皇室譲位令と皇室喪儀令
1913(明治46)年2月15日土曜日午後1時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「さて、お身体の具合はいかがでしょうか、妃殿下?」
枢密院議長の伊藤さんは、分娩所のベッドの上に身体を起こした私に尋ねた。伊藤さんの隣では、前大蔵大臣で枢密顧問官を務めている松方さんが、私を心配そうに見つめている。
「ありがとうございます、伊藤さんも松方さんも」
寝間着の上から桃色の羽織を着た私は、2人に頭を下げた。「だいぶ良くなってきましたよ。吐き気やめまいも治ってきたから、食事の量も増えました。議長の仕事もちゃんと出来ています」
悪阻が一番ひどかったのは、帝国議会の休会明けのころだった。その頃は、起き上がるのも辛かったので、弥生先生と中島先生、そして副議長の徳川家達さんとも相談して、新年最初の本会議は欠席した。何とか議事堂に行けるようになったのは、1月31日のことである。そこからは、身体の調子を見ながら議事打ち合わせだけに出席し、2月6日の本会議から議長として議場に出るようになった。
「太田書記官長もですけれど、大木さんも渋沢さんも千種の叔父さまも気を遣ってくれて……。家達さんはもっとすごくて、私が移動中に倒れたら大変だと主張して、議事堂でずっと私の後ろをついて歩いています。去年の帝国議会では、そんなことはなかったのに……」
私が小さくため息をつくと、
「それはそれは……家達公も非常にご心痛のようですな。しかし、無理もございません。万が一、議事堂で事故が発生して、妃殿下と妃殿下のお腹の中にいらっしゃるお子様に何かありましたら、昨年の閉会式での騒ぎどころではございません」
ベッドのそばにある椅子に座った伊藤さんは、そう言いながら頻りに頷く。隣に座った松方さんもひどく真面目な表情で首を縦に振った。
「大山さんまで、“今月の末までは、例え調子が良くてもなるべく安静に過ごしてください”と言うのです。今日は大山さんも青山御殿に出かけているから、あなたたちとも応接間で会えるかと思っていたのに、千夏さんに分娩所に連れて行かれてしまって……はぁ、そんなに心配なら、私を議会に出さなければいいのに」
私が軽く唇を尖らせると、
「そういう訳にも参りません」
伊藤さんは、今度は首を左右に振る。
「貴族院議長としての御職務を遂行なさることは、妃殿下が上医になられるために必要なことでございます。であればこそ、わしたちは……」
(上医になれたとしても、立場をどうするかという問題があるのだけれど……)
伊藤さんの言葉に、2年前、初めて参列した帝国議会閉会式の時に抱いた疑問が再び頭をもたげた時、
「伊藤さん、例の物を、妃殿下にご説明申し上げなければ……」
松方さんが重々しい口調で伊藤さんの口の動きを止めた。「それもそうじゃな」と伊藤さんは頷くと、黒い漆塗りの平べったい文箱を差し出した。
「それは何ですか?」
私の質問に、
「先ほど陛下が御裁可になった皇室令……皇室譲位令と皇室喪儀令の写しでございます」
伊藤さんは今までとは打って変わって厳かな口調で答えた。背筋を伸ばした私に、
「本来であれば狂介が説明するべきなのでしょうが、あいにく、宮中で所用があるということで、わしと松方さんが頼まれまして参上いたしました」
そう言いながら、伊藤さんは文箱を私に差し出した。
「中を拝見してもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます」
伊藤さんの答えを聞くと、私は慎重に文箱の蓋を開けた。中に入っている冊子の表紙をめくり、記された文章を目で追っていく。
(ああ、ついに……)
心の中に、色々な感慨がこみ上げてくるのを私は感じた。やっと、ここまでこぎ着けることができたのだ。皇室譲位令の公布に。
……話は今から20年以上前に遡る。1888(明治21)年7月下旬、前世の記憶を取り戻した私は、お父様とお母様、そして後に梨花会の中心メンバーとなる政府高官たちに、“史実”で日本が歩む道のりについて説明した。その時、私が前世で死ぬ直前に話題になっていた譲位に関する出来事も簡単に話した。
すると後日、当時私が住んでいた霞ヶ関の爺の家に、その時も枢密院議長だった伊藤さんと、司法大臣を務めていた山田さんが連れ立ってやって来た。
――ご用件は何でしょうか?
