閑話 1891(明治24)年夏至:桂中将の驚愕
1891年7月3日、正午。
「おお、桂さん」
上野にある西洋料理店の一室のドアを開けた、第三軍管区司令官・桂太郎歩兵中将は、旧知の男に迎えられていた。国軍次官の山本権兵衛少将である。
「権兵衛、元気そうだな。機嫌がよさそうだが」
桂中将が声を掛けると、「まあ、もうすぐ、お楽しみが控えていますから」と山本少将は笑った。
「北洋艦隊のことか」
桂中将が尋ねると、「その通りです」と山本少将はニヤリとした。
「イギリスの艦隊と比べて、どの程度であろうかと思いましてね」
清の丁汝昌率いる北洋艦隊は、6月末に下関に入港した後、天皇陛下を表敬訪問するために、現在横浜に向かっている。
「清は、こちらを恫喝するつもりだろうが」
桂中将は言った。
「しかし、あれ以上、艦船は増えないはずです」
山本少将は答えた。「今年の北洋艦隊の予算が、大幅に減らされたらしいと聞きました」
「いきなり来たな」
桂中将は苦笑した。 突然、機密情報を話し始めるとは、予想出来なかった。
「大丈夫か?」
「この部屋は廊下の突き当たり。隣の部屋の客は、フランス人の夫婦だそうです。日本語で話す分には問題ないでしょう」
山本少将が言った。流石にそれは確認済みだったらしい。
「予算な……」
桂中将は腕を組んだ。
「我が方の予算は大丈夫か?戦艦2隻を建造する予算を、今度の議会に提出すると聞いたが」
「役人の人員整理が終わりましたからな。浮いた人件費を何年分か貯めれば、軍艦はできるでしょう。最も、別の方面から、国庫の負担が減る可能性が出て来ましたが」
「おい、どういうことだ」
「今、必死にやっているところでして……お、そろそろ源太郎が来たようだ」
扉の外から足音が近づいて来て、がちゃり、とノブが回る。
「権兵衛、お前なあ……」
そう言いながら現れたのは、国軍参謀本部長の児玉源太郎歩兵少将だった。腕に風呂敷包みを抱えている。
「俺に計算仕事を押し付けおって……」
「すまん。しかし、俺がやっていたのでは終わらないだろう。それに、桂さんを待たせる訳にはいかないしな」
「そうか。それなら権兵衛には、あれを見せないことにしよう。ちょうど、お前が国軍省を出た頃に、詳しい報告と模型が届いてな」
「待て、あれとは……まさか、丸亀のか?見せろ、源太郎」
「さて、どうしようかな」
「なにっ……!」
まるで子供のケンカのような二人のやり取りを見て、
「相変わらずだな、お前たちは」
桂中将は苦笑した。同じ年に生まれた児玉と山本、陸軍と海軍に職場が分かれていたころには、さほど交流は無かったようだが、国軍合同で職場が一緒になると、途端に意気投合した。
「しかし、計算仕事か。まさかとは思うが、ここに持ってこなければいけない類のものか?」
「そのまさか、ですよ」
桂中将の言葉に、児玉少将はニヤリとした。「国軍省の連中に見せる訳にもいかず……ドイツ留学で会計をも学んだ桂さんなら、検算もしていただけるかと」
「やれやれ……」
桂中将はため息をついた。確かに、この3人の中で、一番計算ができるのは自分ではあるが。
「しょうがないな。どれ、貸してみろ」
桂中将の言葉に、児玉少将は、何枚かの書類を取り出した。
「ふむ」
鉛筆を走らせていた桂中将の手は、15分ほどで止まった。その間にボーイがコートレットを三人前持ってきて、退出した。
「少し計算が食い違っているが、とにかく、使途不明の金があることは確かだな」
桂中将はそう言いながら、ナイフとフォークに手を伸ばす。
「食い違っている……いか程でしょうか、桂さん?」
「大差はないさ、源太郎。5000円程だろうか。しかし、俺の計算にしろ、源太郎の計算にしろ、およそ20万円の使途不明金がある。しかも、別々で、だ」
