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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第58章 1915(明治48)年小暑~1916(明治49)年大暑
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運動会の記念写真

※地の文のミスを訂正しました。(2022年6月21日)

※漢字ミスを訂正しました。(2024年7月20日)

 1915(明治48)年10月14日木曜日午後2時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸。

「母上、ただいま帰りました!」

 食堂で、宮内大臣の山縣さんと、皇居内に建設する検査施設の設計について話し合っていると、幼稚園から帰ってきた万智子(まちこ)が扉を開けて入って来て、元気よくあいさつした。

「ああ、お帰りなさい、万智子」

 私は椅子から立ち上がり、万智子のそばまで歩いて行く。そして、両膝を付き、万智子と視線の高さを合わせた。

「今日は、幼稚園でどんなことをしたのかしら?」

「はい。公園に行って、みんなと遊びました」

 万智子は嬉しそうな顔で、私の質問にハキハキと答える。“公園”というのは、華族女学校付属幼稚園の近くにある清水谷(しみずだに)公園のことだろう。「楽しかったかな?」と優しい声で尋ねると、娘は「はい!」と元気に頷いた。

「そうか。どんなことが楽しかったの?」

「みんなで、鬼ごっこをしたの。私が鬼をやって、他の子たちを捕まえたり、他の子が鬼をやって、私を捕まえたりしたの。たくさん走って、すごく楽しかったです!」

 紫の矢羽根模様の着物に海老茶の女袴を付けた万智子は、弾んだ声で私に報告してくれる。私は手を伸ばし、大きな紅いリボンで飾られた長女の頭を優しく撫でた。万智子は満面の笑みを見せたけれど、次の瞬間、

「母上は、ちゃんとお昼寝した?」

真剣な表情になって私に聞いた。

「はい、ちゃんとお昼寝をしましたよ」

 私は娘に微笑んだ。昨夜は当直だったので、今朝9時過ぎに帰宅し、そのままお昼過ぎまでぐっすり眠ったのだ。本当は、謙仁(かねひと)禎仁(さだひと)の面倒を見なければならないのだろうけれど、大山さんと捨松さんをはじめとして、育児をサポートしてくれる人が何人もいるので、当直明けもゆっくり休むことが出来る。本当にありがたいことである。

「うん、よろしい」

 私の回答に、万智子は満足そうに頷く。すると、

「女王殿下は、本当にしっかりなさっておられます」

私たちに近づいてきた山縣さんが、穏やかな声で言った。

「運動会の練習も、率先して参加なさっているとか……よく他人を思いやっておられると、幼稚園の教諭から報告を受けております」

 山縣さんがそばまでやって来ると、「山縣のおじいさま、ごきげんよう!」と万智子は元気いっぱいに挨拶する。山縣さんは「お久しぶりでございます」と一礼すると、

「女王殿下は本当にかわいらしいですな。目元が、お母上によく似ていらっしゃる」

目を細めて万智子の顔を見つめた。

「運動会があるのですか、山縣さん?」

 それは初めて聞く話だ。私が山縣さんに確認すると、

「はい。今月の30日に開催されます。幼稚園児が、華族女学校の運動会に加わる形で……」

彼はこう答え、万智子の頭を撫でる。そう言えば、私が華族女学校に通っていたころも、付属幼稚園の園児が、華族女学校の運動会に参加して、お遊戯を披露していた。

「運動会で、みんなで行進をします!」

 山縣さんに頭を撫でられながら、万智子は嬉しそうに私に言う。「それで、輪になって行進して、みんなで手をつなぐんです!」

「へぇ、そうなのね……」

「母上、運動会にはお成りになれますか?」

 私を見つめる万智子に、「ちょっと待ってね」と言い残すと、私は机の上にあるスケジュール帳を手に取った。運動会の当日、30日は休みである。ただ、その前日、29日の夜から30日の朝までは“待機番”に当たっていた。その時間帯に、築地の国軍病院に当直している医師だけでは困難な事態……例えば、緊急手術が必要な患者さんが発生した場合、待機番は病院に駆けつけて、当直医師の手伝いをするのだ。月に1、2回、この当番が巡って来るけれど、実際に呼び出されて国軍病院に駆けつけるのは、年に1回あるかどうかである。

