閑話:1913(明治46)年立春 局長2人の受難(2)
そして、午後1時、大蔵省の大臣室。
「幣原君がここに来るとは珍しいね。どうしたのかな?」
前触れもなくやって来た浜口主計局長と幣原取調局長を、大蔵大臣・高橋是清は機嫌よく出迎えた。恵比寿か達磨を思わせるふくよかな身体に、笑顔がとてもよく似合っている。
「実は……」
大臣に人払いを頼み、人の気配が無くなったのを確認すると、応接用の椅子に座った浜口と幣原は、宮内省の予算の使い道を質し、発生していると思われる無駄を無くすこと、そしてそれで生じた余剰金を諜報機関創設に充てるべきであることを主張し始めた。主に喋っていたのは幣原だったが、浜口は要所要所で短く補足を入れたり、話を要約したりしており、彼も幣原と論を同じくしているということは容易に察することができた。
「なるほど、よく分かったよ」
2人の話を聞き終わった高橋大蔵大臣は深く頷くと、「少し待っていてくれないかな」と彼らに頼み、執務机の上にある電話機の前に移動した。
「ああ、もしもし高橋です。実は今、私のところに、主計局長の浜口君と外務省の幣原君が来ておりまして、宮内省の予算を削り、生じた金で諜報機関を作るべきだと言い始めたのです。それで、どうしたものかと……え、今から、ここで、ですか?……分かりました。それでは、準備をしておきます」
どこかに電話をしていたらしい高橋大蔵大臣は、いったん受話器を置いて浜口と幣原の方を向くと、
「君たち、あんパンは食べるかね?」
と尋ねた。
「はぁ……」
「それは、いただきますが……」
戸惑いながらも浜口と幣原が首を縦に振ったのを確認すると、高橋大蔵大臣は再び電話機に手を伸ばした。
「もしもし、あんパンを大蔵省の大臣室に届けて欲しいのですが……個数?そうだな、30個でいいかな」
電話でパン屋に注文をしたらしい高橋大蔵大臣に、
「あの、閣下……あんパンの食べ過ぎは、議長殿下が止めるようにお命じになったと聞きましたが……」
浜口主計局長は恐る恐る尋ねた。すると、
「ああ。だから、私が食べられるのは、せいぜい5、6個だろうねぇ」
残念そうに高橋大蔵大臣は答えた。
「若いころなら、絶対に50個は食べられた。今だって、その半分は食べられる自信があるけれどねぇ」
(それは流石に多すぎるのではないか?)
幣原が心の中で高橋大蔵大臣にダメ出しをした時、
「そうだ、浜口君、幣原君。小使に頼んで……ああ、この時間だともういないか。仕方ない、お客様をもてなさないといけないから、君たち2人でお茶を淹れて、ここに持ってきてもらえるかな。とりあえず20人分」
高橋大蔵大臣はニッコリ笑い、浜口と幣原にこう頼んだ。
局長2人が大蔵大臣に言いつけられた通り、20人分のお茶を淹れ、給湯室から大きな丸盆を使って大臣室へと運んでいくと、目指す大臣室から、何人かの談笑する声が聞こえてきた。大蔵大臣の言っていた“お客様”がもうやって来たのだろうか。訝しく思いながら、2人が大臣室のドアをノックして開けると、
「ああ、この2人が例の……ですか?」
先ほどまで浜口と幣原が掛けていた応接用の椅子、その一番上座に、銀灰色の背広服を上品に着こなした紳士が座っていた。有栖川宮家の当主で、最近海兵大将に進級した威仁親王である。彼のそばには、前国軍大臣で枢密顧問官の1人である西郷従道もいて、浜口と幣原に笑顔を向けていた。
「こ、これは有栖川宮殿下……」
慌てて幣原が一礼し、浜口もそれに倣う。緊張から身を硬くした2人に、
「そう緊張しなくともよいのですがね。今日の私は、嫁御寮どのの代理のようなものですし」
威仁親王が微笑しながら声を掛ける。
「先ほどまではお怒りになっていらっしゃったのに、随分な変わりようですなぁ」
西郷前国軍大臣がのんびりと言うと、
「それは閣下、仕方がないでしょう。緊急招集とやらで、可愛い孫たちのところに遊びに行けなかったのですから」
威仁親王の表情が少し強張る。この宮さまが、長男の嫁である章子内親王の生んだ2人の子を可愛がるのを無上の楽しみとしているのは、政界では広く知られた話だった。
