山縣邸の会合
1891(明治24)年7月4日土曜日、午後2時半。
「はあ……」
花御殿の玄関から馬車に乗り込むと、私は盛大にため息をついた。
「気が進みませぬか、今回の御成は」
私に続いて馬車に乗り込んだ大山さんが、苦笑する。
「うーん……“国軍三羽烏”に会うこと自体は、楽しみにしていますよ?」
私の言葉に、大山さんは少し考えて、
「なるほど……山縣さんの家に行かれるのが、お気に召しませぬか」
と言った。
「正確に言うと、もてなされてしまうのが嫌」
大山さんのセリフを訂正して、私はまた、ため息をついた。
今日は、児玉源太郎さん、山本権兵衛さん、桂太郎さん……“国軍三羽烏”と世間では呼ばれているようだけど、その三人に、私の前世のことを話すことになっている。威仁親王殿下は、訓練航海中なので来られないけれど、他の“梨花会”の高官たちも、仕事が終わり次第、私たちに合流することになっている。ただ、その会合が行われるのは、皇居ではなくて、山縣さんの家だ。それが私の憂鬱の種になっている。
私がどこかに出かけてしまうと、行った先が大騒ぎになってしまう。去年の秋に、華族女学校の帰り、帰宅する節子さまにくっついて、彼女の家に遊びに行ったら、先方のお屋敷の職員さんがパニックになって、大騒動になったのだ。節子さまのお父様の九条道孝さんをはじめ、ご家族の方が恐縮しながら私に挨拶に来てしまい、“家で鬼ごっこしたかっただけなのにねえ”と節子さまと二人、大いに戸惑ったのを覚えている。
山縣さんの家は、小石川区にあるそうだ。前世では東京の大学に通っていたけれど、行政区の分け方が今と違うので、どの辺にあるかはさっぱり分からない。小石川、というからには、小石川後楽園のあたりだろうか。
(会議をするだけなのに、山縣さんのご家族に、恐縮されながら挨拶されるのも、ちょっと申し訳ないなぁ……)
そう思っていると、
「それは大丈夫です」
大山さんが言った。「梨花さまのご意向は伝えております。“微行ゆえ、余計な気遣いは一切無用”と」
「それはありがたいけれど……」
言ってから、私は一番の疑問を、大山さんにぶつけた。「なんで、この会議を国軍省や内務省でしないのかしら」
「どうやら、自宅の庭園を、梨花さまのお目にかけたいようです」
大山さんが微笑する。「山縣さんの趣味は造園です。自宅の庭園も、こだわって作られたと聞いております」
「趣味の産物、か……」
前世でも、城郭に付随する庭園はいくつか見たことはある。もちろん、戦国時代や江戸時代に作庭されたものだ。明治以降に作られたものは見たことが無い……というか、全く興味が無かった。
「はあ……ベルツ先生の講義を中止してでも、見ておくべきものなのかな?」
「見ておかれるべきと思います」
大山さんは言う。「梨花さまの教養を磨く、という意味で」
「つまり、“上医”になるために必要、と……」
私は息を吐いた。ならば、仕方がないか。
「しょうがない、飽きないように頑張る」
こう答えると、大山さんは苦笑した。
「でも、ちゃんと普通の医者らしいこともする。そのために、今日は血圧計と聴診器を持ってきたんだから」
私はランドセルを持ち直した。いつもは勉強道具を入れているランドセルだけれど、今は血圧計と聴診器を入れている。ランドセルに血圧計と聴診器を入れて持ち歩く小学生なんて、日本史上、後にも先にも、おそらく私だけだろう。
「なるほど、児玉さんの血圧を測りたいのですか」
「桂さんと山本さんと、原さんの血圧もね」
今日は原さんも会合にやって来る。彼の血圧も、先日の初対面の時、測る余裕なんて全く無かったので、確認できていないのだ。だから、原さんも呼ぶようにと、特に山縣さんにお願いした。
「でも、もしかしたら、原さんの血圧は上がっちゃうかな?一般的に、驚いたり、緊張したり、精神的な負荷が掛かると、血圧は上がってしまうから……」
