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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第56章 1913(明治46)年冬至~1914(明治47)年大暑
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「つなぐ」

 1913(明治46)年12月23日火曜日午後3時30分、東京市小石川区小日向(こびなた)第六天町(だいろくてんまち)にある徳川慶喜(よしのぶ)さんのお屋敷。

「さようでございましたか……」

 和風の庭園に面した広さ10畳ほどの和室。床の間を背にして座った私から、ベルツ先生が亡くなった経緯について手短に説明を受けた屋敷の主・徳川慶喜さんは、そう言って寂しげに微笑した。

「私の診療を始めた時には、いや、その前から、既に死病を抱えられ、それを隠し通されていた、ということですか……」

「そういうことになります」

 私は首を縦に振ると、軽くため息をついた。「私は未熟者ですから、ベルツ先生の病気を見破れなかったのは当然なのですけれど、他の先生方も、ベルツ先生が亡くなるまで、病気のことを誰一人見抜けなかったそうです」

「お恥ずかしい限りですが、私もその、見破れなかった医師の1人です」

 慶喜さんの前に正座している東京帝国大学医科大学内科学教授の三浦(みうら)謹之助(きんのすけ)先生が苦笑した。「しかし、ベルツ先生自身は、近いうちに必ず訪れる死に対しての準備を、入念に行っていたのです。遺書は十数人に宛てて書いていましたし、自身が請け負っていた仕事は、その進捗状況や要点が全て整理され、いつ引き継いでも大丈夫なようにしてありました。自分が死んだら、どの仕事を誰に引き継いでほしいという要望書もありまして……」

「あの要望書は、本当にびっくりしましたね」

 私も顔に苦笑いを浮かべた。

 ベルツ先生の葬儀が行われたのは、剖検の翌日、21日の午前中だった。葬儀に参列したベルツ先生と親しかった医師たちの間で話題に上ったのは、ベルツ先生が残した仕事をどうすればよいか、ということだった。ベルツ先生は東京女医学校だけではなく、医科大学でも時折教鞭を執っていた。また、慶喜さんのように、往診をしていた患者さんも何人かいる。ベルツ先生の患者さんたちや、教えていた生徒たちが不利益を被らないように、対策を大至急講じる必要があった。

――慶喜公の診療は、私が引き継ぎます。もし、ベルツ先生の家に慶喜公のカルテがあったら、盛岡町に持ってきてください。

 これからベルツ先生の家にお邪魔して、書類を見せてもらうように奥様にお願いするという医科分科会の先生方に、葬儀に参列していた私はこうお願いした。すると、その日の夕方、北里先生が盛岡町の家にやって来て、

――ベルツ先生のご自宅から、このようなものが……。

そう言いながら、1冊のノートと何枚かの書類を私に見せてくれた。ノートには、今までの慶喜さんの診療経過が分かりやすくまとめられていた。そして書類は、ベルツ先生が亡くなる直前まで手掛けていた仕事の一覧表で、自分の死後、誰がどの仕事を引き継ぐべきか、仕事ごとに全て記載されていたのだ。

「……本当に、我が身の未熟さを痛感します。けれど、これで挫けてしまって、成長する努力を怠れば、“歩みを止めることなかれ”というベルツ先生の遺言に背くことになります。ですから、私は修業を続けなければなりません」

 私が苦笑いしたまま言うと、

「ほう……その遺言は、議長殿下に向けてのものですか」

慶喜さんはこう反応した。

「いえ、遺書を残した人、全員に、です」

 私は首を左右に振った。「もちろん、内容は全員同じではありませんけれど、自分の意思で病気を隠していたことを詫びる内容と、“歩みを止めることなかれ”という言葉は、共通して記されていました」

「なるほど……」

 慶喜さんは頷き、

「では、ここに三浦先生がおいでになったのは、ベルツ先生が要望書で、私の診察を引き継ぐように……と書き残したから、ですね」

と私たちに確認した。

「まったくもって、御前のおっしゃる通りでございます」

 三浦先生が丁寧に頭を下げた。「師の病を看破できなかった、至らぬ弟子ではございますが、精一杯、御前の治療を引き継がせていただきますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます」