「運動会の前の日の夜は待機番だから、何かあったら病院に行かないといけない。でも、運動会の日はお休みだから、何とか運動会を見に行けるかな」

 娘に状況を伝えると、

「やったぁ!」

彼女は目を輝かせた。

「母上、楽しみにしています!朝から、初等科と中等科のお姉さま方の競技が3つあって、その後に出ますから!」

「うん、母上も楽しみにしているね」

 はしゃぐ娘を、私は正面から抱き締めた。


 1915(明治48)年10月29日金曜日午後9時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸。

 お風呂から上がった私が、居間で医学雑誌に目を通していると、

「ほら、謙仁(かねひと)禎仁(さだひと)、母上に“おやすみなさい”を言うよ」

万智子を先頭にして、寝る支度を整えた子供たちが居間に入ってきた。

「母上、おやすみなさい」

「おやすみなさい!」

 3歳7か月の謙仁と、2歳2か月の禎仁が元気よく言うのに続いて、お姉さんである万智子も「母上、おやすみなさい」と一礼する。そして、顔を上げると、私を不安そうに見つめた。

「どうしたの?」

 元気でしっかりした娘の普段とは違う様子に不審を覚え、私が優しい声で尋ねると、

「母上、病院には呼ばれていないですよね?」

彼女は眉を曇らせたまま私に聞いた。

「大丈夫、呼ばれていないよ」

 私は医学雑誌を机の上に置き、万智子の頭を撫でた。

「万が一、病院に呼び出されても、明日の運動会には頑張って行くからね」

「きっとよ。約束だからね、母上」

 私を凝視する万智子の頭をもう一度優しく撫で、下の2人の頭も同じように撫でると、

「じゃあ、万智子も謙仁も禎仁も、おやすみなさい」

私は子供たちに飛びっきりの笑顔を向けた。子供たちが自分たちの部屋に引き上げると、私は医学雑誌をキリの良いところまで読み、午後10時過ぎに寝室のベッドに潜り込んだ。そしてそのまま、深い眠りに落ちたのだけれど……。

「……妃殿下!妃殿下!!」

 ……激しいノックの音が私の眠りを破ったのがいつ頃だったのか、正確には覚えていない。ただ、何とか目を開けたら、部屋の中は真っ暗だったから、夜明けより前だったのは間違いない。

「起きてくださいませ!国軍病院からのお呼び出しでございます!」

 ドアの外からは、ノックの音と一緒に、職員の川野さんの大声が聞こえる。私が待機番に当たっている時には、すぐに自動車を出せるように、彼がこの家で宿直をしてくれるのだ。

「分かりました。すぐ支度をします!」

 ベッドから跳ね起きながら、私はドアに向かって叫んだ。部屋の電灯を付けると、寝間着を慌てて脱ぎ、サイドテーブルに用意してある軍装を手早く身につける。

(クソっ……!何で今日に限って!)

 髪を大急ぎで結いながら、私は心の中で悪態をついた。明日、いや、今日になっているかもしれないけれど、万智子の運動会があるのだ。確か、出番はプログラムの4番目と言っていた。朝から競技が開始されるから、これから行われる手術の内容によっては、運動会に出ている万智子の姿を見られなくなってしまう。待機番を誰かと替わっていたらよかったかもしれないけれど、年に1度あるかどうか、という呼び出し頻度なので、交替する発想が湧かなかった。

 身支度を整えて1階に下りると、騒ぎで目を覚ましたらしい子供たちが、私を見つめているのに気が付いた。謙仁と禎仁は眠たそうな、そして万智子は不安そうな目を私に向けている。

「母上……病院に呼ばれたの?」

 万智子の声は切なげだ。彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。

「ごめんね、万智子……」

「運動会……母上、運動会、いらしてくれる……?」

 万智子の涙声に、「妃殿下、お急ぎを!」という川野さんの叫び声が重なる。

「……お仕事を頑張って、運動会に間に合うように頑張るね」

 私はそう言うと踵を返し、玄関へと向かう。靴を履いた時、玄関の壁に掛けてある時計が、ちょうど5時を指した。

 後ろ髪を引かれるような思いを抱えながら、川野さんの運転する自動車で築地国軍病院に向かう。通用口の前で自動車から降りると、今日の当直である着任したての軍医少尉が、私に向かって敬礼した。

