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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第55章 1913(明治46)年穀雨~1913(明治46)年大雪
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9月騒動(4)

 1913(明治46)年9月6日土曜日午後2時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸の応接間。

「それは難しい相談ですな」

 盛岡町邸に駆けつけてくれた貴族院副議長・徳川家達(いえさと)さんは、私の話を聞き終わると表情を動かすことなく言った。応接間には私と彼の他、誰もいない。大山さんにも陪席を遠慮してもらった。

「ですよね……」

 私は微かな苦笑いを顔に浮かべた。家達さんは徳川宗家のご当主である。しかし、貴族院副議長として、私と同じく、政治的に中立を保つべき立場にもいる。立憲改進党の人事に介入するなどもっての他……やはり、彼に渋沢さんを説得してもらうことはできない。

(でも、それは予想通りの答えね。私のするべきことは、家達さんから、伊藤さんたちの説得の助けになるような情報を少しでも引き出すことだ)

 私はすぐに考えを切り替えた。そして、口を開こうとした瞬間、

「あれは、私の家来ではありませんから」

家達さんは思いがけない言葉を口にした。

「は……?」

 少し首を傾げた私に、

「あれは先代の家来です」

家達さんは淡々と告げると、湯飲み茶わんに手を伸ばし、お茶を一口飲んだ。

「渋沢は、先代がまだ一橋家にいた頃に、先代に仕えるようになりました。そして、先代が宗家を相続したのに伴って、そのまま幕臣になったのです。ですから、徳川の家来ではありますが、あれの主君は私ではなく先代です」

(なるほど……)

 私は家達さんの言葉を黙って聞いていた。つまり、渋沢さんの主君は、家達さんではなく、徳川幕府の最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)さんである……家達さんはそう言いたいようだ。

(だとすれば、慶喜さんに協力を頼めば、ひょっとしたら渋沢さんを……)

 私がそう思った時、

「そうでなければ、先代の伝記を編もうなどとはしないでしょう」

家達さんは軽く眉をひそめた。

「慶喜公の伝記……」

 そう言えば、数年前に、新聞でそんなことを読んだような気がする。その時は何気無く読み飛ばしてしまったけれど……。

「全く、有能ですが、物好きな男です。徳川を滅ぼした人の伝記を作ろうというのですから……」

 家達さんの声に、苦々しげな響きが混じる。彼と接するようになって2年ほどになるけれど、彼が感情を見せながら私と喋るのは初めてのことだった。

(色々あるのかしら、家達さんと慶喜さんの間に……)

 家達さんを眺めながら、私はぼんやり考えていた。明治維新の結果、慶喜さんは謹慎処分となり、徳川宗家当主の座から追われた。その宗家の家督を継いだのが、まだ幼かった家達さんだ。そして時が流れ、1902(明治35)年の6月に、慶喜さんは公爵を授けられ、家達さんとは別の家を興すことになった。維新から今までの間に、家達さんと慶喜さんの間に何があったかは知らない。ただ確実なのは、渋沢さんの総理就任を説得するよう、家達さんが慶喜さんに頼むことはない、ということだ。

(となると、慶喜さんに伝手があるのは……あ、有栖川宮家(うち)か……)

 慶喜さんは3年前、1910(明治43)年の12月に、爵位を嗣子の慶久(よしひさ)さんに譲って隠居した。慶久さんの奥様は實枝子(みえこ)さま……栽仁(たねひと)殿下の妹である。つまり、慶喜さんの家は、私の義妹の嫁ぎ先なのだ。私も結婚してから1、2回、小石川区にある慶喜さんのお屋敷を微行(おしのび)で訪ねたことがある。

(お義父(とう)さまはまだアメリカにいる。夜には(たね)さんが横須賀から戻るけど……ダメだ、栽さんを待っていたら、慶喜さんを今日中に説得するのは無理だ。組閣作業を始めるのが明日にずれ込む。そうしたら、皇孫御学問所の開所も、玉突き式に遅れちゃう……。ということは……)

