お互いの目標
※漢字ミスを訂正しました。(2024年7月20日)
1915(明治48)年8月29日日曜日正午、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「おじいさま、おばあさま、ひいおばあさま、ごきげんよう!」
玄関で可愛らしい声でご挨拶したのは、私と栽仁殿下の長女・万智子である。9月から華族女学校付属幼稚園に入園する彼女のため、今日はこれから家族で入園祝いの昼食会を開く。それに出席するために盛岡町邸にやって来た私の義父の威仁親王殿下、義母の慰子妃殿下、そして私の義理の祖母に当たる董子妃殿下に、愛らしい笑顔を振りまくと、
「今日は、私のお祝いに来てくださって、ありがとうございます」
万智子はペコリと一礼した。万智子の隣に立っている3歳の謙仁と、2歳になったばかりの禎仁も、万智子の真似をして頭を下げた。
「まぁ、よく出来ました!」
董子妃殿下が嬉しそうに声を上げ、万智子の頭を撫でる。「大きくなったわねぇ。ついこの間まで、赤ん坊だった気がしますけれど……本当に、子供の成長は速いこと」
「そうですね。週末に家に帰るたび、万智子たちが何かしら成長しているので驚きます」
抱っこをねだる禎仁を抱き上げながら、栽仁殿下が答えた。
「大山さんと、捨松さんのおかげです」
私はそう言うと、顔に苦笑いを浮かべた。「本当は、私も、子供たちの面倒をもっとよく見てあげたいのです。けれど、仕事がある日は、どうしても、子供たちに接する時間が短くなってしまって……」
すると、
「それは仕方のないことですよ、章子さま」
義母の慰子妃殿下が優しく言った。
「本来ならば、章子さまは、家庭のことを全く顧みなくてもよろしいのですよ。陛下のために軍医として働いていらっしゃるのですから。それなのに、万智子さんたちのことを母親として育てようとなさって……感服いたしますわ」
「は、はぁ……」
私は義母に、とりあえず頭を下げた。“陛下の藩屏の家であるから、女子といえども、国のために働くことを許されているのならば、結婚して子供を持っても、国のために働くべき”……。有栖川宮家の家風は、この時代の主流である“女性は家庭に入るべき”という風潮と、まったく異なっている。軍医の仕事を続けていることを、姑と大姑になじられないのは非常に助かるけれど、明らかに進んだ考えに、私の方が戸惑うこともたまにある。
「嫁御寮どのは、我が家の家風にまだ慣れていらっしゃらないようだ」
いつの間にか謙仁を抱き上げていた義父が、私に向かってニヤリと笑いかけた。「困りますねぇ。上達なさっているとは言え、筆の扱いもまだまだ未熟……一刻も早くなじんでいただかなければ」
厳しい表情をしようとする義父に、腕の中にいる謙仁が、
「おじいさま、母上は何か悪いことをしたの?」
と心配そうに尋ねる。たちまち義父は相好を崩し、
「いやいや、そうではないよ、謙仁。謙仁の母上に、もっとおじいさまたちに慣れ親しんで欲しいと言ったのだ」
優しい声でこんなことを言った。いつも思うことだけれど、義父は本当に孫たちに甘い。
「母上、おじいさまと仲良くしなきゃダメだよ」
義父の腕の中から、真面目な顔で言う長男に、
「はい、分かりました。仲良くしますね」
私はこう答えると微笑した。
「さぁ、皆さま、食堂へおいでください。昼食会の準備が整っておりますから」
黒いフロックコートを着た大山さんが、後ろから声を掛ける。大山さんの隣には、赤坂の家から久しぶりに盛岡町に来てくれた母が遠慮がちに佇んでいる。そして、大山さんの背後では、盛岡町邸の職員さんたちが整列し、こちらに向かって頭を下げていた。
