運動会の記念写真
※地の文のミスを訂正しました。(2022年6月21日)
※漢字ミスを訂正しました。(2024年7月20日)
1915(明治48)年10月14日木曜日午後2時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「母上、ただいま帰りました!」
食堂で、宮内大臣の山縣さんと、皇居内に建設する検査施設の設計について話し合っていると、幼稚園から帰ってきた万智子が扉を開けて入って来て、元気よくあいさつした。
「ああ、お帰りなさい、万智子」
私は椅子から立ち上がり、万智子のそばまで歩いて行く。そして、両膝を付き、万智子と視線の高さを合わせた。
「今日は、幼稚園でどんなことをしたのかしら?」
「はい。公園に行って、みんなと遊びました」
万智子は嬉しそうな顔で、私の質問にハキハキと答える。“公園”というのは、華族女学校付属幼稚園の近くにある清水谷公園のことだろう。「楽しかったかな?」と優しい声で尋ねると、娘は「はい!」と元気に頷いた。
「そうか。どんなことが楽しかったの?」
「みんなで、鬼ごっこをしたの。私が鬼をやって、他の子たちを捕まえたり、他の子が鬼をやって、私を捕まえたりしたの。たくさん走って、すごく楽しかったです!」
紫の矢羽根模様の着物に海老茶の女袴を付けた万智子は、弾んだ声で私に報告してくれる。私は手を伸ばし、大きな紅いリボンで飾られた長女の頭を優しく撫でた。万智子は満面の笑みを見せたけれど、次の瞬間、
「母上は、ちゃんとお昼寝した?」
真剣な表情になって私に聞いた。
「はい、ちゃんとお昼寝をしましたよ」
私は娘に微笑んだ。昨夜は当直だったので、今朝9時過ぎに帰宅し、そのままお昼過ぎまでぐっすり眠ったのだ。本当は、謙仁と禎仁の面倒を見なければならないのだろうけれど、大山さんと捨松さんをはじめとして、育児をサポートしてくれる人が何人もいるので、当直明けもゆっくり休むことが出来る。本当にありがたいことである。
「うん、よろしい」
私の回答に、万智子は満足そうに頷く。すると、
「女王殿下は、本当にしっかりなさっておられます」
私たちに近づいてきた山縣さんが、穏やかな声で言った。
「運動会の練習も、率先して参加なさっているとか……よく他人を思いやっておられると、幼稚園の教諭から報告を受けております」
山縣さんがそばまでやって来ると、「山縣のおじいさま、ごきげんよう!」と万智子は元気いっぱいに挨拶する。山縣さんは「お久しぶりでございます」と一礼すると、
「女王殿下は本当にかわいらしいですな。目元が、お母上によく似ていらっしゃる」
目を細めて万智子の顔を見つめた。
「運動会があるのですか、山縣さん?」
それは初めて聞く話だ。私が山縣さんに確認すると、
「はい。今月の30日に開催されます。幼稚園児が、華族女学校の運動会に加わる形で……」
彼はこう答え、万智子の頭を撫でる。そう言えば、私が華族女学校に通っていたころも、付属幼稚園の園児が、華族女学校の運動会に参加して、お遊戯を披露していた。
「運動会で、みんなで行進をします!」
山縣さんに頭を撫でられながら、万智子は嬉しそうに私に言う。「それで、輪になって行進して、みんなで手をつなぐんです!」
「へぇ、そうなのね……」
「母上、運動会にはお成りになれますか?」
