鞍馬宮さまの嫁取り(1)
※章タイトルを変更しました。(2022年4月22日)
1914(明治47)年7月19日日曜日午前9時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「鞍馬宮殿下、航空士官学校編入試験合格、おめでとうございます」
薄い灰色の背広服を着た栽仁殿下は、前に座っている私の異母弟・鞍馬宮輝仁さまに一礼した。カーキ色の軍服に鳶色の腕章を巻いた輝仁さまは、先月12日と13日の2日間にわたり、航空士官学校の編入試験を受けた。その結果、輝仁さまは昨日、3人の合格者の中の1人に選ばれたのだ。
「やっと、夢に向かって、1歩踏み出せた」
そう言った輝仁さまは、顔に笑みを浮かべる。青山御殿で私と一緒に暮らし始めた時はまだ10歳にもなっていなかった、私のたった1人の弟は、精悍な顔立ちの青年皇族へと成長した。
「もちろん、これで終わりじゃない。これからも、1人前の航空士官を目指して頑張るよ。……でも、お礼は言わせて欲しいんだ。栽仁兄さまも、章姉上も、俺が航空をやりたいって思った小さいころから、俺に勉強を教えてくれた。2人とも、本当にありがとう」
「輝仁さまがくじけずに、努力を続けたからだよ」
群青色の和服を着た私は、弟に微笑んだ。「本当のことを言うと、4年前に幼年学校から航空士官学校に進学できなかった時は、輝仁さまがくじけてしまわないかしらって心配していたの。でも、あなたはそれでもめげずに頑張って、技術士官学校も実力で首席卒業して、技術士官としてきちんと働きながら、編入試験に合格した。私はあなたのこと、姉として誇りに思うよ、輝仁さま」
「普通の士官より困難な道を、鞍馬宮殿下は進んでこられました。そして、見事に目的を達成された。とても素晴らしいことだと思います」
私に続いて、栽仁殿下がこう言うと、
「栽仁兄さまと章姉上にそんなことを言われると、照れるなぁ」
輝仁さまは苦笑する。そして、
「……ああ、そうだ。栽仁兄さま、聞きたいことがあるんです」
彼は背筋を伸ばし、とても真面目な表情で栽仁殿下に向き直った。
「何でしょうか」
栽仁殿下が首を傾げると、
「栽仁兄さまが、章姉上との結婚をお父様に直訴した時、どういう状況だったかを聞きたいんです」
……弟の口から、とんでもない質問が飛び出した。私は思わず目を剥いてしまった。
「ああ、あの時ですね」
栽仁殿下は微笑すると、輝仁さまに説明を始めた。
「……あの頃、章子さんの夫が誰になるかは、まだ発表されていませんでした。僕は章子さんと結婚して、章子さんをそばで一生守りたいと思っていましたけれど、僕だけではなくて、僕と年の近い皇族たちも、章子さんと結婚したいと思っていました」
「成久兄さまと輝久兄さまですね」
「そうです。それに、鳩彦と稔彦も、章子さんと結婚したいと思っていたんです。ところが、海兵士官学校の2年生だった時、僕は虫垂炎になって、たまたま出張で江田島に居合わせた章子さんに手術をしてもらったのですが、その別れ際、章子さんがとても辛そうな表情をしたのです。……顔は笑っているんですよ?この上もない奇麗な笑顔だったのに、その下で、この世のすべてに別れを告げているような……そんな表情でした。それでもう、僕は我慢が出来なくなってしまったのです。一刻も早く、章子さんをそばで守らないといけない、そう思って……って、章子さん?」
「あ……朝っぱらから、なんて話を……」
私は栽仁殿下の隣で、真っ赤になってしまった顔を両手で覆ってうつむいていた。もし、栽仁殿下が、いつもの“おまじない”を掛けていてくれなかったら、脳細胞がとろけそうな熱の中で気を失ってしまっていたかもしれない。
「大丈夫、章子さん?耳が真っ赤だよ?」
「だ、大丈夫じゃないに、決まっているでしょ……」
優しく問いかける夫に、私はようやく答えた。
「うーん、困ったな。これから、僕があの頃から、どれだけ章子さんのことを想っていたか、鞍馬宮殿下に話さないといけないんだけど」
「は、話さないでよ!恥ずかしいし……心臓が止まるから、やめて!」
わざとらしく胸の前で両腕を組んだ栽仁殿下に、私は必死の思いで言い返す。
「相変わらず奥手だな、章姉上は」
私の様子を見た輝仁さまは、呆れた口調で言った。
