閑話:1912(明治45)年小雪 諜報員たち
1912(明治45)年11月25日月曜日正午、オスマン帝国の首都・コンスタンティノープル。
「なぁ、スミス君、昼飯を食いに行かないか?」
今年7月からオスマン債務管理局で勤務を始めたイギリス人のオリバー・スミス氏は、イギリス人の先輩職員に昼食に誘われた。
「はい、もちろん」
スミスは愛想笑いを見せながら椅子から立ち上がった。先輩に従順な後輩を演じ、この組織に溶け込まなくてはならない。少しでも怪しまれないように。
(ま、これで正解なのか分からないけどな)
そんな思いが表情からにじみ出そうになるのを、スミスは慌てて笑顔で覆い隠す。そして、「俺、もう腹ペコなんです。早く店に行きましょうよ、先輩」と言いながら、先輩職員の先に立ち、コンスタンティノープルの街へと出て行った。
コンスタンティノープルの街を颯爽と歩くオリバー・スミスは28歳。イギリス本国で大学を卒業した後銀行に勤務し、コンスタンティノープルに本部を置くオスマン債務管理局に派遣された……ということになっている。しかし、その経歴には、真実は何一つ含まれていない。イギリスに4月に設立された諜報機関・秘密情報部職員、ジョージ・テイラー……それが彼の正体だった。
元々、テイラーはイギリス海軍の軍人だった。東インド艦隊で駆逐艦に乗り組んでいたのだが、本国の戦艦に転属せよ、という命令を受け、イギリスに戻ってきたのが今年の3月13日のことだ。ところが、イギリスに到着した彼に伝えられたのは、戦艦に乗るのではなく、新しく政府に作られた諜報機関で働くように、という指示だった。
――ちょっと待ってください。なぜ俺がそんなことをやらないといけないんですか?!
思わぬ事態に抗議したテイラーだったが、「くじ引きの結果だ。従わなければ殺す」という上官の無慈悲な一言と鉄拳とで、嫌々ながらも海軍軍人としてのキャリアを捨てざるを得なかった。そして、数か月の間、必要な訓練を受けた後、オスマン債務管理局の実態を秘密裏に探るため、テイラーはコンスタンティノープルにやって来たのである。
(まったく、俺がどうしてこんなことを……)
先輩に連れられて入ったホテルの食堂で、今までのことを思い出しながら、テイラーは食後のコーヒーを啜った。本国で銀行員としてのトレーニングをみっちりやらされたおかげで、オスマン債務管理局でも怪しまれることなく勤務できている。しかし、志願して海軍軍人になった彼にとって、今の勤務状況は非常に不満だった。大海原に出てみたいと思って海軍軍人になったのに、自分が今やらされているのは、机の上で数字の羅列を眺めながら、あるかないかも分からない不正の存在を探るという、華々しさとは無縁の仕事である。
しかし、この仕事で唯一よかったと思うのは、コーヒーが好きなだけ飲めることである。海軍にいたころも、そして本国で銀行員のトレーニングをしていたころも、飲み物と言えば紅茶だった。英国式の優雅なティータイムは、紅茶が苦手なテイラー氏には拷問のような時間だったのだが、コンスタンティノープルでは紅茶を強制されることはなく、うまいコーヒーがいくらでも飲める。その点だけは、コンスタンティノープルに来てよかったと思うのだが……。
と、
「しかし、君も大変だね。婚約者を本国に残しているのだろう?」
先輩職員がテイラーに尋ねると、紅茶のカップに手を伸ばした。
「いや、大丈夫です。手紙でやり取りはしているので……」
そう答えながら、
(畜生、婚約者なんていねぇよ……いたら、人生、まだマシだろうによ……)
テイラーは心の中で毒づいた。“婚約者を本国に残している”というのは、頻繁に手紙をやり取りしても怪しまれないためについている嘘だ。両親や兄弟も亡くなり、親しい友人もいない彼には、手紙を気軽に送り付けることのできる相手はいないのだった。
すると、
「まぁ、腐らずに、業務を続けることだよ」
紅茶を飲んだ先輩職員はテイラーをなだめるように言った。
「君の仕事が評価される時は必ずやって来る。それまでコツコツと、粘り強く仕事を続けるんだよ」
「……だ、大丈夫ですよ、先輩。俺、先輩には十分評価をしてもらってるんで」
慌ててテイラーは明るく答えた。「そうかい」と先輩職員はゆったりと答え、また紅茶を一口飲んだ。テイラーもコーヒーのカップに手を伸ばし、コーヒーを堪能する。
(あーあ、早くイギリスに戻りたいなぁ)
心の中でテイラーはため息をつく。そのためにも、まずはこの善良な先輩をはじめ、オスマン債務管理局の人間を欺き通し、任務を果たさなければならない。幸い、自分の正体は露見していないようだから、このまま任務を続行しよう。テイラーは改めてそう決意した。しかし、彼の前で優雅に紅茶を飲む先輩職員が、日本の諜報機関・中央情報院の協力者であり、コーヒーを美味そうに飲む後輩が同業者であることをとうに看破していることに、彼はついに気づくことができなかったのであった。