「そうですね。では皆さま、どうぞ食堂へ」
栽仁殿下が一礼すると、私たちはおしゃべりを楽しみながら、賑やかに食堂へ向かった。
万智子の入園を祝う昼食会は、和やかに、そして賑やかに進んでいった。食事の時には、子供たちが悪戯しようとするのを止めたり、大きな食べ物を慌てて飲み込まないかを見張っていたり、気苦労が絶えないのだけれど、子供たちのお行儀は比較的良く、普段の食事より人目が多いから、安心して食事を楽しめた。ただ、一番上の万智子はともかく、謙仁と禎仁には、お行儀よく長時間じっとしていることはまだ難しい。今日のような身内での食事会ならいいかもしれないけれど、大人に交じって食事会に出席できるようになるまでには時間が掛かるだろう。
食後のアイスクリームを食べ終わると、謙仁と禎仁は眠くなってしまったらしい。あくびを連発する2人を、大山さんと捨松さん、そして母が子供部屋へと連れて行った。すると万智子が、
「ねぇ、ひいおばあさま。私のお人形さんたち、ひいおばあさまにご覧いただいてもいいですか?」
董子妃殿下に上目を使いながらお願いした。
「もちろんですとも!」
大姑はニッコリ笑うと、椅子から立ち上がる。実は、大姑は人形を集めるのが趣味で、万智子に祝い事があると、コレクションの中から、特に愛らしい人形を選んで贈ってくれるのだ。万智子も曾祖母にもらった人形を、大切に部屋に飾っている。その様子を曾祖母に見てもらいたいのだろう。
「そうそう、万智子に可愛がってもらおうと思って、新しいお人形を持ってきたのよ」
「本当?ひいおばあさま、今いる子たちと一緒にしてもいい?」
「ええ。その方がこの子も喜ぶわ」
大姑と娘の楽しげな会話が食堂の扉の向こうへと遠ざかっていくと、食堂には私と栽仁殿下、そして義理の両親が残された。私たちは自然と寄り集まって、子供たちがいる時はできなかった話を始めた。
「栽仁、大学校の受験勉強の調子はどうだ?」
「……範囲が広すぎて、何から手を付けていいか、正直途方に暮れています」
コーヒーを一口飲んだ栽仁殿下はため息をついた。彼は先月の梨花会の後から、数年後の国軍大学校受験に向けて、少しずつ勉強を始めたのだ。
「成久さんが、今年の試験を受けて落ちたと言っていました。まさかなぁ、と思いながら入学試験の過去問題を見たら、それも無理はないと思いました」
「“1等巡洋艦1隻、2等巡洋艦1隻、駆逐艦4隻、輸送船5隻を用い、藤沢より歩兵連隊、機動大隊、工兵中隊で上陸し、鎌倉を占領する。この場合、予想される敵の反撃とそれへの対処方法、また想定されうる被害について述べよ”という図上演習問題、軍用道路の経路設定方法やら船団護衛の方法やら、その他あらゆる兵科の基礎知識を問うて論述させる問題、軍馬の健康状態、軍艦のボイラーの構造、野砲の設計と設置位置、食料や物資の調達、感染症予防、法律、会計……軍隊に少しでも関係していれば、何でも出題されますからね」
夏休み中、翁島の別邸で、国軍大学校の入学試験の過去問題を栽仁殿下に見せてもらった時のことを思い出しながら、私も栽仁殿下の言葉に付け加えた。軍医学校に通っていたころ、私も諸兵科のエッセンスは教わったけれど、過去問題には、その程度では全く太刀打ちできない問題ばかりが並んでいた。軍医は国軍大学校に入学することができないから、私はこの難しい試験を受けなくていいけれど、栽仁殿下は数年後、これと戦わなければならないのだ。
「いっそ、各兵科から1人ずつ出て、合議制で解答を作らせてもらえたらいいのに……とも思いました」
私がため息とともに吐き出すと、
「各兵科から1人ずつ出ての合議制、ね。なるほど、嫁御寮どのはなかなか良いことを言う」
義父がそう言いながら顎を撫で、