「ひ、妃殿下っ!お呼び立てしてしまい、大変、大変申し訳ございません!」

「気にしないでください。義務ですからね」

 強張った顔をした彼に笑顔を向けてから、

「それで、患者さんは、今どんな状態ですか?」

私は質問を始めた。

「輸液は開始して、抗生剤の点滴も併用しております。それが今から約1時間前のことです。しかし、腹部全体に広がった痛みが治まる気配はありません」

 当直の軍医少尉は、震える声で私に報告する。いくら待機番だったとは言え、上司を、しかも内親王を夜中に呼び出したのだ。彼は今、剣の刃を渡るような思いでいるだろう。

「まぁ、抗生剤は分単位で効き目が出るものではないし……それに、あなたが電話で報告してくれた通り、虫垂炎、しかも、虫垂が破裂して腹膜に炎症が広がっているのなら、内科的な処置だけでは改善は難しいでしょう。とにかく、患者さんを診察します。案内してください」

 私の言葉に、当直の軍医少尉は「は、はい!」と引きつった声で返事し、私の先に立って廊下を歩こうとする。

「ああ、そうだ、君」

「は、はいいいいっ?!」

 叫んでしまった軍医少尉に、

「よく呼び出してくれました。ありがとう。これからも、自分の手に負えないと思ったら、上の医者をためらわずに呼び出してくださいね」

私はなるべく優しい声を出すように気を付けながら言った。もし、手に負えない事態が生じそうだと思った時に、助けを呼ばなければ、その事態は高い確率で最悪の結末へと向かってしまう。状況を把握すること、それが自分で解決できるか冷静に判断すること。患者さんを助けるためには、その能力も必要だと私は思う。

 ……患者さんはやはり虫垂炎で、開腹したところ、虫垂が破裂して、膿が腹腔内にばらまかれていた。必要な処置を終えて閉腹した時には、日勤の医師たちが出勤し始めていた。彼らに患者さんのことを引き継いで、国軍病院の玄関を出た途端、朝の光が目に飛び込んできて、私は目を閉じた。

「お疲れ様でございました」

 手術の間待っていてくれた川野さんが、自動車のドアを開けてくれた。

「お腹の中、ひどい状態だったわ。患者さん、助かるかしら……」

 後部座席のシートに身体を預けながらため息をついた私は、

「さて、運動会に行かないと」

と言いながら、川野さんに微笑んだ。

「恐れながら、妃殿下」

 川野さんは心配そうに私を見つめた。「だいぶ、疲れていらっしゃるようにお見受けします。真っすぐご帰宅なさる方がよろしいのではないでしょうか」

「心配してくれるのはありがたいですけれど、やっぱり、まず華族女学校に向かってください」

 私は川野さんにお願いした。「今の万智子は、今しか見られないのです。娘の成長は、私の記憶にきちんととどめておきたいですし……それに、万智子と約束しましたからね」

 腕時計の文字盤を見ると、時刻は午前8時になったところだった。万智子が出るお遊戯は、運動会のプログラムの4番目……間に合うだろうか。目をギュッと瞑った瞬間、川野さんが車を発進させた。

 午前8時20分、麴町区永田町にある華族女学校に到着すると、車から降りた私は、運動場に向かって全速力で走った。運動場の周囲には、参観の保護者たちが大勢並んでいる。そして、軍楽隊が軽やかなマーチを演奏する中、運動場の真ん中を、数十人の幼稚園児たちが、胸を張って行進していた。

(間に合った……!)

