初めての微行(おしのび)(2)
1914(明治47)年4月26日日曜日午前7時10分、皇孫御殿。
「じゃあ、行ってくるよ」
玄関の前には、3日後に満13歳になる兄の長男・迪宮裕仁さまが立っていた。いつも着ている詰襟の制服ではなく、青い着物と袴、それに絣の羽織を身につけている。黒いカバンを持ち、頭に学生帽を被った迪宮さまの姿は、休日に外出するごく一般的な中学生そのものだった。
「いいなぁ、兄上。俺も行きたい」
唇を尖らせたのは、迪宮さまの弟で、学習院初等科6年生の淳宮雍仁さまだ。その隣で、「わたしも行きたい」「ぼくもー」と、兄夫妻の長女の希宮珠子さまと三男の英宮興仁さまが不満げな声を上げる。すると、
「なりません」
迪宮さまたちの輔導主任・乃木希典歩兵中将が厳しい声で淳宮さまたちを叱る。淳宮さまたちは途端にしゅんとなってしまった。
「まぁまぁ、乃木、そんなに怒らんでもいいじゃろ」
迪宮さまの隣、杖を持って立っている老人が、乃木さんをなだめに掛かる。山高帽を被り、ふさふさした白いあごひげを垂らしたこの老人、実は国軍航空局長の児玉源太郎さんの変装した姿である。普段はピンと伸ばした背を丸め、ニコニコと笑っている様子は、どこからどう見ても現役の軍人には見えない。
「微行は中学生になってから、でございますぞ。9月になって淳宮さまが中等科に進学なさったら、この児玉が淳宮さまも微行に連れて行きましょう」
(中学生からって……根拠はないよねぇ。私なんて、小学生のころから微行していたし……)
物陰に隠れた私が心の中で児玉さんにツッコミを入れた時、
「では道之助や、上野に行くとしようかねぇ」
児玉さんが迪宮さまに話しかけた。どうやら、微行の間、迪宮さまは“道之助”という偽名を使うようだ。
「はい、児玉閣下」
礼儀正しく答えた迪宮さまに、
「これこれ、わしは閣下と呼ばれるようなお偉いさんではない」
児玉さんは微笑みながらのんびりと答える。
「わしは岩永藤右衛門という商家の隠居じゃ。だからわしのことは、“おじいさま”と呼ぶのだよ」
「……なりきっているな、航空局長は」
私の隣に潜んでいた兄が小声で言った時、「はい、おじいさま」と迪宮さまが素直に返事をする。そして、杖をつきながら歩き始めた児玉さんの後ろを追うように、迪宮さまも赤坂御料地の門へと歩いて行った。
「よし、気付かれないようにして後を追うぞ」
兄はそう言うと、白い中折れ帽をかぶり直す。迪宮さまと児玉さんの姿が小さくなり、淳宮さまたちが乃木さんに促されて御殿の中に引っ込むと、私と兄も赤坂御料地の門へと向かった。
なぜ私が兄と一緒に、微行に出る迪宮さまの後をつけているのか……それを説明するには、今月の11日に行われた梨花会まで時を戻さなければならない。迪宮さまの微行の計画が話し合われ、迪宮さまには誰かを付き添わせる必要がある、という話になった時、
――わたしが行こうか。初めての裕仁の微行、何かあれば大事になるし……。
兄が真剣な表情で出席者一同に提案したのだ。
――いや、それ、何か事件があったら、兄上も迪宮さまと一緒に巻き込まれる可能性が高くなるから、余計に大事になるわよ。
――梨花さまのおっしゃる通りです。それに、かえって目立ってしまい、迪宮さまの正体が露見してしまう恐れもあります。
私と大山さんが即座に兄を止め、他の梨花会の面々も私と大山さんに加勢した結果、迪宮さまの微行には児玉さんが付き添うことになったのだけれど、
――やはり裕仁が心配だ。わたしは陰から裕仁について行く!
