鬼の霍乱
1914(明治47)年5月2日土曜日午後1時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「ぐはぁ……っ!」
食堂の机に、うめき声を上げながら倒れ込んだのは、皇孫御学問所総裁である伊藤さんだ。伊藤さんの隣では、第5代内閣総理大臣で、現在も貴族院議員を務めている井上さんが、赤くなった左頬を手で押さえていた。その他、宮内大臣の山縣さん、枢密院議長の黒田さん、前内閣総理大臣の陸奥さんなど、食堂では義父と渋沢さんと大山さんを除いた梨花会の面々が、椅子、あるいは床の上に、大山さんの正拳突きや平手打ちを食らって座り込んでいた。
「これで全員かしら」
食堂を見渡しながら尋ねた私に、
「ええ」
大山さんが両手を軽く払いながら、ニッコリ笑って頷いた。
「三条さんは……勘弁しておくか。あの世まで追いかけてぶん殴る訳にもいかないし」
顔をしかめながら呟いた私に、
「くっ……なぜ今更、あのことを蒸し返されるのですか、妃殿下……」
伊藤さんが弱々しい声で質問した。
「その通り。僕たちは既に6年前、大山殿にこの件で脅さ……いや、注意を受けています。そのことについては、大山殿から妃殿下に報告がなされているのでは……」
平手打ちを食らった左の頬を撫でながら抗議する陸奥さんに、
「それはそちらの勝手な思い込みです。大山さんは、あなたたちの覗きの件を、私に報告はしていません。当時の私の精神状態を考慮して」
私は冷たい声で事実を述べた。「だから、大山さんの制裁と私の制裁は別物です。そう思って諦めてください。ああ、ちなみに、お父様たちにも制裁はしましたから、不公平ということもないはずです」
「……本当なのか、山縣さん?」
身体をくの字に折り曲げていた黒田さんが、宮内大臣の山縣さんに尋ねている。
「天皇陛下も皇后陛下も、1週間お茶菓子抜きを言い渡されております。皇太子殿下と皇太子妃殿下もです」
山縣さんは左頬を手で押さえながら、渋い表情で回答する。「しかし、不公平ではないでしょうか。わしは先日、宮中で大山どのに頬を叩かれたのですが、なぜまた今も叩かれたのか……理解に苦しみます」
「くっ……妃殿下!なぜ……なぜ俺まで、殴られなければならないのですか!」
大きな声が聞こえた方を見ると、参謀本部長の斎藤さんが、椅子の背を支えにしながら立ち上がっていた。……みぞおちに大山さんの渾身の突きが入ったはずだけれど、流石現役軍人、なかなかタフである。
「俺は確かに、覗きの現場にはいました。しかし、妃殿下と若宮殿下の逢瀬を垣間見るなどといういかがわしい行為、断じてやっておりません!」
「さ……斎藤閣下のおっしゃる通りです!」
床に転がったままの航空大尉の高野五十六さんが、斎藤さんに続いて発言した。
「俺と斎藤閣下、それから牧野閣下と高橋閣下は無実です!その4人は、覗きのために窓に近寄るようなことはしていません!」
すると、
「妃殿下の昼食時の動向を、物陰に隠れて探っていたのはどこのどいつだ?」
「確かに垣間見てはいないだろうが……お主ら、わしが用意した弁当を食ったじゃろう。ならば、わしらと同罪じゃ」
国軍航空局長の児玉さんと伊藤さんの指摘が、無情にも高野さんに突き刺さる。高野さんは顔を引きつらせて黙り込んでしまった。
「……この人たちを止めなかっただけで、万死に値しますよ」
私は指をポキポキ鳴らしながら高野さんに言った。
「私はね、誰かが一人くらいは覗きを止めてくれると思ったのです。そうしたら、止めることもせず、全員で現場にいただなんて……!」
言い募るうちに、怒りがどんどん湧き上がってくる。この人たちは、私と栽仁殿下の気持ちが通じ合った大切な瞬間を……心の中に大事にしまって、時々そっと取り出して、栽仁殿下と一緒に慈しみたい、そんな大切な光景を盗み見ていたのだ。到底許せるものではない。
「ああ、もう、絶対に許せない!大山さん、この人たちを思う存分叩きのめしていいわ!」
私は隣に立つ大山さんにこう言った。けれど、彼から返事はない。いつもなら、何らかの反応は必ずあるのだけれど……。
「大山さん?」
