兄妹の課題
1916(明治49)年5月13日土曜日午後3時50分、皇居内の会議室。
「梨花さま」
膝立ちになったまま、兄に抱き寄せられ、兄の腕の中で泣いていた私は、響いた声にハッと我に返った。振り返ると、黒いフロックコートに身を固めた大山さんが、会議室の入り口に立っているのが見える。
「お車のご準備が整いました」
大山さんの呼ぶ声に、私は動いていいものかどうか迷った。兄が、心のうちにある思いを……自分はお父様のような立派な天皇になることができるのかという不安を、きちんと吐き出せたとはとても思えなかったからだ。
(もう少し残って、兄上の話を聞く方が……)
私がそう思った時、
「梨花、お前は帰れ」
兄が顔に力無い微笑を浮かべながら言った。
「イヤよ」
私は反射的に兄に答えた。
「どうした。万智子たちがお前の帰りを待っているだろう?」
私に苦笑で応じた兄に、
「そうだけど、こんな兄上を放っておけないよ!」
私は叫ぶように言い返した。
「放っておけない、けど……」
(私……兄上を助けられるの?)
心に冷たい棘が刺さったような感覚に襲われた。小さいころから、兄を守ろう、助けようという思いで動いてきたのに、その思いが、現実に邪魔をされてしまっている。
と、
「そのようなご不安を抱かれること自体が、暗愚な帝になられることはないという証しでございます」
いつの間にか私たちのそばまで歩いて来ていた大山さんが言った。「暗愚であれば、大統を継ぐことの重大さも分からずに、享受できる権力から生み出される快楽に溺れることでしょう」
「聞かれてしまっていたか……」
兄が視線を大山さんに向けた。「忘れてくれるとありがたいのだがな。俺がこんな泣き言を言っていたと知られれば、お父様を心配させてしまう」
「では、お言葉を忘れる前に、伊藤さんに言いふらしておきましょう。泣き言をおっしゃった罰として、伊藤さんに倫理学の講義をしていただく……いかがですか?」
「泣き言を言う暇があれば修業をしろ、ということか」
兄の顔に再び苦笑が閃いた。「相変わらず、卿らは厳しいな」
「そこまでは申しておりませんが」
大山さんも兄に微笑みで応じる。「かつて、東宮御学問所で、皇太子殿下は、今は亡き三条どのの倫理学の講義を聞いておられました。しかし、お代替わりまで1年を切ったところで、もう一度別の角度からの講義を聞いていただくのも、またよろしいかと存じます」
「俺に拒否する権利はない。伊藤総裁の講義、聞かせてもらうとしよう」
兄はゆったりと大山さんに頷いた。それを確認した大山さんは、
「梨花さまにも、皇太子殿下とご一緒に、伊藤さんの倫理学の講義を受けていただきましょう」
そう言いながら、微笑を私に向けた。
「は?!何で私が倫理学の講義を受けないといけないの?だって、兄上に講義する倫理学って、いわゆる帝王学だから、その講義は私には必要ないと思うよ?」
私が大山さんを睨みつけて抗議すると、
「上医におなりになろうという方であれば、帝王学も当然ご存じであるべきです」
大山さんは私を優しくて暖かい目でじっと見る。
「……だったら、兄上が御学問所で勉強していた時に、私にも倫理学の講義を受けさせればよかったじゃない。同じ敷地にいたのだから」
「華族女学校の授業もございましたし……それに、あの頃の梨花さまでは、三条どのの倫理学の講義を受けても理解できないだろうと考えまして」
「主君に対して容赦がないわねぇ……」
唇を尖らせると、兄がプッと吹き出した。
「まぁ、そうすねるな、梨花。2人でおとなしく、泣き言の罰を受けよう」
兄は笑い声を収めると、
「少し気持ちが楽になった。泣き言を聞いてくれてありがとう、梨花」
私を真正面から見つめながら言った。
「それなら、よかった……」
天皇の位を継ぐ。その重圧に苦しむ兄の助けに、少しでもなれたのであれば……。私はもう一度、兄の右手を包み込むように握った。
1916(明治49)年5月16日火曜日午後3時、皇孫御学問所。
「懐かしいな。机も椅子も黒板も、俺がここで勉強していた時と変わらない」
皇孫御学問所の中にある小さな教室。6組並べられた机の上面を兄は優しい手つきで撫でた。現在この教室を使っている迪宮さまと5人のご学友さんたちは、今は馬術の練習で外に出ている。教室の中には兄と私、そして皇孫御学問所総裁の伊藤さんしかいなかった。
「こんな風になっていたのね、兄上たちの教室って」
教室の中を見回した私は、小さくあくびをした。当直勤務を終え、万智子の言う“お昼寝”をしてからここに来たけれど、まだ少し眠い。
「そういえば、梨花は俺がここにいた時も、この教室に入ることはなかったな」
「甘露寺さんたちが怖がるから遠慮していたのよね。剣道は一緒に稽古していたけれど」
