2通の手紙
1912(明治45)年8月3日土曜日午後2時、福島県翁島村にある有栖川宮家翁島別邸。
「梨花さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……」
別邸の2階にある居間。テーブルに突っ伏した私は、隣に座っている栽仁殿下に力なく答えた。一昨日の8月1日から、避暑をするため、私たちはこの翁島別邸に入っている。去年より少し遅い夏休み開始になったのには、理由があった。
実は、“史実”では、お父様は今年の7月29日の夜遅くに亡くなっている。“史実”の記憶を持つ原さんと斎藤さんの話によると、死因は日露戦争のころから患っていた糖尿病の悪化と尿毒症だったそうだ。この時の流れのお父様は健康そのもので、糖尿病の徴候も全くないけれど、もし“史実”と同じ日にお父様が亡くなってしまったら……そう考えると、不安でたまらなくなったのだ。だから、先月の下旬は、毎日参内して、お父様の体調を確かめていた。
――そなたが未だに半人前ゆえ心配で、朕は死んでも死に切れぬぞ。
お父様は私が診察するたびに、そう言って笑っていたけれど……。
そして、7月31日まで、お父様の健康状態を観察していたけれど、幸い、お父様の体調が崩れることはなかった。それを確認して安心した一昨日、8月1日から、私は夫と子供たちと一緒に避暑に入ったのである。
……少し話が逸れた。今日は天気がよかったので、昼ご飯を食べてから、万智子と謙仁、そして栽仁殿下と一緒に庭を散歩した。散歩が終わった後、万智子は疲れたのかお昼寝を始め、それにつられたのか、謙仁もスヤスヤと眠り始めた。そこで、私と栽仁殿下はこの居間に移動して、子供たちがいるとできない話……国内の政治の動きや、海外の情報を大山さんから聞き始めたのだけれど……。
「やはり梨花さまは、皇帝が苦手ですか」
大山さんが顔に苦笑いを浮かべる。彼が今、私と栽仁殿下に報告してくれたのは、イギリスで進水した装甲巡洋艦“金剛”に対するドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世の反応だった。
「苦手にならない方がどうかしているわよ……」
私は何とか上体を起こし、大山さんにこう言った。
「変な絵を描いて私に送りつけたり、極東戦争の時は“騎士として増宮を助けなければならない”とかいう動機でポーランド独立を支援したり……。それで今度は、中央情報院が流した“章子内親王が軍医として新型装甲巡洋艦に赴任する”というニセ情報に引っかかって、“金剛”建造に関する対抗措置を取りやめたと来たわ。日本にとっていい結果になったのは良かったと思うけれど、毎度毎度、私に精神的な大ダメージを与えるのはやめて欲しいわ、あのバカイザー」
私が大きなため息をつくと、
「ばか、いざー……?」
と栽仁殿下が首を傾げる。
「馬鹿な皇帝、略してバカイザーよ!」
私は叫ぶように栽仁殿下に答えた。「あの皇帝を皇帝なんて呼びたくないから、今、略称を作ってやったの!」
「それは流石にまずいんじゃない?」
「あんな奴、バカイザーで十分よ!」
怒りに任せて栽仁殿下に言い返すと、大山さんが吹き出した。
「やれやれ、相当なお怒りのようです。……では、こちらの手紙で機嫌を直していただきましょうか」
大山さんは肩をすくめると、2通の手紙を私に差し出す。1通は縦長の封筒、もう1通は横長の封筒に入れられている。
「誰からの手紙?もしよければ、教えてもらってもいいかな?」
「1通はドイツのマリーからで、もう1通は……ああ、名古屋の半井君からだね」
私が栽仁殿下の質問に答えると、
「半井君の書状は俺に宛てて届いたのですが、梨花さまにもお読みいただく方がよろしいかと思い、持参いたしました」
大山さんが説明を付け加え、軽く頭を下げた。
「そうか。去年、半井君とはそういう約束にしていたからね。何か私に伝えたいことが出てきたら、大山さんに知らせてちょうだい、って」
去年の4月、“医師になりたい”という決意を私に告げに上京してくれた半井君に、私は、進学や就職など、彼の人生の節目になる出来事があったら、報告するように頼んだ。しかし、平民である半井君には、皇族の私に宛てて手紙を書くのは心理的なハードルが高すぎるだろう、と思ったので、報告は大山さんにするように、と半井君にお願いしたのだ。
「確か、去年の春に小学校の5年生だって梨花さんに聞いたから、この9月には半井君は中学に入ることになるね。梨花さん、きっと進学先の報告だよ」
「そうだといいね。じゃあ、半井君の手紙から先に読もうか」
私は封筒から、角ばった字で埋まった便箋を取り出した。