「妃殿下?」

 家達さんの訝しげな声で、思考の海に沈んでいた私の意識は現実に引き戻された。

「家達公」

 私は椅子に座り直して背筋を伸ばすと、家達さんを真っすぐ見つめた。

「私は今日これから、お父様(おもうさま)に貴族院議長の辞表を提出します。そして、次の通常会には出席しません」

「は……?」

 家達さんはポカンとして、私の顔を見つめている。私が続けて家達さんに説明しようとしたその時、彼の斜め後ろで、応接間のドアが、暴風のような勢いで開け放たれた。

「あなたたち!」

 廊下から無遠慮に応接間に首を突っ込んだ面々を私は睨んだ。大山さんはいいとしても、山縣さん、陸奥さん、児玉さん、松方さん……どうやら、渋沢さんの説得に行っていない梨花会の面々は全員いるようだ。音に驚いて振り向いた家達さんの顔が青ざめた。

「なぜここにいるのですか。話を立ち聞きしていいと言った覚えはないですよ」

「しかし、妃殿下!」

「この場を離れてください。私は今、家達公と話をしているのです」

 反論しようとした山縣さんをもう一度睨みつけると、私は家達さんに身体を向け直した。

「家達公、総理大臣不在による政治の空白は、絶対に生じさせてはならないものです。しかし、このまま渋沢さんが総理大臣への就任を拒み続ければ、その政治の空白が発生してしまいます。総理大臣に就任するよう、渋沢さんに説得できるのは慶喜公だけです。その慶喜公に伝手があるのは、徳川宗家のご当主である家達公、そして義妹(いもうと)が慶久さまに嫁いでいる私の2人。しかし、2人で一緒に動いてしまえば、2人とも政治的に中立を保てなくなり、議長と副議長の職を離れざるを得ません。今は議会の会期中ではありませんけれど、議長と副議長が揃って不在になれば貴族院は混乱します。ですから、慶喜公には私だけで話します」

「お……お待ちください、妃殿下」

 ようやく話に追いついたらしい家達さんが、目を見開いたまま言った。「それならば、私が参れば済むことです。私が行けば……」

「いいえ、家達公は残らなければなりません」

 私は首を左右に振った。

「家達公はずっと、それこそ死ぬまで議会に出席しなければならないのですよ。しかし、私は本来軍人で、一時的に予備役に回ったがために議会に出席しているだけです。早ければ来年の今頃には現役に復帰して、議会に出席が出来なくなります。私がいなくなった後の貴族院で議長を務められるのは家達公、あなたしかいません。家達公だけには、中立な立場にいていただかなければ、貴族院の未来が無くなってしまうのです」

 家達さんの顔は強張った。開いたドアから応接間を覗き続けている梨花会の面々の表情も、一様に緊張の色に染まっている。

「……妃殿下」

 大山さんが私に向かって進み出た。彼の表情も硬くなっていた。

「それならば、何も妃殿下が動かれる必要はありません。夜には若宮殿下が横須賀からお戻りになります。若宮殿下のご到着を待ってからでも……」

「それじゃダメよ、大山さん」

 私は大山さんを睨みつけた。「栽仁殿下を待ったら、慶喜公の所に行けるのは、早くて明日の朝になる。そこからすぐ慶喜公が動いてくれたとしても、渋沢さんが組閣作業を始めるのは明日、いや、明後日になる可能性もある。枢密院議長が決まるのがそこまで遅くなってしまったら、皇孫御学問所の総裁が決まるのが明後日以降にずれ込んで、御学問所が開けない。迪宮さまの教育に影響が出るのはまずいよ。だから、今日私がすぐに動くしかない」

「……」

 大山さんは唇を引き結び、じっと私を見つめている。そんな彼の横で、

「やれやれ……」

両肩をすくめた人がいた。現在の内閣総理大臣・陸奥さんである。

「なぜそのように派手な手段を使おうとなさるのか、理解に苦しみますよ、妃殿下」

「派手な手段とは何ですか」

 私はムッとしながら陸奥さんに言い返した。「この手段しかないから言っているのです。私が議長の立場を離れて、慶喜公を説得するしかないから……」

「それが思い込みなのですよ」

 陸奥さんは大げさにため息をついた。

「派手な手段は人目を奪います。それゆえに、ひっそりと隠れている他の手段を探す機会が無くなってしまう。更に言えば、人間は、派手な手段に執着しがちなものです。地味な手段には余計に気付きにくくなる……」

