改姓
1915(明治48)年5月1日土曜日午後4時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「で、相談というのは何かしら?」
応接間に、私はお客様を迎えていた。国軍航空大尉の高野五十六さんである。国軍航空局の創設時からのメンバーである彼は、実働部隊のトップのような役割を担っている。このため、どう振る舞っても目立つことになった彼は、今や国軍どころか、世間においても、“空の英雄”として知られるようになっていた。
「はい、実は……」
お茶請けの羊羹を一気に食べ終えた高野さんは、
「あの……大山閣下は、立ち聞きしていらっしゃいませんよね?」
と、周りをキョロキョロ見回しながら私に尋ねた。
「大丈夫、気配は無いです」
しっかり請け負った私は、
「大山さんには聞かれてはいけない相談なのですね」
お客様にこう確認した。
「聞かれてはいけない、ということはないのですが、少々、憚られまして……」
高野さんは私に小声で答えると、
「実は、俺に、養子に入ってくれという話が来ているのです」
声を小さくしたまま続けて言った。
「そう言えば、高野さんに最初に会った時、“大正の御代になってから、山本の家に養子に入った”と言っていましたね」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「私、記憶力はいいのです。それに、私の時代だと、“高野五十六”より“山本五十六”の方が有名ですし」
私は自分のお茶を一口飲むと、
「もしかしたら、今回の養子の話も、“史実”と同じ家から声が掛かったのですか?」
高野さんに尋ねた。
「正確に言えば、“史実”と同じように、殿様から頼まれたのです。俺の故郷は新潟の長岡なのですが、長岡藩の家老職を務めていた山本家、その家に養子に入ってくれないか、と……」
高野さんは頭を軽く下げた。
「長岡の殿様、と言うと……牧野忠篤さんから頼まれたのかしら?」
「殿様をご存じなのですか?!」
「いや、だって、貴族院議員ですから、顔は知っていますよ。元々は長岡藩の藩主だった家だ、と聞いたこともありますし」
驚く高野さんに答えた私は、
「故郷の殿様からの頼みだと、断りにくいですね」
と言いながら苦笑した。
「はい。しかも、殿様だけではなく、色々な方が説得にやって来られて……“お前の家は、昔から山本家を助けてきた縁があるのだぞ”と強く言われまして、断れなくなりました」
高野さんはそこで言葉を切り、
「ですが、この山本家というのが、少し曰くのある家でして……それで、妃殿下に相談したかったのです。恐れながら、妃殿下と俺とは年齢がほぼ同じですから、梨花会の他の方よりは、感覚を分かっていただけるのではないかと思いまして……」
私をじっと見つめた。彼の視線には、明らかに迷いと苦悩が混じっていた。
「……わかりました。とにかく、話してみてください」
高野さんが山本家の何を相談したいのか、まったく見当がつかない。だからこそ、彼の話はよく聞かなければならない。私は姿勢を正すと、高野さんに微笑を向けた。
「ありがとうございます」
高野さんは私に一礼すると、
「妃殿下は戊辰の役の経過を……特に、長岡での戦のことをご存じでしょうか?」
そう私に尋ねた。
「ある程度は……」
私が頷くと、
「ならば、話が早いですが……」
前置きをして、高野さんは話を始めた。
「山本家の先代・義路は、長岡藩の軍の大隊長として、官軍と戦いました。そして、長岡の城が官軍の手に落ちた後は会津方面に転戦し、官軍に捕らえられて斬首されたのです。山本の家はその時断絶となりました。明治16年に家名再興を許され、憲法発布の際の大赦で、先代の罪は消えたのですが……」
高野さんの話を聞きながら、昔勉強した、戊辰の役での長岡方面での一連の戦闘……いわゆる“北越戦争”の経過を、私は思い出していた。
鳥羽伏見の戦いが起こり、新政府軍が東へと向かう中、長岡藩は旧幕府軍からも新政府軍からも離れた中立の立場を保とうと模索していた。その一方、戦争になった場合に備え、外国の商人からガトリング砲などの最新兵器を購入し、防備を固めていた。
1868(慶応4)年5月2日、長岡藩の家老・河井継之助さんは、新政府軍の軍監・岩村精一郎さんと小千谷というところで会談した。けれど、新政府軍は長岡藩の言い分を一蹴したため、長岡藩は新政府軍と戦うこととなった。購入した最新兵器も使い、一度新政府軍に奪われた長岡城を奪い返すなど、頑強に抵抗したけれど、新政府軍の勢いを止めることはできず、長岡藩領は新政府軍の支配下に入った。
「それ故、恐れております。今の俺の置かれている立場で、山本家を継いでいいものか、と」
普段と違う暗い声で言った高野さんに、
「山縣さんたちのことね……」
私はそう応じた。
北越戦争において、新政府軍で中心的な立場にいたのは、山縣さんと黒田さんだった。山田さんと山本さんも参加しているし、西園寺さんも大参謀として新政府軍に加わっていた。しかも、山縣さんと西園寺さんは、一度占領した長岡城を奪われ、命からがら撤退するという手痛い目に遭ったのだ。
