歩みを止めることなかれ(2)
※前半の一部で剖検所見の描写があります。苦手な方は飛ばすことをお勧めします。
1913(明治46)年12月20日土曜日午後5時。
「それでは、ベルツ先生の剖検所見につき、簡単ではありますが、説明させていただきます」
東京帝国大学医科大学の学長室。来客用の椅子に座った私に説明を始めたのは、病理学教室の教授・長与又郎先生だ。私が医師になろうと決心した20年以上前に内務省衛生局長を務めていた長与専斎先生の息子さんである。
「頭蓋と脳には、著明な変化を認めませんでした。脳に関しては、ホルマリン固定した後に改めて調査しますが……」
長与先生の後ろには、医科大学の学長・緒方正規先生が立っている。内科学教授の三浦謹之助先生、外科学教授の近藤次繁先生、産婦人科学教授の中島襄吉先生、医科研所長の北里柴三郎先生、そして弥生先生……全員、ベルツ先生と親しくしたり、学生時代にベルツ先生の教えを受けていたりする先生方だ。彼らは、今日正午から行われたベルツ先生の剖検に立ち会った。私も立ち会いたかったのだけれど、貴族院の打ち合わせと重なってしまい、立ち会うことは叶わなかった。
「胸部では、第8胸椎から第10胸椎の高さの下行大動脈で、背側に突出する大動脈瘤を認めました。直径は約8cmです。第9胸椎あたりの高さで破裂しておりまして、大量の出血を認めました。腹部の諸臓器には特段の異常を認めません。従って、ベルツ先生の死因は、胸部の下行大動脈瘤破裂と考えます」
「そうですか……」
私が目を伏せると、
「しかし、納得できないのはその経過です」
長与先生は冷静な口調で付け加えた。
「大動脈瘤の膨張により、左の第8肋骨は、中枢側で一部圧潰されていました。この状況なら、背部痛や、食道圧迫による嚥下困難を来たしていてもおかしくないのですが……吉岡先生のお話ですと、去年の春に大動脈瘤の存在が発覚して以降、ベルツ先生は症状を一切訴えられなかったと……」
「はい」
弥生先生が沈鬱な表情で頷いた。「痛みを訴えられることはございませんでした。女医学校の教員室で、お昼に一緒にお弁当をいただく機会もございましたので、その時にベルツ先生のご様子を観察していましたが、普通のお食事を召し上がって、飲み込むのに苦労なさっている様子は見受けられませんでした」
「そうですか……まぁ、食道への大動脈瘤の癒着は強くありませんでしたからなぁ……」
考え込んだ長与先生に向かって、
「あの……よろしいですか?」
私は右手を挙げながら、おずおずと声を掛けた。
「な、何でございましょう、議長殿下」
一気に緊張の色が濃くなった長与先生に、
「もしかしたら……背部痛はあったかもしれません」
私はこう言った。
「本当ですか?!」
「何ですと?!」
三浦先生と北里先生が、前に2、3歩進み出た。他の先生方も私に向かって身を乗り出す。全員の注目を集める中、
「先月の下旬、慶喜公をベルツ先生と一緒に診察した時、ベルツ先生が顔を一瞬歪めたのです。“どうしたのか”と尋ねたら、“最近、背中の筋を痛めた”とおっしゃって……」
私は先月見た光景を思い出しながら答えた。……おそらくそれは、大動脈瘤の圧迫による症状だったのだろう。
「……疼痛はあったのでしょう」
ポツリと呟いた近藤先生に、
「おそらくそうでしょう。それを、ご自身で鎮痛剤をお使いになって、誤魔化されていたのかもしれません」
殆ど泣きそうな表情で中島先生が応じた。
「水臭いではないですか、ベルツ先生!」
呻くように緒方先生が叫んだ。「吉岡先生にご自身の病状を口止めされていなかったのなら……、我々に、ご自身の病状を教えてくださっていたなら……!すぐに箱根か葉山にでも転地療養できるよう、我々が手分けしてベルツ先生の仕事を引き継ぐことも出来た!療養先で何不自由なく、何の心配もなく安楽に暮らしていただいて、1分1秒でも長くお命を保たせることも出来たのに……!」
緒方先生の声に応じる人はいなかった。けれど、この場にいる全員の心は一緒だと私は思った。血圧を上げる要因の一つである過労を無くすこと。ベルツ先生はタバコを吸っていなかったから、食事運動療法をしてもらい、血圧が高いならば降圧薬を飲んでもらうこと……今の時代では、ベルツ先生の命を伸ばす方法はそれしかなかったのだ。
(あの時、ベルツ先生が大動脈瘤を抱えていることを、少しでも疑えていたら……“慶喜公の治療は私が続けますから、ベルツ先生は休んでいてください”と言えたら……ベルツ先生は……ベルツ先生の命は……)