「何が言いたいのですか、陸奥さん?」

 私は顔をしかめた。「まさか、他に手段があるとでも?」

 すると、

「ありますよ」

陸奥さんは平然と私に言い放った。

「!」

「それは本当か、陸奥どの!」

 松方さんや山縣さんなど、梨花会の面々が陸奥さんに詰め寄る。大山さんも、陸奥さんに強い視線を送る。一同の目が集まる中、陸奥さんはいつもの余裕たっぷりの表情でこう言った。

「伊藤殿あたりに、慶喜公を説得していただくのですよ。そして、“総理就任を辞退するな”と慶喜公に一筆書いていただいて、渋沢殿に届ければ……」

「あ」

 そう声を発して開いたままになってしまった私の口から、熱気が急激に去って行った。


 1913(明治46)年9月6日土曜日午後7時10分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。

「梨花さん」

 本館2階にある私の書斎。横須賀港に停泊している戦艦“朝日”から戻ってきた栽仁殿下が、私に向かって微笑んだ。

「そろそろ、晩御飯を食べようよ」

「やだ」

 駄々っ子みたいだ、と自分でも思いながら、私は首を左右に振った。

「渋沢さんが総理になると言ってくれて、枢密院議長の人事が決まるまでは、ご飯を食べる気にはとてもなれない」

「気持ちは分かるけれどね」

 私のすぐそばに椅子を引き寄せて座っている栽仁殿下が、私の左肩にそっと触れた。

「梨花さんは、貴族院議長を辞めて説得に行かなきゃいけないとまで思い詰めたんだから」

「……今だって、最悪の場合はそうしないといけないかもと思っているわ」

 私は夫に答えるとため息をついた。伊藤さんが慶喜さんの説得に失敗したら、今度こそ、皇族の誰かが動いて説得しなければならないだろう。

 すると、

「僕は当主代理として、梨花さんが説得に行くのを止めるよ」

栽仁殿下が穏やかな声で言った。

「必要があれば僕が行く。父上の代理としてね」

「……って、(たね)さん、慶喜さんと余り会ったことがないでしょう。結婚披露の宴会の時と、實枝子さまのところに遊びに行った時に2、3回顔を合わせただけで」

「そう言うなら、梨花さんだって、慶喜公とそんなに会ってないでしょ?」

「まぁ、結婚前に2回会っただけで、あとは栽さんと一緒にしか会ってないけれど……」

「じゃあ、僕とそんなに変わらないじゃない」

「そうかもしれないけれど……」

 呟いた私は、また首を横に振った。

「いや、(たね)さんの手を煩わせる訳にはいかないよ。やっぱり、万が一の時は私が出る」

「ダメだよ。梨花さんは禎仁(さだひと)を生んだばかりなんだよ。無理をしたら身体に負担がかかる」

「でも、井上さんと大隈さんのお見舞いには行ったよ?」

「それとこれとは話が別だ」

 不意に、栽仁殿下が椅子から立ち上がった。次の瞬間、彼は後ろから私の身体をきつく抱きしめる。

「どうしても行くなら、僕の腕を振り解いて行くんだね」

「……!」

 夫の囁きに、私は顔を真っ赤にしてしまった。

「い、意地悪……私が振り解けないの、知っていて……」

 小さな声で抗議すると、

「そりゃ、梨花さんを止めるために、確実な手段を使わないとね」

栽仁殿下が微かに笑った気配がした。

「もうっ……」

 私が頬を膨らましたその時、

「若宮殿下、梨花さま、よろしいでしょうか」

ドアの外から、大山さんの声が聞こえた。放して欲しい、と夫に頼もうとした刹那、

「いいですよ」

彼がドアの向こうに返事してしまった。

「ちょっと!流石に、こんなところを見られたくないってば!」

 私が叫ぶと、夫は黙って、私の身体から手を離した。うっかりバランスを崩して上体を傾けてしまった私の目は、書斎に足を踏み入れた大山さんの目とぶつかった。大山さんの後ろにはなぜか陸奥さんもいて、私をニヤニヤしながら眺めていた。

