ベルツ記念講堂
1916(明治49)年4月15日土曜日午後2時、皇居。
「初めに、皆に申し渡しておくことがある」
今月の梨花会は、お父様とお母様が、先月末から今月の10日まで、関西方面に行幸啓をしていたため、いつもより1週間遅れで開催された。その梨花会の冒頭、お父様は一同を見渡しながらこう告げた。
出席者たちが緊張の面持ちで、一斉に頭を下げる中、
「貞愛に、譲位の件を了承させた」
お父様は朗々と言った。
「……!」
お父様の声以外、物音の聞こえない会議室を、衝撃が無音で駆け抜けた。
「よって、予定通り、来月の6日に皇族会議を開いて、皇室典範を改正する。満60歳以上になった天皇は、強く望めば、皇室会議と枢密院への諮詢を経て譲位ができる、とな」
(ついに……ついに、譲位への第1歩が……)
私を含めて、みんな、口には出さなかった。けれど、日本の近代史に残るであろうプロジェクト、その準備がついに始まったという感慨が、梨花会の出席者たちの心にいっぱいになっていた。
先月末からの行幸啓の主な目的は、今月3日に、神武天皇の2500年式年祭を、奈良県にある神武天皇陵でお父様が執り行うことだった。お父様は伏見宮家の当主、貞愛親王殿下に行幸啓に供奉するよう命じた。行幸啓の途上で、貞愛親王殿下に譲位のことを伝え、実行に協力させる……お父様はそう目論んでいたけれど、その目論見通り、貞愛親王殿下は、お父様に協力することを了承したのだ。
これは、皇族会議の行方を左右する大きな出来事だった。というのは、伏見宮家は、有栖川宮家と、私の弟・輝仁さまが創設した鞍馬宮家を除く全ての宮家の本家のような存在だからだ。伏見宮家の先代・邦家親王は大変な子だくさんだったため、その子供たちが、皇室典範で皇族の養子が禁じられる前に、様々な宮家に養子に行った。だから、皇族たちのほとんどは、本家筋の伏見宮家の言うことに逆らい辛いのだ。
そして、現当主の貞愛親王殿下は、国軍では歩兵大将の要職にあるという点でも、皇族内の重鎮にふさわしい人である。このため、彼がお父様の譲位に賛成したということは、皇族会議でお父様の譲位が認められる可能性が高くなったのと同義と言えた。
「これで、100年ぶりのお代替わりに向けて、一歩前進ですな」
立憲自由党総裁の西園寺さんが明るい声を上げると、
「いや、まだ油断は出来ません。確かに、伏見宮殿下がご賛同なさったことで、皇室典範改正、そしてその先にある譲位への動きは加速しましたが、反対なさる皇族方もいらっしゃるかもしれません。しっかり根回しをしていく必要があります」
宮内大臣の山縣さんが慎重な見方を示した。すると、
「ならば狂介、わしも各皇族方への説得に協力しよう」
皇孫御学問所の総裁である伊藤さんが申し出た。なるほど、維新の元勲の1人であり、内閣総理大臣や枢密院議長を何度も務めている伊藤さんの言葉なら、皇族たちも耳を傾けるだろう。
「俺も協力致します。枢密院議長として、何かお役に立てることがあるかもしれません」
伊藤さんと同じく内閣総理大臣の経験者である黒田さんも右手を挙げる。伊藤さんと黒田さん、そして山縣さん……この3人が動けば、皇族たちの意見も、譲位の方向で完全にまとめられるだろう。
(まぁ、あとはお任せ、だな)
これからの説得工作をどう進めるかについて大まかな打ち合わせを始めた一同をぼんやり眺めながら、私は少し冷めた気分になった。皇族会議には、私は出席できないからである。皇室典範によって、皇族会議の出席者は、成年に達した皇族男子と定められている。皇族方を説得できるだけの伝手も持っていない私は、説得工作に関しても、まったく戦力にならない。
と、私の感覚に何かが引っかかった。原因はすぐに分かった。兄が、私をじっと見つめていたのだ。その視線は、妙に強張っていた。
「兄上、どうしたの?」
呼んでみると、兄は「あ、いや……」と言いながら首を左右に振り、
「お前を見ていたら、検査室は無事に完成しているのか、ふと気になってしまってな」