「山縣閣下は、北越戦争で、時山直八という竹馬の友を亡くしたと聞いております。……俺は、“史実”では、山縣閣下にお目にかかる機会は無かったと思います。北越戦争に関わられた方にも、親しく会ったことは、ほとんどありませんでした。もちろん俺は、北越戦争に参加しておりませんが、俺が、自分が手痛い敗北を喫した土地で、かつて自分たちの敵として立ちはだかった人間の家を継ぐと知ったら、山縣閣下は、他の方々はどう思われるのか……。俺が山本家を継ぐことで、梨花会の和が損なわれてしまうのではないかと、“史実”では無かった恐れが頭をもたげてきて……」
うつむいて、暗い声で話し続ける高野さんに、
「……高野さんらしくないですね」
私は苦笑いを向けた。
「そんなもの、胸を張って、堂々としていればいいのです。逆賊なんて、もうこの国にはいないのだから」
「し、しかし……」
「高野さん」
戸惑う高野さんに、私は真面目な顔を作って呼びかけた。
「高野さんが戊辰戦争に参加したはずはないですけれど、高野さんのお父様やおじいさまはどうだったのですか?」
「……最初に長岡城が落ちた時、祖父は新政府軍と戦って死んだそうです」
高野さんは眉間に皺を寄せながら答えた。「父も、会津まで転戦して負傷したと聞いていますが……」
「じゃあ、お互い、大切な人が亡くなったり、傷付いたりしたのですね」
「妃殿下……」
「大事なのは、この国をより良くするために、心を一にすることだと思います」
私は再び、高野さんに微笑した。「それに、心が違っても、協力することはできます。山縣さんも黒田さんも、それに、戊辰の役に参加した梨花会の他の面々も、心が違うから高野さんと協力できない、とは言いませんよ」
そう言ってから、
「ただ、あなたが山本家を継ぐと、国軍大臣の山本さんと名字が一緒になるから、呼び方をどうするか考えないといけないですね。それだけが少し不便かしら」
私は悪戯っぽく笑ってみた。
「は……」
高野さんは頭を下げた。けれど、次に顔を上げた時、彼の顔から不安の色は消え去っていた。
「妃殿下、決心がつきました。俺は“史実”と同じように、山本の家を継ぎます。そして、長岡に生まれた士族として、堂々と振る舞います」
力強く決心を述べる高野さんの目を見つめながら、
「それでいいと思います」
私は首を縦に大きく振った。
1915(明治48)年5月8日土曜日午後3時、皇居。
兄と私が参加して行われる月1回の梨花会は、順調に進んでいた。順調、と言っても、出席者たちから大量に質問が浴びせられるので、私と兄はそれに答えるので忙しい。ただ、今日は2人とも、厳しい指摘を受けるのは免れた。
「つまらないですね」
残念そうに言う前内閣総理大臣の陸奥さんを、
「まぁまぁ、こういう時もあるじゃろう、陸奥君。お2人のご成長を、素直に喜んでいいと思うぞ?」
皇孫御学問所総裁の伊藤さんが苦笑しながらなだめた。
「伊藤どのがおっしゃるのなら、仕方がありませんね。今回は矛を収めて差し上げましょう。次回は絶対に答えられないような難題をご用意しますから、ご覚悟くださいますように」
陸奥さんは渋い表情でこう言って、ニヤリと笑った。前世の時代劇や戦隊ものの負けた悪役が、撤退する時に発するような負け惜しみの言葉も、この人が言うと、敵も味方も逃げ出すような凄みが加わってしまう。私は顔色を変えないように頑張った。「わしも協力しましょう」「わたしも」などと、松方さんや原さんが恐ろしいことを言っているのが聞こえたけど、全力で無視した。
「さて、用意した議題も終わりましたので、今回はこれで終了としてよろしいでしょうか?」
司会役を務める内閣総理大臣の渋沢さんが、出席者一同に呼びかけた時、
「あの、皆様にご相談したいことがあります」
末席で手を挙げた人がいた。航空大尉の高野さんだ。普段、高野さんが梨花会で自分から発言することはほとんどないので、他の面々がもの珍しそうに彼を見る。その多数の視線を浴びながら、
「実は、養子に入ってくれないか、と故郷から話がありました。その話を是非受けたいと思っているのですが……」
高野さんは堂々と言った。
(うわ、真正面から行ったよ……。高野さんらしいけれど……)
ハラハラしながら様子を見守っていると、
「何?」
高野さんの上官である児玉さんが、軽く眼を瞠った。
「故郷からの話か。婿養子に入るのか?」
「いえ、児玉閣下、婿養子に入るということではなく、女戸主の養子になって、家督を相続してくれないか、という話なのです」
落ち着いた声で上官に答える高野さんに、
「そうか。どんな家から話が来たのだ?」
私の向かいの席に座っている兄が尋ねた。
「はい」
高野さんは椅子から立ち上がって最敬礼すると、
「俺の故郷は、新潟県の長岡です。旧藩時代、故郷を治めた長岡藩、その家老職を代々務めていた山本家の家督を継いでくれないか……という話です」
頭を下げたまま、しっかりした声で言った。
すると、椅子が動く音がした。宮内大臣の山縣さんが立ち上がったのだ。何か発言をするのだろうか、と思ったけれど、山縣さんは黙ったまま、末席の高野さんの方に向かって歩いて行く。山縣さんの靴音だけが、コツ、コツと、静まり返った会議室の中に響いていた。
(山縣さん……何をする気?)