「やはりか……」
山本少将が両腕を組んだ。
「どこに行くと思う、権兵衛?」
「恥ずかしい話だが、この件に関わっている我が方の人間のところだろうな」
児玉少将の言葉に、山本少将がため息をついた。
「もともと、噂はあった。この件を言われて、改めて探りを入れたら、証拠が大量に出てきている。これは、他の件についても追及する方が良さそうだ」
「どこまで広がるだろうか、権兵衛?」
「大将まではいかないだろう。少なくとも、憲法が発布されてからは、西郷閣下も山縣閣下も、そう言った類の金を一切受け取っていない。大山閣下は前からそうだった。ただ中将、少将あたりはどうなるか……」
「どう始末するか、考えなければならないな。下手をすれば、新聞の格好のネタだ」
山本少将と話し合う児玉少将も、そう言ってため息をついた。
「権兵衛、この話、どこから調べろと言われた?」
桂中将が二人に確認すると、
「大臣閣下にも言われた」
と山本少将は言った。
「なるほど、あちらも絡んで、か」
桂中将は頷いた。それならば、この話が突然出てきたことにも納得がいく。
「どうしますか。桂さんの検算なら間違いないと思うが、元の数値も合わせて出しますか?」
「元の数値も合わせて提出する方がいいだろう。俺も、突然言われてやったから、結果に自信がない。検算はされるだろう」
桂中将は答えた。
「ふふ、始末の仕方は熟考せねばならんが、これをネタに、無能な将官の首を、国軍でも切れそうだ」
山本少将がほくそ笑む。
「対露に向けて、か」
「その通り。世間は対清と言っている者もいますがね」
桂中将の言葉に児玉少将がニヤリとして、更にとんでもないことを付け加えた。
「北洋艦隊に便乗して、李鴻章が来ます」
「な、何?」
桂中将は驚いた。そんな話は聞いていなかったのだが。
「無論、極秘です。伊藤閣下と大隈閣下、勝閣下が交渉に当たるらしい、と」
「何をする気だ?」
「秘密条約の締結でしょうな」
山本少将が言った。「朝鮮に手を出すな、という論は盛んに上層部で唱えられている。しかし、朝鮮と清に対しては強硬的な態度をとる他ないという説も、民間では行われている」
「民間は、本当に勝手なことを言うな」
「露見したら騒ぎになりましょう。朝鮮を清に委ねてしまい、我が国は朝鮮と清に対する列強の介入を防いでいく、などと」
桂中将に、児玉少将が返した。「いずれは民間の論を静めなければならないが、まだ俺も試したことがないので、賽の目がどう出るか分からないのですよ」
「なるほど。……しかし、俺が名古屋にいる間に、面白いことになっているようだ。うらやましいな」
桂中将が軽くため息をつくと、
「うらやましいのはこちらの方です」
山本少将が抗議した。「5月に、増宮さまに会ったそうではないですか!しかも、名古屋城を長時間にわたって案内したと!」
「ああ、それか……」
桂中将は、再びため息をついた。
「実は、俺が今日、お前らに会いたかったのは、それを相談したかったのだ」
「どういうことですか、桂さん」
児玉少将が尋ねる。
「これは、この三人の中だけの話にしておいてほしいのだが……」
桂中将は声を潜めた。「源太郎、お前の言ったこと、当たっていそうだ」
「桂さん?」
「増宮殿下は、本当に、未来の世を見ておられる」
「な、何?」
山本少将が息を飲んだ。
「一体どういう……外国の小説にある、“タイムスリップ”というものですか?」
「詳しい仕組みは分からぬが……殿下が、名古屋城にいらした際、やはり多聞櫓を特にご希望されて見学なさってな。その時、このようなことを言われたのだ。“そもそも、見られること自体が、私にとっては望外のことなのです。見学の終了の時間が来たら、多聞櫓との今生での縁はこれまでと、潔く諦めます”と……」
