恵比須丸
※誤字を修正しました。(2023年12月4日)
1916(明治49)年7月31日月曜日午後1時30分、太平洋上をハワイ王国・ホノルル港に向かって航海している貨客船“恵比須丸”の一等特別室。
「輝仁さま、調子はどう?」
“恵比須丸”に2つある一等特別室は、寝室と居間の他に、専用のお手洗いと浴室も付いた部屋である。その1号室の寝室のベッドに横になっている異母弟・鞍馬宮輝仁さまに、診察カバンを持った私は呼びかけた。
「うーん……やっぱ、胃がムカムカして、頭が痛い……」
寝間着を着てベッドに寝ている弟の顔は青白い。私を見つめる目もどこか虚ろだ。“恵比須丸”が東京湾を出て外海に入った直後、彼は動揺病……いわゆる“船酔い”になってしまったのだった。
「くっそー、飛行器に乗ってるから船酔いは大丈夫だって思ってたのに、甘く見てた……。“飛隼”に乗った時は、なんともなかったのに……」
苦り切った表情で呟く輝仁さまに、
「“飛隼”に乗った……って、東京湾か相模湾で、でしょう?そこだと、今より波が穏やかだと思うな」
私は冷静に指摘した。
「そうかも……って、章姉上、何でそんなに海に詳しいんだよ?」
「だって、私も初めて軍艦に乗った時、船酔いで動けなかったから。ちょうど、東京湾から外海に出たところでやられてね」
訝しげに尋ねた弟に、私は12年前の軍医学校の実習での出来事を語った。
「その時、“日進”の艦長さんに、“船酔いは船に初めて乗る前の夜、眠れなかった人で起こることがある”と聞いたの。私、“日進”に乗り込む前日の夜、興奮して眠れなくてね……だから今回は、この船に乗り込む前の日は、ぐっすり眠るように心掛けたわ」
「それ、船に乗る前に教えて欲しかったなぁ……」
「ごめんね、私も輝仁さまが船酔いするなんて思っていなかったから」
ぼやいた弟に謝ると、
「ところで、お昼ご飯は食べられたの?」
私は診察カバンを開けながら尋ねた。
「……水は少し飲んだ」
輝仁さまは右手を少し上げ、ベッドサイドにあるテーブルを示す。水の入ったガラスの瓶のそばに、空のコップが置いてある。しかし、瓶の中身は余り減っていないようだ。
「確かに少しだけだね。瓶の中身、ほとんど減ってない」
私は軽くため息をついた。「口から水分が取れないなら、補液する方がいいかもしれないね」
「ほ、補液?」
輝仁さまが目を剥いた。「あの、腕の血管に針を刺す、あれ?……あ、あれはちょっと、やりたくないなぁ……」
「やりたくない、って言っても、脱水になったら大変よ。ほら、お姉さまに腕を見せてちょうだい。ええと、血管はあるかしら……」
私が輝仁さまの左腕をつかもうとしたその時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。「鞍馬宮殿下!失礼いたしますよ!」という男性の声も聞こえる。
(げっ)
私が思わず、自分の手の動きを止めた瞬間、
「鞍馬宮殿下、お加減は……ああ、やはり妃殿下もここにいらっしゃいましたか」
寝室の扉が開き、中肉中背の初老の男性が姿を現した。私たちに同行している、西郷吉義医務局長である。
「いつの間にか、食堂からお姿が見えなくなったと思えば……いけませんよ、妃殿下。今日の鞍馬宮殿下の治療は私がすると申し上げたではないですか」
軍装ではなく、青い背広服を着た西郷医務局長は、たしなめるような口調でこう言いながら、輝仁さまのベッドサイドにやって来る。13年前、私が軍医学生だった頃、近衛師団で実習をしていた時にお世話になった彼は、高木兼寛先生の後を継ぎ、2年前の11月に軍医の最高職・医務局長に就任した。そんな彼が、なぜ今回の外遊に帯同することになったかというと、一行の中に私以外の医者がいなかったこともあるけれど、西郷医務局長自身が、“欧米での医療の実態を見学したい”という強い希望を持っていた、という理由があった。実は、医務局長には、海外への留学経験がない。そこに、私が外遊するという情報が入って来たので、
――この職位では、もはや留学することは叶わない。しかし、出張の際に、海外の医学に触れることはできる!それに、女性初の国軍軍人であらせられる妃殿下の外遊……ここは医務局長である私自らがお供して、妃殿下をお守りせねば!
