兄妹の疑問
1916(明治49)年5月8日月曜日午前8時30分、皇居。
「おはようございます、お父様、お母様」
皇居の敷地に新しく建設された検査室・“皇居医療棟”の玄関前。宮内大臣の山縣さんに先導され、後ろから兄と徳大寺侍従長に付き添われ、左手をお母様とつないだお父様は、苦虫を嚙み潰したような顔で、出迎えた私に黙って頷いた。
「朝から鬼ごっこをすることにならなくて、本当に良かったです」
私の率直な感想に、
「昨日の夕食は早めに終わらせたし、今朝起きてからも何も食べておらんからな。逃げ出す元気もない。一昨日の皇族会議の結果が不調なら、健康診断は受けないと粘ったが、皇室典範も無事に改正されたから、こうして山縣に引っ張られてきた訳だ」
お父様は不機嫌そうな声で応じる。すると、
「油断してはいけないぞ、章子」
お父様の後ろから、兄が硬い声で私に呼びかけた。
「弱っているように見せて俺たちを油断させ、スキをついて逃げる作戦かもしれない」
「ご安心を、皇太子殿下」
私の隣に佇んでいた大山さんが静かな声で言った。「その時のために、俺がいるのですから」
次の瞬間、私の感覚をものすごく嫌なものが襲った。大山さんが、殺気をフルパワーで放ったのだ。2年前、“リハビリ”という名の修業を終えた後の大山さんの殺気は、鋭さを増している。私は何年も一緒にいて慣れたから何とか大丈夫だけれど、大山さんの殺気に全く慣れていない人たち……特に、私の後ろに並んでいる三浦先生や近藤先生など、東京帝国大学医科大学の先生方が、顔を青ざめさせながら後ずさった。
「こ、ここまで来たら、逃げも隠れもせんわ」
お父様は声を上ずらせながらこう言うと、お母様の手を引っ張り、大股で医療棟に入っていく。お母様は「あらあら」と顔をほころばせると、足がもつれそうになりながらもお父様について歩いた。
私の提案により建設された皇居医療棟は、当初の計画では、エックス線検査室や診察室、その他、更衣室や医師の控室などがあるだけの小さな建物になる予定だった。ところが、設計をする際、実際に健康診断でお父様の診察に当たることになる東京帝国大学医科大学の先生方から、「手術室を併設するべきだ」という意見が続出したのだ。
――万が一、天皇陛下が手術をお受けになるような事態に陥られた場合、一般の臣民が既に使っている手術室で手術をお受けになるのはいかがなものか。
ノーベル生理学・医学賞を受賞したばかりの三浦先生がこう言い出すと、他の先生方も次々に三浦先生に賛成した。山縣さんも、「宮中の女官たちの感情を考えると、帝大の先生方がおっしゃるように、この際、両陛下と皇太子殿下専用の手術室も一緒に建設する方がよいのでは……」と私に言った。手術室を作るとなると、手術道具の保管室や消毒室、手術に使う薬品の保管場所や調剤室、そして手術を行うスタッフの控室や更衣室も必要になる。それに、手術後の経過観察をするための病室も建てなければならない。という訳で、完成した施設の規模は、ちょっとした病院並みになってしまった。
医療棟に入ったお父様とお母様は、別々の更衣室に入ると、検査用の薄い黄緑の着物に着替える。まずは身長と体重を計測すると、2つ並んだ採血用の椅子にお父様から座った。
「では、左腕にゴム管を巻かせていただきます」
お父様には近藤先生が、お母様には三浦先生が声を掛け、鉛筆くらいの太さの飴色のゴム管を巻く。近藤先生の額にも、三浦先生の額にも、脂汗が光っていた。
(大丈夫かな、近藤先生も三浦先生も……)
後ろから採血の様子を見守っていると、
「落ち着け、梨花」
私の隣に立っていた兄が囁きながら、私の右手を掴んだ。
「手が震えているぞ。お前まで緊張してどうする」
「で、でも、この採血、もしうまくいかなかったら、お父様に侵襲的な処置ができるのは私しかいないことになるから……」
兄に小声で言い返していると、
「先生方、どうかお楽になさってください」
お母様が、鈴を転がすような声で言った。
「先生方の前では、私たちはただの患者に過ぎません。増宮さんが全幅の信頼を置かれて、明宮さんの健康診断も毎年担当なさっている先生方でしたら、私は何をされても構いません。……さぁ、先生方、どうぞご存分に」
お母様は近藤先生と三浦先生に微笑みを向ける。慈愛を感じさせる気品ある微笑に、先生方の眉間の皺がふっと緩んだ。
「……では」
三浦先生がお母様の左腕を取ると、アルコールを含ませた綿で前腕から肘にかけて消毒する。そして、空の注射器を持つと、「失礼いたします」と声を掛け、お母様の腕の静脈に針を刺した。
その様子を見た近藤先生が、お父様に、「では」と緊張した声で言う。お父様が微かに頷いたのを確認した近藤先生は、三浦先生と同じようにお父様の腕を消毒すると、お父様の腕の静脈に、慣れた手つきで注射器の針を刺した。