振り向いた私の目に映ったのは、口を真一文字に引き結んだ大山さんの姿だ。その額には、脂汗が滲んでいる。こんな様子の彼を、今までに見たことがない。
「大山さん?!」
そばに駆け寄った私の呼びかけに、
「梨花さま……」
何とか答えた大山さんは、右の脇腹を押さえてうずくまってしまった。
「高野さん!川野さんの所に行って、大至急、自動車を出すように言ってください!」
大山さんを床に仰向けに寝かせながら大声でお願いすると、高野さんは「はいっ!」と大きな声で返事して、食堂から走って出て行った。
「伊藤さんは千夏さんを捕まえて、私の書斎から診察カバンを持ってくるように頼んでください!」
「かしこまりました!」
伊藤さんが返事したのを確認すると、
「大山さん、服をまくるわよ」
そう断ってからシャツに手を掛け、胸とお腹を露出させた。
「梨花さま、寒いです……」
私に訴える大山さんの声は弱々しい。大山さんのこんな声を聞くのは、20年以上付き合ってきて初めてのことだ。
「ごめんね、大山さん。診察の間だけ我慢して。お腹を触りたいから、両膝を立ててちょうだい」
大山さんは、身体をガタガタ震えさせている。今、気温がそんなに下がっている訳ではない。恐らく、悪寒戦慄を伴い、体温が急上昇しているのだろう。
腹部の触診をして、右上腹部に圧痛があることを確認すると、私は大山さんの右の肋骨弓下に手を当てる。そこでお腹を押しながら、
「大山さん、息を軽く吸って……大きく吐いて……大きく息を吸って……」
大山さんに指示すると、大きく息を吸った時、大山さんが顔をしかめた。
「り、梨花さま……まだ、息を吸わねばなりませんか?痛みが、背中まで響いて……」
「その必要は無いわ。ありがとう、大山さん。あとの診察は、帝大病院に着いてからの方が良さそうだ」
絞り出すような大山さんの声に優しく答えながら、私は彼の着ているものを整えていく。マーフィー徴候が陽性、体温は測れていないけれど、悪寒戦慄を伴って高熱が出ている可能性がある……おそらく、私が想起した疾患で正しいとは思うけれど、他の先生方の意見を仰ぐべきだ。緊急手術をしなければならない可能性もあるのだから。
「では、帝大病院には、僕が連絡しておきましょう」
陸奥さんが冷静な口調で言った。
「どなたか、特に連絡を取りたい医師はいらっしゃいますか、妃殿下?」
「外科の先生ですね」
陸奥さんに答えた時、千夏さんが私の診察カバンを持って食堂に駆けこんだ。彼女に続き、高野さんが「自動車の準備が出来ました!」と叫びながら食堂に入って来る。
「大山さん、別館の新人さんたちに、玄関まで運んでもらうよ。自動車に乗り込むときだけ頑張ってちょうだい」
私の言葉に、大山さんが黙って頷く。その瞬間、別館で大山さんに諜報活動のトレーニングを受けている中央情報院の新人職員たちが、外した戸板を持って食堂にやってきた。彼らの後ろに児玉さんがいる。どうやら、児玉さんが別館に行き、新人職員たちを指揮して搬送の準備をしてくれたようだ。
「千夏さん、私、大山さんに付き添うから、後のことは頼むわ!」
「はいです!」
千夏さんの返事を聞くと、私は診察カバンの取っ手を握り、戸板に乗せられた大山さんのすぐ後ろを歩いて、川野さんが準備してくれた自動車の後部座席に乗り込んだ。
20分余り自動車を走らせて到着した東京帝国大学医科大学付属病院には、外科学教授の近藤次繁先生と内科学教授の三浦謹之助先生が待機していた。たまたま今日は2人とも、夕方まで大学にいる日だったそうだ。大山さんが診察室に入れられ、近藤先生と三浦先生の診察を受けるのを、私は黙って見守った。
「さて、大山閣下の経過を、一番詳しくご存じなのは妃殿下だと思いますので、お尋ねしますが……」
やがて、大山さんの診察を終えた三浦先生が私の前にやって来た。
「ここ最近、大山閣下が体調の異変を訴えられるようなことはございましたか?」
「いいえ」
私は首を左右に振った。「大山さん、持病もないし、体調を崩すことは殆どないのです。今日も朝から大山さんと一緒に過ごしていましたけれど、変わった様子はありませんでした。12時過ぎに一緒にお昼ご飯を食べて、1時ごろ、急にうずくまって……」
「さようでございますか」
私の話を聞いた三浦先生は頷くと、