……彼は医務局内で強く主張した。このため、私たちの外遊に、軍医のトップが随行するという事態になったのだった。
「あ、あの、西郷閣下」
私は、直属の上司よりも遥か上の地位にいる人に向き直った。
「私は軍医大尉です。西郷閣下は軍医中将です。大尉の方が中将より地位が下ですから、この一行に医療が必要な状態が生じた場合は、まず私が対応するべきだと思います」
けれど、
「いいえ、医療の対応に関しては、今日は私が行う日です。ですから私が鞍馬宮殿下の治療に当たります」
私の意見具申を、医務局長は却下した。
「し、しかし西郷閣下、輝仁さまの気分が良くないのは昨日からですし、昨日は私が対応しましたから、このまま私が治療を引き続いて行いたいのですけれど……」
と、
「あ、あのさ、章姉上」
ベッドに寝ている輝仁さまが、恐る恐ると言った感じで私に呼びかけた。
「俺、今日は、西郷閣下の診察を受けたいかなぁ……」
「なっ?!」
思わぬ言葉に驚く私に、
「だって、俺……補液、されたくなくてさ……」
輝仁さまは小さな声でこう告げた。
「……こ、こんなこと言ったら恥ずかしいけど、俺、自分が痛いのは、あんまり好きじゃなくて、さ。だから、まだ補液の針は刺されたくないというか……章姉上がこのまま俺の診察をしたら、すぐに針を刺されちゃうんじゃないかな、って思って……」
(あ……)
私は両肩を落とした。確かに、身体に針を刺されて嬉しいという人は、今の時代でも私の時代でも、一部の例外を除いてはいない。一定数の人は、採血や注射などで身体に針を刺されることから極力逃れようとする。どうやら輝仁さまも、その類の人間であるらしい。
「だ、だから……俺、水、頑張って飲むから、章姉上に補液の針を刺してもらうのは、水を頑張って飲んでもダメだった時にして欲しいかな、って……」
「水ではなく、経口補水液を飲んでいただく方がよろしいでしょうね」
輝仁さまの弱々しい声に、西郷医務局長の言葉が重なる。「そうすれば、脱水からの回復は容易になるでしょう」
「……分かりました。西郷閣下にお任せします」
私は医務局長に頭を下げた。「けれど、何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「かしこまりました」
西郷医務局長が私に最敬礼をする。それを確認して、輝仁さまに「お大事に」と言ってから、私は1号室を出て大きなため息をついた。
1916(明治49)年7月31日月曜日午後1時45分、貨客船“恵比須丸”の一等談話室。
「あら、妃殿下」
談話室のドアをくぐった私をいち早く見つけた看護少尉の平塚明さんが、1人掛けのソファーから立ち上がった。
「いかがでございましたか、鞍馬宮殿下のご容態は?」
「……まだ船酔いが治っていないですね」
勤務中とは違い、緑色のデイドレスを着た平塚さんに私は答えた。
「補液をしようと思いましたけれど、断られてしまいました。しかも、医務局長に1号室から追い出されてしまって……いったん自分の部屋に戻ってカバンを置いてからこちらに来ました」
私はそこで言葉を切ると、「相席させてもらってもいいかしら?」と平塚さんに尋ねる。平塚さんは今まで自分が座っていた席を振り返り、少し考えてから「どうぞ」と答えてくれ、私を案内してくれた。
平塚さんが座っていたのは4人掛けのテーブル席で、正方形の四辺のそれぞれに、1人掛けのソファーが配されている。平塚さんの席の向かいには、平塚さんと同じようにデイドレスを着た千夏さんが座り、ノートに何かを書き付けている。
「千夏さん、隣に座るよ」
私が声を掛けると、千夏さんは「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、テーブルの上に出していたノートを慌てて引っ込めた。
「み、宮さま、どうしてこちらに……」
「輝仁さまの所に行ったのだけれど、医務局長に追い出されてこっちに来たのよ」
引きつった顔の千夏さんを落ち着かせるような調子で私は答えた。「覗くなんて無粋な真似はしないわ。同人誌の原稿でしょう?外遊中も原稿を書かないといけないなんて、大変ね」
そう言いながらソファーに腰を下ろすと、「は、はいです……」と千夏さんは頷く。そんなに緊張していると、輝仁さまと同じように船酔いしてしまうのではないだろうか、と思った瞬間、
「あ、妃殿下」
私の後ろから声が掛かった。輝仁さまのお付き武官として、今回の外遊に同行することになった山本五十六航空大尉である。本来、国軍大学校で学んでいる彼がお付き武官になることはないのだけれど、航空少尉に任官したばかりの輝仁さまのお付き武官を務められる適当な人材がいなかったため、急遽、私たちについてくることになった。