「……終わりました」
注射器に必要量の血を採取した近藤先生と三浦先生は、お父様とお母様の腕に巻かれたゴム管を外して針を抜くと、直ちにアルコール綿で針を刺したところを押さえ、圧迫止血を始めた。
「少し痛かったですが、三浦先生でしたから安心していられました」
お母様が三浦先生に優しい声で言った。
「恐縮でございます。重ね重ね、お優しいお言葉……誠にありがたく存じます」
深々と頭を下げる三浦先生の隣で、
「お痛みは、ひどくはございませんでしたか?」
近藤先生がお父様に恐る恐る尋ねる。すると、
「痛いとはどういうことだ」
お父様は平然と答えた。
「いや、お父様、痛くないというのは……」
やせ我慢をしているだけではないのか、と続けようとした私をお父様は一瞥し、
「帝王たる者、“痛い”とは言わぬものだ」
と、普段と変わらない調子で言う。私も兄もハッとして、お父様に最敬礼した。
その後、予定通り、身体診察、胸と胃のエックス線検査を受けてもらい、お父様とお母様の健康診断は無事に終了した。医者嫌いのお父様が途中で駄々をこねて皇居に戻ってしまわないか心配していたけれど、お父様もお母様も全ての検査を受けてくれた。
(お母様がいてくれてよかったなぁ……)
皇居に戻っていくお父様とお母様を見送ると、私は胸を撫で下ろした。もし採血の時、お母様が近藤先生と三浦先生の緊張を解いてくれなかったら、2人とも採血ができなかっただろう。
「検査の結果が出るのはいつごろだ?」
いつの間にか、隣に立っていた兄が私に尋ねた。
「明日の兄上の健康診断の結果も含めて、今週の金曜日にはまとめられる。土曜日の梨花会の後、三浦先生が参内してくれるから、そこで結果を説明する予定よ」
私がそう答えると、兄は少し考え込んでから、
「では、そこに俺も同席するか。お父様とお母様のお身体の状態については、きちんと知っておきたいから」
と言った。
「じゃあ、その時に、兄上の健康診断の結果も説明するように、三浦先生に頼んでおくね」
「うん、よろしくな」
兄は私に頷くと、「表御座所に行くとするか」と呟きながら、お父様とお母様の後を追った。
1916(明治49)年5月13日土曜日午後3時30分、皇居内の会議室。
兄と私が参加する月に1度の梨花会が終了した直後、東京帝国大学医科大学内科学教授で、ノーベル生理学・医学賞の受賞者でもある三浦先生が、静かに会議室に入ってきた。その後ろには、お父様とお母様、そして兄の侍医を務める先生方が付いて来ている。これから、先日行われた健康診断の結果が報告されるのだ。
当初は、健康診断を受けた当人たちと侍医の先生方、そして私と山縣さんと内閣総理大臣の渋沢さんだけが結果を聞く予定だった。ところが、今日の梨花会が始まった時、
――皆も健康診断の結果が聞きたいであろうから、梨花会が終わった後、残って説明を聞いて行け。
お父様が梨花会の面々にこう命じたのである。そのため、三浦先生は、予定より多くの人たちに、健康診断の結果を説明することになった。
「それでは、健康診断の結果につき、ご説明させていただきます」
黒いフロックコートに身を包んだ三浦先生は、丁寧にお辞儀をする。その表情は心なしか緊張していた。
「まず、事前に行った尿と便の検査には、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、お三方とも異常所見を認めませんでした。そして、採血検査ですが、血液細胞の塗抹像にはお三方とも異常を認めませんでした。血糖値に関しても、お三方とも正常でございます」
梨花会の面々の顔も、一様に強張っている。兄とお母様も、心なしか、眉間に皺が寄っているように見える。ただ1人、お父様だけは、普段と全く変わらない様子だった。
「エックス線検査の結果はどうだった?」
兄が少し身を乗り出しながら三浦先生に尋ねる。三浦先生は「はっ」と恐縮して一礼すると、
「東京帝国大学のエックス線写真の読影に長けた先生方、そして、エックス線検査の本家ともいうべき、京都帝国大学医科大学の先生方とも検討させていただきましたが、お三方とも、目立つ異常はございませんでした。胸部も、胃も……」
検査結果をハッキリした声で述べる。その言葉に、会議室のそこかしこで安堵のため息が漏れた。
「身体診察の所見も、侍医の先生方と検討いたしましたが、お三方とも、特段の異常は認められず……従って、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下の健康診断の結果は、お三方とも“異常なし”と結論付けました」
三浦先生が言い終わったのと同時に、
「万歳っ!」