「現在の大山閣下の体温は38度5分、右季肋部に、背中に放散する痛みを訴えられています。右季肋部痛は深く息を吸うと増強します。恐らく、胆石症に急性胆嚢炎を合併したのだろうと考えておりますが……」
自分の診断を私に教えてくれた。
「やっぱりそうですか」
私が大山さんを診察した時、一番可能性が高いと考えていた疾患だ。けれど、私が先に疾患名を口にしてしまうと、先生方の判断が狂う可能性があるから、敢えて今まで黙っていた。
「ということは、緊急で……」
「開腹はする方がよろしいと考えます」
私の言葉を引き取るように近藤先生が言った。「問題は、医者をあと2人呼び出さないといけないことです。ですから、手術を始めるのに時間はかかってしまいますが……」
「先生、もしよろしければ、私を助手として使ってください」
私は近藤先生に向かって、一歩進み出た。
「3年ほどメスを握っていませんけれど、鈎引きぐらいはできます」
「それは構わないのですが……よろしいのですか?」
近藤先生が心配そうな表情になった。「大山閣下は、妃殿下が父とも師とも思っていらっしゃるお方……そのような、大切なお方の手術に、妃殿下が参加なさるのは、妃殿下にとっては酷な試練では……」
「だからこそです、近藤先生」
私は近藤先生に微笑してみせた。
「私はお父様に手術が必要な場合には、先生と一緒に手術の執刀をしなければなりません。これしきのことを乗り越えられなければ、お父様の手術はできないでしょう。もちろん、大山さんが許可してくれなければ無理ですけれど、許可が出るのであれば、私、大山さんの手術に加わりたいです」
すると、
「大変に良い心掛けと存じます……」
診察用のベッドに仰向けに寝かされた大山さんが、しっかりした口調で言った。
「どうぞ、助手とおっしゃらず、執刀なさってください。梨花さまのメスで死ぬならば、本望でございます」
「何を言うの!」
私は叫びながら、大山さんに歩み寄った。
「あなたを死なせないために、手術をするのよ。あなたは私と一緒に、生きて元気に鹿児島に行くの。あなたの遺骨を抱いて鹿児島に行く、なんてことになったら、私、絶対に許さないから!」
私はベッドの脇に屈むと、大山さんの左手を握った。
「でも、私は3年以上メスを握っていないから、私が執刀すると、ミスをしてしまう可能性が高い。だから、大山さんが元気になる確率を上げるために、執刀は近藤先生にしてもらう。それは許してちょうだい」
「かしこまりました。梨花さまに、お任せいたします……」
涙に濡れた大山さんの瞳を見つめながら、私は彼に微笑んだ。
午後3時、東京帝国大学医科大学付属病院の手術室。
「剪刀!」
滅菌ガウンを着た近藤先生の鋭い声が、手術室内に響く。
「はいっ」
私は看護師さんが出してくれた剪刀を、近藤先生の右手に握らせた。
今は、大山さんの胆嚢摘出術の真っ最中だ。私の時代だと、腹腔鏡を使ってやるのが一般的だけれど、この時代、もちろんそんなものは開発されていない。だから、皮膚を10cm以上切り、お腹を開けて手術をしている。
「あ、あの、教授……妃殿下に対し、その言い方は……」
第2助手についている若い医師が、近藤先生に恐る恐る声を掛けた。そんな彼に、
「いいのです。これが当たり前ですから」
私は努めて穏やかに言った。
「医療において、身分の差は関係ないというのが、私の信条です。ですから、ここで働かせてもらっていたころに、近藤先生に、“せめて手術室では敬語を使わないでください”とお願いしたのです。“冷や冷やする”と手術が終わる度に言われてしまいましたけれど」
第2助手の先生に小声で説明していると、
「無駄口を叩かない!」
近藤先生の注意が私たちに飛んだ。謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、
「胆嚢動脈を同定しました」
近藤先生が再び鋭い声で叫んだ。
(ということは、二重結紮をしてから、胆嚢動脈を切離ね)
「……看護師さん、糸を出してください」
私が先の展開を読んでこう言うと、器械を出してくれていた看護師さんが慌てて結紮用の糸を出した。
