船出
1916(明治49)年7月25日火曜日正午、皇居。
私が外遊に出発するまであと5日に迫ったこの日、お父様が主催する名残の宴が開かれた。私と栽仁殿下、そして輝仁さまの他に、それぞれのお付き武官、随行する役人たち、そして梨花会の面々や大臣たちも招待されているので、広間には40人ほどの招待客がいる。もちろん、私の乳母子である千夏さんも、慣れない通常礼装を着て、ナイフとフォークを動かしていた。
身内だけの昼食会ではないからか、お父様は厳めしい顔をしている。ただ、他に人がいようといまいと、私がお父様に話す内容は変わらない。メインディッシュのお皿が空になって下げられたころを見計らい、
「あの、お父様」
私はお父様に呼びかけた。
「ん?」
鷹揚に私の方を振り向いたお父様に、
「明後日からは、ちゃんと葉山で避暑をなさってくださいね」
私は営業スマイルでお願いした。
「ふ、章子?!」
「ここ数年は、比較的素直に葉山に行幸なさっておられますけれど、私が栽仁殿下と結婚する前の年はひどかったではないですか。みんなが奥御殿にお父様を探しに行ったのと入れ替わりに、徳大寺さんの部屋に忍び込んで、大山さんに引きずり出されていましたよね」
「ま、待て!」
お父様が顔を真っ赤にして叫ぶと、大山さんと、内大臣兼侍従長の徳大寺さんが吹き出した。宮内大臣の山縣さんも必死に笑いをこらえている。西園寺さんはテーブルに突っ伏して笑いながら、右手でテーブルを叩き続けていた。
「お父様……何やってるんですか」
今月の14日、めでたく航空士官学校を卒業して航空少尉となった輝仁さまが、呆れ顔で呟く。
「侍医さんたちに身体を診せるのだけじゃなくて、避暑に行くのもそんなに嫌がるなんて……」
「そうよねぇ。本当、心配になるわ。侍医さんたちの診察は絶対に受けさせるように、って、兄上と山縣さんと徳大寺さんには頼んだけれど……」
輝仁さまと私の会話を聞いた梨花会の面々のほとんどは、もう我慢ができなくなったのか、大声で笑い出していた。ただ、梨花会に入っている人の中でも、山本航空大尉や大蔵大臣の高橋さん、農商務大臣の牧野さん、国軍参謀本部長の斎藤さん、外務省取調局長の幣原さんと大蔵省主計局長の浜口さんは、ものすごく困った顔をしていた。それに、栽仁殿下や千夏さん、今回私たちに随行する中央情報院の広瀬さんや秋山さんたちも、明らかに困惑していた。
「輝仁、章子……何もこの場で言わんでよいだろう」
私を睨みつけたお父様に、
「この場だから言うのですよ。みんなに知れ渡れば、逃げるのがそれだけ難しくなりますから」
私はサラっと言い返した。すると、
「それは良い手段ですね。でも増宮さん、お上をいじめるのはそのくらいにしてあげてください。泣きだされてしまいますから」
お父様の隣に座っていたお母様が私をなだめる。梨花会の面々の笑い声が更に大きくなった。
「なるほど、なるほど。これは妃殿下、考えましたのう。陛下は皆の手本であらせられますから、避暑に時間通り出発しなかったり、侍医の診察から逃げたりという規範から外れた行いは出来ませぬなぁ」
笑い声をようやく収めてこう言った西郷さんに、
「確かにその通りですけれど……西郷さん、お母様のおっしゃる通り、お父様をからかうのはそろそろやめましょうか。慣れていない人たちがビックリしていますし、お父様が拗ねて、“外遊に行くな”と私に命じるかもしれませんし」
私は苦笑交じりで応じた。
「一度沙汰を下したものを、そう簡単に覆せるか!」
お父様は私を怒鳴りつけた。「もしそなたが外遊するのでなければ、昨日、朕の身体をそなたや三浦たちに診せてはおらん!」
「そうですね。お父様もお母様も兄上も、診察結果に問題がないと分かってよかったです」