「これでも、良くなりましたよ。結婚前だったら、章子さん、気を失って倒れていますから」
こう言いながら組んだ腕を解くと、栽仁殿下は私の背中に腕を回す。背中に触れた夫の腕から温もりを感じると、あらぬ方向へ全速力で駆けていた私の心は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「……話を戻しますが、天皇陛下への直訴は、拍子抜けするくらい、とても和やかに終わりました」
私がおとなしくなると、栽仁殿下は輝仁さまへの説明を再開した。
「実は、天皇陛下は、僕が海兵士官になったら、章子さんを僕に嫁がせるつもりでおられたのだそうです。ただ、あの当時、僕はまだ士官学生でしたから、僕や章子さんにはもちろん、他の方にも伏せておられたそうで……」
本当の事情は、少し違う。もし、私に栽仁殿下と結婚するように伝えた後で、“史実”と同じように栽仁殿下が亡くなってしまったら、私が心に大きな痛手を負ってしまう……だから伏せていた、とお父様は私に言った。けれど、それは栽仁殿下が知るべきことではないし、もちろん、輝仁さまにも知られてはいけないことだ。私は顔をうつむかせたまま、栽仁殿下の説明を聞いていた。
「そっかぁ……お父様はもう、栽仁兄さまと章姉上を結婚させようと思っていたのか。じゃあ、難しいかなぁ……でも、諦めたくないしなぁ……」
栽仁殿下の説明を聞いた輝仁さまは、何やらブツブツと呟いている。それを耳ざとく聞きつけた栽仁殿下は、
「僕が天皇陛下に結婚について直訴した時の話をお聞きになって、“諦めたくない”とおっしゃるということは……鞍馬宮殿下、もしかしたら、ご結婚のお相手について、天皇陛下に直訴なさるおつもりですか?」
微笑みながら輝仁さまに尋ねた。
「?!」
私が目を丸くした瞬間、輝仁さまは黙って首を縦に振った。
「差し支えなければ、相手はどなたなのか、教えていただいてもよろしいでしょうか?」
栽仁殿下の重ねての質問に、
「三島子爵の長女の、蝶子さんです」
輝仁さまはしっかりした声で答える。余りのことに、私は前にあるテーブルに、勢いよく突っ伏してしまった。
「おい、章姉上、大丈夫か?」
輝仁さまが、椅子から腰を浮かせながら私に声を掛ける。
「章子さん?!」
栽仁殿下も、私の身体を後ろから慌てて抱え上げた。
「章子さん、どこか具合が悪いの?どこか痛い?それとも、気持ち悪い?」
「ち、違うっ……身体の具合が、悪いわけじゃなくて……驚いただけよ、とても……」
助け起こされた私は、何とか夫にこう答えると、
「て……輝仁さまっ、あなた、自分が何を言ったか、分かっているの?!」
とんでもない発言をした弟に、顔を真っ赤にしたまま向き直った。
「蝶子ちゃんよ?!あなたと罵り合っていた蝶子ちゃんだよ?!か、彼女と結婚したいって……も、もも、もしかして、そういう趣味なの?!い、いや、それなら、私に止める権利はないけれど、お父様とお母様は反対するだろうし、彼女に毎日輝仁さまが罵られたら、宮中どころか、華族たちの間でもドMだって噂になって……」
熱くなって回転を止めそうな脳みそを何とか動かしながら、私が弟に言い募っていると、
「章子さん、ちょっとごめんね」
後ろから回されていた栽仁殿下の腕が身体から外れた。次の瞬間、上半身が軽く回され、私の顔は、夫のたくましい胸板に押し付けられていた。
「梨花さん、少し落ち着こうか。話が妙な方向に行っているから」
栽仁殿下は抱き寄せた私に囁くと、
「……やはり、そう思われるようになりましたか。彼女のどんなところに惹かれたのですか?」
顔を上げ、輝仁さまに穏やかな口調で尋ねた。
「……去年の秋に章姉上が開いてくれた園遊会の後も、俺、お母様に言われて、色々な女性とお見合いをしました」
輝仁さまは顔を軽くしかめながら、自分の思いを語り始めた。
「華頂宮の恭子殿下、閑院宮の恭子殿下に茂子殿下に季子殿下……皇族や公爵・侯爵で、俺と年が釣り合う御令嬢には全員対面したし、華族女学校の運動会にも微行で行かされて、御令嬢の品定めをさせられました。でも……みんな、何かが違うんです」
「ち……違う?」
私がオウム返しのように問い返すと、
「会った女性、全員、生きている人間のような感じがしなかった」