私を見つめる万智子に、「ちょっと待ってね」と言い残すと、私は机の上にあるスケジュール帳を手に取った。運動会の当日、30日は休みである。ただ、その前日、29日の夜から30日の朝までは“待機番”に当たっていた。その時間帯に、築地の国軍病院に当直している医師だけでは困難な事態……例えば、緊急手術が必要な患者さんが発生した場合、待機番は病院に駆けつけて、当直医師の手伝いをするのだ。月に1、2回、この当番が巡って来るけれど、実際に呼び出されて国軍病院に駆けつけるのは、年に1回あるかどうかである。
「運動会の前の日の夜は待機番だから、何かあったら病院に行かないといけない。でも、運動会の日はお休みだから、何とか運動会を見に行けるかな」
娘に状況を伝えると、
「やったぁ!」
彼女は目を輝かせた。
「母上、楽しみにしています!朝から、初等科と中等科のお姉さま方の競技が3つあって、その後に出ますから!」
「うん、母上も楽しみにしているね」
はしゃぐ娘を、私は正面から抱き締めた。
1915(明治48)年10月29日金曜日午後9時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
お風呂から上がった私が、居間で医学雑誌に目を通していると、
「ほら、謙仁、禎仁、母上に“おやすみなさい”を言うよ」
万智子を先頭にして、寝る支度を整えた子供たちが居間に入ってきた。
「母上、おやすみなさい」
「おやすみなさい!」
3歳7か月の謙仁と、2歳2か月の禎仁が元気よく言うのに続いて、お姉さんである万智子も「母上、おやすみなさい」と一礼する。そして、顔を上げると、私を不安そうに見つめた。
「どうしたの?」
元気でしっかりした娘の普段とは違う様子に不審を覚え、私が優しい声で尋ねると、
「母上、病院には呼ばれていないですよね?」
彼女は眉を曇らせたまま私に聞いた。
「大丈夫、呼ばれていないよ」
私は医学雑誌を机の上に置き、万智子の頭を撫でた。
「万が一、病院に呼び出されても、明日の運動会には頑張って行くからね」
「きっとよ。約束だからね、母上」
私を凝視する万智子の頭をもう一度優しく撫で、下の2人の頭も同じように撫でると、
「じゃあ、万智子も謙仁も禎仁も、おやすみなさい」
私は子供たちに飛びっきりの笑顔を向けた。子供たちが自分たちの部屋に引き上げると、私は医学雑誌をキリの良いところまで読み、午後10時過ぎに寝室のベッドに潜り込んだ。そしてそのまま、深い眠りに落ちたのだけれど……。
「……妃殿下!妃殿下!!」
……激しいノックの音が私の眠りを破ったのがいつ頃だったのか、正確には覚えていない。ただ、何とか目を開けたら、部屋の中は真っ暗だったから、夜明けより前だったのは間違いない。
「起きてくださいませ!国軍病院からのお呼び出しでございます!」
ドアの外からは、ノックの音と一緒に、職員の川野さんの大声が聞こえる。私が待機番に当たっている時には、すぐに自動車を出せるように、彼がこの家で宿直をしてくれるのだ。
「分かりました。すぐ支度をします!」
ベッドから跳ね起きながら、私はドアに向かって叫んだ。部屋の電灯を付けると、寝間着を慌てて脱ぎ、サイドテーブルに用意してある軍装を手早く身につける。
(クソっ……!何で今日に限って!)