怒り狂う、というよりは、駄々をこねているようなお父様に、私は冷静に、ニッコリ笑ってこう答えた。
昨日、皇居医療棟で、私は侍医の先生方や東京帝国大学内科学教授の三浦謹之助先生と一緒に、お父様とお母様と兄の身体を診察した。そして、先生方と忌憚なく意見を交わして検討した結果、お父様の身体にもお母様の身体にも、そして兄の身体にも、特に問題はないという結論が出たのだ。これで、私は後顧の憂いなく、外遊に行けることになった。
私の言葉を受けたお父様は、苦虫をかみつぶしたような顔をして黙っていたけれど、
「ああ、もう……よいか、そなたら」
先ほどよりも更に厳めしい顔を私と栽仁殿下と輝仁さまに向ける。私たちは慌てて深く頭を下げた。
「輝仁よ、そなたもようやく、航空士官になった。だが、そなたは航空士官であると同時に、筆頭宮家の当主でもある。将来は皇族の一員として、蝶子とともに国賓をもてなしたり、あるいは他国に遣わされたりする機会もあるだろう。その時に備え、世界を見聞し、要人たちと誼を通じておくことはとても大切なのだ。決して、他国の飛行器にうつつを抜かすことなく、見聞を広めて参れ」
お父様は重々しい声で、深く頭を下げた輝仁さまに淡々と言い聞かせる。お父様から放たれる威圧感に負けたのか、輝仁さまの額には脂汗が光っていた。
「章子もそうだ。そなたも栽仁とともに、国賓を接待する機会があるだろう。何より、そなたは上医になるのであるから、国内のみならず、海外の情勢にも通じておく必要がある。そなたと栽仁の役割は、輝仁の目付け役ではあるが、そなた自身も、此度の外遊で見聞を広めるのだ。よいか、病院や医学の研究所ばかり見学して、本来の目的を忘れるようなことがあってはならんぞ」
(うっ……)
痛いところを突かれた私は、お父様に返事が出来なかった。訪問国の1つ・フランスにはパスツール研究所がある。ドイツにはコッホ研究所と、森先生が所長をしている森ビタミン研究所がある。そこには絶対立ち寄りたい。それから、今の時代の外国の病院がどうなっているのかも、実際に見学して確かめたかったのだ。目的の1つを潰されてしまった私に向かって、梨花会の面々の笑い声が飛んだ。
「……それゆえ、輝仁と章子を監督できるのは、栽仁しかおらぬ」
お父様は栽仁殿下に視線を向けると、今までとは打って変わって穏やかな声で言った。
「栽仁、こやつらの目付け役は骨が折れる仕事だが、どうか耐えてくれよ」
「はい、章子さんが医学に夢中になり過ぎないように、しっかり手綱を取る所存です」
栽仁殿下がお父様に最敬礼して答える。その様子を見てお父様は「うむ」と頷き、
「まぁ、大山もいるから安心はしておるが……そなたら、元気に日本に戻ってくるのだぞ。そして、今回の外遊での経験も活かしつつ、この国のために励め」
と私たちに命じた。
「俺、頑張ってきます、お父様」
「かしこまりました」
「誓って、陛下のお言葉通りに致します」
再び最敬礼した私たちに、お父様は穏やかな視線を注いだのだった。
1916(明治49)年7月30日日曜日午後2時、横浜港。
「雨がやんでよかったな」
サンフランシスコ行きの10020トンの貨客船“恵比須丸”の上甲板。新橋から一緒の汽車に乗り込み、私たちの見送りに来てくれた兄が外を見て微笑んだ。3日前から降り続いた雨は、私たちが家を出る直前にようやく降りやんだけれど、空はまだ厚い雲に覆われていた。
「そうね。でも、だいぶ長いこと雨が降っていたから、洪水や山崩れが起こっていないか、少し心配ね」
私がこう答えると、
「今のところ、その類の情報は入って来ていないが、そのまま入らずに終わるといいな」
兄は優しい声で私に答えた。