「栽仁、お前は1人で勉強しようとしていないか?」
と栽仁殿下に尋ねた。
「は……?」
「お前は海兵のことなら少しは分かるだろう。しかし、歩兵、騎兵、機動、航空、砲兵、工兵……他の兵科については、ほとんど知らないはずだ。ならば、少しでもその道に携わっている人間に疑問点を聞けばいい。徒然草にも、“少しのことにも、先達はあらまほしきものなり”とあるではないか」
キョトンとした栽仁殿下に義父が語り掛けていくうちに、栽仁殿下の表情は次第に真剣なものへと変化していった。そして、
「ありがとうございます、父上。成久さんや輝久、それに鳩彦と稔彦にも声を掛けて、国軍大学校の入学試験のための勉強会を開いてみようと思います」
と、力強い声で義父に言った。
「そうか、しっかり勉強しろ」
義父が微笑すると、その横から、
「そう言えば章子さま、香りのご修業の方はどんな調子ですか?」
義母が私に話しかけた。
「……進んでいるのかいないのか、よく分かりません」
私は眉根に皺を寄せた。
私と栽仁殿下が来年洋行すると聞いた義母は、私がお化粧の匂いを苦手としていることをとても心配した。日本にいれば、大抵の場合は、宮内省から他の人間に注意がなされ、香りの強い化粧品や香水を使う人に公式行事で出会うことはほとんどない。しかし、外国に行けばそんなことはできないのだ。
――章子さま、お化粧の匂いに、少しでも慣れる方がよろしいわ。そうでないと、折角の晩餐会や舞踏会で動けなくなってしまいますもの。
先月の半ば、私たちの洋行のことを義父から聞いた義母は、私にそう忠告し、東條さんたちに手に入れてもらったという、化粧品に使われる芳香油や花油などの香料を、私に少量ずつくれた。それで、大山さんと捨松さんと相談し、毎日1種類ずつ、その香料の匂いをかぐことにしたのだけれど……。
「いただいたものの中で、匂いが大丈夫なものもあります。レモンやジャスミン、ハッカ、バイオレット、ラベンダー……でも、苦手なものももちろんあります。ムスクは瓶のふたを開けた瞬間にダメだと感じましたし、それからローズも……」
私はここ1か月ほどの匂いの記憶を思い出し、指を折りつつ義母に話した。ムスク……麝香とも言うけれど、その匂いは、前世の小学1年生の時に母がしていたお化粧の匂いに近かった。ローズは、香り自体は耐えられなくは無いのだけれど、去年の帝国議会の閉会式で来ていた小礼服に施されていた薔薇の刺繍を思い出してしまい、ついでに博恭王殿下の顔まで脳裏に浮かんでしまったので、可能な限り避けたいのだ。
「でも、章子さん、お線香の匂いは平気なんだよね」
「そうね。カレーライスのスパイスの匂いも大丈夫だし、他にも匂いのキツいものはあるけれど、それも大体は大丈夫。でも、なんで、化粧品や香水の匂いはダメなのかしら……」
栽仁殿下に応じた私が、首を傾げながらため息をつくと、
「ヨーロッパでは入浴の習慣がほとんど無かった時期があったから、体臭を誤魔化すために香水が発展した、という話を聞いたことがありますね」
義母が微笑みながら言った。「だから香水も、次第に匂いが強くなったのかもしれません。それに、同じ香料を使っていても、お香として焚くのと、香水や化粧品として使うのとでは、香り方が違ってきます。ですから、お香は平気でも、香水や化粧品の匂いは苦手……ということも起こるのだと思いますよ」
「……」
私は義母の講釈を黙って聞いていた。匂いについては全く詳しくないので、義母の話は新鮮に感じられた。
(ただ、私の場合、ママのお化粧の匂いが強烈に記憶に残っちゃってるから、お化粧や香水の匂いに余計に敏感になっているところもあるよね……)