確か、血圧の話をしたときに、度肝を抜かれたような顔になっていた記憶がある。もしかしたら、血圧を測ろうとしたら、原さんがその話を思い出して緊張してしまって、血圧が上がってしまうかもしれない。
すると、
「そうですか、そうなると、桂さんと山本さんと児玉さんの血圧も上がってしまったか……」
大山さんが少し困ったような顔をした。
「どうして?三人とも、緊張しやすい性質なの?」
「まあ、そうですが、……大丈夫でしょう」
大山さんが微笑した。
「ま、緊張しているようだったら、その分は少し甘く見てあげます」
私は言った。三条さんがインフルエンザになった時以来、数か月ぶりの血圧測定だから、実は私も少し緊張している。
「では、今日は俺も、梨花さまを少し甘く見て差し上げます」
私の顔をちらと見た大山さんが、そう言ってまたほほ笑んだ。
山縣さんの家は、とても広かった。
正確に言おう。建物は小ぢんまりとしていたのだけれど、庭がとても広かった。
「あの……山縣さん、この広い庭、全部自分で設計したんですか?」
私の隣に立って、庭園を案内してくれる和服姿の山縣さんに尋ねると、「殆どはそうですな」と、事も無げに答えられてしまった。大山さんも、私の後ろからついて歩いてくる。
「天気が良ければ、ここから、富士山も見ることができるのですが……」
庭園内の高台に来た時、山縣さんがこう言ったので、私は驚いてしまった。
「富士山が見えるんですか?東京から?高層ビルでもないのに?」
言ってから、私は気が付いた。この明治時代だから、周りに景色を遮る建築物が無くて、富士山が見えるのだ。
「高層ビル……堀河どのの屋敷に住まわれていた頃、おっしゃっておられましたね。エジプトのピラミッドよりはるかに高い建物と聞いて、驚きましたが……」
「よく覚えてますね……」
「もちろん、浅草の凌雲閣よりも高いのでしょうな」
「凌雲閣って……確か12階建てでしたっけ。もっと高かったですね」
私が前世で死んだ頃には、日本国内にも、地上からの高さ300mなんていうビルがあったはずだ。
「でも、曇っているけれど、この景色はいいですね。私が生きていた時代の東京とは、全然違う……」
眼下に見えるのは、早稲田方面だと聞いた。見えている水の流れは、玉川上水だそうだ。家々が立ち並んでいる区画もあるけれど、田畑も見える。小石川と言えば、前世では、都心のど真ん中のはずだ。早稲田に田んぼや畑がある風景というのも、前世の感覚のままだと、ちょっと信じられない。
山縣さんも、私の隣で景色を楽しんでいる。彼を見て、ふと思い出したことがあって、私は口を開いた。
「あの、山縣さん」
「なんでしょうか、増宮さま?」
「先月の“梨花会”の時に言っていた、私に了解を得たいことって何だったんですか?」
すると、
「いえ、目的がもう達成されましたので、大丈夫です」
山縣さんはこう答えた。
「どういうことですか?」
「わしが話したかったのは、濃尾地震に向け、桂を“梨花会”に入れたい、ということ……」
「え?」
「しかし、増宮さまは“授業”の際に、桂に否定的なご評価だったので、提案しても却下なさるのではないか……と恐れておりました。説得に時間が掛かるだろうと見まして、あの場では話さなかったのですが……」
「山縣さん……」
私は呟いた。
確かに、前世での私は、桂さんに否定的な評価をしていた。バイト先の生徒に授業をするときも、否定的なニュアンスで喋っていた。桂さんだけではなく、その親分格であった山縣さんのことも……。
「だが、増宮さまは、ご自分から、桂を梨花会に入れたいとおっしゃった。児玉と山本もです。あの二人も、いずれ梨花会に入れなければいけないと、我々は思っておりました。ただ、増宮さまは、これも提案しても、ご自身の“史実”の記憶にないとおっしゃって、却下なさるのではと……」