兄が強く主張したため、結局、兄が陰から迪宮さまの初めての微行を見守ることになったのだった。
「……でも、何で私も、迪宮さまを見守らないといけないのよ」
御料地の門をくぐって市電の通っている道に出る直前、私がため息をつきながら呟くと、
「夫婦連れに化ける方が、裕仁に露見しにくいと思ってな」
茶色の着物を着流した兄が、伊達メガネを右手の親指でクイッと上げた。もちろん、付け髭もバッチリしているから、兄を皇太子だと見破る人間は殆どいないだろう。
「だったら、節子さまと一緒に見守ればいいじゃない」
「俺もそう思ったから節子を誘ったのだがな、珠子にピアノを教えなければならないと言われて断られたのだ」
ムスッとした私に、兄は小さな声で言った。
「となると、梨花を誘うしかない。お前とは数えきれないほど微行に出たし、気心も知れている。だから一番安心できる」
「……さようですか」
私は白い日傘を広げながら、再びため息をついた。
「束髪にしたお前を見るのも久しぶりだなぁ。普段と違う美しさがある。まぁ、お前はどんな髪型でも、どんな格好でも美しいのだが」
微笑を閃かせ、少しおどけた調子でこう言った兄に、「はぁ」と曖昧な相槌を打つと、私は差した日傘を一回転させた。洋装で出歩くと目立ってしまうので、私が今日着ているのは薄紺の地の和服である。髪型を普段と変えただけだから、正体がバレてしまう可能性は兄より高いけれど、変装用の銀縁メガネを掛けているから多少はマシだろう。
迪宮さまと児玉さんは市電の電停に立ち、路面電車が来るのを待っている。彼らから6、7人の間を置き、私と兄も市電を待つ列に並んだ。
「護衛は付いて来ている?」
小さな声で兄に尋ねると、
「ああ、俺たちと裕仁の間に3、4人はいる。周りにも何人かいるな」
兄も囁くように応じる。書生さん、勤め人、職人さん、親子連れ……様々な人々が列に並び、道を歩いているけれど、その中にはきちんと中央情報院の手の者がいるようだ。まぁ、皇太子とその長男の外出だから、この人数の護衛が付くのは当然と言えば当然なのだけれど。
やがて、市電の電車がやって来て、私たちのいる電停に停車する。児玉さんが「どっこいしょ」と乗降口のステップを上がり、それに続いて迪宮さまも車両の中に入った。私たちも、前に並んでいる人たちに続き、市電に乗り込んだのだった。
1914(明治47)年4月26日日曜日午前8時5分、上野公園。
市電を乗り継いだ迪宮さまと児玉さんは、上野公園前の電停で市電を降り、上野公園の中にある内国博覧会の第1会場へと歩いて行く。私と兄も、彼らから少し距離を取り、会場へと向かう。既に公園の中には人がそれなりにいたので、人ごみに紛れて歩くのは簡単だった。
「で、迪宮さま、今日はどこを見るのかしら?」
私が隣を歩く兄に聞くと、
「うん、公式に訪問する時には、事務局が出している展示館は全て回らなければならないのだ。工業館、農業館、林業館、水産館……全部で10以上ある展示館の展示物を、4時間ほどで全て見るのは不可能だな」
兄は小声で説明を始めた。
「だから、今日は裕仁が一番気になる展示をじっくり見ることにした……航空局長にはそう聞いた」
「一番気になる展示……何かな?」
「実はそれ以上は俺も知らないのだ。生物学関係の展示だとは思うが……」
私たちの視線の先にいる迪宮さまは、正門のそばの入場券売り場にいる。児玉さんが財布からお金を出し、2人分の入場券を受け取るのを、迪宮さまはじっと見つめている。お金を出して物を買う……庶民には当たり前のことだけれど、自分で買い物をしたことがない迪宮さまの目には新鮮に映るのだろう。
「さて、俺たちも入場券を買おう。ああ、梨花の分は俺が出してやる。今日付いて来てくれたお礼だ」
「ありがと、兄上」
児玉さんの手から入場券を受け取り、嬉しそうにしている迪宮さまを盗み見ながら、私は兄にお礼を言った。
