“医科研”と“産技研”
※タイトルを盛大にミスしていたので直しました……(2019年1月12日)
「な、何と……」
1891(明治24)年6月13日、土曜日。
ベルツ先生の講義の前、“30分だけ”ということで花御殿にやって来た山縣さんが、私の言葉に目を丸くした。
「児玉と山本と桂を……“梨花会”に入れたいと……」
「はい」
私は微笑んだ。
「私、少し、“史実”のことを思い出したんです」
原さんが覚えていた“史実”の知識は、私が思い出したことにして皆に伝える――。
これは、先日、原さんと大山さんと話した時に、3人で取り決めたことだ。
――あなたが我々に共有されていない“史実”の知識を話せば、不審に思われるだろう。そうなった場合の結末は……あなたなら想像が付くと思うが?
大山さんが原さんにこう言うと、原さんは黙って頷いた。
原さんは、現在の梨花会のメンバーの名前を聞いた後、
――西園寺さんと陸奥先生は、今、海外にいらっしゃるから仕方ないとして……なぜ、あの3人が入っていないのですか!
と叫んだ。
――あの3人?
私が首を傾げると、原さんは、
――児玉源太郎、山本権兵衛、桂太郎ですよ!
興奮したのか、テーブルを右手で叩いた。
――ええと、児玉さんは、今の参謀本部長よね?山本さんって……。
――国軍次官です。
――でも、あの人“ごんのひょうえ”ですよね?“ごんべえ”じゃなくて……。
私がこう言うと、
――同じです。
原さんは力強く答えた。
――へ?
――“ごんべえ”とも“ごんのひょうえ”とも、山本閣下は名乗られておりました。ただ、正式な場面では“ごんのひょうえ”と名乗られていたかと思います。
(ってことは……)
――“史実”で二度総理大臣をやった山本権兵衛は、今の国軍次官で正解なの?!
私は頭を抱えた。
道理で、彼と初めて会った時、何か変な感じがしたのだ。もしかしたら“史実”の山本権兵衛ではないか、と思ったのだけれど、“ごんのひょうえ”と名乗られてしまったので、別人だと思ってしまった。
(かっこつけて正式な名乗りをあげるなよ……ややこしいじゃないか……)
まあ、しょうがない。これは気が付かなかった私が悪い。
――でも、桂さんは?あの人、あなたと“史実”で対立していなかった?
――確かにそういうこともありました。しかし、“史実”と現在とは違います。国軍合同も、桂の力無くしては有り得なかったと聞きます。あの調整力と政治力、そして人心を掌握する力は得難い。“梨花会”の大きな力になりましょう。
原さんの言葉に、大山さんが黙って頷いた。
――児玉さんは?山田さんが、“史実”での日露戦争の陸軍は、恐らく児玉さんが取り仕切っていただろうって言ってたけれど……。
――それもそうなのですが、児玉閣下は、作戦立案のみならず、政治でも手腕を発揮出来る方。台湾総督としては、行政を後藤新平に任せて見事に統治し、それと兼任して、陸軍大臣や内務大臣の職務もこなされた。台湾総督、内相と同時に、文部大臣も兼任していたこともあったような……。
原さんの言葉に、
――な、なにそれ!?
私は驚きの声をあげた。あの業務範囲の広い内務大臣と、更に台湾総督と文部大臣まで兼任していたなんて……。
――とんでもなく有能な人ね……。
私がため息をつくと、
――長生きされていれば、間違いなく総理になったでしょう。
と原さんが言った。
――長生き?あの……いつ亡くなったの?