「ご謙遜なさらずとも……」

 慶喜さんが三浦先生に微笑を向けた。「三浦先生のお名前は、私もよく存じ上げております。血圧計を開発したのみならず、患者に慕われる良医であると……。では三浦先生、私の診察をしていただいてもよろしいでしょうか?」

「はい、かしこまりました」

 三浦先生が診察カバンを開け、道具を準備している間に、慶喜さんは身につけていた羽織袴を脱いだ。私もカバンから、鉛筆とノートを取り出した。三浦先生が取った所見を記録するためだ。

「それでは御前、失礼いたします」

 改めて正座をして一礼した三浦先生に、慶喜さんが軽く頷く。それを合図にして、三浦先生と私は慶喜さんの診察を始めた。

「……肺は念入りに聴診を致しましたが、特に問題はございません」

 やがて、慶喜さんの全身を診察し終えた三浦先生は、再び一礼し、服装を整え直した慶喜さんに、診察所見を説明し始めた。

「ふむ」

「議長殿下とベルツ先生が、肺炎の発症時に指摘なさっていた右下葉の水泡音は完全に消失しており、痰がらみは全くございません。その他には特段変わった所見はございませんが……強いて言えば、ご年齢の割に、四肢や体幹の筋肉が発達しておられるということでしょうか」

 すると、

「実は、議長殿下とベルツ先生のご指導の賜物です」

慶喜さんは三浦先生に少し恥ずかしそうに答えた。「最近は、筋力をつける運動を集中的に行っています。それが功を奏したのでしょう」

「元の筋肉がいいからだと思いますよ」

 私は横から付け加えた。小さなころから武芸で鍛えていただけあって、慶喜さんの筋肉量は、11月下旬の一番体力が落ちていた時でも、同年代の男性より多かったのだ。

「では、三浦先生、明後日参内して、天皇陛下と皇后陛下に、議長殿下を遣わしていただいたお礼と、お見舞いの品のお礼を申し上げてもよいでしょうか?」

 慶喜さんの質問に、

「差し支えないと考えます」

三浦先生は暖かい春風のような笑顔で答えた。

「それはありがたい」

 慶喜さんは満足そうに頷くと、ふっと寂しげに微笑して、

「……今、三浦先生の診察を受けておりましたら、ベルツ先生の診察を受けている気がしてなりませんでした」

と言った。

「それは……」

 そう言ったきり、絶句した三浦先生に、

「何と言いましょうか……手つきや触り方、間の取り方……三浦先生とベルツ先生の診察は、違うところがほとんどありませんでした」

慶喜さんは穏やかな口調で言い続ける。

(それは……確かにそうかもしれない)

 三浦先生は、学生時代にベルツ先生の教えを受けている。ベルツ先生が患者さんを診察する場にも、私より多く立ち会っているはずだ。弟子の診察手技が師匠に似るのは、まったく不思議ではない話だけれど……と私が考えていると、

「なるほど……ベルツ先生は、ベルツ先生の教えは、こうやって生き続けていくのですね……」

慶喜さんが感慨深げに呟いた。

「「……」」

 視線を遠くに投げた慶喜さんに、三浦先生も私も、深く頭を下げたのだった。


 1913(明治46)年12月28日日曜日午後3時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸。

「そうか、ケイキさんはそんなことを言っていたのか……」

 応接間の来客用の椅子に腰かけ、しみじみと言ったのは、濃紺の羽織袴姿の兄である。今日はいつものように自転車に乗り、微行(おしのび)でこの家にやって来た。

「あれは、教えられる言葉だったわね……」

 そう言うと、私は紅茶を一口飲んだ。私の隣には、常盤色の羽織を着こんだ栽仁(たねひと)殿下がかしこまって座っている。昨日から年末年始の休暇に入ったので、盛岡町に戻って来てくれたのだ。

「ベルツ先生は生きている。私の診察手技の中に、私の思い出の中に……そう思えたわ。私が医師の仕事を続ける限り……いや、私が生きている限り、ベルツ先生も生きて、私とつながっている。そう考えたら、少し気が楽になった」