戊辰の役での長岡の戦い……それは山縣さんにとって、辛い記憶を伴うものだ、というのは、容易に推測できる。友を失い、更に、一度奪った長岡城を奪い返されるという失態を演じたのだから。長岡、という言葉を聞いて、当時抱いた恨みや悲しみが、山縣さんの心の中に蘇ったとしても不思議ではない。
(もし、高野さんを傷つけるつもりなら、山縣さんを止めないと……!)
山縣さんが高野さんのすぐそばに立ち、私が椅子から腰を浮かしかけたその時、
「是非……是非、継いでくれ、高野」
山縣さんは、高野さんの右手を両手で掴んだ。
「山縣閣下……」
呆然と突っ立っている高野さんに、
「わしがあの時、小千谷で河井と直接会えていたら……河井の言葉を、直接聞けていたならば……長岡での戦いは、起こらなかったかもしれぬ」
山縣さんはうつむきながら、言葉をこぼし始めた。
「そして、わしは、長岡の武士たちを、わしの友を、死地へと追いやったのだ。武士である限り、戦わなければならないが、必要のない戦をして、人命を散らす、ことは、避けなければ、ならぬ。だから……あの戦のことが、ずっと、ずっと、気に掛かっていた……」
途切れそうになる声を、山縣さんは懸命につなげていた。涙を流しているのは、誰の目にも明らかだった。
「長岡藩の家老の山本家と言えば、維新の時に逆賊とされて、廃絶になった家だろう。あの戦いさえなければ、廃絶することは無かったのだ……。高野、わしが言える筋合ではないが、山本の家を継いで、当主として、どうか、今後とも、国に、尽くして、欲しい……」
山縣さんの言葉が、涙で完全にかき消されてしまった時、
「俺からも頼む、高野」
枢密院議長の黒田さんも、椅子から立ち上がっていた。
「あの戦い……俺たちも苦しかったが、相手も苦しかったはずだ。だが、もはや、敵と味方に分かれる時ではない。俺たちは力を合わせて、この日本のために力を尽くし、日本をより良くしていかなければならないのだ。……だから高野、どうか、山本家を継いで欲しい。そして、長岡の士族として、堂々と振る舞ってほしい。これが俺の願いじゃ」
「黒田閣下……」
高野さんは状況を飲み込めないのか、呆けたような顔で、会議室を見回していた。そんな彼に向かって、西園寺さんや山田さん、大山さん、西郷さん、山本さん、桂さん、児玉さん……戊辰の役に参加した梨花会の面々は、黙って頷いている。そして、原さんも、目を涙で真っ赤にしながら、高野さんにジッと視線を注いでいた。
と、
「高野」
上座から、お父様の重々しい声が降った。高野さんは目を見開くと、慌ててお父様に最敬礼した。
「山本家を継いで、今後とも、国家のために励め」
高野さんに向かってこう言ったお父様は、続いて一同を見渡し、
「他の皆も、高野が良く国家に尽くせるよう、助けよ。よいな」
と命じた。
(良かった……)
お父様に頭を深く下げながら、私はホッとしていた。
戊辰の役から50年近く……年月を経て、新政府軍として戦った面々の心境も変化していたのだ。目の前に立つ、自分の大切な人たちを傷つけた敵をただ恨むのではなく、自分たちが巻き込まれた悲劇を2度と繰り返さないよう、かつての敵味方で協力するという方向に。そうでなければ、山縣さんたちがあんなことを言うはずがない。
(でも……受けた傷から、まだ立ち上がれない人たちだっている。それに、戊辰以来の戦いで、お父様を大切に思いながらも、戦って亡くなったたちがいるのは変わらない……。亡くなった方々にお礼を申し上げて、そのご冥福を祈ること。傷ついた人たちの回復を何らかの形で手助けすること……それは私の仕事だ)
そう考えながら微笑した私は、
(そう言えば……高野さんの名字が変わったら、どう呼べばいいのかしら?)
ふと、それが気になってしまった。“五十六さん”と下の名前で呼んでしまうのが、一番楽ではあるけれど、そうなると、国軍大臣の山本さんも下の名前で呼ばなければならないかもしれない。
(でも、“五十六さん”“権兵衛さん”と呼ぶと、他の面々も“下の名前で呼んでくれ”って言って来るかもしれないなぁ……。高野さんを“山本大尉”、山本さんを“山本閣下”って呼ぶ手はあるけれど、高野さんがものすごく偉くなったら、どうすればいいのかしら……)
緊張が解け、穏やかな雰囲気となった会議室。お父様とお母様が去り、梨花会の面々が「嫁はどうするのだ?」「もしいい女がいなければ紹介するぞ!」と高野さんに群がる横で、私は1人、細かいことで悩んでいたのだった。