私の目から涙がこぼれ落ちそうになったその時、学長室のドアがノックされた。「妃殿下、よろしいでしょうか」という大山さんの声も聞こえる。私が頷くと、中島先生がその場を離れ、ドアを開けた。
「どうしたの、大山さん?」
「今、ベルツ先生の奥様がいらっしゃいまして……」
学長室の入り口に立つ大山さんの後ろに、ベルツ先生の奥様・花さんの強張った顔が見えた。
「ああ、奥様……」
「この度は……」
緒方先生や三浦先生だけではなく、学長室にいた医師全員が花さんに最敬礼する。もちろん私も椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。
「実は……主人の机の引き出しから、皆様に宛てた遺書が出て参りまして……」
私たちに黙って一礼を返した花さんは、黒い手提げ袋の中から、何通かの封書を取り出した。
「全部で十数通ございますが、まず、この場にいらっしゃる皆様方に宛てたものをお渡ししてもよろしいでしょうか?吉岡先生、長与先生、中島先生、近藤先生、三浦先生、北里先生、緒方先生……そして、議長殿下……」
「分かりました。お願いします」
私が首を縦に振ると、花さんは学長室に入り、封書を1人1人に手渡していく。そして最後、“議長殿下”と、ベルツ先生の筆跡で日本語の宛名が書かれた封書を、私は花さんから丁重に受け取った。
1913(明治46)年12月20日土曜日午後7時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「で、これが、ベルツ先生が梨花さんに遺した手紙だね」
「うん……」
盛岡町邸の居間。横須賀から戻ってきた栽仁殿下に、私は昨日からの出来事を話していた。私の前には、ベルツ先生の遺書がある。
「まだ、封を開けていないの」
私は小さな声で夫に答えた。「家に戻るのが遅かったし、それに……私一人で読む勇気がなくて……」
すると、
「じゃあ、今、読んでごらんよ」
長椅子に並んで座っている夫が、優しい声で私に促した。
「梨花さんが辛くなったら、抱き締める。泣きたくなったら、僕の胸で泣けばいい。だから……ね?」
「……分かった」
夫に頷くと、私は遺書の封を開けた。封筒の中から出てきた便箋は、奇麗な、読みやすい文字で記された日本語の文章でびっしりと埋まっていた。
「殿下と突然お別れすることになり、お詫び申し上げます」
ベルツ先生が私に宛てた遺書は、こんな文章で始まっていた。
「お優しい殿下のことですから、私の命を奪った病気のことを知ったならば、もし予め病気のことが分かっていれば、私の他の弟子たちの力も借り、何が何でも私から負担という負担を取り去って静養させていたのに……と、ご自分をお責めになるでしょう。しかし、その必要はありません。大動脈瘤のことを隠そうとしたのは、他ならぬ私なのですから。身体と頭脳が問題なく動くのに、医師としての仕事を全て取り上げられて静養し、いつ訪れるか分からない死をただ待つのは、私には耐え難いことです。許されるならば、最期の瞬間まで医師として働くことを私は望みました。そして、弥生先生と私の家族を説得し、私の病気のことを他人に教えないように約束させたのです。ですから、殿下がご自身を責める必要はありません。“最期まで医師として働きたい”という私のわがままに付き合わせてしまい、お詫び申し上げます。
こうして殿下に宛てて手紙を書いていると、殿下に初めてお会い申し上げた日のことを思い出します。あの時殿下はまだ7歳、とても美しくて愛らしいお子様でいらっしゃいました。伊藤伯に連れられて伊香保の御用邸に参上した私は、その愛らしい少女が、外国人の私でさえ超えられなかった宮中のしきたりを、己の機知で軽々と飛び越えたのに驚きました。そして、自分自身の手で皇太子殿下の指頭血採血をやってのけ、私の知らない医学の知識を口になさったことに、我が目を疑ってしまいました。そして、殿下が、意識だけ未来からタイムスリップしていらっしゃったのだと知り、私は確信しました。殿下は天使なのだ、と」
「ベルツ先生、言い過ぎだよ……」
天使だなんて……と続けようとして、私は、無理はないのかもしれない、と思い直した。100年以上先の、はるかに進歩した医学の知識……それは、見る人によっては宝の山のように思えるだろう。特に、医学を生業にする人たちには……。