「今生での縁はこれまでと、潔く諦める……」
児玉少将が、呆然として呟く。
「その言葉は、そう遠くない将来に、多聞櫓が無くなることを知っていなければ、言えないでしょう」
山本少将がそう言って嘆息する。「なるほど、そうなると、殿下の英明さも、恒久王殿下の一件も納得がいく」
「ああ……しかし、この件は、一体だれが知っているのでしょうか?」
「少なくとも、山縣閣下はご存じだ。それは確信した」
桂中将は児玉少将の質問に答えた。「どうやら、増宮殿下に関するお前らの動きも、気取られてしまっているようだ。漏らせば、我々を斬ることを考えなければならぬとも、山縣閣下に言われた」
「なんと!」
児玉少将が目を見開いた。
「権兵衛と二人、細心の注意を払いながら、上手くやっていたつもりだったのだが……」
「うん、山縣閣下は欺けていたようだ」
桂中将の言葉の意味を察したのか、児玉少将と山本少将は、同時にため息をついた。
「なるほど……それでは仕方ないか……」
「やはり、敵わぬなあ……」
顔を見合わせて苦笑する二人に、
「すると……我々の元に上から流れてきた、軍事関連の突飛もない発想も、おそらく増宮殿下が発信源か?」
桂中将は尋ねた。
「おそらく、そうでしょう」
児玉少将が頷く。「人ひとりで持ち運べるような機関砲やロケット砲、手のひらに収まる大きさの手投げ爆弾、迷彩の概念に、急速上陸が可能な上陸用の舟艇……」
「艦首が地面に倒れるように開き、なおかつ歩み板の役割を果たすなど……。しかし、言われてみれば、これは確かに合理的だ」
「更に、空を自在に飛ぶ機械か。丸亀のが出てこなければ、本気になどしなかったのだが……」
「さっきも言っていたが、その丸亀とは一体何だ、源太郎?」
山本少将と話し合っている児玉少将に、桂中将が声を質問する。
「ああ……、実は、これですよ」
児玉少将が、隣の椅子に置いた風呂敷包みの結び目を解いた。中から出てきたのは、長さ一尺余りの、竹ひごと黒い絹の布でできた、鳥のような物体だった。
「なんだ、これは?」
「これが……ゴムの動力で、空を飛んだらしい。丸亀に派遣した配下の者に聞かなければ、一笑に付していたのだが……」
「つまり、これが大きくなり、動力源が得られれば……」
「人が空を飛べるようになる、ということか」
桂中将は息を飲んだ。人が空を飛ぶ。それが出来てしまえば、戦術は、大変革を強いられるだろう。
「これを作ったものは誰だ、源太郎?」
「丸亀の歩兵連隊の二宮という者。とりあえず東京に呼びました。この模型も、そいつが持ってきたのですよ」
児玉少将が答えた。
「研究させねばいかんな」
「もちろんです。これは、軍独自で研究しなければいけないでしょう」
山本少将は桂中将に力強く言ったが、次の瞬間、「しかし、おいたわしいことだ……」と再びため息をついた。
「権兵衛、おいたわしいとは?」
「優れた戦略と御武勇を発揮される増宮さまが、です。あのご英明さ……おそらく、未来でも、名のある将官だったに違いありません。それが、今は女子であらせられるとは……」
「いや、源平の昔にさかのぼれば、巴御前のように、武名をたたえられた女子もいる。たとえその身が女子だからと言え、諦めるのはまだ早いぞ、権兵衛!」
「しかし源太郎、今現在、男子しか兵隊になることができない。規則の改正があれば別だが、よほどの理由が無ければそんなことはできん……この世で、どうすれば、増宮さまの戦の才を生かせるのか……」
児玉少将と山本少将の様子を見ながら、
(果たして、本当にそうなのだろうか?)