一方その頃、オスマン帝国領・アラビア半島を流れるユーフラテス川のほとり。
バグダード(バグダッド)の街から南に約90km、乾いた荒涼の平野の中で、数十人の人夫が動いていた。ある者はツルハシを地面に突き立て、またある者は土砂をかごに入れている。人夫たちの後ろには数名の男がいて、掘り出されたばかりの石碑を取り囲んでいた。彼らはドイツ東洋協会から派遣されている、古代都市・バビロンの発掘調査団だった。
「教授、ここに、“腕を折らなければならない”と書いてあるようです」
その中に1人、目付きの鋭い若い男がいる。屈み込んだ彼が石碑の表面を撫でながらドイツ語で言うと、一団のリーダーらしい初老の男も彼のそばにしゃがみ、熱心に石碑を観察する。そして、
「……素晴らしい。その通りだよ。いやぁ、西村くんは本当に解読が早い」
と若い男をドイツ語で称賛した。
「恐れ入ります、教授。残りも読んでしまいましょう」
西村と呼ばれた若者はそう言うと、再び石碑の表面に目を走らせた。しかし、
(さて、この調査団の別働隊がしていることは、一体なんだろうか……)
西村――実は中央情報院の職員・石原莞爾――は、ノートに石碑に彫られた文章を書き付けながらも、別のことを考えていた。
石原がこのアラビア半島にいるのは、中央情報院の調査の一環である。ドイツは最近オスマン帝国に対して、ドイツ資本から金を借りさせて鉄道を作らせたり、ダムを作らせていたりする。それが何を狙ってのことなのか……詳しく調査するために彼が派遣された。日本からドイツに留学してきた大学生に化け、ドイツ東洋協会と関係のある考古学教授の教室に入り浸ることに成功した石原は、教授のバビロンでの発掘調査に同行することとなり、アラビア半島に足を踏み入れた。そして、発掘調査を手伝いながら、現地の言葉をある程度覚えた石原は、ドイツ東洋協会の発掘調査団には“別働隊”がいて、彼らが遺跡のない場所で測量を頻りに行っていることを、現地人の噂話から掴んだのだった。
(別働隊が測量しているのは……恐らく、油井を設置するのに適当な位置だろうな。イギリスを刺激しないよう、発掘調査を隠れ蓑にして調査をしているのだろう)
この地域では、古来より石油が出ることが知られている。石油は最近化石燃料として注目されていて、今はアメリカやロシアで大規模に採掘され、世界各国に輸出されていた。だが、列強の中には、独自に石油を確保しようとする動きもあり、イギリスは数年前、ペルシャの石油の独占的な供与を受けることに成功した。イギリスの同盟国である日本も、自国だけではなく、新イスラエル共和国の樺太の油田、また、清の領土である満洲に最近発見された油田から、安定的に石油を得られるようになった。しかし、イギリスの仮想敵国であるドイツは、安定した独自の石油の供給源を得られていない。まだイギリスの手が伸びていないこの地域で、ドイツが独自の石油の供給源を確保しようとするのは自然な流れと言えた。
(ここで石油が採掘出来れば、鉄道でドイツに運べるからな。オスマン帝国内を鉄道でコンスタンティノープルまで運び、そこからブルガリア、セルビア、ハンガリー、オーストリアを経由する鉄道を使えば、イギリスの勢力圏内を通らずに石油をドイツに運べる。だからこそ、ドイツは採算が取れないようなアラビア半島内の鉄道網を、オスマン帝国に整備させようとしている)
ノートに鉛筆を走らせながら、石原は推論を深めていく。自分の仕事は情報収集ではあるが、いつかは、集めた情報の整理・分析、そして敵の狙いを情報から読み解くという、中央情報院や政府の上層部がやっていることをしなければならない。今やっているのは、その時に備えた頭の訓練だ。
(しかし、まどろっこしい。俺が皇帝なら、この油田地帯、武力でさっさとオスマン帝国から奪い取る。ドイツは順調にオスマン帝国を借金漬けにしているが、オスマン帝国を再び財政破綻させて、このアラビア半島を借金のカタに奪い取るためには、まだ借金の額が足りない。オスマン帝国とどこかの国で、戦争を起こさせなければ……)
石原がここまで考えた時、
「西村くん、どうした?分からないところがあったかい?」
教授が心配そうに尋ねた。推論を組み立てるのに夢中になって、碑文を解読する作業がおろそかになってしまったようだ。石原は難しい顔を作ると、
「ちょっと、ここが読めなくて……」
碑文の一部を指差し、発掘調査団と討論を始めたのだった。
※今回の記述については、「バビロンの城壁と空中園」(久保勘三郎.東京刊行社.1923)
「バグダッド鉄道と石油資源―第一次世界大戦前の英独の石油資源をめぐる攻防―」(星野智.法学新報.第121巻第9・10号)を参考にしています。