(そうか……)
私は、ため息をついた。私が“史実”の一方的な見方に縛られている間にも、“梨花会”の皆は、先々のことを色々考えてくれていたのだ。
「私が未熟なせいで、迷惑を掛けました」
私は山縣さんに向き直ると、頭を下げた。
「増宮さま?」
「“史実”での梨花会のみんなも、きっと、一生懸命生きていただけなのよね。前世の私と違って……」
頭を上げると、山縣さんが目を見開いていた。
「山縣さん?」
心配になって声を掛けると、山縣さんはハッとしたように目をしばたたかせて、
「あ……いえ」
と、あいまいな返事をした。
「どうしたんですか?」
「大丈夫です。増宮さまのご性質を、改めて確認いたしておりまして……」
「麗しいとか、言わないでくださいね。大体、この“呪いの市松人形”を美しいと思えるのがどうかしています」
「“呪い”などとは、何をおっしゃいますか。桂も先日、申し上げたかと思いますが、いい加減、ご自身の美しさにお気づきになっていただかなければ」
「そう言われてもね……」
私はため息をついた。自分が美しいとは、全く思えない。ただ、ここで山縣さんに更に反論してしまうと、議論がヒートアップして終わらなさそうだ。話題を変える必要性を感じた私は、大山さんに話しかけようとしたのだけれど、後ろにいると思っていた大山さんは、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
「大山さんは?」
「そう言えば、姿が見えませんが……」
「どこに行っちゃったのかな?」
「もう、食堂の方に行っているのかもしれません」
山縣さんが、懐中時計を取り出して言った。「今が3時35分……」
「やだ、こんなにのんびりしていて、大丈夫なんですか?もう、ここに着いてから1時間以上経ってる……大山さんも、声を掛けてくれればいいのに……」
「まあまあ、増宮さま」
山縣さんが微笑する。「ゆるりと参りましょう。この庭園、まだまだ、見ていただきたいところが沢山あるのですよ」
「でも、みんなもう、到着してるんじゃない?」
「大丈夫です。児玉と山本と桂には、4時に来るように伝えてありますから、もう少し時間があります」
「本当に?」
「はい、ですからゆっくりと」
山縣さんがまた言う。まあ、まだ少し時間があるのなら、庭園見学を続けても問題ないだろう。
「分かりました。ただ、みんな忙しいのだし、時間は守るように、案内をお願いしますね」
「心得ております」
山縣さんが一礼した。
山縣さんが庭園の残りを案内してくれて、今日会合が行われる食堂に私を招き入れた時、食堂の柱時計が4時の鐘を打った。
すでに食堂には、西郷さん、黒田さん、松方さんがいた。児玉さんと山本さんと桂さんもいる。さっきから姿が見えなかった大山さんもいた。なぜかみんな、顔がなんとなく緊張している。
「あの……どうしたの、みんな?」
私が声を掛けると、大山さんが顔を上げて微笑した。
「増宮さま、何でもありませんよ」
「そう……。大山さんが急にいなくなったから、びっくりしました」
「申し訳ありませんでした。はぐれてしまいましたので、先にこちらに来ておりました」
「そうだったのね」
そんなことを話していると、
「申し訳ありません、遅れました」
フロックコート姿の原さんがやって来た。
「おお、原君、来たか」
山縣さんが原さんに声を掛けると、原さんは山縣さんに恭しく一礼して、更に私にも頭を下げた。
(山縣さんは、原さんのことに気が付いてないのかな……)
ふっと、そんな思いが頭をよぎる。原さんが山縣さんを操っている、というのは、先日、原さんと会った時に分かったことだけれど、それは私と大山さんの秘密だ。
「これで、この時間に来られる者は全員、揃いましたかね。では、始めましょうか」
