい。子供さえ生まれればいいんだから”と言ったから、私、我慢して、国のために結婚したの』
『そう、だったんですね……』
私が何とか相槌を打つと、
『恋愛、したかったなぁ……』
カイウラニ王女殿下はポツリと言った。
『心を通わせられる男性と、燃えるような恋がしたかった。その果てに結婚して、その男性の妻になれたらいいと思ってた。きっと、素晴らしいんだろうな、って……』
『……しない方がいい恋だって、世の中にはありますよ』
私はカイウラニ王女殿下に、こう言い返していた。
『え……?』
『私の初恋の男性は、水雷艇の事故で亡くなりました。私が14歳の時のことです。でも、それから私、ずっとその人のことを引きずって、忘れられずにいました。今も思い出すと、胸が切なくなります』
あの時……フリードリヒ殿下が亡くなったと聞いた時のことが、まざまざと脳裏に蘇った。愚かにも、彼が亡くなって初めて、私は自分が彼に恋していたことに気が付いたのだ。
『そもそも、私、父と兄のために医者になりたいと思っていました。それに、自分は奥手だから、恋愛のことも結婚のことも考えたくないと思っていたのです。だから、その1度だけの恋の後は、恋愛も結婚も、自分から遠ざけようとしていました。……正直、今、自分が結婚して、子供がいるという事実が信じられないのですけれど』
すると、
『私はあなたが信じられないわ』
カイウラニ王女殿下が肩をすくめた。『恋愛も結婚も興味がないなんて、そんなのおかしいわ』
『信じたくないなら、無理に信じなくていいです』
私はカイウラニ王女殿下に苦笑いを向けた。『ただ、そういう類の人間もいるということは、知っていて欲しいです』
『いや、そういう意味じゃなくてね……』
カイウラニ王女殿下は、なぜか戸惑っている。一体どうしたのだろう、と私が訝しんだその時、
『自分が結婚して、子供がいるという事実が信じられないって、一体どういうことかな?』
後ろから、とても悲しげな英語が聞こえた。振り返ると、そこには海から上がってきた栽仁殿下が立っていて、私をじっと見つめていた。
『婚約が内定してからずっと、僕は精一杯の愛を捧げてきたつもりだったけれど、まだ心が追いついていないのかな?』
流暢な英語で私に話しかけながら、栽仁殿下は私に近づき、私の右手を両手で握った。途端に、私の心拍数が跳ね上がった。
『心がついて来ていないのなら、僕は何度でも言う。僕は全身全霊で、あなたのすべてを愛している。仕事に夢中になって取り組んでいるあなたも、子供たちを可愛がっているあなたも、僕にしか見せられないあなたも、何もかも、全部』
「に……日本語でおk!」
私は思わず叫んでしまった。身体の中を熱が駆け回り、脳細胞が溶けて無くなってしまいそうだ。今は“おまじない”が掛かっていないから、余計にそう感じてしまう。
と、
「あの……“日本語で桶”って、何?」
栽仁殿下が私の手を握ったまま、真面目な顔で尋ねた。今度は日本語で喋ってくれている。しかし、問題はそこではなくて……。
「い、いや、あの、だから、な、なんで、英語で、そんなことを喋るのか、ってことなんだけど!」
顔を真っ赤にした私が何とかツッコミを入れると、
「だって、あなたが僕の愛する唯一の女性だということを、王女殿下にも知っていただきたいと思ったから」
栽仁殿下は真面目な顔を崩さずに答えた。
「や、やめて!そんな、そんな、恥ずかしくて、私……!」
私が全力で栽仁殿下に抗議した瞬間、
『だから言ったのよ!』
カイウラニ王女殿下がおかしそうに笑い始めた。
『こんなに熱烈に愛されているあなたが、恋愛や結婚に興味が無いなんて信じられないわよ!だって、6年前に栽仁殿下に会った時にも、彼、自分があなたをいかに愛しているかということをずっと語っていたんだから!』