「……ですが、この2人の面構えを見て、気が変わったのですよ。だいぶ楽しめそうですからね」
「確かにそうですなぁ。近頃の木っ端役人どもよりは、気骨がありそうですし。どこまで耐えられるかが楽しみですなぁ」
「……妙な雰囲気だな」
お盆を持ったまま囁いた幣原に、浜口は黙って頷いた。威仁親王も西郷前国軍大臣も、まるで品定めをしているかのように自分たち2人を眺めているのだ。
「どうなっているのか、一度状況を整理したいな」
「ああ」
浜口が小さな声で返事したのを確認するやいなや、幣原は再び頭を下げ、
「有栖川宮殿下がいらっしゃるとは知らず、無礼を致しました。茶を淹れ直して参りますので、今しばらくお待ちを……」
そう言うと、丸盆を机の上に置いた。浜口が幣原と同じ動きをした瞬間、
「そんな小細工は通用しませんよ。僕たちにはね」
幣原の眼鏡の奥の目が見開かれた。振り向いた2人の視線の先、大臣室のドアの前に、紺色のフロックコートを着た目鼻の整った顔立ちの男が佇んでいる。彼こそは誰あろう、時の内閣総理大臣で立憲自由党の総裁である陸奥宗光男爵だった。
「久しぶりだね、幣原君。皇太子殿下がご渡欧から戻られた時以来かな」
柔らかな物腰で、陸奥内閣総理大臣は話し始めた。しかし、それが上辺だけのものであることを、かつて外務大臣だったこの人の下で働いていたことのある幣原取調局長は知っていた。必要であれば、この陸奥宗光という男は、……政治家としてだけではなく、外交家としても一流である彼は、言葉の罠を張り巡らせて相手を操縦することも、鋭い口舌の刃を相手の喉元に突き付けて屈服させることも、自由自在に行えるのだ。彼の麾下で働いていた時には、それが頼もしく思えたが、自分の敵か味方か分からないこの状況では、それが非常に不気味に感じる。
「そう警戒しなくてもいいだろうに」
身構えた幣原と浜口を見て、陸奥総理は微笑した。穏やかな態度の彼の後ろでは、閣僚たち……文部大臣の西園寺公望、国軍大臣の山本権兵衛、内務大臣の原敬、厚生大臣の後藤新平、そして農商務大臣の牧野伸顕が、局長2人をじっと見つめていた。
(まるで、取って食われてしまいそうな……)
浜口の額に脂汗が滲んだ時、
「やれやれ、剣呑ですね」
居並ぶ閣僚たちの後ろから、紺色の軍服を着た恰幅の良い男が現れた。国軍参謀本部長の斎藤実海兵中将である。
「配達に来たパン屋が困っていますよ。ドアのところに人がたくさんいて、大臣室の中に入れないと……」
参謀本部長の呆れたような声に、
「ああ、あんパンが届きましたか。早かったですね」
高橋大蔵大臣の顔がパッと輝いた。「皆さま、あんパンはいかがですか?美味いあんパンを注文したのですよ」
「それは素晴らしいですね。食べながら、残りの面々が到着するのを待ちましょうか。さ、浜口君も幣原君も、椅子に掛けたまえ」
内閣総理大臣の言葉に逆らえるはずがない。浜口と幣原は、空いていた来客用の長椅子にぎこちなく腰を下ろした。2人と同じように、陸奥総理や閣僚たちも椅子に座り、あんパンを口に運び始めた。
「うん、これは美味い。流石、高橋さんの選んだあんパンだ」
あんパンを一口食べた西園寺文部大臣は満面の笑みで頷き、
「確かに。余り食べ過ぎると、議長殿下に怒られてしまいますが……」
後藤厚生大臣も嬉しそうにあんパンを口に運んでいる。その他の客たちも、あんパンに舌鼓を打っているようだったが、浜口と幣原は、針のむしろに座らされた心地がして、あんパンを持ったまま動けないでいた。
と、
「おい、うまそうなもの食ってるじゃねぇか!」
突然、大臣室に雷のような大声が響き渡った。ぎょっとした局長2人が振り返ると、そこには前内閣総理大臣の井上馨伯爵が立っていた。その後ろでは立憲改進党の党首の大隈重信がふんぞり返っているし、元内務大臣の山田顕義や、先ごろ貴族院議員となった桂太郎と言った、立憲改進党の大物が顔を揃えていた。おまけに、桂議員の隣には、約9年半の長きにわたって内閣総理大臣を務めた黒田清隆伯爵までいる。与野党問わず、政界の大物が顔を揃えるこの状況に、浜口と幣原の緊張は増すばかりだった。