 幼稚園児たちは音楽のリズムに合わせて足を運び、運動場に大きな輪を作っている。その輪の中に娘の姿を見つけた時、私の胸がいっぱいになった。娘の名を呼ぶと悪目立ちしてしまうので、娘の目に入るよう、被っていた制帽を右手で持って大きく振る。すると、両隣の園児と手をつないだ万智子の顔が、パッと輝いた。私に気付いてくれたようだ。娘としっかり目を合わせ、私は制帽を振り続けた。

「母上!」

 お遊戯が終わった途端、万智子は運動場の真ん中から私めがけて走ってきた。頭の後ろの大きな紅いリボンを揺らしながら、私の所に真っすぐ駆けてきた彼女は、満面の笑みを顔に浮かべ、私の身体に抱き付いた。

「母上!いらしてくれた!母上!」

「うん、母上、ちゃんと見ていたよ。万智子が行進して、手をつないでいるところ、ちゃんと見ていたよ」

 弾んだ声を上げる娘に優しく話しかけながら、私は彼女の頭を撫でる。私の腰にしがみついた万智子は、私に会えた喜びを全身で表していた。

(ああ、やっぱり、しっかりしているけれど、母親は恋しいのか……)

 私は軽くため息をついた。万智子は3人きょうだいの一番上だからなのか、4歳なのが信じられないくらい大人びていて、弟たちの面倒を見たり、簡単な家の仕事を手伝ったりしてくれる、よく出来た娘である。だから、私が仕事で家を留守にしている時も、寂しがらずに機嫌よくしている、そう思っていたけれど、やはり、心の底では母親を求めているようだ。

(私、予備役に回る方がいいのかしら……だけど、兄上とお父様(おもうさま)の身体に万が一のことがあった時に備えて、手術の腕は落としたくない。それに、予備役に回ったら、また貴族院の議長をやらされるだろうから、万智子たちと一緒にいられる時間、今と変わらないだろうな……。はぁ、私が2人いれば、万智子たちの育児も、医者としての仕事も、両方できるのに……)

 私がそう思った瞬間、

「おや、嫁御寮どのが物憂げな顔をなさっている」

前からこんな言葉が飛んできた。私のことを“嫁御寮どの”と呼ぶ人は、この世にただ1人しかいない。顔を上げると、カメラを持った義父の威仁(たけひと)親王殿下が立っていて、義母の慰子(やすこ)妃殿下、義理の祖母の董子(ただこ)妃殿下と一緒に、こちらに笑顔を向けていた。

「お義父(とう)さま……お義母(かあ)さまも、おばあさまもいらしていたのですか」

 私の問いに、「当たり前でしょう。可愛い孫娘の初めての運動会なのですから」と義父は即答して胸を張った。

「病院から呼び出されたのでしょう?仕事は終わりましたか?」

 白い日傘を差した義母は、不安げに私に尋ねた。

「はい、何とか。万智子のお遊戯に、ギリギリで間に合いました」

 私がそう答えると、「母上」と万智子が私を呼んだ。

「どうしたの?」

 私が聞くと、

「母上は、もう帰って、お昼寝しないといけません」

万智子は改まった顔をして私にこう言った。

「どうして?母上、運動会を見たらいけないの?」

「私もいて欲しいけど……」

 万智子は目を伏せた。けれど、すぐに彼女は顔を上げ、

「でも、大山の爺が、母上に会ったらそう言いなさい、って言ったの。そうじゃないと、母上が倒れて、病院にずっといないといけなくなりますよ、って」

と、しっかりした口調で私に教えてくれた。

「……確かにそうだね」

 やはり、大山さんには敵わない。そう思いながら、私は娘の頭をもう一度撫で、

「では、母上は、帰ってお昼寝をします」

軍隊式の敬礼をしながら答えた。

「よろしい!」

 万智子は元気な声で言った。とても満足しているのは、明るい笑顔から容易に察することができた。

「万智子、その前に、みんなで写真を撮ろう」

 義父が孫娘に優しく声を掛ける。「川野君がちょうど追いついてきたから、彼に写真を撮ってもらおう。ほら、嫁御寮どの、万智子を連れてこちらに来てください。それで、私の前に並んで」

 義父はテキパキと指図をして、そこにいる家族全員を整列させる。そうして撮られた、万智子の初めての運動会の記念写真は、私にとって、思い出深い写真になったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 万智子様の成長が著しい。 [一言] 章子様も娘さんの成長を実感できて嘸かし嬉しいことでしょう。思ってたより万智子様が大人な対応も覚えていくと。 最後に撮影した記念写真は、有栖川宮家の家宝に…
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