皇孫御学問所と駅伝競走
1913(明治46)年3月8日土曜日午後2時15分、皇居内の会議室。
「以上が、浜口雄幸・幣原喜重郎を、我々の仲間に引き入れた時の状況です」
私と兄が参加して行われる月1回の梨花会。内閣総理大臣の陸奥さんの報告を聞き終わった私は、思わず両腕で頭を抱えた。
今、陸奥さんが話してくれたのは、先月15日にあった梨花会の緊急招集とその顛末だ。私は“自宅で安静に過ごしていろ”と言われたので参加できなかったその緊急招集で、大蔵省主計局長の浜口雄幸さんと、外務省取調局長の幣原喜重郎さんが、梨花会に入ることが決まった。正確に言うと、お父様が“時期尚早”と反対したので、彼ら2人は補欠メンバーのような扱いになり、まだこの会合に出席することは無いけれど……。
「おや、妃殿下、どうなさいましたか?」
ニヤニヤ笑いながら問いかけた陸奥さんに、
「正式に梨花会入りする前に、浜口さんと幣原さんがストレスで胃潰瘍になって吐血するのではないかと心配になりました……」
私は頭を抱えたまま、力なく返答した。
「今日、たまたま議事堂で浜口さんと幣原さんとすれ違いましたけれど、2人ともやつれていました。ちゃんと食事や睡眠が出来ているか心配になって、2人に近づこうとしたら、2人とも、私の後ろにいた大山さんを見て逃げ出して……」
浜口さんも幣原さんも、“史実”では内閣総理大臣を務めた人だ。そして、この時の流れでも、優秀な官僚として活躍しているのだけれど……梨花会の面々が“かわいがり”という名前のいじめをしているこの状況で、果たして彼らは生き残れるのだろうか、不安になってしまう。
と、
「しがない別当を恐れるなど、大げさですなぁ」
私の隣に座った我が臣下は、澄ました顔でこんなことを言った。
「いや、あなた、浜口さんと幣原さんにトラウマを植え付けた主犯格みたいなものでしょう。あの2人をまんまとだまして……」
少しは反省する方がいいと思う、と言おうとしたけれど、私は途中で口を動かすのをやめた。この中央情報院前総裁の中では、“自分の正体を見破れなかったあの2人が悪い”という論理が成り立っているのだ。それは主君の私が指摘しても、覆るものではない。
「……とにかく、大事な人材なのだから、鍛えようとして壊したらダメだからね」
とりあえず、大山さんに念を押すと、
「それはつまりませんのう」
西郷さんがこう呟く。「さようさよう」「せっかく、よい暇潰しの道具が見つかったと思ったのに」という声が、出席者たちの間から次々と上がった。
「相変わらずだな、卿らは」
兄が軽くため息をつくと、
「よいではないか。この試練には耐えてもらわなければ、将来そなたを助けることはできないぞ」
上座からお父様が言った。
「お父様と裕仁も助けてもらわなければ困ります」
兄がお父様の方に向き直りながら頭を下げた。「梨花会とはそうあるべきものですから」
「皇太子殿下のおっしゃる通りです」
兄の隣に座っていた宮内大臣の山縣さんが椅子から立ち上がった。
「だからこそ、本日の梨花会の議題が重要となるのです。将来我々がお支えする方をどのように鍛えるかということが」
「その通りじゃな」
伊藤さんだけではなく、私も、居並ぶ他の面々も頷いた。今日は、今年7月で学習院初等科を卒業する迪宮さま、その彼が9月に進学する皇孫御学問所の総裁を決めなければならない。
「……と言っても、これは難しい問題だぜ」
前内閣総理大臣の井上さんが両腕を組んだ。「……斎藤、“史実”だと、迪宮さまの御学問所総裁は誰だったんだ?」
「東郷海兵大将でした」
井上さんの問いに、国軍参謀本部長の斎藤さんが答えた。「選ばれた詳しい経緯は存じませんが、やはり、“史実”の日露戦争で連合艦隊を率いていたという功績が評価されてのことと考えます」
「ふむ。ならば、東郷殿を総裁に……」
山田さんがそう言った時、
「いや、卿らのいずれかでなくてはならない」
兄が首を横に振った。
「確かに、東郷大将の武名は国内外に轟いている。それに人格も高潔であるのは、わたしも渡欧の時に彼に接したからよく知っている。だが、かつて勝先生がわたしにしてくれたように、例え皇族が相手であっても遠慮することなく直言し、容赦なく鍛えるということは、東郷大将には出来ないのではないかと思うのだ」
兄が説明すると、
「なるほど、なるほど。確かに、平八郎では、迪宮さまに手加減してしまうかもしれんのう」
西郷さんがのんびりと頷いた。彼は極東戦争が発生する時まで、迪宮さまと淳宮さまの輔導主任を務めていたことがある。
「うん。裕仁を実の孫のようにかわいがってくれる卿らなら、出来ると思うのだ。未来の天皇となる裕仁を、時に温かく、時に厳しく教え導くことが」
「……その通りだな」
兄の言葉にお父様が頷くと、出席している一同が一斉に頭を下げた。
「梨花さま」
不意に、我が臣下が私を呼んだ。
「梨花さまなら、迪宮さまの御学問所の総裁、誰になさいますか?」