「はぁ?!」
思わぬ情報を得た私は、目を見開いてしまった。
「が、外国の王族に、何てことを話してるのよ……は、恥ずかしい……」
「仕方ないじゃない。章子さんのことを聞かれたんだもの。正直に愛を語るしかないよ」
栽仁殿下は澄ました顔で、私にこう返す。再び身体中を熱が駆け巡り、私は言葉を失ってしまった。
『章子殿下がうらやましいわ』
ようやく笑いを収めたカイウラニ王女殿下は、今度は寂しそうに言った。『きっと、こんなに熱烈に愛されているから、その愛に感応して、恋に落ちてしまったのね。私もこんな、燃えるような恋がしたかったなぁ……』
すると、
『今からでもできると思いますよ』
栽仁殿下がとんでもないことを言い始めた。
「ちょ、ちょっと、栽さん!」
周囲に人がいるのに、私は2人きりの時に使う呼び方で夫を呼んでしまった。「なんてことを言うのよ!カイウラニ王女殿下が、これから燃えるような恋をするってことは、そ、それって、つまり、ふ、不倫……うにゃあっ?!」
栽仁殿下に突然抱き寄せられ、私の顔が彼の胸にぶつかった。
「落ち着いて、章子さん。既婚の女性が、恋愛をする方法は、不倫だけではないよ?」
栽仁殿下は、左手を私の頭の上に置き、あやすように撫でる。そして、黙ってカイウラニ王女殿下の方を指し示した。いつの間にか、カイウラニ王女殿下のそばに、カハレポウリ王子殿下がいる。
『流石だね。章子殿下もちゃんと波に乗れていた。君の教え方がとても上手だからだよ』
『べ、別にそれは、章子殿下の筋がいいだけで、私は何もしてないし……』
話しかけられた王女殿下は、王子殿下から目を逸らしながらこう答える。そんな彼女に、
『やっぱり、君はとても素晴らしい。君に愛を捧げられることを、俺はとても誇りに思う。君はこの国の太陽だけれど、俺にとっても太陽なんだ』
カハレポウリ王子殿下は、どこかで聞いたような、熱烈な愛の言葉を投げた。
『べ、別に、私、お客様のおもてなしのためにやってるだけだし……』
カイウラニ王女殿下の頬は、なぜか赤く染まっていた。
「こ、これ、まさか、ツンデレ……」
思わずつぶやいた私に、
「“つんでれ”って何?」
栽仁殿下が真面目に聞き返す。
「あ、この時代にない概念、だよね……えーと、えーと、王女殿下は、王子殿下を嫌っている訳じゃ、ないってことね?」
この時代に無い言葉の意味を説明し始めたら大変なことになる。とりあえず、こう言いかえて栽仁殿下に質問してみると、
「もし、本当に、王女殿下が王子殿下を嫌っていたら、とっくに離婚しているよ。だって、もう王家の子孫を残すという義務は果たしたんだから」
栽仁殿下は私に語り掛けるように答えた。
「王女殿下は、自分が王子殿下に好意を抱いているのに気付けないだけだよ。いや、もしかしたら、もう気付いているけど、どこかの誰かさんみたいに、素直に気持ちを表せないのかもね」
「はぁ……」
恋愛に関することは、できれば避けて通りたい。早く話が終わらないだろうか、と思いながら栽仁殿下の言葉を聞いていた私は、彼が私をニヤニヤしながら見つめているのに気が付いた。
「どうしたの?」
首を傾げて尋ねると、
「昔のことを思い出して」
栽仁殿下はそう答えて、私の右耳に口を近づけ、
「梨花さんが、僕のことを好きになってくれたのに、僕のことを諦めようとしていたこと」
と囁いた。
「……っ!」
再び顔を真っ赤にした私から、栽仁殿下はサッと飛び退く。
「な、……なんてこと、言ってくれるのよ、馬鹿っ!」
そのままワイキキの海岸を、軽やかな足取りで走って逃げる夫に一発お見舞いするべく、私も全速力で彼の後を追ったのだった。