2人が持ってきてくれたあんパンを頬張りながら、私が軽い調子で尋ねたら、伊藤さんと山田さんは急に私に向かって最敬礼した。
――ど、どうしたんですか?!
突然の展開に驚いてしまった私に、
――増宮さまが前世で亡くなった翌年に、時の天皇陛下が皇太子殿下に譲位をなさる予定だったと……その際の手続きや儀式について、覚えていらっしゃる限り、お話しいただきたいのです。
伊藤さんは最敬礼したままこう言った。
――ちょ、ちょっと待ってください。私、前世では平民で、手続きの実際に立ち会ったわけじゃないですし……!
――それでも、何らかの報道には接しておられたでしょう。新聞や……あの、“てれび”や“いんたーねっと”というもので……!
慌てる私に、山田さんが必死の形相で食い下がった。
――テ、テレビやネットで……ええと……それなら、天皇陛下のおことばがテレビで流れたのが、私が死ぬ2年前の2016年で……、それで、有識者会議が設置されて、譲位の特例法が国会で成立したのが2017年だったと……。
しどろもどろになりながら、私が2人に答え始めると、
――な?!議会で法律が成立した?!
――そんなバカな!皇室典範はどうなっている!譲位は皇室に関わることであるから、法律ではなく、皇室令で規定するべきだ!
山田さんと伊藤さんが目を怒らせて同時に立ち上がった。
――で、でも、そうだったんですってば!それで、2019年5月1日に譲位がされるはずだったんですけれど、私、その前に死んじゃったから……って、伊藤さんも山田さんも、あんパン持って私に迫ってこないでー!
態度を豹変させた2人に、私は散々質問攻めにされ、私の時代の譲位に関する記憶を、本当に些細な点まで洗いざらい吐かされたのだけれど……。
少し話が逸れた。ともかく、私の話を聞いた梨花会の面々により、1889(明治22)年2月11日、帝国憲法と同じ日に定められた皇室典範には、譲位に関する条文が盛り込まれた。けれど、“天皇が長く体調を崩し、務めを果たせないために譲位の意思を示した場合は、皇族会議及び枢密院での協議を経て、皇嗣が践祚して神器を継承する”という意味のことしか皇室典範には書かれておらず、具体的にどのような事務作業や儀式が必要になるのかについては、まったく決まっていなかった。
また、天皇を含め、皇族の葬儀を行う手続きについても、明確な規定が存在していなかった。皇室典範が定まってから、英照皇太后陛下をはじめ、皇族の喪儀は何回かあったのだけれど、その手順は明文化されていなかった。“史実”の記憶を持つ原さんと斎藤さんによると、“史実”でお父様が亡くなった時、天皇の喪儀について明文化した皇室令が存在しなかったため、お父様の大喪儀の手順は、手探りで一つ一つ決めていくしかなかったそうだ。
――万が一、お代替わりとなった時も、円滑に進められるように、準備を今から進めるべきである。
そういう声は、梨花会の中でも、皇室典範が定められた直後から上がっていた。また、1892(明治25)年、伊藤さんが交通事故に遭い、“史実”の記憶を得てからは、皇室譲位令と皇室喪儀令の草案作りも進められた。
それにも関わらず、皇室譲位令と皇室喪儀令の裁可が今になってしまったのは、お父様に対する遠慮があったからだった。皇室典範が定められた時、お父様は満36歳、まだまだ若くて元気だった。そんなお父様に、“あなたが引退したり死んだりしたときに、残された人たちが混乱しないような準備をしてください”とは、私を含めて、誰も言うことが出来なかったのだ。
ところが、昨年になると、
――譲位令と喪儀令を整備するように。
お父様がこう言い始めた。“史実”の自分の没年になったことで、お父様も思うところがあったらしい。そして、完成した皇室譲位令と皇室喪儀令が、本日無事に裁可されたという訳である。
「これで、最低限の準備は出来ましたけれど、兄上が天皇になる時、どちらの皇室令を使うことになるのでしょうか……」