……大山さんの胆嚢が摘出され、無事に手術が終わったのは、午後5時のことだった。手術用のユニフォームを脱ぎ、若草色の和服に着替えて大山さんの病室に向かうと、病室の中には見舞客がいた。大山さんの奥さんの捨松さんと、大山さんの従弟の西郷さんである。
「弥助どん、ご主君がいらっしゃったぞ」
西郷さんがのんびり声を掛けると、ベッドに寝かされていた大山さんが目を開けた。口はゴム製の酸素マスクで覆われている。
「大山さんと2人きりにしていただけますか?」
「もちろんでございます」
捨松さんに尋ねると、彼女は私に向かって深々と頭を下げる。捨松さんが西郷さんを促して病室から出て行くと、私はベッドのそばに両膝をつき、大山さんの左手を握った。
「……傷、痛いでしょう?」
「多少は……」
私の声に答えた大山さんは、
「しかし、手術前の痛みに比べれば、はるかに軽い痛みでございます」
と、私の目をしっかり見ながら続けた。
「お腹の創、私が縫合したの。3年ぶりの縫合だったし、相手があなただったから、緊張して手が上手く動かなかったけど、何とかできたわ。現役に戻るまでに、また練習しないとね」
「さようでございましたか……」
大山さんは軽く頷き、
「ところで、俺を苦しめた病気は、胆石による急性胆嚢炎で間違いないのでしょうか?」
と私に訊いた。
「ええ、間違いないわ」
私は大山さんに微笑みを向けた。「取り出した胆嚢を開いてみたら、直径2cmくらいの胆石が3個出てきた。総胆管の方に胆石が出た様子も無かったから、経過が順調なら、2、3週間で退院できるはずよ」
「そうですか……」
「あなたが退院するまで、毎日ここに来るわ。創の状態も確認したいし、子供たちも大山さんに会いたがるだろうから」
「ありがたき、幸せにございます……」
大山さんは私にお礼を言うと、
「しかし、順調でも2、3週間の入院ですか……仕事をどうするか、考えなければなりませんな」
そう言って眉をひそめた。万智子たちの世話や盛岡町邸の切り盛りの他に、大山さんは中央情報院の新人教育もしているのだ。
「金子さんや山縣さんと相談して、そこは何とかするよ。……けれど、大山さん。私、この機会に、あなたに提案したいことがあるの」
「何でございましょうか?」
「退院したら、捨松さんと一緒に佐世保に行ってきたらどうかな?」
「佐世保……でございますか?」
目を軽く瞠った大山さんに、
「高くんの奥さま、もうすぐ臨月でしょう?」
私は穏やかな声で説明を始めた。大山さんの長男・高くんは、佐世保を母港とする駆逐艦・“霞”に乗り組んでいる。だから高くんは、奥さまと一緒に佐世保に住んでいるのだ。
「大山さんにとっては初めての内孫だ。顔を見に行っても、罰は当たらないと思うよ。それに、子供が生まれる時は何かと忙しいから、高くんたちを手伝ってあげる方がいい」
「しかし、梨花さま……出産予定は7月の末でございます。梨花さまのお話によると、俺の退院は、順調なら今月中ということになりますが……」
訝しげな大山さんに、
「だからね、術後のリハビリ期間も兼ねて、長期休暇を取ればいいかなって思うの」
私はニッコリ笑うと、説明を更に加えた。
「手術の直後は横にならないといけない期間があるから、どうしても体力が落ちてしまう。それを戻すにはリハビリが必要よ。だから、高くんのお子さんが生まれるあたりまで、リハビリをして体力を戻して欲しいの。お子さんが生まれて、高くん夫婦の状況が落ち着いたら、東京に戻ればいいんじゃないかな」
私の話を聞いた大山さんは、少し考え込んでいたようだったけれど、やがて、
「それならば、梨花さまのおっしゃる通りにいたしましょうか。院の幹部たちを育てる、良い機会にもなるでしょうし」
そう言って頷いてくれた。
「では、梨花さま。俺が休暇で不在にしている間、梨花さまも上医を目指し、ご修業に励まれますように」
ベッドの上の大山さんは、いつもと同じ、優しく、そして暖かい瞳で、私をじっと見つめる。酸素マスクで隠れて見えないけれど、きっと、口元には微笑みがあるだろう。私はそう思った。
「分かっているわ。でもまずは、あなたの体調の回復に、全力を尽くさないとね」
そう答えた私は大山さんと……父親代わりのような大切な臣下と、しっかり目を合わせたのだった。