「また何かあったら、お前に手紙を書く。だからお前も、旅先から手紙をくれ。しばらくしたら、お前たちの様子を収めた活動写真も日本に届くだろうが……」
「分かってる。なるべく手紙を書くようにする。……でも、兄上。それ、輝仁さまにも言う方がいいよ」
私の言葉に、
「いや、輝仁には、俺の他に手紙を書かなければいけない相手がいるからな」
兄がニヤリと笑ってから応じると、私の右手を指す。見ると、輝仁さまと、婚約者の三島蝶子ちゃんが、何やら話し込んでいる。輝仁さまと別れるのが辛いのか、蝶子ちゃんの目には涙が光っていた。
「……なるほど。輝仁さまからの手紙は期待できないわね、兄上」
「ああ。だからお前に手紙を書いてもらうしかない。旅先で出会ったこと、感じたこと、学んだこと……なんでもいいから、俺に書き送ってくれ。お前の考えには、できるだけ多く触れていたいから」
私の目を真正面から見つめながら言った兄は、急に表情を変え、
「だが、医学の内容はほどほどにしてくれよ。医学は素人なのだからな」
と、慌てて付け加えた。
「ご安心を、皇太子殿下。もし、医学のことを詳しく書きそうになったら、僕が止めます」
私の隣にいた栽仁殿下が、私の右肩に手を置きながら言う。「もうっ」と唇を尖らせて、私が軽く叩こうとすると、栽仁殿下は私の手をひょいと避ける。それを見て、兄がおかしそうに笑った。
「お前たちは、相変わらず仲がいいな。道中、喧嘩をしないようにしろよ」
「当たり前よ」
私が胸を張って兄に答えた時、
「父上!母上!」
可愛らしい声が上甲板に響いた。乳母さんに連れられた万智子と謙仁と禎仁が、私と栽仁殿下のそばにやって来たのだ。「ああ、みんな来たね」と言うと、栽仁殿下は身を屈めて、
「いいかい。父上と母上が帰ってくるまで、おじいさま、おばあさま、それから捨松さんと乳母さんたちの言うことを聞いて、勉強も遊びも頑張るんだよ」
子供たちと視線の高さを合わせて言い聞かせた。
「「「はいっ!」」」
子供たちは声を揃えて返事をする。4歳の謙仁は、いっちょまえに、返事と一緒に軍隊式の敬礼をした。
「父上も母上も、なるべくたくさんお手紙を書くからね。だから、お手紙をちょうだいね」
私も右の膝を床に付き、子供たちにお願いすると、
「はい、おじいさまに字を教わって、お手紙を書きます」
長女の万智子がしっかり頷いた。5歳になった万智子は、ひらがなとカタカナだけではなく、簡単な漢字も何文字か書くことができる。手紙を私たちにくれるたびに、彼女が書ける漢字の種類は増えていくだろう。
「そうか。じゃあ、よろしく頼むよ」
ニッコリ笑った栽仁殿下は、両腕を広げると、
「よし、船が出る前に抱っこしてあげよう。万智子、おいで」
洋服を着ておめかししている万智子に呼びかける。その途端、万智子は栽仁殿下に向かって突進するように走る。彼女の身体を受け止めると、栽仁殿下は万智子を軽々と抱え上げた。私も謙仁と禎仁、そして万智子を、栽仁殿下と代わる代わる抱き締める。しばらく触れることができない子供たちの温もりを、私と栽仁殿下はしっかり味わった。
やがて、“恵比須丸”の船員さんたちが、出航の時間が近くなったと上甲板にいる人間たちに告げる。もう一度私たちとの別れを惜しんでから、子供たちは乳母さんと捨松さんに付き添われて船外へ出た。輝仁さまと見つめ合っていた蝶子ちゃんも、輝仁さま、そして私の後ろに控えていた大山さんに一礼して上甲板を立ち去った。
「栽仁、大山大将、梨花と輝仁を頼むぞ。……梨花、この時代の世界、しっかり見て学んでこいよ」
兄は囁くように、栽仁殿下と大山さん、そして私に命じた。次いで輝仁さまに「慣れない船旅で無茶をするなよ」と声を掛けると、兄は乗船口までつかつかと歩いて行き、くるりと振り返ってこちらに手を上げた。私たちが慌てて最敬礼をして、頭を上げた時には、兄の姿は見えなくなっていた。