――日露戦争が終わった翌年です。確か、脳溢血で就寝中に急逝したと……。
――要するに、突然死だったわけね……。
私は腕を組んだ。本当に脳溢血だったかどうか、おそらく病理解剖などしていないのだろうから、真の死因は分からない。ただ、突然死を起こすような病気のいくつか……例えば、脳梗塞や脳出血、大動脈解離などは、高血圧が発症の危険度を上げる。
――とりあえず、今度児玉さんに会ったら、血圧を測ってみようかしら。もし血圧が高ければ、食事療法と運動療法をやってもらえば、寿命を伸ばせるかも……。
私の言葉に、原さんは度肝を抜かれたようで、口をパクパクさせていた。血圧と動脈硬化の関係について、簡単に説明したら、顔が青ざめていたけれど……。
「念のためにお伺いしますが、何故、その3人を“梨花会”に入れたいと思われました?」
山縣さんの隣に座った西郷さんが、私に尋ねる。
(あれ?)
全員、国軍の軍人さんだし、児玉さんと山本さんのことを、西郷さんは“仕事ができる”と言っていたから、西郷さんなら無条件で賛成するだろうと思ったけれど、そうではないのか。ただ、その思いは顔に出さないように頑張りながら、私は微笑した。
「国軍合同は、あの3人がいなければできなかったと聞いています。それに、“史実”では、児玉さんは台湾総督として功績を残したのを思い出しました。植民地になったばかりの領土で実績を出すなんて、そうそう出来ることではない。日露戦争の陸軍の参謀総長だったのも思い出しました。彼の作戦無くしては、日本軍は戦えなかったはずよ」
「山本は?」
「あの人、“ごんのひょうえ”って最初に名乗ったから、分からなかったんです。でも、見覚えがあると思っていたのだけれど、最近、“ごんべえ”とも名乗っているという話を聞いたから、彼が、“史実”で総理に2回なった山本権兵衛だと確信しました。“史実”でも、彼は海軍改革をして実績をあげています。この時の流れの中でも、国軍合同を果たし、軍隊を改革していますね」
「桂は?増宮さまは、“史実”では、桂が藩閥政治を保たせるように動いたと言って、否定的なご評価だったように思いますが……」
山縣さんが尋ねる。
「山縣さん、確かにそうかもしれない。でも、冷静に見れば、彼が優れた政治力を発揮したからこそ、桂園時代が続き、立憲政治の確立、そして明治時代の安定に寄与したと言える。それに、国軍合同に、桂さんの調整力が凄く役立ったと聞きました。今と“史実”とは違います。私も、自分の思い込みから脱却して、冷静に、公平に歴史を見なければいけません。それから、今、桂さんは愛知と岐阜の国軍の責任者よね?濃尾地震が発生したときに、最初の実働部隊になるのは桂さんの部隊です。あらかじめ地震が起こると分かっていた方が、円滑に援助ができるんじゃないかしら?」
山縣さんが眼を見開いた。
「増宮さま……あなたは……」
「どうしたの、山縣さん?私、何かおかしなことを言った?」
「いえ、増宮さまの良さを、改めて確認いたしました」
山縣さんが恭しく頭を下げる。西郷さんは、しきりに頷いていたけれど、
「では、増宮さま、先日俺が礼を申し上げた理由は、お分かりになりますか?」
と、ニヤニヤしながら言った。
「えー……」
私は腕を組んだ。「確か、あの時、戦艦を2隻建造する予算を、次の国会に提出するという話をしていましたよね……」
「はい、さようでございます」
「ええと……」
確か、“史実”で、軍艦の予算が国会を通らなくて、天皇が宮廷費の削減、そして政府役人の俸給カットと引き換えに、軍艦予算を成立させろという詔勅を下したという出来事が、あと2年くらい先にあった気がする。その話は、“授業”でも少しした。
「戦艦を作るのには、どの位かは知らないけれど、お金がいるわよね。“史実”でも、お金がかかり過ぎるから、建造の予算が国会を通過しなかった。けれど今回は、私の発案で、役人の人員整理が始まったから、解雇された人の人件費が浮く。その分を軍艦の建造費に回せるという理屈が使えるから、議会の反対も受けにくい。“史実”と違って、軍艦の予算が国会を通る見込みが高いから、西郷さんは私にお礼を言った、ということ?」
言葉を切ったけれど、
「……」
西郷さんは答えてくれなかった。
「……」
(あれ?)