「山本大尉……まさか、そのビスケット、1人で全部食べる気ですか?」
私は山本大尉が右手で持っているお皿を見つめながら眉をひそめた。お皿の上にはビスケットが、これでもかというくらいてんこ盛りにされている。今にもバランスが崩れて、ビスケットが床に落ちてしまいそうだ。
「ああ、残念ですが、皆様の分も含めて、ですよ」
山本大尉はそう言いながら、空いた左手で談話室の奥を指す。そちらでは、背広服を着た4人の男性が談笑していた。外務省取調局長で、梨花会の一員でもある幣原喜重郎さん。“鞍馬宮家家令”という肩書で随行している中央情報院幹部の広瀬武夫さん。同じく中央情報院の幹部で“宮内省事務官”という名目で一行に参加している秋山真之さん。そして有栖川宮家の別当として私たちに付いて来ている大山さんだった。
本来は、広瀬さんではなく、鞍馬宮家の別当である金子堅太郎さんが、今回の外遊に付き従うべきである。けれど、大山さんと中央情報院総裁でもある金子さんが両方日本を離れてしまうと、中央情報院の運営に支障が出てしまう。大山さんに外遊に随行しないという選択肢はないので、別当の1つ下のランクの“家令”という役職で、広瀬さんが輝仁さまについて行くことになった。ちなみに、秋山さんは、“広瀬から離しておくと何をしでかすか分からない”という理由で、今回の外遊に参加させられ、一行の雑用を片付けることになっている。
そして、幣原さんの役回りは、一言で言えば“調整役”である。訪問先の国々には日本の大使館も設置されているけれど、大使館の職員と私たちの間に立って物事を調整したり、あるいは現地の外務省と直接やり取りしたりする人間がいる方が、予定が円滑に進められるし、不測の事態にも対応しやすい。それで幣原さんが帯同することになった。……本人は、大山さんと一緒に旅をすることをものすごく嫌がっていたけれど、我慢してもらうしかない。
この談話室にいるメンバーと、輝仁さまと西郷医務局長、そして栽仁殿下と彼のお付き武官の計12人が、今回の外遊の正式な参加者である。もちろん、この他にも、大山さんの従者や一般の旅行客に化け、私たちに陰から付き従っている中央情報院の職員が10数人いるので、実際には一行の人数はもっと多いのだけれど、それは正式な文書に残すべき情報ではない。
「……そう言えば、栽仁殿下、どこに行ったのかしら?」
私が首を傾げたのは、平塚さんがテーブルにカステラの載ったお皿を持ってきてくれた時だった。
「お部屋にはいらっしゃらなかったのですか?」
緊張した表情のまま、千夏さんが私に尋ねる。
「ええ。輝仁さまの部屋を出た後、一度2号室に寄ったのだけれど、いなかったのよね」
私と栽仁殿下は、一等特別室の2号室を使わせてもらっている。輝仁さまが使っている1号室と同じ間取りのその部屋に、栽仁殿下の姿はなかった。
すると、
「では妃殿下、ご一緒に若宮殿下を探しに参りませんか?」
大山さんがソファーから立ち上がりながら私に提案した。
「栽仁殿下を探しに?」
「ええ。お探しになりながら、この船内の確認もできますし」
私に向かって大山さんは微笑む。暖かくて優しい視線が、私をそっと包み込んだ。
「……じゃあ、そうしようか」
私が頷くと、
「では、俺がお供しましょう」
大山さんはそう言って、左手を私に差し伸べた。
「あの、私が……」
慌てて立ち上がった平塚さんに、
「平塚さんはここで、千夏さんの相手をしていてください。千夏さん、緊張しているみたいだから、少しでも気持ちを解きほぐすように、ね」
私はニッコリ笑ってお願いすると、大山さんの手を取り、談話室を後にした。
大山さんにエスコートされながら、私は“恵比須丸”の船内を、栽仁殿下の姿を求めて歩き回った。この時代、客船に乗った男性は、喫煙室に屯して、囲碁や将棋をすることが多いそうだけれど、栽仁殿下の姿は喫煙室にはなかった。売店、写真室、船内郵便局などものぞいて見たけれど、やはり彼の姿は見当たらない。
「ということは、甲板に出ているのかしら?」
首を傾げた私に、
「そうかもしれませんね」
と、大山さんは優しい声で言う。そして、私を上甲板へと誘った。
“恵比須丸”には、マストが2本立っている。上甲板に出ると、その船首側のマストのそばに、髪を七三分けにした2人の男性が立っているのが見えた。そのうちの1人が、私と大山さんが近づくと笑みを向けた。
「章子さん、鞍馬宮殿下の診察をするんじゃなかったの?」