黒田さんが一同を見渡しながら言って、
「増宮さま、こちらにお座りいただいてよろしいですか」
私に、自分の隣の椅子を示した。食堂の一番上座にある椅子だ。
「あー……そこに座らないと駄目ですか」
「当たり前です。増宮さまがなんと言おうと、今の増宮さまは皇族、しかも直宮であらせられますからな」
上座に座るのはあまり好きではないのだけれど、こう言われてしまっては、“私の中身は平民だから”と逃げることができない。私は渋々、示された椅子に腰かけた。左隣には大山さん、右隣には黒田さんがいる。
「ええと……児玉さま、山本さま、桂さま、お久しぶりです」
下座の方にいる“国軍三羽烏”に声を掛けると、
「は……」
「覚えていただいておりましたか。光栄でございます」
「ご無沙汰しております、増宮殿下」
3人とも、一斉に椅子から立ちあがって、私に頭を下げた。
「ああ……かしこまらないで、どうぞ椅子に掛けてください、お三方とも」
こう言ってから、私は大山さんを呼んだ。
「大山さん、このお三方を仲間に入れることは、皆さま、了承されているのですね?」
「はい、もちろんです」
大山さんが答えてくれた。
「陛下とお母様のご許可も?」
「そちらも大丈夫です」
黒田さんも頷いた。それを確認して、私はほっと息をついた。
「よし、じゃあ、私、素で喋ってもいいのね、黒田さん?」
「今まで、素ではなかったのですか?」
「そうですよ。良家のお嬢様っぽくするのって、私にとっては本当に大変なんです。しかも、誰が秘密を知ってて、誰が知らなくて……と考えながら喋ると、余計に……」
「確かに、“赤坂の黒姫さま”には、少し酷かもしれませんな」
西郷さんがふふっ、と笑った。松方さんもクスクス笑っている。
一方、私と高官たちのやり取りを見ていた“国軍三羽烏”は、きょとんとしていたけれど、
「あ、あの……増宮さま」
児玉さんが、思い切って、という感じで口を開いた。
「“秘密”とは、一体なんでしょうか?」
「ええと……児玉さんも山本さんも桂さんも、輪廻転生とか、タイムスリップって概念は知ってますか?」
「はい」
児玉さんが頷いた。
「私、前世の記憶があるの。今から130年ぐらい未来の日本で、女性の医者として生きていたという記憶が」
私の言葉に、“国軍三羽烏”は、揃って目を丸くした。
私は、自分の前世のことと、“史実”のことを、かいつまんで話した。もうこれで4,5回目なので、慣れたものである。
「本当にそうであったのか……しかし、今でさえ、ご武名を轟かせておいでなのに、名のある将官ではなかった、と?」
「医者であった……?!そんな馬鹿な!かように軍才がおありになって、か?!」
「ご本人の口から聞くと、実感が増すが……前世も女性であったとは……」
児玉さん、山本さん、桂さんは、私の話を聞き終わると、頭を抱えていた。……変な方向の驚き方をされているような気がするのだけど、気のせいだろうか?
「あのー、児玉さん、“本当にそうであったとは”ってことは、もしかして、私に前世があるって予想していました?」
私が尋ねると、
「はい、実は、漏れ聞こえた増宮さまのご言動や、高官方の動きなど、様々な情報を総合して、増宮さまが、未来の知識をお持ちだということは、察してはおりました」
児玉さんはこう答えた。
(な、なんだってー!)
私は椅子からずり落ちかけた。流石、“史実”の日露戦争の満州軍総参謀長だ。
「しかし、惜しむらくはその軍才。もし親王殿下であらせられましたら、国軍で、その軍才を大いに振るっていただきたかったのに……」
山本さんが実に悔しそうに言う。
「山本さん、私、単に、城郭が好きなだけです。その周辺知識として、戦国時代の合戦や城攻めの知識が多少あるだけで、軍才なんて全然ないですよ……」
私は半ば呆れながら山本さんに答えた。一体、どんな勘違いをしていたんだ?