私は口を結んで、西郷さんの答えを待つ。
「……」
西郷さんは答えてくれない。
「……」
(おかしいな……間違ったこと、言ったのかな?)
私は西郷さんを見つめ続ける。
「……」
「……」
(ちょっと!何とか言ってよ!!)
「……ほぼ正解ですな」
西郷さんが、ようやく口を開いてくれて、
「ぷ、ぷはあ……」
私は大きく息を吐いた。
溜め過ぎだ。ファイナルアンサーとでも言えばよかったのだろうか?
「もう少し詳しく議会のことに触れますと、“史実”と違い、衆議院では立憲改進党が与党になっております。その賛成多数も得られますし、役人の人員整理もできたので、立憲自由党の主張する“民力休養”にもなっています。従って、立憲自由党も我々には反論しにくい。貴族院は無論賛成するでしょうな。ですから、余計に国会で予算が成立する公算が高いのですよ」
西郷さんがニヤリとした。「しかし、面白かったですな」
「は?」
「増宮さまの百面相が」
「ちょ……西郷さん?!」
私は思わず立ち上がった。
「私、そんな面白い顔をしてました?!」
「ええ、とても」
こう答えたのは、私の隣に座っていた大山さんだった。
(?!)
「脇から見ていて、大変お可愛らしい……」
大山さんはそう言って、くす、と小さく笑う。その微笑が、“まだまだですね”と私に言っているようだった。
(く、悔しい……)
思っていることが、顔に出てしまっていたようだ。私は咳払いをして、わざとしかめっ面を作った。
「ちなみに西郷さん、戦艦1隻って、どのくらいのお値段なの?」
そう言ってから、私は口を右手で押さえた。軍艦の値段って、国家機密なんじゃないかな?
「およそ1000万円ですな」
さらっと西郷さんが答えたのにも驚いたけれど、そのお値段にも私は驚いてしまった。
「それって、国家予算の約8分の1?」
前世で、国防費が、国家予算のどの位の割合を占めていたか覚えていないけれど、いくら何でも高すぎやしないか?
「ぼったくられてるんじゃないの?」
「ぼった……?」
山縣さんが首を傾げる。
「ごめんなさい。日本語に、まだない言葉なのかな?えーと、法外な値段なんじゃないの、それって?この時代だから、イギリスあたりに建造してもらっているんだろうけれど、イギリスが、こっちの足元を見て、多額の金銭を吹っかけてきてるんじゃ……」
ん?
「……なるほど、その可能性もありますな。精査しておきましょう」
西郷さんが頷いた。
と、
「増宮さま、ベルツ先生がいらっしゃいましたよ」
花松さんが、居間の外から私に声を掛けた。
「おっと、では、我々は失礼いたしましょう。増宮さま、また参りますぞ」
山縣さんと西郷さんが私に一礼して、居間から出ていく。
(何か変……?)
今、私が“法外な値段”と言った時、山縣さんと西郷さんと大山さんが、一瞬顔を見合わせて、微かに頷き合ったような気がする。
(気のせい……だよね?)