「それで帝国議会の開会式の時、梨花が普段と変わりない様子だったのか」

 兄がしきりに首を縦に振った。「心配したのだぞ。ベルツ先生は梨花の恩師……お前にとって大切な人間の1人だろう。だから、堀河(ほりかわ)侍従を亡くした時のように、梨花が悲しみに打ちひしがれてしまうのではないかと案じていた」

「……あの時は、兄上に本当に助けられたね」

 私は苦笑いを兄に向けた。爺が亡くなった直後、肉親同然の人と死に別れた悲しみに沈んだ私を支えてくれたのは、大山さん、そして兄だった。だから私は、心の痛みを少しずつ癒すことが出来たのだ。

「でも、兄上。私、あの頃より、少しは強くなれた。ベルツ先生にも、“歩みを止めることなかれ”と遺言されたの。だから、悲しんでばかりはいられない。……それでも悲しい時には、誰かに話を聞いてもらう。栽仁殿下も兄上も大山さんもいるのだから」

 そう言いながら夫の方をチラッと見ると、

「全力で支えるよ、章子さん」

彼はニッコリ笑って頷く。

「ありがとう、栽仁殿下。辛い時には、お言葉に甘えさせてもらうね」

 栽仁殿下と目を合わせて私も微笑すると、

「……そうやって話していると、梨花と栽仁、どちらが年上なのか分からないな」

兄がニヤッと笑いながら言った。

「自分でもそう思うわ」

 とりあえず、兄にこう返答したけれど、兄のニヤニヤ笑いは崩れない。私と栽仁殿下のことをからかって遊びたい。そんな気持ちが兄の笑顔の奥に見え隠れしていたので、

「ところで兄上、節子(さだこ)さまたちはお元気?」

私は矛先をかわすべく、兄に質問を飛ばした。

「あ、ああ、元気だぞ」

 兄は一瞬残念そうな表情になったけれど、すぐに、

興仁(おきひと)は最近、たくさん歩き回るようになった。走るのも上手になったな」

と上機嫌で言った。倫宮(とものみや)興仁さまは現在1歳8か月。私の長男・謙仁(かねひと)より20日ほど遅れて生まれた、兄夫婦の末っ子だ。

「梨花、議会の合間に、万智子(まちこ)と謙仁を連れて、皇孫御殿に遊びに来てくれ。興仁にはいい刺激になるだろうから」

「分かった。大山さんに日程を調整してもらうね」

 私は兄にしっかりと請け負った。倫宮さまだけではない。万智子と謙仁にとっても、同年代のお友達と遊ぶのはいい刺激になる。それに、将来直宮の1人として、新しい宮家を創設する倫宮さまと、私の子供たちとの絆を作っておくのは、将来の皇室にとってプラスになるだろう。

珠子(たまこ)尚仁(なおひと)も、学業を頑張っているな。ただ、珠子は相変わらずお転婆で、節子を困らせている。先日も、雍仁(やすひと)たちと一緒に戦ごっこを派手にやって、節子が嘆いていた」

「……確かに、普通はそういう反応になりますよね」

 兄の言葉に、栽仁殿下が私の隣で苦笑する。兄夫婦の三男・英宮(ひでのみや)尚仁さまは学習院初等科2年生になり、長女で5人きょうだいの真ん中である希宮(まれのみや)珠子さまは華族女学校高等初等科第3級、私の時代風に言うと小学4年生になった。2人とも優秀だと評判だけれど、希宮さまはお転婆でも有名である。

「私も小さいころ、兄上と一緒に戦ごっこをしていたから、節子さまもそんなに心配しなくてもいいと思うけれど」

「俺もそう思う。それに、女子も軍人になれるのだから、“珠子が望めば、梨花のように軍人になってもよいのだぞ”と節子に言ってみたのだが……“梨花お姉さまが軍医になられたのは、ニコライの魔の手から逃れるためです。最初から軍医を目指されていたわけではありません!と節子に反論されてしまった」