私が椅子の1つに腰かけると、兄も私の隣の席に座る。兄が節子さまと結婚するまで、兄と一緒に暮らしていたけれど、こうやって一緒に講義を受けるのは初めてだ。
「では、始めましょうか」
伊藤さんはゆったりと微笑んで教壇に立つと、
「さて、まず妃殿下にお伺いいたしましょう」
いきなり私を指名した。
「は、はい」
完全に不意をつかれた私が慌てて返事をすると、
「皇太子殿下が天皇の御位につかれた時、妃殿下は皇太子殿下に、どのような為政者になっていただきたいとお考えですか?」
伊藤さんは私にこんな質問をした。
「兄上に……?」
私は兄の方を振り向いた。兄にどんな為政者になって欲しいか……そんなこと、考えたことがない。
「あの、伊藤さん……今考えてもいいですか?」
おずおずと右手を挙げながら尋ねると、兄は「は?!」と目を剥いた。一方、伊藤さんは、
「ハハハ……正直で、非常によろしゅうございます……」
大笑いしながら私に言った。
「梨花、それは大事なことだろう!今まで考えたことが無かったのか?!」
「ご、ごめん、兄上……。今まで、考える機会が無かったというか、自分の修業をするので精いっぱいで考える余裕が無かったというか、医学のトレンドを追うのが楽しくて、そんなことを考える発想が無かったというか……」
気色ばむ兄に一通り弁解すると、
「そ、それにさ、どんな為政者になって欲しいかというのは、兄上の個性や希望に左右されるところが大きいから、まず、兄上がどんな為政者になりたいかを教えてくれないと分からないよ」
私はようやく、兄に反撃を一発入れた。
「むむ……確かに一理ある」
「それでは皇太子殿下、妹君からのご要望もございましたから、皇太子殿下が目指される為政者というものを、この伊藤に教えていただけないでしょうか?」
両腕を胸の前で組んで顔をしかめた兄に、どこかおどけたような表情をした伊藤さんの問いが飛ぶ。兄は大きなため息をつくと、
「お父様のような為政者だ」
と言った。
「常に泰然自若として事に当たっておられる。最近はそうでもないように思うが、俺が小さかった頃は、ほとんど感情をお見せになることが無く、威厳そのものが服を着ているという印象だった。今も政務を執られている時は、まったく感情を動かすことはない。……もう伊藤総裁は俺の泣き言を知っているから言ってしまうが、この手に委ねられる国民の人生や未来の重さに恐れおののいている俺では、いくら頑張ってもお父様に追いつけない……」
兄がそこまで言ってうつむいた時、
「恐れながら皇太子殿下」
伊藤さんの顔つきが真剣なものになった。
「古今東西、様々な人物が名君であると評されております。わが国では仁徳天皇や醍醐天皇、武田信玄、上杉謙信、北条氏康……世界に目を転じれば、後漢の光武帝や唐の太宗、マケドニア王国のアレクサンドロス大王、ローマ帝国の五賢帝……枚挙に遑がありません。さて、これらの名君は全員、何から何まで全て同じ気質や性格を持つ人間だったのでしょうか?」
「……流石にそれはないだろうな」
「私もそう思う」
兄と私が口々に答えると、
「その通りでございます」
伊藤さんは満足げに頷いた。「確かに、君主として求められる性格や気質はいくつかございます。しかしながら、名君と呼ばれる人間が、何から何まで全て同一であった訳ではない。従って、皇太子殿下が、天皇陛下と全て同じようになることを目指される必要はありません」
「お父様と同じになることを目指す必要はない……?」
兄の右側の眉が跳ねあがった。
「それは違うと思うぞ、伊藤総裁。俺が思うに、これからの我が国に必要なのは、お父様のような、強くて威厳のある天皇だろう。そう、“史実”の裕仁のように……」
「恐れながら、それは“史実”に縛られた見方でございます」
声を荒げた兄に、伊藤さんは冷静に答えた。「“史実”の今頃の我が国は、列強と同じように対外的に膨張しようとした結果、国民の統合点として強い天皇を求めた。……斎藤君の話を聞いて、わしはこのように受け止めました。もしわしが“史実”で殺されずにいたなら、やはり天皇陛下はひたすら強くあるべきと考えていたでしょうな。……しかしながら、この時の流れにおいて、我が国は領土拡張をせず、内政に力を注いでおります。内外の情勢が“史実”と違えば、求められる為政者の姿もまた違う。そうはお思いになりませんか?」
「……」
「大事なことは、あるべき帝王の姿というものを、ご在位の間、真摯に求め続けることでしょう」
黙りこくった兄に、伊藤さんは淡々と語りかける。
「世界の情勢は、刻々と変わります。国民の抱く思いや感情、それに影響を受ける国内の政治や経済も、生き物のように変化します。それらを踏まえ、この時の流れの我が国にふさわしい帝王の姿を模索し、それに近づこうと努力すること。皇太子殿下なら、きっとお出来になります。だからこそ、陛下は皇太子殿下に、天皇の位を譲ると仰せ出されたのです」