髪を大急ぎで結いながら、私は心の中で悪態をついた。明日、いや、今日になっているかもしれないけれど、万智子の運動会があるのだ。確か、出番はプログラムの4番目と言っていた。朝から競技が開始されるから、これから行われる手術の内容によっては、運動会に出ている万智子の姿を見られなくなってしまう。待機番を誰かと替わっていたらよかったかもしれないけれど、年に1度あるかどうか、という呼び出し頻度なので、交替する発想が湧かなかった。
身支度を整えて1階に下りると、騒ぎで目を覚ましたらしい子供たちが、私を見つめているのに気が付いた。謙仁と禎仁は眠たそうな、そして万智子は不安そうな目を私に向けている。
「母上……病院に呼ばれたの?」
万智子の声は切なげだ。彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。
「ごめんね、万智子……」
「運動会……母上、運動会、いらしてくれる……?」
万智子の涙声に、「妃殿下、お急ぎを!」という川野さんの叫び声が重なる。
「……お仕事を頑張って、運動会に間に合うように頑張るね」
私はそう言うと踵を返し、玄関へと向かう。靴を履いた時、玄関の壁に掛けてある時計が、ちょうど5時を指した。
後ろ髪を引かれるような思いを抱えながら、川野さんの運転する自動車で築地国軍病院に向かう。通用口の前で自動車から降りると、今日の当直である着任したての軍医少尉が、私に向かって敬礼した。
「ひ、妃殿下っ!お呼び立てしてしまい、大変、大変申し訳ございません!」
「気にしないでください。義務ですからね」
強張った顔をした彼に笑顔を向けてから、
「それで、患者さんは、今どんな状態ですか?」
私は質問を始めた。
「輸液は開始して、抗生剤の点滴も併用しております。それが今から約1時間前のことです。しかし、腹部全体に広がった痛みが治まる気配はありません」
当直の軍医少尉は、震える声で私に報告する。いくら待機番だったとは言え、上司を、しかも内親王を夜中に呼び出したのだ。彼は今、剣の刃を渡るような思いでいるだろう。
「まぁ、抗生剤は分単位で効き目が出るものではないし……それに、あなたが電話で報告してくれた通り、虫垂炎、しかも、虫垂が破裂して腹膜に炎症が広がっているのなら、内科的な処置だけでは改善は難しいでしょう。とにかく、患者さんを診察します。案内してください」
私の言葉に、当直の軍医少尉は「は、はい!」と引きつった声で返事し、私の先に立って廊下を歩こうとする。
「ああ、そうだ、君」
「は、はいいいいっ?!」
叫んでしまった軍医少尉に、
「よく呼び出してくれました。ありがとう。これからも、自分の手に負えないと思ったら、上の医者をためらわずに呼び出してくださいね」
私はなるべく優しい声を出すように気を付けながら言った。もし、手に負えない事態が生じそうだと思った時に、助けを呼ばなければ、その事態は高い確率で最悪の結末へと向かってしまう。状況を把握すること、それが自分で解決できるか冷静に判断すること。患者さんを助けるためには、その能力も必要だと私は思う。
……患者さんはやはり虫垂炎で、開腹したところ、虫垂が破裂して、膿が腹腔内にばらまかれていた。必要な処置を終えて閉腹した時には、日勤の医師たちが出勤し始めていた。彼らに患者さんのことを引き継いで、国軍病院の玄関を出た途端、朝の光が目に飛び込んできて、私は目を閉じた。
「お疲れ様でございました」
手術の間待っていてくれた川野さんが、自動車のドアを開けてくれた。
「お腹の中、ひどい状態だったわ。患者さん、助かるかしら……」
後部座席のシートに身体を預けながらため息をついた私は、
「さて、運動会に行かないと」
と言いながら、川野さんに微笑んだ。
「恐れながら、妃殿下」
川野さんは心配そうに私を見つめた。「だいぶ、疲れていらっしゃるようにお見受けします。真っすぐご帰宅なさる方がよろしいのではないでしょうか」
「心配してくれるのはありがたいですけれど、やっぱり、まず華族女学校に向かってください」
私は川野さんにお願いした。「今の万智子は、今しか見られないのです。娘の成長は、私の記憶にきちんととどめておきたいですし……それに、万智子と約束しましたからね」
腕時計の文字盤を見ると、時刻は午前8時になったところだった。万智子が出るお遊戯は、運動会のプログラムの4番目……間に合うだろうか。目をギュッと瞑った瞬間、川野さんが車を発進させた。
午前8時20分、麴町区永田町にある華族女学校に到着すると、車から降りた私は、運動場に向かって全速力で走った。運動場の周囲には、参観の保護者たちが大勢並んでいる。そして、軍楽隊が軽やかなマーチを演奏する中、運動場の真ん中を、数十人の幼稚園児たちが、胸を張って行進していた。
(間に合った……!)