弟は私に、暗い声でこう言った。
「みんな、奇麗だし、可愛かったよ。でも、俺が話しかけても、黙って微笑んでいるだけなんだ。たまに反応してくれても、お行儀のいい、ありきたりなことを少し話すだけ。だから俺、人形に向かって話をしている気がして苦しかった。でも、蝶子さんは違う。蝶子さんは生き生きしているし、色々な反応をしてくれる」
「で、でも、それ……蝶子ちゃん、話している相手が輝仁さまだって知らなかったからだよ……」
栽仁殿下に抱き寄せられ、だんだん冷静にものが考えられるようになってきた私は、輝仁さまに指摘した。
「確かに、章姉上の言う通りかもしれない。俺が皇族だって知ってしまったから、もう彼女は、あんな風に接してくれないかもしれない。でも、それなら俺は、彼女が心を開いて、ありのままの自分で俺にぶつかってくれるようになるのを待つよ。それで、俺、絶対彼女を幸せにするんだ」
「……」
もし、蝶子ちゃんが輝仁さまと本当に結婚すれば、蝶子ちゃんは皇族や華族から、好奇の眼差しを浴びることになるだろう。お転婆な蝶子ちゃんを、悪く言い立てる人間も出てくることは想像に難くない。そんな視線や、悪意のある人間から、蝶子ちゃんをどう守るのか……。問いただしておくべきことはたくさんあったのだろうけれど、輝仁さまの言葉が耳に届いた瞬間、私の思考の中に芽生えかけていた疑問は、どこかに消え去ってしまった。
「いいのではないでしょうか」
私の頭を優しく撫でながら、栽仁殿下が言った。「天皇陛下が鞍馬宮殿下のご結婚について、どうお考えになっているかは分かりません。鞍馬宮殿下のご希望とは違うことを考えていらっしゃる可能性もあります。ですが、ご自分の希望を天皇陛下におっしゃらなければ、おそらく殿下は一生後悔なさることになります。僕は章子さんとの結婚を天皇陛下に直訴した時、似たようなことを考えていました」
「……なるほど。やらない後悔より、やる後悔ってことですね、栽仁兄さま」
両方の拳を握った輝仁さまは、力強い声で言った。
「決心がつきました。これから、お父様に蝶子さんとのこと、直訴してきます」
「い、今から?!」
驚く私に、
「鉄は熱いうちに打て、って言うだろ」
輝仁さまはサラっと言った。「それに、今日はこれから、お父様とお母様に会って、航空士官学校の編入試験に合格したって報告するんだ。だから、その時に一緒に直訴する」
「あ、そ……そうなのね……」
自分のことではないのに、胸がドキドキしてしまう。どんな反応をすればいいかわからなくなってしまった私の頭を、栽仁殿下は再び撫でた。
「吉報を待っております、殿下」
「はい、頑張ります!」
栽仁殿下の呼びかけに、輝仁さまは鼻息荒く答えたのだった。
それから1週間後、7月26日日曜日の朝。
「結婚の件、ダメだった」
盛岡町邸の応接間には、うなだれている軍服姿の輝仁さまがいた。
「あー……やっぱり、お父様とお母様に反対されたの?」
昨夜、予想される結果を栽仁殿下と話して、ある程度のシミュレーションはしたから、先週のように取り乱すことはない。比較的冷静に質問できた私に、
「いや、お父様とお母様は許してくださったんだ。お父様は“お前にはあのような元気な娘が合っている”って言ってくださったし、お母様も、“少し元気が良すぎる気がいたしますが、増宮さんもご結婚の前はあんな感じでしたし、大丈夫でしょう”って言ってくださった」
輝仁さまからはこんな答えが返ってきた。
「え……?」
首を傾げた私の隣で、
「では、どの段階でダメになってしまったのでしょうか?」
栽仁殿下が冷静に質問する。すると、
「お父様とお母様がそう言ってくださったので、山縣閣下に頼んで、三島子爵に内々に結婚のことを打診してもらったんです。でも、昨日、山縣閣下から、“宮内省の中で、三島子爵の御令嬢を鞍馬宮殿下に嫁がせるのはどうかという話が出ているが……と三島子爵に打診をしたら、ものすごい勢いで辞退されてしまった”と報告があって……」
輝仁さまはそう言って、雨に濡れた子犬のようにうなだれた。
「それは……」