「俺に……それが本当にできると?」
兄は呟くように言った。
「お父様のように、周囲を圧倒する威厳も持たず、天皇の位の重みに恐れうろたえているこの俺に?」
「皇太子殿下は、陛下にはないご長所をお持ちです」
伊藤さんは、兄を真正面から見つめた。
「それは、ご仁慈に富まれ、行動力がおありになることです。困った者や傷ついた者を見かければすぐに動かれ、その者たちに寄り添い、励まされます。陛下ももちろん、仁慈の心をお持ちですが、皇太子殿下のようにすぐに動かれるということは余りありません」
(その通りだね……)
伊藤さんの言葉に、私は黙って首を縦に振った。もし、兄が優しくなかったら、そして、行動力がなかったら、4年前の帝国議会閉会式で、破水した私を抱きかかえて帝大病院に連れて行くようなことはしなかっただろう。兄の優しさと行動力に、謙仁と私は救われたのだ。
「無理に陛下と同じ御性質になろうとなさらなくてもよいのです。そうすればかえって、皇太子殿下のご長所が殺されてしまいます。皇太子殿下には、皇太子殿下にしか目指せない理想の帝王の姿があります。それを目指せばよろしいのです。妃殿下の力を借りて」
「わ、私の?」
私が思わず自分を指さすと、
「君主は時に、国そのものを体現します。国を医す上医であれば、君主が理想に近づけるように、お助けしなければならないでしょう」
伊藤さんは事も無げに私に返した。
「助けると言っても、伊藤さん、私の身分と立場を考えると、兄上を十分に助けるのは難しいですよ。貴族院議長が皇居に出入りしすぎるのも不審に思われるし、総理大臣になんてなれないし……」
困惑しながら、私が伊藤さんに疑問をぶつけると、
「それは時が来れば、わしらで何とか致します」
伊藤さんはニヤリと笑った。「そんなことでお悩みになる暇があるのなら、ご自身の課題に取り組んでください」
「課題、ですか……」
私は軽くため息をついた。梨花会の面々と比べてしまうと、私には足りないところがたくさんある。一体、何をすればいいのかと思っていると、
「まずは、皇太子殿下にどのような為政者になっていただきたいか、考えることからでございますな」
伊藤さんは笑顔を崩さずに私に言った。
「大山さんと話し合われてもよいでしょう。毎月の御診察の折に、皇太子殿下と話し合われてもよいでしょう。もっとも、皇太子殿下ならば、何か思いつかれたら、盛岡町まで自転車を飛ばしてご訪問なさるでしょうが」
「……頼むから、花御殿を出る前、うちに電話を入れて、私がいるかどうか確認してね、兄上。職員さんたちがビックリしちゃうから」
念のために兄にお願いすると、
「何だ、つまらん。驚かせようと思ったのに」
兄は少し不満げに言った。
(アポなしで来るつもりだったのかよ、兄上……)
心の中で兄にツッコミを入れた時、
「妃殿下は7月から外遊をなさいます。ハワイ、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア……多くの国の為政者や国の中枢にいる人物に会うこととなります。生身の彼らに実際に会うことで、皇太子殿下が為政者としてどうあるべきか、見えてくることもありましょう」
伊藤さんは私にこう言った。
「この時の流れにおいて、世界はどうなっているのか、その世界の中で、我が国はどうあるべきか……。日本にお戻りの暁には、そのお答え、是非皇太子殿下とお話しください。わしにも聞かせていただきたいですが」
「……わかりました」
私は素直に頷いた。もし断っても、この人たちは私の意思などお構いなしに押し掛けて、私に答えを聞くついでに、“修業”と称して私をさんざんにいたぶるのだろう。
「……さて、皇太子殿下、妃殿下。わしの授業はいかがでしたかな?」
「大変……大変、ためになった」
教壇に立ち、問いかけた伊藤さんに、兄は微笑を向けた。
「天皇となった時、俺はどんな為政者となりたいか。手本は探せばいくらでも見つかるが、手本そのものになることは出来ない……厳しい。厳しいな、この道は。しかし、1人で歩き通さなければならない。裕仁に、天皇の位を継がせるまで……」
すると、
「恐れながら、1人ではございません」
伊藤さんが頭を下げた。「僭越ながら、わしもおります。狂介も、大山さんも、梨花会の皆がおります。そして何より……上医にならんとする妹君がおられます」
「……そうだったな」
兄は左手を伸ばし、私の右手を掴むとニッコリ笑った。
「お互いに、大変な課題を背負わされたな。だが、これもこの国のために必要なこと。……共に励もう、梨花」
「うん、私も頑張る。兄上のために」
私は兄の手を握り返すと、兄と目を合わせて微笑んだ。