「またあなたは、難題を私に吹っかけるのね」
ため息をついた私に、
「ここは、かつて皇太子殿下と同じような教育をお受けになった方に聞くのが一番よろしいかと思いまして」
大山さんは笑顔を崩さずにこう返す。
(みんなが容赦ないのは、今も変わらないけどなぁ……)
心の中で大山さんにツッコミを入れてから、私は少し考えて、
「……残念だけれど、政党に所属している人はダメかな」
頭の中に浮かんだ考えを吐き出し始めた。
「天皇がどちらかの政党に常に肩入れするようなことはあってはならない。今は大丈夫だけれど、将来、立憲自由党と立憲改進党が、この梨花会でも妥協点を見出せないほどの激しい争いをすることになってしまった時、天皇はその争いの仲裁をしないといけない可能性がある。だから、天皇の立場が、常にどちらかの政党に偏っていることは許されないと思うの」
「なるほど」
大山さんが笑顔のまま頷く。その笑顔に励まされるように、私は口を動かし続けた。
「それから、東郷さんのように、連合艦隊を率いていたというレベルでなくても、国民を納得させられるような実績を持つ人がいいと思う。例えば、総理大臣を務めた、とか……そうなると、総理大臣を9年以上やった黒田さんか、総理大臣を2回やって、海外でも知名度が高い伊藤さん。この2人のどちらかがいいのかな」
「ほうほう、酒好きにならぬようにするか、女好きにならぬようにするか……ですな」
大山さんがおどけたように応じると、会議室のあちらこちらから笑い声が上がる。お父様とお母様も、上座で必死に笑いをこらえていた。
「黒田顧問官か伊藤議長か……うん、その2人なら、俺も安心して裕仁を任せられる」
ようやく笑い声を収めた兄の言葉に、伊藤さんと黒田さんが同時に最敬礼した。
「……それがよいだろうな」
笑いの余韻を顔に残しながらも、お父様が頷いた。
「9月の頭には衆議院の選挙もある。その結果で、枢密院議長も交代になるかもしれぬから、この2人のうちのどちらが……ということは、今すぐ決めることはできない。だが、伊藤か黒田、どちらかが総裁になるのは決まりだ」
「はっ……」
伊藤さんが再び頭を下げる。黒田さんも無言でそれに倣った。
「それから、裕仁の学友を選ぶのも大事だ。学習院とも相談して、人柄が良く、それでいて勉強や武道で裕仁に遠慮をしないような者にしなければ。……山縣、伊藤と黒田と相談して、裕仁の学友を選ぶように」
「しかと承りました」
山縣さんがお父様に最敬礼する。こうして、本日一番の議題は、割とすんなり片付いたのだけれど、その後の国内問題や海外の情勢についての議論では、私も兄も、梨花会の面々に容赦なくしごかれたのだった。
1913(明治46)年3月8日土曜日午後5時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町別邸。
「おかえりなさいませ、宮さま!」
大山さんと一緒に皇居から帰宅すると、千夏さんが相変わらずの元気な声で私を出迎えてくれた。
「ただいま。駅伝はどうなっているかしら?」
私がこう尋ねると、
「もうすぐ、先頭が戸塚に着くということでした!」
千夏さんは弾んだ声で答えた。
「押川先生も三島さんも、お話がすごく面白いですよ!」
「そう。それじゃ、夕食の後で、ラジオを聞かせてもらおうかな」
千夏さんに答えると、私は万智子と謙仁がいる部屋の方へ歩いて行った。
(今のところ、何とか進んでいるみたいだけれど、大丈夫かなぁ、いきなり東京から箱根まで走るって……)
そう思ってしまうのは、今回の駅伝大会……東京箱根間往復学生駅伝競走大会が開催にこぎ着けるまでのいきさつを、東京高等師範学校の校長で国際オリンピック委員会委員でもある嘉納治五郎先生に聞かされていたからである。
……昨年の夏、スウェーデンのストックホルムで、第5回オリンピック大会が開催された。日本からは短距離走に東京帝国大学の三島彌彦くん、そしてマラソンに東京高等師範学校の金栗四三くんと小樽水産学校の佐々木政清くん、以上3名の選手が派遣された。結果、彌彦くんは予選で敗退したけれど、金栗くんは7位、佐々木君は13位という成績でマラソンを完走することができた。
(まぁ、有栖川宮家も梨花会の面々もたくさん援助したから、“史実”より選手を1人多く派遣できたし、嘉納さんを通じて給水の重要性はマラソンの2人に注意しておいたから、金栗くんが“史実”みたいに途中棄権することもなかったし、足袋もゴム底にしたら、42km走っても破れなかったし、上々の結果じゃないかなぁ……)
連日新聞に載せられていたオリンピックの記事を読んだ私は、結果に満足していたのだけれど、当事者たち、とくにマラソンに出場した金栗くんと佐々木くんは、まったく満足できなかったらしい。
――オリンピックでまともに戦えるようになるためには、長距離の選手を育成しなければならない!