幼稚園児たちは音楽のリズムに合わせて足を運び、運動場に大きな輪を作っている。その輪の中に娘の姿を見つけた時、私の胸がいっぱいになった。娘の名を呼ぶと悪目立ちしてしまうので、娘の目に入るよう、被っていた制帽を右手で持って大きく振る。すると、両隣の園児と手をつないだ万智子の顔が、パッと輝いた。私に気付いてくれたようだ。娘としっかり目を合わせ、私は制帽を振り続けた。
「母上!」
お遊戯が終わった途端、万智子は運動場の真ん中から私めがけて走ってきた。頭の後ろの大きな紅いリボンを揺らしながら、私の所に真っすぐ駆けてきた彼女は、満面の笑みを顔に浮かべ、私の身体に抱き付いた。
「母上!いらしてくれた!母上!」
「うん、母上、ちゃんと見ていたよ。万智子が行進して、手をつないでいるところ、ちゃんと見ていたよ」
弾んだ声を上げる娘に優しく話しかけながら、私は彼女の頭を撫でる。私の腰にしがみついた万智子は、私に会えた喜びを全身で表していた。
(ああ、やっぱり、しっかりしているけれど、母親は恋しいのか……)
私は軽くため息をついた。万智子は3人きょうだいの一番上だからなのか、4歳なのが信じられないくらい大人びていて、弟たちの面倒を見たり、簡単な家の仕事を手伝ったりしてくれる、よく出来た娘である。だから、私が仕事で家を留守にしている時も、寂しがらずに機嫌よくしている、そう思っていたけれど、やはり、心の底では母親を求めているようだ。
(私、予備役に回る方がいいのかしら……だけど、兄上とお父様の身体に万が一のことがあった時に備えて、手術の腕は落としたくない。それに、予備役に回ったら、また貴族院の議長をやらされるだろうから、万智子たちと一緒にいられる時間、今と変わらないだろうな……。はぁ、私が2人いれば、万智子たちの育児も、医者としての仕事も、両方できるのに……)
私がそう思った瞬間、
「おや、嫁御寮どのが物憂げな顔をなさっている」
前からこんな言葉が飛んできた。私のことを“嫁御寮どの”と呼ぶ人は、この世にただ1人しかいない。顔を上げると、カメラを持った義父の威仁親王殿下が立っていて、義母の慰子妃殿下、義理の祖母の董子妃殿下と一緒に、こちらに笑顔を向けていた。
「お義父さま……お義母さまも、おばあさまもいらしていたのですか」
私の問いに、「当たり前でしょう。可愛い孫娘の初めての運動会なのですから」と義父は即答して胸を張った。
「病院から呼び出されたのでしょう?仕事は終わりましたか?」
白い日傘を差した義母は、不安げに私に尋ねた。
「はい、何とか。万智子のお遊戯に、ギリギリで間に合いました」
私がそう答えると、「母上」と万智子が私を呼んだ。
「どうしたの?」
私が聞くと、
「母上は、もう帰って、お昼寝しないといけません」
万智子は改まった顔をして私にこう言った。
「どうして?母上、運動会を見たらいけないの?」
「私もいて欲しいけど……」
万智子は目を伏せた。けれど、すぐに彼女は顔を上げ、
「でも、大山の爺が、母上に会ったらそう言いなさい、って言ったの。そうじゃないと、母上が倒れて、病院にずっといないといけなくなりますよ、って」
と、しっかりした口調で私に教えてくれた。
「……確かにそうだね」
やはり、大山さんには敵わない。そう思いながら、私は娘の頭をもう一度撫で、
「では、母上は、帰ってお昼寝をします」
軍隊式の敬礼をしながら答えた。
「よろしい!」
万智子は元気な声で言った。とても満足しているのは、明るい笑顔から容易に察することができた。
「万智子、その前に、みんなで写真を撮ろう」
義父が孫娘に優しく声を掛ける。「川野君がちょうど追いついてきたから、彼に写真を撮ってもらおう。ほら、嫁御寮どの、万智子を連れてこちらに来てください。それで、私の前に並んで」
義父はテキパキと指図をして、そこにいる家族全員を整列させる。そうして撮られた、万智子の初めての運動会の記念写真は、私にとって、思い出深い写真になったのだった。