井上さんが両腕を上げた。すると、彼の周りにいた人々が次々と両手を上げて「ばんざーい!」と叫び始めた。熱狂的ともいえる万歳の声が続く中、
「三浦」
お父様が普段と変わらない口調で三浦先生を呼んだので、会議室の中は一気に静かになった。
「章子から少し話を聞いたことがあるが、人の身体には、心臓や肝臓、それに肺といった臓器がいくつもあるとか。今回の健康診断で、その全ての臓器をとくと調べられた訳ではないのだろう?」
「おっしゃる通りでございます」
三浦先生は恭しく頭を下げた。「例えば、小指の先よりも……いえ、芥子の粒よりももっと小さな小人が、身体の中に潜り込み、隅から隅まで動き回って、身体の不具合を全て見つけ出してくれる……そんな進んだ技術に基づいて行われた検査ならば、人の全ての臓器を調べられたことになりましょう。しかし、我が国の発展した医学でも、そのような検査は出来ません。あくまで、現時点で行える限りの検査で、という結果になります」
「相分かった」
お父様は軽く頷くと、「誠にご苦労であった。礼を申す」と言って椅子から立ち上がり、お母様と一緒に会議室を後にした。それと同時に、先ほどまで会議室を包んでいた緊張はどこかへ行ってしまい、侍医の先生方や梨花会の面々は、明るい表情で会議室から退出していく。
「これで、梨花さまの外遊が、現実のものになりますね」
大山さんに話しかけられた時、私は妙な雰囲気に気が付いた。会議室に用意された椅子に、1人だけ、身じろぎもせずに座り続けている人がいる。兄だった。
私は兄のそばへ歩いて行く。つき従おうとする大山さんを手で制し、兄に楽に触れられるところまで近づくと、私は「兄上」と声を掛けた。
「あ、ああ、梨花か……」
弾かれたように顔を上げた兄は、私に向かって微笑した。けれど、その微笑には、硬さと暗さがまとわりついていた。
「どうしたの、兄上。何か考え事でもしていたの?」
「いや、考え込んでいたのではない。少し、ぼんやりしていて……」
私の質問に、兄はこう答えた。声が、ほんの少しだけ上ずっていた。
「誤魔化さないで、兄上」
私は床に両膝をついて立ち、兄と視線の高さを合わせた。「声がちょっと上ずっている。先月の梨花会の時もそうだった。……ねぇ、兄上、悩み事があるなら、私に話してよ。強制はしないけどさ、話すだけで気持ちが軽くなることだってあるのよ?」
すると、
「そうだな。……梨花になら、話してもよいか」
兄は小さく頷き、
「一言で言えば、恐ろしいのだ……」
と、呟くように言った。
「恐ろしい?」
既に会議室の中には、私と兄しかいない。大山さんの姿も、いつの間にか消えている。急に広くなった会議室の中に、私の声だけが響いた。
「俺が即位するまで、あと一年を切った……」
兄は、遠くを見つめるようにしながら話し始めた。
「あと一年もしないうちに、お父様のやっていることを……この国の国民を守っていく仕事をしなければならない。何千万といる国民の命が、人生が、この俺の手に委ねられる……そう思うと、空恐ろしくなってしまう。お父様のように、泰然自若として事に当たることなど、俺にはとても出来ない……」
「兄上……」
「少しでもお父様に追い付かなければならない、そう思って、勉強もしてきた。お父様の政務を見学する日も増やした。それでもなお、俺はお父様に追いつける気がしない。お父様と同じような、立派な帝になれる気がしない……。どうすれば、どうすればお父様と同じようになれるのか……裕仁に、無事に天皇の位を継がせることができるのか……」
兄の目は暗く、手は小刻みに震えている。兄の右手を私は思わず掴んだ。
「大丈夫だよ、兄上。私が助ける」
私は兄の目を正面から覗き込んだ。「私が兄上を全力で助ける。上医として、兄上の心を支えて、政治の面でも助けて……」
そこまで言って、私の口は止まってしまった。兄をどうやって、どの立場から助けるのか……数年来、心の奥で燻っていた疑問が、また頭をもたげたのだ。
「どうした、梨花?」
兄が逆に、私の眼を覗き込んだ。
「……私、どうやって兄上を助ければいいの?」
私は、素直に疑問を口にした。
「思いがけず、軍医になった。貴族院の議長もやらされた。でも、私が上医になった時、軍医の立場にいるとしても、貴族院議長になっているとしても、兄上を助けられる量は限られる。私が頻繁に参内したら、不審に思われるだろうし、皇族である以上、総理大臣になるのは無理だし……」
「梨花……」
「助けたい。全身全霊で兄上を助けて、兄上をあらゆる苦難から守りたい。なのに、なのに……」
涙で視界がぼやけた瞬間、私の身体が急に前に傾いた。兄が私の身体を抱き寄せたのだ。そのまま私は、大山さんが自動車の準備が出来たと声を掛けるまで、兄の腕の中で、涙を流し続けていたのだった。