日本に戻る客船の中で、彼ら2人は嘉納先生に強く訴えた。
その時、嘉納先生の脳裏を過ぎったのが、大隈さんが10年以上前に各学校に提案した長距離走大会のことだった。東京や大阪などの大都市の市内を一周するマラソン大会、そして、東京から芦ノ湖までの競走……初めて聞いた時には荒唐無稽としか思えなかった話が、オリンピック予選会、そしてオリンピック大会の本番を経験した嘉納先生には、ぜひとも達成しなければならない課題に思われた。
――という訳で、東京・芦ノ湖間の往復競走を、来年2月をめどに実施しようと考えています。
昨年10月中旬、日本に戻ってきた嘉納先生は、立憲改進党党首で東京専門学校の創立者でもある大隈さんと一緒に盛岡町の家にやって来て、私に力強い口調で決意を述べたのだった。
(おいおいおい……)
――し、心配なことが、たくさんありますけれど……。
余りの衝撃で、たっぷり10秒は固まってしまった口を、私は何とか動かし始めた。
――まず、選手は集まるのでしょうか?オリンピック予選会の時も、マラソン出場者は20人もいませんでしたよね?東京から芦ノ湖まで100kmほどあったと思いますけれど、それを1人で走るとなれば、参加者がゼロになる恐れも……。
すると、
――ああ、1人で全て走るわけではありません。
嘉納先生はニコニコ笑いながら言った。
――往路を5人、復路を5人、1人おおよそ20kmの区間を担当させて走らせる駅伝競走とします。マラソンの半分ほどの距離ですから、参加者も多くなるでしょう。
(あの予選会の時、10000mの参加者も、そんなにいなかったと思うけれど……)
嘉納先生にそうツッコミを入れたかったのは何とか堪え、その代わりに私は、
――それから、選手を10人揃えられる学校はあるのでしょうか?
と、嘉納先生に疑問をぶつけた。すると、
――それは大丈夫であるんである!
嘉納先生の隣に座った大隈さんが、大きな声で断言した。
――選手が揃えられない学校は、他の学校と合同でチームを作ることを許可するんである!
――まぁ、わが校では、毎年新入生に15kmを走らせていますから、きっと10人選手を揃えられるでしょう。
(これ、チームが出来なくて開催中止、というのもありうるなぁ……)
妙に楽観的な教育者2人を見ながら、私は猛烈な不安に襲われていたのだけれど……。
そんなこんなで計画された学生駅伝競走大会だけれど、やはり10人の選手を揃えられた学校は少なく、嘉納先生の東京高等師範学校、大隈さんが創立した東京専門学校、そして慶應高等学校の3校だけだった。他の学校の選手たちは、東日本と西日本の学生連合チームに振り分けられたので、合計5チームが出場することが決まったのが、今年の1月末だった。
そして、開催日時は2月22日土曜日の午前8時と定められていたのだけれど、約1週間前の2月14日に、突然2週間延期されることが決まった。新たに設定された開始日時は、3月8日土曜日の午後1時である。
――い、いやいやいやいや、ちょっと待ちなさいよ!
翌朝の新聞でそれを知った私は、思わず叫んでしまった。
――芦ノ湖に着くの、夜になるわよ?!箱根の道を暗い中で走って、選手が崖下に転落したらどうするの?!
――しかし梨花さま、学生は勉学が本分ですから、午前の授業の後に大会を始めるのが筋でしょう。
紙面に向かってツッコミを続ける私に、大山さんが紅茶を淹れながらなだめるように言った。
――それはその通りだけれど……せめて、春休み中に開催をずらせなかったのかな?そうしたら、午前中にスタートして、日が暮れる前に芦ノ湖に着けると思うよ。
すると、
――実は、産技研が、この駅伝大会を使って、ラジオの長時間放送の試験をしたいと言っているのです。
大山さんがこう言って、私に紅茶の入ったカップを差し出した。
――産技研が一番早く試験ができるのがこの日程だそうでして……梨花さま、ラジオの受信機はお取り寄せになりますか?