ただ1人、黒田伯爵の隣に立っている男は、幣原の知らない人物だった。黒いフロックコートを着た、いかにも立派な紳士であるが、顔を合わせた記憶が全くない。
「おい、黒田閣下の隣、誰だか知ってるか?」
小声で尋ねた幣原に、
「ああ、大山歩兵大将だ。最後の陸軍大臣の……」
浜口は囁くように答えた。陸と海に分かれていた軍隊が合同して、既に20年以上が経っている。浜口と幣原が官界に入った時には、既に大臣職を辞していた大山巌は、彼らにとっては過去の人だった。
「じゃあ、あれが、皇太子殿下が洋行中によくおっしゃっていた方か。初めて見たが……」
幣原が呟いた瞬間、その当の大山が、幣原と浜口に穏やかな微笑を向けた。
「おや、そちらの御二方は、初めてお目に掛かりますね。有栖川宮家の別当を務めております大山と申します」
大山別当が自己紹介したので、浜口と幣原も、それぞれ名乗って一礼する。
(有栖川宮殿下にお供して来たのか)
浜口はそう認識し、
(皇太子殿下も皇太子妃殿下も、大山別当のことを大層信頼なさっていたが、所詮別当は別当。大物だらけのこの場になぜいるのか……)
幣原も大山が大臣室にいることを不思議に思っていた。
「では皆さま、どうぞこちらへ。高橋君の御贔屓のあんパンは、やはり美味いですよ」
陸奥総理は、局長2人の様子をちらりと確認すると、到着したばかりの大物たちに明るく言った。彼らが空いた椅子に座ると、一座はよりにぎやかになった。
「うん、このあんパン、美味いな。俺も今度作って、みんなに振る舞おうか」
「やめてください、井上閣下。死人をどれだけ出したいのですか」
井上伯爵と西園寺文部大臣のやり取りに、周りから閣僚たちが茶々を入れ、楽しげな笑い声が上がる。和気藹々とした空気が流れていたが、浜口と幣原はその雰囲気に身を任せられず、緊張しながら湯飲み茶わんを口に運ぶことしかできなかった。
「だいぶ、緊張なさっているご様子ですね」
2人の横から、大山別当が穏やかな声で話しかけた。
「え、ええ……」
「そ、それはもう……」
何とかして緊張状態から抜け出したい浜口と幣原は、藁をもすがる思いで、大山別当の言葉に応じた。
「閣議に呼ばれて、予算について説明をすることはあるのですが、政界の大物がここまで集まった席にいるのは初めてで……」
「僕もです。正直言って、天皇陛下や皇太子殿下に初めてお目に掛かった時、いや、その時以上に緊張しています」
浜口と幣原が口々に言うと、
「実は、俺もでございますよ」
大山別当はこう告白した。
「俺もかつては、ここにいらっしゃる方々と、一緒に働いておりました。しかし、それから20年以上経ちまして、その時の仲間は皆栄達を遂げ、俺は一人取り残されて、余生を過ごしているようなものでございます。煌びやかな栄誉に包まれたかつての仲間たちと、己の身とを比べてしまうと、恥ずかしくなってしまって、この場に居たたまれない気持ちなのですよ」
「……」
「は、はぁ……」
どう言葉を返したものか、困ってしまった浜口と幣原に、
「お2人とも、俺よりずっとお若いのです。栄達を遂げる機会はきっとありましょう。俺のようになってはいけませんよ」
大山別当は非常に真面目な表情で注意を与えた。
その時、
「すまん、遅くなった」
大臣室に、新たな人影が現れた。枢密院議長の伊藤博文と、前大蔵大臣で枢密顧問官の松方正義伯爵である。
(またか……)
(次から次へと大物が……)
圧倒されるばかりの浜口と幣原の前に、
「ふう、やっと着いた」
更に空色の軍服を着た小柄な男が現れた。国軍航空局長の児玉源太郎である。
「おや、所沢から飛行器で来るかと思ったが、早かったのう、源太郎」
のんびりと言った西郷前国軍大臣に、
「いや、今日は青山の練兵場にいたのですよ。そこから人力車を走らせました」
そう答えながら、児玉航空局長は机の上のあんパンを1つ手に取る。そして、愛嬌のある笑顔を見せながら、長椅子に座っている浜口と幣原の間に割り込んだ。
「源太郎、高野の姿が見えないが、どうした?」