正門から第1会場に入った迪宮さまは、正面にある大きな噴水をしばし眺めると、会場の奥、博物館の方角へと歩いて行った。途中にある工業館や鉱山館には一瞥もくれず、博物館の正門をくぐった迪宮さまと児玉さんは、右手の教育学芸館に入った。私たちも迪宮さまと距離を取りながら、教育学芸館に入場する。印刷や写真の現像の手順を解説した模型、軍艦や電車の模型などが展示されている中を進んでいくと、どこかの山の模型のそばに、迪宮さまと児玉さんが立っているのが見えた。迪宮さまは、展示されている植物の標本を熱心に見つめている。標本の上の壁には、“筑波山の植物”と書かれた看板が取り付けられていた。
「なるほど、植物か」
兄は小声で呟くと、納得したように頷いた。「裕仁は草花が好きだからな。週末に皇孫御殿に戻ってくると、珠子を庭に連れ出して、植物のことを教えているよ」
「へぇ、そうなんだ」
「春休みに沼津に猟に行った時もあんな調子でな。植物の知識量にケイキさんが驚いていた」
「そりゃあ、あんな風に図鑑をしょっちゅう見ていたら、知識も身につくよ。フランス語の勉強にもなるし、一石二鳥だね」
迪宮さまはカバンから本を取り出し、展示されている植物標本と本の中身とを見比べている。ちらっと見えた本の表紙は、兄と節子さまが洋行した時、お土産として迪宮さまにあげた、フランス語の植物図鑑だった。
「公式の訪問だと、図鑑と首っ引きで展示を見るなんてことはできないからね」
「ああ。今日、微行で来させて正解だったな」
熱心に展示物を眺める迪宮さまを、私と兄は物陰からほほえましく見守ったのだった。
迪宮さまが教育学芸館の展示を全て見終わり、外に出たのは午前9時45分のことである。元来た道を児玉さんとたどっていった迪宮さまは、正門に着く直前、道を右に折れた。
「ああ、エスカレーターに乗るようだな」
迪宮さまの行く手にある建物を見た兄が言った。
「なるほど。あれも、公式の訪問だと絶対に乗れないね」
「警備がとんでもなく大変になるからな」
私と兄は顔を見合わせて苦笑する。エスカレーターは全長が200mほどある。私の時代風に言うと、約10mの高さの高架橋にエスカレーターで上り、高架橋の部分は動く歩道で移動するという構造になっている。もし、兄や迪宮さまが公式訪問でエスカレーターに乗ろうとすれば、高架橋の下には5m、いや、3mおきに警官が並び、警備をするだろう。それでは警備陣に過度な負担が掛かってしまう。
「私たちも乗ろうか、兄上」
「そうだな。折角の機会だからな」
エスカレーターの入口の前には既に数十人が並んでいる。迪宮さまと距離を取るように注意して、私と兄も行列の最後尾に並び、料金を支払ってエスカレーターに乗り込んだ。エスカレーターに乗ったお客さんたちは、初めての体験に歓声を上げている。迪宮さまも初めて見る景色にはしゃいでいた。
「楽しそうだな、裕仁は」
「だねぇ。普段は大人びているけれど、こういうところは年相応だね」
兄と小声で話しながら迪宮さまを見守っていると、エスカレーターはあっという間に終点の不忍池のほとりに到着する。エスカレーターから降りた迪宮さまと児玉さんは、ロープウェー乗り場を通り過ぎ、各道府県の売店が軒を連ねている不忍池の南側に歩いて行った。
店先で足を止めた迪宮さまは、並べられたおもちゃを熱心に見つめている。やがて、児玉さんと何事かを相談すると、迪宮さまは自動車のおもちゃを手に取り、児玉さんと一緒に会計へと向かった。
「お金、使うねぇ」
「使うなぁ」
自然と兄と目が合い、私は顔に微笑みを浮かべた。
「こうやって、裕仁は世界を知っていくのだな。宮中や学問所だけではない、広い、大きな世界を……」
兄の言葉に黙って頷いた私は、自分と兄が微行を始めたころのことを思い出した。貨幣の価値に戸惑うこともあったし、時には正体が露見して大騒ぎになることもあった。やんちゃをし過ぎて、大山さんに怒られたことも一度や二度では済まない。それでも、微行は様々なことを私たちに教えてくれた。
「この様子だと、騒ぎも起こさずに帰れそうだな。まずは一安心だ」
ほっと息をついた兄に、
「そうね、お父様の微行みたいに、騒ぎになっちゃったら……」
大変よね、と答えかけて、私はあることを思い出した。今月の梨花会で、兄と宮内大臣の山縣さんの様子がおかしかった時があった。確か、あの時話題に上っていたのは……。
「あのさ、兄上」
「何だ?」
兄が私に顔を向けると、
「お父様、谷保天満宮に出かけたことがあるの?」