「桂さんは、あまり驚いていないみたいだけれど……」
こう言いながら、桂さんに視線を向けると、「驚いております」と答えられた。
「申し訳ありません……前世でも女性であったということが、いまいちしっくり来ず……」
「わたしもです」
桂さんの答えに便乗して、原さんも声をあげる。
「あの、原さん?私のことは、先日話しましたよね?なんであなたまで驚いているんですか?」
私が尋ねると、
「前世が女性だということまでは、聞いておりませんでしたよ!」
原さんが全力で私に突っ込んだ。
「悪かったわね、女の子らしくなくて……」
私はため息をついた。
“国軍三羽烏”と原さんが、私の前世の性別を疑ったり、“国軍に入ってほしい”などと言ったりするのは、多分、私が女性らしくないからだろう。
(そりゃあ、仕方ないんだけれど……)
中学高校時代は受験勉強に、大学時代は、城郭めぐりと歴史の勉強に夢中だったから、お化粧するという概念は私の中にはなかった。当然、おしゃれにも全く興味がなかった。
(それに、彼氏いない歴なんて、前世を含めて今生も、絶賛記録更新中だしなあ……)
と、
「増宮さま」
大山さんが、私の着物の袖を軽く引っ張りながら、小声で言った。
「ご心配なされますな」
「?!」
大山さんが言葉を掛けたタイミングが、余りにも絶妙だったので、私は思わず顔を赤くした。
「い、いや、あのね、私、医者になるからには、女を捨てなきゃいけないと思っているのよ?それに色々勉強しないといけないんだから、お化粧とかおしゃれとか、まして恋愛なんてしてる暇は……」
慌てて小声で、大山さんに言い訳をする。
すると、大山さんは私の耳元に口を近づけて、囁いた。
「あなた様のご性質を過度に矯めることなく、その御名の通りに美しくお育て申し上げ、“上医”にするのが我々の役目です」
(名前の通りに、美しく……?)
私の名前……“章子”の“章”という字に、美しいという意味があっただろうか?
「ですから今は、あなた様らしく、できることを、少しずつでもおやりになればよいのです、梨花さま」
(?!)
私は思わず、大山さんの方を振り返った。彼は、私を優しくて暖かい眼差しで、じっと見ていた。
「そういえば、児玉さんたちの血圧を測るのではありませんでしたか?そのために、血圧計も聴診器も、お持ちになったのでは……」
「そうだった……!」
大山さんの言葉に、私は立ち上がった。全員の視線が、私に集まる。
「もう許さない。私の前世が医者だということを、ちゃんと見せてあげます。児玉さんも山本さんも桂さんも、軍服の上着の片袖だけ脱いでください。原さんも、上着の片袖だけ脱いで。お近づきの印として、血圧を測定してあげるわ」
「なんと……!」
原さんの顔が青ざめる。
「何……ベルツ医師と、東宮侍医の三浦医師が考案したという、あの血圧計か?」
山本さんが目を丸くする。
「その通り。まあ、私が未来で使っていた技術を、ベルツ先生と三浦先生に頼んで再現したんだけどね」
そう言っている間に、私はランドセルから取り出した聴診器を首にかけ、血圧計を取り出した。
「さてと、誰から測りますか?いろは順で、原さんからかしら」
「お、お待ちを、増宮殿下!」
……こうして、新しく“梨花会”に加わった4人の血圧を測定して、やっぱり血圧が高かった児玉さんに、運動療法と食事療法について一通り話して、実行をお願いした後、私は一人で山縣さんの家を出た。もう午後5時になってしまっている。早く花御殿に戻らないと、皇太子殿下を心配させてしまう。
“梨花会”の面々は、濃尾地震の対策について話し合う、ということで、山縣さんの家でそのまま会議を続けるそうだ。残りの面々も、そのうち山縣さんの家にやって来るのだろう。まあ、私が覚えている“史実”の濃尾地震の情報、そして原さんが覚えている“史実”の濃尾地震の情報も、合わせて大山さんが持っているから、会議の進行には問題ないはずだ。
(しかしなあ……)
帰りの馬車の中、血圧計と聴診器の入ったランドセルを抱えながら、私は考えていた。
(名前の通りに、美しく、か……)
梨花という、前世の私の名前。確か、私の生まれた頃にはまだ存命だった前世の父方の曾祖父が、“半井の家で生まれた初めての娘には、絶対この名前をつけろ”と言い張り、100年ぶりぐらいに半井家に生まれた女子――すなわち私に、この名前を付けたという。なぜその名前にしたのか、聞こうと思った時には、名付け親の曾祖父は他界していた。
(梨の花って……奇麗なのかな?)
前世でも今生でも、梨の花が咲いているところを見たことがない。梨の木に、実がついているのは見たことがある。実のある場所に、花があったことになるから、きっとその時期になれば、サクラやモモと同じように、木に一斉に花が咲き乱れるのだろう。
(いつか、見たいな……)
私は微笑した。
今生でやりたいことが、また一つ増えた。