と言って微笑した。
「安心して、兄上。ちゃんと今月の末には完成する。山縣さんからも報告をもらっているよ」
私がしっかり請け負うと、
「妃殿下のおっしゃる通りでございます」
山縣さんが兄に向かって最敬礼した。「建設も滞りなく進んでおります。予定通り来月には、陛下の健康診断が実施できます。そちらも準備は抜かりなく進めておりますので、ご安心くださいますよう……」
すると、玉座に座ったお父様が顔をしかめて「むう……」とうめいた。
「山縣、皇族会議があるのに、朕の健康診断もするのか?説得工作のこともあるから、そちらは後に伸ばしても……」
「いいえ、それとこれとは話が別でございます」
懇願するようなお父様の声を、山縣さんはピシャリとはねつけた。「お代替わりのことを滞りなく進めることも大切ですが、陛下のお身体のことも大切でございます。来月には、妃殿下の御指示の下、健康診断は必ず受けていただきますから、いい加減、ご観念いただきますよう」
何も言い返せなくなったお父様の隣で、お母様がクスっと笑う。それに気が付いたお父様は、ますます渋い表情になった。その様子を見ながら、
(今、兄上の声、ちょっと上ずっていたような……)
私は少しだけ首を傾げた。兄は、何か隠し事をしていると、声が若干上ずる。その癖に気が付いているのは、私や節子さまなど、兄の身近にいたことのある数人だけだ。けれど、兄が今、私に隠し事をとしたと仮定して、その内容は一体何なのだろうか。
(この間の“鳳翔”の進水式の帰り、お父様にさせられた恋愛話の内容を輝仁さまから聞いて、それを思い出して……みたいな、くだらない内容ならいいけれど……)
考えを深めようとした刹那、
「それでは、用意された議題の協議を始めさせていただきます」
司会役を務める内閣総理大臣の渋沢栄一さんが一同に呼びかけた。私は疑念をいったん頭から追い出して、梨花会の面々の厳しい質問に対応するべく、気合を入れ直したのだった。
1916(明治49)年4月21日金曜日午前10時、東京市牛込区市谷仲之町。
「本日は御成りいただき、誠にありがとうございます」
東京女医学校の隣接地に新しく建てられた東京女医学校附属病院。玄関の前では、校長の吉岡弥生先生以下、たくさんの生徒や職員たちが整列して私を出迎えている。その中から弥生先生が進み出て、自動車を降りた私に挨拶をした。
「仰々しく出迎えられたくはないのですけれど、今日は仕方がないですね」
私は恩師に苦笑いしながら応じた。自分の母校は、折に触れて訪ねたいけれど、訪問の度にこんなに大騒ぎをされてしまうと、足が遠くなってしまう。しかし、今日の私は、附属病院の開院記念式典に、来賓として招かれている身だから、この丁重な出迎えはきちんと受けなければならない。空色の通常礼装を着た私は優雅に一礼すると、新病院の中に足を踏み入れた。
3年前の秋、東京女医学校に在籍する生徒の臨床実習の場を確保するため、東京至誠医院の規模を拡大して、東京女医学校の附属病院にする計画が立てられた。計画が立った直後、弥生先生と一緒に計画の実現のために奔走していたベルツ先生が他界したため、進捗に遅れが生じてしまったけれど、弥生先生の夫である荒太先生、そして東京女医学校の教職員たちが弥生先生を助けて計画を進め、新病院の完成にこぎ着けたのである。先生方の努力で完成した外来診察室や手術室、病室などを、私は弥生先生の案内で見て回った。
最後に案内されたのは、記念式典が行われる講堂である。私が病院内を見学している間に、東京女医学校の生徒や教職員たち、医術開業試験に合格して医師となった私の後輩たち、そして、医科学研究所所長の北里先生、東京帝国大学医科大学の三浦先生や近藤先生、厚生大臣の後藤さんなどの来賓が、講堂に勢揃いしていた。
「妃殿下、令旨を」
私に付き従っていた大山さんが、後ろからそっと私に声を掛ける。私は軽く頷くと、講堂の演壇に立った。
「東京女医学校附属病院の開院に対し、心からの祝意を表します」