午後2時45分。“恵比須丸”は横浜港の桟橋を離れ、ハワイ王国のホノルル港に向かって進み始めた。両手を上げて「万歳」と大声で叫ぶ見送りの人々に、私たちは上甲板から丁重に頭を下げた。横浜港からホノルル港までは約11日の航海だ。東京湾を抜けて太平洋に出ると、しばらくは陸地の見えない旅を続けることになる。
「この景色とは、当分お別れだなぁ」
上甲板から三浦半島の方角を眺めながら、栽仁殿下は感慨深げに呟いた。
「栽さんは、いつもこの景色を見ているのよね」
私が話しかけると、
「そうだね。この景色がしばらく見られないのは辛いけれど、練習航海以来、久しぶりにハワイとアメリカに行ける。アメリカの後は、大西洋も航海する。とても楽しみだよ」
栽仁殿下は目をキラキラさせながら答える。やはり海兵士官なだけあり、栽仁殿下は海が好きなのだ。
「私も楽しみだよ。アメリカやヨーロッパに行けるなんて、考えたことも無かったから」
私は栽仁殿下に微笑んだ。臣下は天皇の身体に傷を付けてはいけない。そのしきたりが宮中に残っている限り、私はお父様に侵襲的な治療ができる唯一の医者として、お父様が体調を崩した場合に備えるため、日本を離れることはできないと思っていたのだ。しかし、お父様の身体は健康であることは、5月の健康診断で確かめられたし、6日前の診察でも身体所見に問題は認められなかった。それに、5月の健康診断の時、近藤先生はお父様の身体に採血用の針を刺すことができたのだ。兄の切創の縫合ができた近藤先生だから、私がついていなくても、お父様にある程度の侵襲的な治療ができるだろう。だから、私も安心して日本を離れられる。
(たぶん、一生に一度の機会だ……。お父様と兄上が言ったように、見聞を広めて、将来、兄上を助けられるように……)
私が未来に思いを馳せたその時、
「栽仁兄さま!章姉上!“三笠”が横須賀から出てきてるぞ!」
私たちから少し離れたところで海を眺めていた輝仁さまが叫んだ。見ると、進行方向右手に、極東戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦“三笠”の姿が見えた。“恵比須丸”が進んでいるのと逆方向、北に進路を取っているようだ。
「おかしいな。今日、“三笠”が港外に出る予定、あったかな……?」
そう言いながら、手に持った双眼鏡を目に押し当てた栽仁殿下は、「あ!」と素っ頓狂な叫び声を上げた。彼にしては珍しいことである。
「どうしたの?」
「栽仁兄さま?」
私と輝仁さまが口々に尋ねると、
「“三笠”に、天皇陛下と皇后陛下が乗っていらっしゃる……」
栽仁殿下は力無く答える。
「ちょっと、栽さん!双眼鏡を貸して!」
そう叫ぶやいなや、私は夫の手から双眼鏡をひったくった。「ずるいや、章姉上!俺にも双眼鏡を貸せよ!」と怒鳴る弟を無視して双眼鏡を目に当て、“三笠”の方向を見ると、上甲板に大元帥の軍装をまとったお父様と、紅いビジティングドレスを着たお母様が立っていて、“三笠”の横を通過しようとする“恵比須丸”に視線を送っているのが分かった。私は輝仁さまに双眼鏡を押し付けると、隣の栽仁殿下に倣い、“三笠”に向かって敬礼をした。
“恵比須丸”が船尾の国旗を降下して、“三笠”に敬礼を表したのだろう。“三笠”の軍艦旗も降下して、こちらに答礼をした。双眼鏡が無いと、お父様とお母様の姿は、辛うじて視認できる程度の小ささだ。けれど、確かに、お父様とお母様が、私としっかりと目を合わせて頷いた……私はそう感じた。
後から思えば、これが、私の激動の時代への船出だった――。
※“恵比須丸”はもちろん、架空の船舶です。