皇室譲位令と皇室喪儀令に一通り目を通した私は、呟くように言った。
「さぁ、それは……運命に任せるしかない面もありますが……」
伊藤さんが珍しく歯切れの悪い答えを返した横から、
「譲位の方が、社会的な混乱は少なくなりますな」
松方さんがこう指摘した。
「確かに、松方さんの言う通りですね。私の前世の祖父が、迪宮さまが“史実”で亡くなった時のことを話してくれたことがありましたけれど、自粛の動きがすごかったと言っていました。殉死者も出たと……」
そこまで言って、私は“史実”のお父様の大喪儀の日に殉死者が出たことを思い出した。乃木希典さんと、奥さんの静子さんだ。もちろん、この時の流れでは、お父様は今も元気なので、乃木さんも変わりなく、兄夫妻の子供たちの輔導主任を務めているけれど……。
「乃木さんは大丈夫ですよね?」
私は伊藤さんと松方さんに尋ねた。「お父様が亡くなって、乃木さんがこの時の流れでも殉死してしまったら、迪宮さまたちにどんな悪影響が出てしまうか……」
「それは問題ないと思いますが。乃木の2人の息子も死んでおりませんし」
伊藤さんの回答に、「そういえば……」と私は頷いた。“史実”の乃木さんは、2人の息子さんを日露戦争で亡くしている。この時の流れでは、長男の勝典さんは歩兵大尉として大阪で勤務しているし、次男の保典さんは中央情報院の職員として働いていた。
「だけど念のため、お父様から乃木さんに、“殉死するな”と言ってもらう方がいいでしょうか?」
私が伊藤さんと松方さんに再び質問した時、
「伊藤閣下、よろしいでしょうか!陸奥閣下からお電話が入っています!」
遠くの方から、千夏さんの元気な声が聞こえた。千夏さんは育休が終わった去年の10月から、この盛岡町邸で勤務しているのだ。
「ふむ、手紙でなくて電話とは……よほど火急の案件ですな。ちと、電話に出て参ります」
伊藤さんは私に一礼すると部屋を出て行った。長話になるかと思ったけれど、意外にも伊藤さんは3、4分ほどで私のところに戻ってきた。
「いかがでしたかな?」
松方さんの問いに、
「ちと厄介な、しかし、かなり面白そうなことが起こったようで」
伊藤さんは人の悪そうな笑みを顔に浮かべ、私と松方さんに詳細を教えてくれた。
「ちょっとどころではなくて、かなり厄介なことになっていませんか?大蔵省の主計局長から、予算にツッコミが入るなんて……」
私が眉をひそめると、
「喜ばしいことですな」
前大蔵大臣の松方さんは満足そうに頷いた。「言われたことをただこなすのではなく、数字の向こうに、自分なりの考え方を得られるようになったという証拠ですな。わしが蔵相をしていたころより、更に育て甲斐のある人間になってくれたようです」
「連れに焚きつけられた可能性が高いがな」
珍しく饒舌な松方さんの隣で、伊藤さんが苦笑した。「……しかし、連れも優秀な人間です。皇太子殿下の御渡欧の際の仕事ぶりは見事だったと曾禰から聞いております。これを機に、2人とも梨花会に入れても良いかもしれません。いかがでしょうか、妃殿下?」
「兄上とお父様とお母様がいいなら、入れてもいいと思いますけれど……」
そう答えながら、私は主計局長とそのお連れさんのことが心配になった。梨花会の面々のことだ。今回の件を奇貨として、“直々に鍛えてやる”と言いながら、2人に難問をたくさん出していたぶるのだろう。
「では妃殿下、わしらはこれで失礼いたします。どうか吉報をお待ちになり、ゆっくりお身体を休めていただきますよう」
そう言って立ち上がり、私に頭を下げた伊藤さんに、
「……一応言っておきますけれど」
私はわざとしかめっ面を作ってから言った。
「私にとっての吉報は、その2人が五体満足でご自宅に帰ることですからね。折角の人材、いじめ過ぎて壊さないようにしてくださいね」
そうお願いをしてみたけれど、揃って凄みのある笑みを見せる伊藤さんと松方さんが、そして他の梨花会の面々が、この言葉に従ってくれるかどうか、私は全く確信が持てなかったのだった。