――……それはもちろん。
渋々頷いた私は、“夜に走る学生さんの安全は確保するように、嘉納先生に伝えてね”と大山さんに念を押したのだった。
……そして、3月8日土曜日、午後7時半。
「ふう、何とか全チーム、山登りに入ったわね」
万智子と謙仁と一緒に夕食をとった後、私は自分の書斎に籠った。ラジオの試験放送を聴きたかったのだ。まだ真空管ラジオは出来ておらず、受信機は前世の中学生時代、理科の授業で作ったことのある鉱石ラジオである。レシーバーを両耳に当て、机の上に広げた箱根一帯の地図の上に、各チームに見立てたおはじきを置き、私は駅伝大会の戦況を確認していた。
『今、塔ノ沢から入った情報によると、東日本連合が1位、そこから1分35秒遅れて東京高等師範……これ、1位と2位の差が縮まっていませんかね、三島さん?』
ラジオからはアナウンサー役として駆り出された、冒険小説家の押川春浪先生の声が流れて来る。コースの要所要所を選手が通過すると、そこにいる係員から順位を報告する電話が東京・愛宕山にある放送所に入る仕組みになっているのだ。そうやって集められた戦況を押川先生が整理し、横から三島彌彦くんが解説を入れていた。
「あれ、確か、小田原の中継所で、1位と2位は3分差だったよね……」
私も押川先生と同じように、紙に戦況を整理しながら考えていた。東日本連合のこの区間の選手は、東京帝大の人だ。一方、東京高等師範の走者は、オリンピックのマラソンに出場した金栗くんである。
「ま、まさか、“山の神”が降臨したの?!でも、このペースで前半を飛ばしたら、金栗くん、後半でバテるんじゃ……だ、だけどこれ、逆転しちゃうの?!どうなの?!」
「梨花さん」
突然、夫の声が聞こえ、私は「はうっ?!」と情けない悲鳴を上げた。慌てて振り向くと、すぐそばに、紺色の軍服を着た夫が立っている。
「た、栽さん、お帰りなさい……ごめんね、ラジオに夢中になってしまって……」
「ああ、そうか。今日、駅伝大会で試験放送をするって言ってたね」
栽仁殿下は出迎えなかった私を怒ることはなく、机の上に目をやると、
「すごいなぁ、この戦況、梨花さんがまとめたのか」
と感嘆の声を上げた。
「うん。ラジオを聴きながらまとめたの」
私はそう言いながら、耳からレシーバーを外した。
「ラジオって、私の時代でも使われていたんだよ。それが出てきたから、つい嬉しくなって、こんなことをやってしまったけれど……。でもね、ワクワクしたの。私の記憶の中にしかない楽しさが、やっと現実に飛び出てくるんだなって。一歩一歩、私の時代に近づいているんだって……」
すると、両腕と背中に、急に重みと温もりが覆いかぶさった。栽仁殿下が、私を後ろから抱きしめたのだ。
「た、栽さん?」
「愛しい……」
万感の思いが籠った夫の声に、思わず胸がドキリとした。
「梨花さんが嬉しそうな顔をすると、僕も嬉しくなる。梨花さんが愛しくて、愛しくてたまらなくなるんだ」
私の心の中を知ってか知らずか、栽仁殿下は私の右肩に顔を埋めながら、情熱的な言葉を私に囁き続ける。夫の吐息が掛かった耳朶が、かあっと熱くなったような気がした。
「きっと、梨花さんだけが知っている楽しみが、この世界に現れるたびに、梨花さんは今みたいに嬉しそうな顔をするんだろうな。僕、そんな梨花さんを、もっとたくさん見たい……」
「……栽さん、嬉しいことって、それだけじゃないよ」
私は少しだけ、顔を右に向けた。
「栽さんが戻って来てくれたから、私、それも嬉しいのよ?」
「梨花さん……」
「当然でしょ。1週間ぶりの再会だもの。子供たちや、大山さんや梨花会の面々がいるから、寂しくはないけれど、やっぱり、隣に栽さんがいる方がいい。だって、私の愛しい夫だもの」
私は夫に微笑むと、
「……愛しているわ、栽さん」
結婚してから、何回も何十回も……いや、数百回は口にした言葉を、また彼に投げた。
「僕も、梨花さんを愛しているよ」
すると、夫もこう言いながら、後ろから私を抱き締める腕に、更に力を込めたのだった。
※ラジオのくだりは「シャープ100年史」「那須科学歴史館」などのHPを参考にしました。受信機に関しては、拙作の世界線では、アメリカの方が技術的に一歩先に行っているのではないかと思います。