桂中将は違和感を覚えていた。
名古屋城での増宮殿下の御様子を振り返ってみても、殿下が昔、名のある将官であったとか、優れた戦の才がある、というようには見えなかった。あの夢見るような瞳は、天皇陛下が刀剣をご覧になるときの目と同じだった。
(“まにあ”というものが何やら分からぬが、文脈から行けば、研究家と同じような意味であろう。おそらく殿下は、父君が刀剣を愛されるのと同じように、城郭を愛しておられるだけ……)
「いっそ、男装していただいて、身分を偽装した上で、歩兵学校に通っていただくか?」
「だめだ権兵衛、伊藤閣下と大隈閣下が猛反対される。ニコライ皇太子も、増宮さまの美しさに心を奪われていたと聞く。あの美しさ自体が、ご成長されれば、外交の切り札になりえてしまうからな……」
「うむ……幼いながら、あの美貌……しかしそれでは、その身に眠る天賦の軍才が、あまりにも勿体ない……」
桂中将がコートレットを口に運び終わるまで、児玉少将と山本少将は、“いかにして、増宮殿下の軍事的な才能を国軍で発揮していただくか”を熱心に議論していた。
(本当にこいつらは、増宮殿下が好きなのだな)
そう思う。しかし、好きなのは自分も変わりない。増宮殿下に何か事があれば、役に立たねばならない、という思いは、彼女が未来の世を見ていると知った後、ますます強くなっている。
「お前ら、そろそろここを出た方がいいのではないか?俺は今日一日暇だからよいが、お前らは国軍省に戻らねばならないだろう」
桂中将の声に、ポケットから懐中時計を取り出した山本少将は「いかん、急がねばならんな」と立ち上がった。児玉少将も荷物を整えると席を立つ。桂中将も立ちあがった。
「桂さんは、明日は山縣閣下に呼ばれているのでしたか」
ドアに向かいながら、児玉少将が確認する。
「ああ。午後3時半だったかな」
そのために、今回名古屋から上京したのだ。
「実は、我々二人もです。明日午後3時半に山縣閣下の家に行け、と西郷閣下から言われました」
「何……?」
桂中将は眉をひそめた。「我々3人が同時に、か……」
「まあ、蓋を開けてみなければ分からないでしょう。とりあえず、何があっても大丈夫なように、覚悟は決めておかなければ」
山本少将の声に、桂は黙って頷いて、ドアを開けた。
と、
「あら、桂さんじゃないですか」
陽気な女性の声がする。パリのマドモアゼルを彷彿とさせる、洋装を見事に着こなすこの女性は……。
(す、捨松さま、だと……?!)
大山捨松……大山東宮武官長の令夫人だった。
「ご、ご無沙汰しております」
桂中将はこう言って頭を下げるのがやっとだった。桂中将の後ろで、山本少将と児玉少将も、捨松夫人に一礼する。
「まさか、ここでお会いするとは思いもよらず……」
頭を下げたまま話す桂中将の頭上で、
「ですなあ、桂さん」
のんびりした男性の声がした。
(な……!)
桂中将は驚愕した。
隣の部屋のドアから顔をのぞかせていたのは、大山東宮武官長だったのだ。
(我々の動きが……気取られていたというのか!)
「おい、隣の部屋は、フランス人の夫婦ではなかったのか?!」
「そのはずだ。部屋を予約したときも、今日確認したときも、ボーイにはそう答えられたのだが……」
児玉少将と山本少将が、ひそひそ話し合っている。驚愕したのは、この2人も同じらしい。
「今日は非番でなあ、捨松と久しぶりに出かけたのだが……」
そう穏やかに話す大山東宮武官長が、閻魔大王のように見えてしまった桂中将だった。
※二宮忠八さん……白川義則大将に自分の研究のことを話したのが1919(大正8)年、井上幾太郎航空本部長から感賞状が出たのが1921(大正10)年5月、当時二宮氏の研究を却下した長岡外史中将が二宮氏に詫びを入れたのが1921(大正10)年10月……(以上出典「二宮忠八伝」)という訳で、「原敬が暗殺されたとき(大正10年11月4日)、彼は二宮忠八のことを知っていた」という設定にしました。折角のフィクションですからね。
※そして梨花さん、前世で何の映画を見てたんでしょうね。詳細を語る機会を、どこかで作らなければ……。