そんなことをぼーっと考えていると、
「そうだ、章子さま。いっそのこと、章子さまが使う香水を作ってもらえばよいのではないかしら」
義母が楽しそうな声を上げた。
「香水を……作る?」
「ええ。舶来品の香水は、章子さまの苦手なムスクやローズを使っているものも多いそうです。それならば、舶来品の中から章子さまの使える香水を探すより、作ってしまう方が早いのではないかしら。もちろん、章子さまのお好きな香りを使って、淡く香るような香水を」
「それは、日本の化粧品会社にとっては、いい刺激になるかもしれないね」
なぜか熱っぽく語る義母に、義父が相槌を打った。「それがダメなら、匂い袋もいいかもしれない。服の間に忍ばせておいて、ほのかに香る……というのも、なかなか奥ゆかしい」
「素敵ですね。けれど、本当にほのかな香りでしょうから、よほど近くに寄らないと、分からないかもしれませんね」
「確かにねぇ。となると、嫁御寮どののまとった香りを楽しめるのは、栽仁だけかな」
「あ、あの、お義父さま……」
なんだか、話が妙な方向に行っているような気がする。そもそも、香りを身体に付けること自体、私にとっては想像ができないことなのだ。香りを楽しむということが、私には別の世界の出来事のように思える。
と、
「素敵じゃない、章子さん」
夫が私に微笑みを向けた。「僕も新しいことに挑戦しているけれど、章子さんも新しいことに挑戦するんだね。僕は香りのことについては詳しくないけれど、香りの世界も楽しめるようになったら、章子さんの視野はきっと広がるよ」
栽仁殿下は、私を真正面から見つめている。澄んだ美しい彼の瞳に、たちまち心が絡め捕られる。うつむいていた私の心は、夫の優しい視線に支えられ、いつの間にか前を向いていた。
「……どうして、栽仁殿下と一緒にいると、心が前を向けるのかしら」
私は栽仁殿下に微笑み返した。
「さぁ、どうしてだろう。僕にもよく分からないな」
栽仁殿下は穏やかに答えると、「それで、章子さん、香水の件はどうするの?」と私に尋ねた。
「まずは、匂い袋からかなぁ。香水を作る……と言っても、時間はかかるでしょうし、それが出来上がるまでは匂い袋を使って、少しずつ香りに慣れればいいかな、と思うの。とりあえずの目標は、新年拝賀の控室で、他の人の香水の匂いに、ある程度耐えられるようになることかしらね」
私はここまで答えてから、
「栽仁殿下の“国軍大学校の入学試験に合格する”という目標と比べたら、だいぶちっぽけな目標だね」
と付け加え、顔に苦笑いを浮かべた。
「でも、章子さんにとっては、大きな一歩だよ」
栽仁殿下は真剣な表情で私に言った。「長い間苦手だったものを、克服しようとしているんだ。それはとてもすごいことだよ」
確かにそうかもしれない、と私は思った。前世で母のお化粧の匂いで気を失ってから、と考えると、前世と今生を合わせて、40年以上も苦手にしてきたのだ。その長年の関係を、何とかして変えようとしているのだから。
「それにね」
栽仁殿下の顔に、微笑が閃く。一瞬、何か悪戯を仕掛けてきそうな気配も感じたけれど、とっさに対応できないでいるうちに、彼は私の右耳に口を近づけた。
「……今の梨花さんもいいけれど、ほのかな香りをまとった梨花さんも、きっと素晴らしいんだろうな」
「?!」
思わぬ囁きで、一気に真っ赤になった私の顔から、栽仁殿下はサッと身を離す。そして、椅子に座り直すと、何事も無かったかのようにすまし顔をした。
「あら、これは……」
「どうやら、嫁御寮どのがしてやられたようだね」
「それにしても、仲のよろしいこと」
並んで座った義母と義父は、私と栽仁殿下の様子を見比べながら、クスクス笑い続けたのだった。