「……それは節子さまの言う通りだね」

 私はため息をついた。もし、ニコライ(バカ)が変なちょっかいを出してこなかったら、私は今頃、帝大病院の外科で働いていただろう。

 すると、

「ところで皇太子殿下、淳宮(あつのみや)さまの進路は決まったのでしょうか?」

栽仁殿下が心配そうな表情で兄に尋ねた。兄夫婦の次男、淳宮雍仁(やすひと)さまは学習院初等科の6年生だ。中等科に進んで、1年生か2年生の時に幼年学校の受験を考えているのであれば、もうそろそろ、受験準備を始める方がいい時期だけれど……。

「うん、実はな」

 兄はそう言いながら、私たちに向かって身を乗り出した。

雍仁(やすひと)は海兵になりたいと言っているのだ。ヨーロッパに行った俺と節子を出迎えた時に、横浜で船や軍艦をたくさん見て、船に興味を持ったようでな」

「……ということは、中等科の最終学年で、士官学校受験だね」

 旧陸軍系の兵科……例えば、歩兵や騎兵の士官学校は、幼年学校を卒業してから進学することを原則としている。一方、海兵士官学校にはそのような原則はなく、中学を卒業してから入学するのが一般的だ。だから、国軍の士官になりたければ、少なくとも中学校に入るまでには、どの兵科の士官になりたいかをある程度決めなければならないのだ。

 兄は「ああ」と頷くと、

「海兵士官を目指すからには、士官学校への入学資格は実力でもぎ取れと雍仁には言った。雍仁は努力家だから、きっと期待に応えてくれると信じている」

満足そうな表情でこう言った。皇族なら、無試験で士官学校に入学することも可能だけれど、兄の頭の中には、自分の子供たちにそんな特権を使わせるという考えは全くないようだ。

「で、兄上、迪宮(みちのみや)さまはどうなの?皇孫御学問所での生活は順調かな?」

 私は兄に、全く話に出てきていない長男・迪宮裕仁(ひろひと)さまのことを尋ねた。

「そのようだぞ」

 兄は私の質問に首を縦に振った。

 9月8日から、迪宮さまは皇孫御学問所で教育を受け始めた。花御殿の敷地に建っている、かつて兄が同じような教育を受けていた建物で、5人のご学友さんたちとともに合宿生活を送っているのだ。

「週末に裕仁と会うたびに、どんどんたくましくなっていくのが分かるのだ。学友たちは勉強でも剣道でも、裕仁に容赦しないようにと伊藤総裁に命じられている。勉強で分からないところが出てくれば、得意な者が苦手な者に教えて、助け合って乗り越えているようだ。かつての俺と同じように、裕仁は容赦なく鍛えられているようだな」

「それはいいわね」

 私は、花御殿で暮らしていたころのことを思い出した。東宮御学問所で合宿生活を送っていた兄は、会うたびにたくましく、そして頼もしくなっていった。火曜日と木曜日の夜には、“自習”という名目で花御殿に戻って来てくれたから、私もその時に、兄と勉強を教え合っていた。

 と、

「……皇孫御学問所が春休みに入ったら、裕仁と一緒に、沼津に行こうと思っている」

兄が遠くに視線を投げながら言った。

「沼津?」

「それはまた、どうしてでしょうか?」

 揃って首を傾げた私と栽仁殿下に、

「ケイキさんに頼んで、裕仁に猟の手ほどきをしてもらおうと思ってな」

兄は穏やかな声でこう告げた。

「それはいいね……。すごくいいことだ」

 私は微笑した。きっと兄は、慶喜さんの手伝いをするのだろう。慶喜さんがお父様(おもうさま)に忠義を尽くす手伝いを。そして、兄は迪宮さまに話すに違いない。自分がなぜ、慶喜さんと一緒に猟に出るようになったのか。自分が皇族として、何を考えて行動しているのかを。

「ケイキさんのことを頼むぞ、梨花」

 兄が私に向き直り、真剣な表情になった。「議会が始まったから、余りケイキさんの診察はできないだろうが、それでも、ケイキさんはお前のことを頼りにしているに違いないから」

「分かったよ、兄上。慶喜公のために、出来ることはする。それで私も……兄上の想いを、迪宮さまにつなげる手伝いをするよ」

 私が力強く頷くと、

「流石、梨花は俺のことをよく分かっている」

兄はこう言って、ニッコリ笑ったのだった。

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