「増宮殿下、どうなさいました?」
気が付くと、ベルツ先生が目の前にいた。私の顔を見たのか、心配そうな表情だ。
「ああ、ごめんなさい、ベルツ先生」
私は微笑して、手を振った。「ちょっと、考え事をしてしまって……じゃあ、今日も始めましょうか。お願いします」
私はベルツ先生に一礼した。
最近の私とベルツ先生の話題は、脚気実験のことが中心だ。
すでに、第1弾の実験に関しては、森先生が論文を書き上げ、“ドイツ医事週報”に先月の半ばに投稿した。
「順調にいけば、8月末か9月の頭には、掲載された号が日本に届くのではないでしょうか」
とベルツ先生は言う。
そして、第2弾の実験、ニワトリを白米だけで育てて脚気にしておいてから、そのニワトリを2群に分けて、1群は玄米、もう1群は玄米の炭水化物・タンパク質・脂質と同じ組成にした飼料で育てて、経過を観察する……という実験も、順調に進んでいた。私が京都に行って帰ってきたころに、脚気になったニワトリを、森先生が2群に分け、飼料を違えて経過を観察し始めていた。
「やはり、殿下の言った通り、玄米で育てているニワトリは脚気が治りましたが、配合飼料の方は、脚気が改善するニワトリが余りおりませんね」
「まあ、配合飼料の材料が、米粉と牛肉ですからね。牛肉には、同じ重さの米ぬかほど、ビタミンB1は含まれていないはずなので」
ベルツ先生の言葉に、私は微笑した。わざと、ビタミンB1の量の少ない配合飼料を作っているのだ。結果が出ないとおかしいだろう。
「後はこれで、森先生がどう解釈するかですけれど……」
「水曜日に、たまたま森君と会う機会がありました。“たんぱく質の量が脚気発症に関わっているという説も、この実験結果で否定される。未知の栄養素が、玄米、特に米ぬかに含まれていると考えるしかない”……そう言っていましたね」
ベルツ先生がそう言って笑った。
(おおっ!)
「やった!これで、ビタミンの本格的な研究を進める、素晴らしい根拠が出来ましたね!」
私も微笑した。
「となると、殿下、どこで研究を進められるのですか?医科学研究所ですか?産業技術研究所ですか?」
「そうですねえ……“医科研”かしら」
医学、そしてそれに関連する科学技術を発展させるために、国で研究所を作って欲しい。
原さんから“史実”の話を聞いた後、私が大山さんに“陛下にお願いしてほしい”と頼んだのは、まずそのことだった。大津事件の時、“医療やその他の理系分野での研究所を作るときには、出資してほしい”と天皇にお願いしている。話自体はすぐに進みそうだ、と、おととい大山さんが教えてくれた。これから建物の用地を探して、出資者を募っていくことになるだろう。できれば、北里先生が戻るころには建物を完成させて、医科学研究所の初代所長として、北里先生を迎えたいのだけれど。
それと並行して、大山さんには原さんと接触してもらい、原さんの“史実”の記憶の中にある、科学者や医学者の名前と業績を聞き取ってもらっていた。“史実”で学術的に功績を残した人の名前は、私も多少覚えているけれど、原さんが死んだ時点と、私が死んだ時点とでは約100年の違いがある。その100年の間に埋もれてしまった、技術の進歩に絶対に欠かせない業績もあるに違いない。
それから、原さんが暗殺された時点で、医療や科学の技術がどこまで進歩していたかも、大山さんに聞き取ってもらっている。
――原が死んだ時点での医療や科学技術の進展度合いについて、なぜ尋ねる必要があるのですか?
と大山さんに聞かれて、“私が知っているのは技術発展の結果だけで、その出発点や発展の過程がスッポリ抜けているから”と答えた。例えば、今の電話機は、小さなカバンぐらいの大きさがある。通じているのも東京と横浜だけだ。一方、前世の私が生きていた時代、固定の電話機は今のものよりもっと小さい。スマホなんて手のひらサイズだし、スマートウォッチなんていう代物もあったはずだ。それに、通話できる範囲は今よりもっと広い。
――今の電話と、私が生きていた時代の電話は、あまりにも違いすぎる。その間に、いくつかの形があるはずだけど、私はそれを知らないから、適切な技術発展のさせ方がわからない。原さんの記憶は、その助け船になる。もちろん、情報の真偽も含めて、慎重に考えないといけないけど、まず原さんの時代の技術レベルに到達することを目指して、そこから私の時代の技術レベルを目指せば、大体の場合は、正しい道筋を踏み外さずに、技術を発展させられると思う。余計な試行錯誤を少しでも省ければ、技術発展が“史実”より早くできるんじゃないかな?