山田伯爵が尋ねると、
「……実は、介護休暇を取って、郷里に帰っているのですよ」
児玉航空局長はあんパンを飲み込んでから答えた。「お父上の体調が悪いらしい。本人は休暇を取るのを渋っていたが、親孝行してこいと言って送り出しました」
「これで、あと1人……」
陸奥総理が呟いたのに呼応するように、大臣室のドアが静かに開き、
「遅れて申し訳ありませぬ、皆さま」
そう言いながら、痩身の紳士が頭を下げた。宮内大臣の山縣有朋伯爵である。
「「?!」」
先ほど、“予算を削れ”と主張していた……その相手先の長の登場に、浜口と幣原は激しく動揺した。その様子を見ながら、「おや、驚いてしまったようだね」と微笑した陸奥総理は、
「山縣殿。この2人について、天皇陛下と皇后陛下は何かおっしゃっておられましたか?」
と聞いた。
「……結論としては、“入れるのは時期尚早”ということですな」
山縣宮内大臣はそう答えると、1脚だけ空いていた椅子に腰を下ろした。「“卿らが鍛えるのは構わないが”……天皇陛下はそう仰せでした」
「すると、まだすべては明かせないということか」
残念そうに呟いたのは、伊藤枢密院議長である。「妃殿下は、両陛下と皇太子殿下の了承があれば、入れてもいいのではないかとおっしゃっていたのだが」
「しかし……僕たちが思う存分鍛えるのは構わないのですよね?」
陸奥総理がニヤリと笑うと、「ああ」「うむ」と他の列席者も呼応して笑顔を見せる。“天皇陛下”“皇后陛下”という言葉が出て、最大限に緊張した浜口と幣原の背中を、嫌な汗が伝った。
「さて、浜口君、幣原君。これから僕たちが話すことは秘中の秘、国家機密に属することだ。ゆめゆめ、他人に話そうなんて気を起こさないでくれたまえ」
ニヤニヤと笑いながら、しかし厳かな調子で陸奥総理は言った。凄みの伴うその言葉に、浜口と幣原は黙って頷くしかなかった。
「では、教えてあげようか。……君たちが高橋君に提案してくれた諜報機関だがね。実はもう、あるんだ」
「え……?」
「は?」
まともな反応を返せない浜口と幣原に、
「本当さ。宮内省の中にある。もう20年以上前からかな。宮内省の予算は、半分以上はその諜報機関のためのものさ。極東戦争の時も、非常に活躍したね。“タンジールの兵糧攻め”と君たちは呼んでいるようだが、あれもその諜報機関……中央情報院の手に入れた情報が無ければできなかったことだよ」
陸奥総理は、今度はとても楽しそうに告げた。
「だから、宮内省の予算を削るなんてもってのほかなんだ。何もないところから諜報機関の設立を考えた君たちの頭脳は、驚くに値するけれど、その程度のことは、既に僕たちも考えてやっていることなのだ。うぬぼれないことだね」
「「……」」
浜口も幣原も、総理の口から飛び出した言葉を信じたくなかった。しかし、信じざるを得なかった。政界の大物が与野党問わずに集い、国軍上層部や皇族までいるこの場で、彼らが自分たちをだまそうとする動機が見当たらなかったからだ。
「そして、その初代総裁……中央情報院の設立から、ずっと組織を統括して我が国のために身を粉にして働き、3年前に総裁職を退いた国家の大功労者の名前、君たち、知りたくないかい?」
「「……」」
どう答えを返してよいか分からず、黙りこくっている浜口と幣原に、陸奥総理は楽しげに問いかけると、
「そこにいる大山殿だよ」
と言った。
「え?!」
「は?!」
驚愕した2人が横にいる大山別当を見ると、彼は楽しくてしょうがない、といった風で、クスクスと笑っていた。その様子で、浜口と幣原は総理の告げたことが事実だということを悟った。
「君たちは大山殿を、出世街道から外れた老いぼれと侮っていたようだけど、それは単なる仮の姿なのさ。真実を見抜けないとは、君たちもまだまだ半人前だね」
陸奥総理がニヤリと笑い、居並ぶ政界・国軍の大物たちも、ニヤニヤと笑いながら、獣のような目で浜口と幣原を見つめている。予想をはるかに超えた真実に叩きのめされた2人の局長の頭上を、大山別当の笑い声が流れて行ったのだった。