そう言いながら、私は講堂に整列した人たちを見渡す。現在の在校生は121人。卒業生もそれと同じぐらいの人数がいる。16年前、私一人を弥生先生と荒太先生が指導していた、開校したばかりの東京女医学校の状況が、ウソのように思えてしまう。
「……16年前、私が東京女医学校に在籍していたころのことを思うと、よくぞここまで発展した、という感慨に胸を打たれます」
気が付くと、私は事前に用意した令旨にはない言葉を口にしていた。しまった、と思ったけれど、ここで慌ててしまえば、式典が台無しになってしまう。このまま、アドリブで続けるしかない。
「ここまでの隆盛を東京女医学校が迎えることが出来たのは、教職員、そして生徒の熱意があったからなのは言うまでもありませんが、その中でも弥生先生のご尽力、弥生先生を支えていらっしゃる荒太先生の存在、そして、自らの姿勢によって、生徒と教職員の質の向上にご精励なさったベルツ先生のご功績は、特筆すべきでありましょう」
一般的な令旨の形から、完全に外れてしまっている。後ろに控えている大山さんの緊張が増していくのが、気配で感じられる。後で叱られるだろうけれど、今は無視しておこう。
「今この場にベルツ先生がいらっしゃらないのは、大変残念なことです。けれど、ベルツ先生は生き続けていらっしゃいます。私たちの思い出の中に、そして、私たちが彼から受けた教えの中に……。私たちがベルツ先生から教わったことを土台として、医学の発展に尽くす限り、ベルツ先生は生き続けていきます」
ああ、どうしてここに、ベルツ先生がいないのだろう。本来ならば、新病院建設計画の中心にいたベルツ先生は、この式典に出席しているはずだったのに。
(でも、ベルツ先生は生きている。私たちが、彼のことを忘れずにいる限り……そして、歩みを止めずに、医学の発展に邁進する限り……)
「女性医師の養成機関の魁として、在校生、教職員が力を合わせ、心を一にして、歩みを止めず、医学の発展に尽力することを強く望みます」
静まり返った講堂の中をもう一度見渡すと、私は設置された席に戻った。大山さんに注意を受けるかとビクビクしていたけれど、特に何事も起こらず、式典は粛々と進んでいった。
「……本日は、誠にありがとうございました」
記念式典が終わって控室に入ると、弥生先生と荒太先生が私にお礼を言いに来た。
「いえ……まともなことが話せなくて、申し訳ありませんでした。ちゃんと用意した文章があったのに、演壇に立ったら、つい、予定にないことを……」
私が恩師に、恐縮しながら頭を下げると、
「とんでもございません。大変素晴らしいお言葉でございました」
弥生先生が私に最敬礼した。
「妃殿下をはじめとする卒業生や在校生の活躍、そして東京女医学校の発展の陰に、ベルツ先生がいらっしゃったこと……それを改めて感じました。ベルツ先生の教えを胸に、御遺言の通り、歩みを止めずに……励んで、参ります……」
弥生先生の声は、涙で濡れていた。東京女医学校が開校した直後から、弥生先生は10年余り、ベルツ先生と一緒に仕事をしてきた。そして、ベルツ先生の死病も診断した。だから、深い感慨に打たれているのだろう。
と、
「弥生さん、あれは妃殿下に頼まなくてもいいのかい?」
荒太先生が弥生先生を促した。
「そうでした。……あの、妃殿下、お願いしたいことがございまして」
弥生先生は伏せていた顔を弾かれたように上げ、私にこう言うと、再び頭を下げた。
「何でしょうか」
恩師からの頼みだ。無茶過ぎる内容でなければ、できる限り要望に応えたい。背筋を伸ばした私に、弥生先生は、
「この講堂に、名前をいただきたいのです。何か、この東京女医学校の記念となるような名前を……」
と言った。
「それは弥生先生、これしかないですよ」
私は大山さんに、書くものを持ってくるようにお願いする。程無くして、私の前に、筆や硯、紙などが持ち込まれた。墨を含ませた筆を持つと、私は前の机に置かれた紙に、
“ベルツ記念講堂”
と、一文字一文字、心を込めて書いたのだった。