私は兄にこう尋ねた。
「え?」
「いや、この間の梨花会で、お母様が言っていたじゃない。お父様が谷保天満宮に出かけて、人を驚かせたって。私も谷保天満宮には1回行ったことがあるから、お父様も行ったことがあるんだな……って思って」
すると、
「……さぁ。俺も初耳だが」
兄がゆったりと首を傾げた。普段と変わりない動作に見えたけれど、兄の声は若干上ずっていた。
「ウソだね」
私はそう言いながら、兄の右手首をしっかりつかんだ。
「ちょっと声がおかしい。梨花会の時も、妙に声が明るかった。何か隠し事をしていないと、兄上はそんな声は出さない」
「ま、待て、梨花。俺は何も隠してなどいないぞ。お前の勘違いだ」
「誤魔化しても無駄だよ、兄上。兄上がウソをついているかいないかなんて、すぐ分かるわ。私が何年兄上の妹をやっていると思っているの」
私は兄の手首をつかんだまま、飛び切り冷たい声で言った。
「じゃあ、迪宮さまの微行も無事に終わりそうだって確認もできたし、今から花御殿に戻ろうか、兄上。隠していること、洗いざらい吐いてもらうよ」
顔を青ざめさせた兄が、唾をごくりと飲み込む音が聞こえたような気がした。
午前11時30分、花御殿。
「はぁ?!」
兄と節子さまの居間。兄を問い詰め、隠していたことを白状させた私は、その内容に唖然としていた。
「わ、私の婚約が内定した直後に、谷保天満宮で栽仁殿下と話していたところ……兄上もお父様も見ていたの?!」
「う、うむ……」
苦り切った表情になった兄の横から、
「嘉仁さまと天皇陛下だけではありませんよ」
節子さまが満面の笑みで付け加えた。
「私もいましたし、それから皇后陛下も山縣閣下も、一緒に拝殿に潜んでいました」
「こら、節子!梨花の怒りを買うのは間違いないから、秘密にしておこうと申し合わせていたではないか!」
「でも、もう露見してしまったのですから、隠しても無駄だと思いますよ?」
怒る兄に節子さまは笑みを崩さず、平然とした様子で応じた。
「栽仁さまの一途な揺るがない愛に戸惑う梨花お姉さま、初々しくて可愛らしかったです。それに、栽仁さまの男ぶりが本当に素晴らしくて……こんな素敵な殿方に愛を捧げられるお姉さまは、なんて幸せなのだろう、と感激しました!」
「確かに、“千の言葉で自分を罵るなら、万の言葉で褒め称える”という栽仁の言葉には泣かされたが……梨花にこんなことを言ってしまってよいのか、節子?梨花にとっては、栽仁と2人だけの大切な思い出にしておきたいことだと思うぞ」
「けれど、嘉仁さまも、天皇陛下からのお誘いに、嬉々として乗っていらしたではないですか」
「し、心配だったからだ。義兄上と大山大将が梨花と栽仁の逢瀬を仕組んだのに、奥手な梨花が栽仁とまともに話ができるか……」
言い争う、というより、じゃれ合っているような兄と節子さまの会話を聞きながら、私は必死に状況を整理していた。義父と大山さんが、拝殿前で私と栽仁殿下が2人きりで話が出来るように仕組んだ。その情報が事前にお父様に伝わった。そして、お父様は、お母様や兄夫妻とともに、私と栽仁殿下が話しているところを覗き見ることにしたらしい。
(確かに、栽さんと2人きりになったの、後から考えたら仕組まれたのかなとは思ったし、お義父さまなら、お父様にその情報も流しそうだけれど……)
ここまで私が考えをまとめた時、
「それに、他の梨花会の皆様も、天満宮の近くの家から、梨花お姉さまと栽仁さまの逢瀬の様子を覗いておられたのでしょう?覗くのに夢中になって、何人か2階の窓から転落して、山田閣下が腕を骨折されたとか……」
節子さまの口から、衝撃的な情報が飛び出した。
「はぁ?!山田さんが骨折したの、剪定中に木から落ちたからじゃなかったの?!」
私は怒りの余り、椅子から立ち上がった。
「これじゃ、自転車から落ちて骨折した大隈さんのことを言えないでしょ、山田さん!なんちゅうくだらない原因でケガしてるのよ……もう、みんな許さないわ!」
「ま、待て、梨花、落ち着けっ!」
拳を固めた私を兄が止めたその時、人が近づいてくる気配がして、
「皇太子殿下、迪宮殿下と児玉航空局長が皇孫御殿からいらっしゃいました。こちらにお通ししますか?」