私の言葉を聞いた大山さんは、軽く眼を見開いていたけれど……。
「しかし、鉛白粉のことは驚きました」
ベルツ先生がため息をついた。
「先年、天覧歌舞伎の際に、役者の一人が、鉛の害で手足の震えが収まらなくなったと聞きましたが、まさかそれが乳幼児でも起こるとは……」
「乳幼児だから起こりやすいんです、ベルツ先生。公害病の話の時にも、説明しましたけれど」
私は重々しく言った。
“史実”で私の命を奪った、鉛の含まれた白粉。
原さんから話を聞いた後、全面的に廃止するように、大山さんとベルツ先生にお願いした。
しかも、白粉には、鉛だけではなく、水銀が含まれたものがあると聞いたので、それも禁止してもらうように頼んだ。
胎児や乳幼児は、毒物の致死量が、一般的には成人より少ない。そんな脆弱な存在に、白粉を通じて、鉛や水銀が蓄積してしまうなんて……考えるだけで恐ろしい。
――大山さん、ベルツ先生、もし陛下が、しきたりがどうこうおっしゃって、鉛や水銀を含んだ白粉撤廃を渋ったら、私が陛下に直談判する。害になるしきたりは、この私がぶっ壊すから!
こう私が二人に叫んだのが、先週の土曜日のことだった。
「で、どうですか?私が出ていかないといけませんか、ベルツ先生?」
「大丈夫です、殿下。殿下のご要望通り、鉛や水銀の含まれた白粉は製造販売を禁止せよと、陛下が黒田総理と山縣内相に命じられました。宮中ではすでに、鉛と水銀の含まれる白粉を撤廃したそうです」
ベルツ先生の言葉に、
「よしっ!」
私は小さくガッツポーズを作った。
原さんからは、数年後の“史実”で、私の弟と妹が一人ずつ、“史実”の私と同じように、鉛中毒による脳膜炎で亡くなると聞いた。もちろん、他の原因で亡くなる可能性もあるけれど、“史実”で1歳にならないうちに死んでいたはずの私が、今こうして元気でいるのだ。鉛中毒が無ければ、無事に成人する可能性は十分にある。
「あとは、鉛製品をなるべく減らさないと。鉛は水道管にも使われると聞きました。水の中に鉛が溶け出して、それも鉛中毒を起こす可能性もあります。変えるとなると……コンクリートとかビニールパイプなのかな……」
「となると、それは“産技研”の職分でしょうか」
大山さんが言う。
「そうですね、そうなると、プラスチックの合成とかも考えていかないといけないし……」
私とベルツ先生と大山さんの話は、尽きることが無かった。
※「ぼったくる」とは米騒動の直前に出された“暴利取締令”(正式には、“暴利を目的とする売買の取締に関する件”。大正6年9月1日の農商務省令第20号)の“暴利”が語源とのことです。従って、作中世界(明治24年)では、まだない事になります。
そして、ベルツ先生の言った天覧歌舞伎は1887(明治20)年に開催されました。「勧進帳」の義経役だった中村福助(のちの5代目中村歌右衛門)の手足の震えが止まらなくなったそうです。ちなみに、小児での“脳膜炎”が鉛中毒であることが判明したのは、1924年、平井毓太郎先生の報告によります。
実際の流れでは、1900(明治33)年4月17日の内務省令第17号で、鉛を含む白粉の販売が禁止、最終的に製造も禁止されるのは1935(昭和10)年末を待たなければなりません。(出典:昭和9年内務省令第35号)ちなみに、明治大正時代の女性の頭髪では、現代女性の数百倍という鉛が検出されるとのことです。(出典「19~20世紀にわが国で使用された含鉛おしろいに関する研究」)
さて、これで章子さま周辺での死亡フラグが二人分、折れたことになりますが……。