「ど、どうしたのかしら、大山さん?」

 慌てて姿勢を正して尋ねる私に、

「伊藤さんから連絡がありました」

大山さんがクスっと笑いながら答えた。

「無事に、慶喜公から渋沢どのに宛てた御書面をいただき、渋沢どのの説得に成功したとのことです」

「よ、よかった……」

 椅子の背に身体を預けながら、私は大きく息を吐いた。

「渋沢さんが受けてくれた……ということは、枢密院議長は黒田さんになるのかな?」

「その通りでございます。従って、皇孫御学問所の総裁は伊藤さんとなりますね」

 穏やかな声で答える大山さんの横から、

「本当によろしゅうございました。妃殿下が貴族院議長を辞任なさったら、僕の楽しみが無くなってしまいますからね」

書斎に入ってきた陸奥さんが、上機嫌でこう言った。

「陸奥さん……なぜここにいるのですか?党の方に顔を出さないといけないのでは?」

 衆議院議員総選挙の結果が出た大事な日である。慰労会もあるだろうし、次の政権に仕事を引き継ぐ準備もしなければならないだろう。私が陸奥さんを軽く睨むと、

「党の総裁職でしたら、先ほど西園寺さんに譲りましたよ」

こう言った陸奥さんはニッコリ笑った。

「二大政党制、その一方の政党を率い、内閣総理大臣に就任する……僕の宿願の1つは果たすことが出来ました。ここで後進に道を譲らなければ、人を育てるという楽しみが減ってしまいますからね。西園寺さんなら、総裁職もうまく務めるでしょう。星君、岡崎君、松田君、大木君、そして原君……人材は揃っています。4年後、再び与党に返り咲けるよう、立憲政治の成熟のために政策の勉強に励みながら、僕も人を育てる楽しみを満喫しましょう」

「はぁ……」

 確かに、陸奥さんが総裁職に就いたころに比べると、立憲自由党の議員たちも実力をつけている。もちろんそれは、今回与党になった立憲改進党もそうだ。今は大隈さんと井上さんが不在だけれど、2人が元気になれば、陸奥さんと同じように、人を育てる楽しみを満喫するのだろう。

「世代交代、かぁ……」

 ポツリと私が呟くと、

「いや、まだ早いでしょうな」

大山さんがため息をついた。

「今回は陸奥どのが冷静でしたから救われましたが、梨花さまは危うく、折角のご修業の機会をご自身で潰してしまうところだったのです。冷静さを失ってしまった(おい)たちも反省すべきですが、梨花さまにはまだまだご修業に励んでいただかなければ、臣下としては非常に心配でございます」

「確かにそれはそうだけれどさ、……少しは休ませてくれないかな。家にいるだけでも、やることはたくさんあるのよ。万智子(まちこ)たちも可愛がりたいし」

 私は唇を尖らせた。禎仁の育休が終わる来年8月までは、私は予備役なので、議会が開かれればそれに出席しなければならない。次の議会は、年末からの通常会だろう。恐らくまた、議長に選ばれてしまうだろうから、与野党や無所属勢力との議事打ち合わせなどの業務に追われることになる。

「ええ」

 非常に有能で経験豊富な我が臣下は、私に向かって微笑した。

「ですから、せめて産褥が明けるまでは、ごゆっくりお過ごしください。ご体調が崩れてしまえば、せっかく積んだ修業が役に立たなくなることもあり得ますから」

「そうだね」

 栽仁殿下も微笑んで頷いた。「まずは、晩御飯を食べようよ、梨花さん」

「そうね」

 首を縦に振った瞬間、私のお腹が鳴った。ぷっと栽仁殿下が吹き出し、私もそれにつられてクスクス笑った。

 ……こうして、後に“立憲改進党の9月騒動”と呼ばれることとなった、第7回衆議院議員総選挙に関する一連の事件は、渋沢栄一さんが内閣総理大臣に就任することで、無事に収束したのだった。

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