薄い灰色の背広服を着ていた栽仁殿下は、ジャケットを脱いで左腕に掛けている。夏の日差しで、シャツの白さが眩しく感じられた。栽仁殿下の隣で私に最敬礼した背の高い男性は、栽仁殿下のお付き武官の米内光政海兵少佐である。“史実”では、内閣総理大臣に就任したこともある彼が栽仁殿下のお付き武官になったのは、山本権兵衛国軍大臣をはじめ、梨花会の面々の思惑が働いた結果である……以前、義父の威仁親王殿下が、そっと私に教えてくれた。
「“治療は私がやります”って、医務局長に言われてしまって、輝仁さまの部屋から追い出されたの」
私は夫に近づきながら答えた。「それで、部屋に戻ったらあなたがいなかったから、探しながら船の中を歩いていたの」
「そうか。ごめんね、心配させたかな。軍艦に乗り組んでいる時と違って、何もしなくていいから、手持ち無沙汰になってしまって、米内少佐どのと一緒に船の中を歩き回っていたんだ」
栽仁殿下は私に小さく頭を下げると、
「ねぇ、章子さん。ここから一緒に海を見ようか」
と私を誘う。私は栽仁殿下と一緒に、上甲板の手すりのそばに並んで立った。
「“日進”に乗った時も思ったけれど、海は、本当に果てしないわねぇ……」
水平線まで続く大海原を眺めながら私が呟くと、
「そうだね。……梨花さんは、前世で海を走る船に乗ったことはあるの?」
栽仁殿下はこう尋ねた。大山さんと米内さんは、いつの間にか姿を消している。
「何回かあるけれど、今回みたいに長い航海はしたことがないわ。私の時代だと、太平洋の旅客輸送には、飛行器を使うのが一般的だったし……」
「そうなんだ。もし、飛行器がそこまで発展していて、飛行器でハワイに行くことになっていたら、鞍馬宮殿下も船酔いをしなくて済んだかな」
「たぶんね。私の時代から考えると、のんびりした旅路だけれど、この景色も悪くないわ。雲と空と海以外何もなくて、雄大で、自分の小ささを思い知らされるような……」
すると、
「梨花さん、目を開けていて」
栽仁殿下が突然私に告げた。彼の言葉を頭で理解する前に、栽仁殿下の唇が私の唇に触れていた。栽仁殿下の澄んだ美しい瞳に捉えられ、私の心拍数が急に上がった。
「た……栽さんっ!」
いつの間にか抱き寄せられていた栽仁殿下の腕の中で、彼の柔らかい唇から解放された私は、抗議の叫びを上げていた。
「こ、こんなところで、キスしないでよ!大山さんや米内さんに見られていたら、私……」
「ごめんね、梨花さん、驚かせてしまって」
栽仁殿下は私に謝罪すると、
「でも、どうしても、梨花さんが愛しくてたまらなくなって……」
と、真剣な表情で私に言う。私の心臓が、胸の中で大きく飛び跳ねた。
「そ、そんな……栽さん、恥ずかしいよ……。結婚して、6年も経つし、子供だって3人いるのに……」
「そんなの関係ない。梨花さんは万智子たちの母親だけど、僕の妻でもあるんだ。僕が全身全霊で愛を捧げる、ね」
私は着ている青いデイドレスの上から、ドレスの下にある、首から下げた結婚指輪を握り締めた。今朝、栽仁殿下がいつものように“おまじない”を耳元で囁きながら首から掛けてくれたものである。もし、“おまじない”が掛かっていなかったら、私はフラッシュバックでか、恥ずかしさの余りでか……とにかく、栽仁殿下に唇を奪われた瞬間に意識を手放していただろう。指輪の感触を確かめていると、暴風のような熱に翻弄されていた心が、あるべき場所に戻っていくのが分かった。
「……参ったなぁ」
栽仁殿下に抱き締められたまま、私はため息をついた。
「日本に戻るまで、ずっとこんな感じなのかしら」
私の呟きに、
「もちろんだよ。梨花さんとこんなに長い期間、ずっと一緒にいられるなんて初めてだもの」
栽仁殿下は悪戯っぽく微笑する。今回、予定されている訪問国は、ハワイ、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアの7か国だ。それらを全て訪問して、日本に戻るのは、おそらく年末ごろになるだろう。結婚してから、夏休みやお正月以外は、ずっと週末にしか会うことが出来なかった私たち夫婦にとって、数か月、同じ空間で一緒に過ごすのは初めてことである。
「これだけ一緒に過ごせるから、きっと、梨花さんのいいところ、日本に帰るまでにたくさん見つけられるね」
耳元でそっと、けれど情熱的に囁いた夫に、
「じゃあ、私も……栽さんのいいところ、たくさん見つけられるように頑張るね」
私も微笑みながら、こう囁いたのだった。
※西郷先生は、実際には、ドイツへの留学経験があります。