「殿下から未来の医学の知識をご教授いただき、それを1つ1つ形にする作業は、とても楽しいものでした。亡くなられた三条公がインフルエンザから肺炎に罹患された時、殿下のお話から、私がとっさに痰の吸引器を作ったこともありました。脚気討論会の時、青山に罵倒された私を庇うため、殿下が舞台上に現れて、“この章子が許さぬ!”と啖呵をお切りになったこともいい思い出です。血圧計の作成、ペニシリンの抽出、ビタミンの発見……殿下や、医科分科会の仲間たちと成し遂げたたくさんのことは、どれも懐かしく、楽しい思い出となって、私の心の中に残っています。
そして、政治的・外交的な様々な困難に翻弄されながら、殿下は、この時代に生きる医師として必要な技術を身につけられ、弱冠19歳で医術開業試験に合格なさいました。日本の皇族で初めての医師として、近代日本で初めての女性軍人として、殿下は1つ1つ、ご自身の手で、未来を切り開かれておられます。ここ数年は政治の世界でもご手腕を発揮されておられます。殿下の診察手技には荒削りなところもございますが、メス捌きは確かであり、私の考えもしなかった未来をご自身の手で作っていらっしゃることを考えると、私の偉大な弟子の1人と言っても過言ではありません。殿下は“そんなことはない”とご謙遜なさるのでしょうが……」
(よ、読まれてる……)
まさに、“そんなことはないのに”と動こうとした私の口は、次の文が目に入った瞬間固まった。そう言えば、ベルツ先生とは20年以上付き合っていたのだ。そんな相手なら、私の思うことを当ててしまっても不思議はない。
「ただ1つ、心配なことがあるとすれば、殿下がその歩みを止めてしまわれることです」
ベルツ先生の遺書は、なおも続いていた。
「ここ数年、殿下は、以前ほどの速度で医学が発展しないことを気に病んでおられるようにお見受けします。一刻も早く、医学を殿下の時代の水準に引き上げたいのに、それが叶わない……それを歯がゆく思っておられます。未来の医学を具現化する試みが挫折することが続けば、殿下は前に向かって歩むのを止めてしまわれるのではないか……私はそれを恐れています。
ですが殿下、未来の医学を具現化する試みというものは、本来、失敗しても当然のものなのです。
世の中には、様々な学問があります。そして、それらは複雑に関連しあっているのです。Aという学問の発展にはBという分野の学問が必要で、更にBという学問の発展にはAとC、それに加えてDという学問の発展が必要不可欠で……そのようなことが、学問の世界では頻繁に発生します。殿下がお持ちになった西暦2018年の医学という色とりどりの果実の山は、我々人類が2018年までの100年以上もの間、ありとあらゆる分野の学問の畑を耕して作った土壌の上に育ったものです。未だ耕されていないこの時代の土壌で育つ果実もあるでしょう。しかし、この時代の土壌に合わず、育たない果実も出て来るでしょう。それが当たり前なのです。
大事なのは、果実を育てるのを諦めないことです。例え、今の土壌の状態では困難でも、数年土壌を耕せば、育つことができる果実もあるでしょう。あるいは、殿下のご存じない、そして、西暦2018年の世界でも通用する、立派な果実が育つこともあるかもしれません。現に、殿下の知識にない薬剤も、この20年余りの間にいくつも誕生しています。これからはそんなことは絶対に起こらないと、どうして言うことができましょうか。
果実を育てるのを諦めてはいけません。学問の土壌を耕す手を止めてはいけません。歩みを止めてはいけません。これが、私が殿下に申し上げたいことです。今はまだ、本当にお分かりになることは難しいかもしれませんが、殿下ならいつかきっと分かってくださると、私は確信しています」
「あ……」
私の目から、ポロっと涙がこぼれた。
――それでも、歩みを止めるべきではないでしょう。
それは、5月の大日本医師会創立の時、ベルツ先生が私たちに言ったことだ。“前に進むことを止めてしまえば、目的地にたどり着くことはできませんよ”……ベルツ先生はそうも言っていた。あの時にはもう、ベルツ先生は、自分が不治の病を抱えていることを知っていたのだから……。
「歩みを止めることなかれ!
殿下と、殿下の大切な方々に、幸多からんことをお祈り申し上げ、筆を擱きます」
いつの間にか、栽仁殿下の両腕が、私を優しく包んでいた。
私はその腕に縋って、涙を流し続けた。