東宮侍従の甘露寺さんが障子越しに兄に問いかけた。
「あ、ああ、通してくれ」
兄は咳払いをしてから甘露寺さんに答える。
「……ちっ、仕方ない。一時休戦ね。だけど、迪宮さまが皇孫御殿に戻ったら、徹底的に問い詰めてやる。兄上も節子さまも覚悟してちょうだい」
私が指を鳴らしながら言った時、甘露寺さんが再び「迪宮殿下と児玉閣下をお連れしました」と私たちに声を掛ける。そして、すぐに障子が開き、制服を着た迪宮さまと、ご隠居の変装を解いた児玉さんが居間に入ってきた。
「ああ、やはり梨花叔母さまもいらっしゃいましたか。こんにちは」
礼儀正しく私に挨拶する迪宮さまに、
「私は章子だよ。こんにちは、迪宮さま」
私はニッコリ笑って挨拶を返す。呼ばれるたびに訂正しているのだけれど、迪宮さまは私を“梨花叔母さま”と呼ぶのを止めてくれない。
「ああ、裕仁。今日は内国博に行ったのだろう?どうだった?」
微笑しながら質問した兄に、
「はい。なので、お母様にお土産を持って参りました」
迪宮さまはそう答えると、持っていたものを節子さまに差し出した。
「まぁ、絵葉書ですね」
節子さまが嬉しそうな声を上げる。彼女の手には、内国博の会場を描いた絵葉書がある。博覧会の事務局が発行しているものだ。
「ありがとう、裕仁。内国博の会場はこんな様子なのね。お目当ての展示は見学できましたか?」
節子さまが優しく問いかけると、
「はい、筑波山の植物の標本を見て参りました。御殿の庭にはない植物の標本もたくさん展示されていて、とても良い勉強になりました」
迪宮さまはしっかりした口調で答えた。迪宮さまの斜め後ろで、児玉さんが“その通り”と言いたげに何度も頷いている。
「それはよかったな。もし筑波山に登る機会が訪れたら、もっとよく植物を観察できるな」
満足げに頷いた兄は、
「ところで裕仁、俺に土産はないのか?」
と尋ねた。
すると、
「え?」
迪宮さまは不思議そうな表情になり、
「お父様、僕と一緒に内国博の会場にいらっしゃったではないですか」
と言った。
「「「?!」」」
揃って目を丸くした私と兄夫妻に、
「お父様は梨花叔母さまと一緒に、僕の後ろをついて歩いておられました。だから、お土産を買う必要は無いと思って……」
迪宮さまは淡々と答える。
「ふっふっふ……皆様方、迪宮さまを侮っておられたようですなぁ」
呆気に取られて黙り込んだ私たちに、児玉さんの得意げな声が投げかけられた。
「……そのようだな」
兄がそう言って天を仰ぐ。
「裕仁、お前、俺と章子にいつ気が付いた?」
「エスカレーターに乗るところです。お父様がいらっしゃるような気がしたので、振り向いたら本当にいらっしゃいました」
「そうか。俺の気配が読めたのか。……流石、俺の子だな」
兄は顔に苦笑いを浮かべると、
「で、どうだ、街に出た感想は?」
と、改めて迪宮さまに尋ねた。
「この国には、僕の知らない暮らしが、とてもたくさんあるのだと思いました」
迪宮さまは軽く頷くと、兄の質問に答え始めた。
「皇族の身分を離れて過ごすことが、本当に自由なことなのだとも感じました。ですが、僕は皇族として、将来、おじじ様やお父様を助け、この国を治めなければなりません。もっといろいろな暮らしを知って、将来、国を治める時の助けにしたいと思います。そして、この国の人たちが幸せな暮らしを送れるように努めたいです」
「そうか……その心を忘れずにいろよ、裕仁」
迪宮さまが「はい」と元気よく返事をすると、兄は慈愛に満ちた眼で迪宮さまをじっと見つめたのだった。
こうして、迪宮さまの初めての微行は無事に終了した。そして、栽仁殿下と気持ちが通じ合った瞬間を覗き見られていたと知った私は、大山さんと協力し、覗きの実行犯たちに様々な形で落とし前を付けたのだけれど……それはまた別の話である。
※児玉さんの偽名は、奥さんの旧姓(岩永)と本人の雅号(藤園)から作成しています。
※博覧会の展示などについては白木屋呉服店.「東京大正博覧会案内記」(白木屋呉服店.1914)
、「東京大正博覧会案内誌」(橋本昌芳.博友社.1914)、「東京大正博覧会観覧案内」(東京大正博覧会案内編輯局編.文洋社.1914)などを参考にしました。