無理はないかもしれない。三島子爵家の当主・彌太郎さんは、昨年の園遊会での事件の際、“爵位を返上致します!”と私に土下座したのだ。私と輝仁さまが必死になだめたので、爵位返上はしなかったけれど、責任は強く感じているだろう。そんなところに、問題を起こした蝶子ちゃんと輝仁さまの結婚話が出たのだから、彌太郎さんはパニックに陥ってしまったのかもしれない。
と、
「でも、俺、諦めたくない!」
輝仁さまが前にあるテーブルの天板を、両手で叩いた。
「俺は蝶子さん以外の女性と結婚したくないよ!お行儀のいい人形と一緒に暮らすなんて、まっぴらごめんだ!」
「んー……輝仁さまの気持ちも分かるけれど……」
先方の、しかもご当主が断ってしまっているのでは、蝶子ちゃんと結婚するのは難しい、私がそう言おうとした瞬間、
「では、三島子爵と鞍馬宮殿下がお話になって、蝶子さんと結婚したいと直接おっしゃってみてはいかがでしょうか」
私の隣に座っている栽仁殿下が、輝仁さまにこう提案した。
「ちょ……ちょっと、栽さん!」
気が動転した私は、夫婦2人きりの時にしか使わない呼び方で栽仁殿下を呼んでしまった。
「それは無理よ!輝仁さまが彌太郎さんに会おうとしたら、彌太郎さん、何か理由を付けて、会うのを徹底的に回避するわ!」
「じゃあ、こっちから三島子爵の家を訪ねたら?」
「な、なんてことを考えつくのよ……」
とんでもない夫の言葉に、私は思わず両腕で頭を抱えた。「そんなことしたら、彌太郎さん、絶対気絶するわ。それに、輝仁さまが彌太郎さんの家に行くってなったら、金子さんを巻き込まないといけないわよ!金子さんが、こんなことを許してくれる訳が……」
「……お許しになる可能性が高いと思いますが」
突然、応接間のドアが開き、私は身を硬くした。応接間の入り口に、黒いフロックコートを着た男性が立っている。現在、広瀬武夫さんと一緒に、大山さんの不在中の代役を務めている秋山真之さんである。
「三島子爵を面会のために呼び出しても、先方は絶対に拒否なさるでしょう。ならば、若宮殿下のおっしゃる通り、こちらから出向けばよいのです。三島子爵を絶対に逃げられない状況に追い込んで、首を縦に振らせましょう」
「ああ、秋山さんがそうおっしゃって下さるのなら心強いです」
妙に積極的な秋山さんに向かって、栽仁殿下が軽く頷いた。
「しかし、三島子爵の屋敷を真正面から訪問しようとすれば、三島子爵は鞍馬宮殿下のご訪問を断り続けるでしょう。ここは、尋常でない手段を使う必要があります。……若宮殿下、妃殿下、ご協力願えませんか?」
「じ、尋常でない手段って……」
私は恐る恐る秋山さんに尋ねた。彼は、国の諜報機関に所属している人間である。その彼が言う“尋常でない手段”……一体、どんなことをするつもりなのだろうか。
(頼むから、ケガ人や死人が出るような手段は使わないで欲しいけれど……)
私がそんなことを考えていると、
「何、ちょっとした偽装でございます」
秋山さんは私に向かって微笑した。
「妃殿下のご要望により、昨年の園遊会以降、中央情報院は三島子爵やそのご家族の動向を監視しております。今こそ、監視を通して集めた資料を活用する時……」
「秋山さん!私、そんなつもりで三島家の監視を頼んだわけではありません!私は、彌太郎さんが蝶子ちゃんの将来を潰してしまったら大変だと思って、それを阻止するために監視を……」
全力でツッコミを入れた私に、
「ええ、それは存じ上げております」
秋山さんは重々しく頷き、
「しかしここは、貴族院議長を3期務められ、議長職に過ぎた力量をお持ちであることを国の内外に知らしめた、不世出の天才、国軍の勝利の女神であらせられる妃殿下の弟君のため、この秋山、一肌脱ぐべき時であると判断いたしました!」
……頬を上気させながら、キッパリと言い放った。
「ひ、……広瀬さん!広瀬さんはいないの?!」
私は秋山さんの相方を求め、視線をさ迷わせた。秋山さんの言動は、明らかにあさっての方向に行ってしまっている。けれど、広瀬さんがいれば、秋山さんの暴走を止めることもできるはずだ。しかし、次の瞬間、私の耳に届いたのは、
「広瀬さん、今日は非番だよ」
栽仁殿下の冷静な声だった。
(そんなああああああああ!!!!!!!!)
再び両腕で頭を抱えた私をよそに、応接間では、輝仁さまと栽仁殿下、そして秋山さんによる密談が行われ、気が付けば、作戦の手はずはすべて決まってしまっていたのだった。