『暑気追々烈しくなってまいりましたが、大山閣下にはいかがお過ごしでしょうか。さて、6月末に行われました愛知第1中学校の入学試験の結果が本日発表され、首尾よく合格致しましたことをご報告申し上げます。先日、ベルツ育英会の奨学金も得られることになりましたので、ようやく医師になるための第1歩が踏み出せたと安堵しております。これからも本意を遂げるために精進を続ける所存です。どうか若宮妃殿下にもよろしくお伝えくださるようお願い申し上げます』
「……よかった。中学にも合格できたし、ベルツ育英会の奨学金ももらえるみたい」
手紙を読み終わった私は微笑んだ。ベルツ育英会の奨学金募集は、今年の9月からのものが初回で、応募者は募集定員から僅かに少なかったため、応募者全員に奨学金を給付することが出来たとベルツ先生から先月聞いた。けれど、中学の入学試験は半井君の実力で頑張ってもらうしかない。彼が中学に合格できるか心配だったけれど、彼は見事に合格を勝ち取った。
「中学を卒業したら、半井君はどうするのかしら?別の奨学金をもらいながら高等学校に通うか、それとも医術開業試験の合格を狙うか……」
ブツブツ呟き始めた私を、
「梨花さん、それを考えるのはまだ早いんじゃないかな」
栽仁殿下が苦笑しながら止めた。
「そうだけど……どうしても、気が急いてしまって」
「気持ちは分かるけど、万智子と謙仁の将来も、こんな風に力を入れ過ぎて考えちゃうんじゃないかって、ちょっと心配になるよ」
栽仁殿下が私の目を真正面から覗き込んだ。夫の澄んだ瞳の光が、私をなだめるように包み込む。深呼吸を一度すると、前のめりになっていた心が元の場所に落ち着いた。
「うん……夢中になり過ぎたね。私がこんなに熱心だと、半井君に重圧が掛かって、かえって良くない結果に終わってしまうかもしれない」
私は軽くため息をつくと、
「どうしたらいいかしら?私としては、半井君とこれっきりでご縁が切れるなんて考えたくもないの。だけど、私が半井君に干渉しすぎるのもよくないし……」
と言いながら、両腕を胸の前で組んだ。
すると、
「では、俺が半井君と、引き続き連絡を取り合うことに致しましょう」
大山さんが優しい声で私に提案した。
「そのくらいの距離感がいいかもね。私と直接やり取りしたら、半井君が委縮しちゃうから。……ふう、人を育てるのも難しいわね」
「人材を育てることも、いずれは慣れていただかなければなりませんよ、梨花さま」
「分かっているわ」
私は顔に苦笑いを浮かべた。まったく、この臣下ときたら、私を鍛えることは絶対に忘れないのだ。家族一緒にのんびり過ごせる避暑中なのだから、少しは手加減してくれてもいいと思うけれど。
「さて、半井君の話はこれくらいにさせてちょうだい。私、マリーの手紙も読まないといけないから」
私はテーブルの上に半井君の手紙を置くと、今度はマリーからの手紙を手にした。謙仁と私が帝国大学付属病院から退院した直後、家族4人での写真を添えてマリーに手紙を出した。この手紙はおそらく、マリーからの返事だろう。
(マリーも旦那さんも、お子さんたちも元気でいるかしら……)
そう思いながら、私は封筒を開けた。
マリーからの手紙に目を通し始めてから数分後。
「梨花さん、どうしたの?」
栽仁殿下が、ドイツ語の文章を読み進める私の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「顔がとても辛そうだ。何か悪い知らせでも書いてあったの?」
「マリーの末のお子さんが、糖尿病になったって……」
私は文面から一度目を離すと、両肩を落とした。
マリーとマリーの旦那さん・ループレヒト殿下の間には、3人の子供がいる。長男のルイトポルト君は11歳、次男のアルブレヒト君は7歳、そして、末っ子のルドルフ君は1909(明治42)年の5月に生まれた、3歳になったばかりの元気な男の子である。その元気なルドルフ君が体調を崩し、一時は命が危ぶまれる状態だった……マリーからの手紙にはそう書かれていた。
「それでルドルフ君はどうなったの、梨花さん?」
「……インスリンの投与が間に合って、今は元気を取り戻した。ルドルフ君の件でバタバタしていたから、私に返事を書くのが遅れた……そう書いてあるよ」
文章の先に目を通した私が答えると、「そうか、良かった」と栽仁殿下は微笑した。
「うん、本当に良かった。医学の発展が“史実”と同じ速度だったら、ルドルフ君、たぶん亡くなっていたわ」
私はホッと息をついた。京都帝国大学医科大学の荒木寅三郎先生たちに、犬の膵臓からインスリンを抽出してもらったのが1899(明治32)年のことだ。その後、牛や豚の膵臓からインスリンを抽出する技術が確立されると、インスリンはすぐに臨床に応用され、私の時代で言う1型糖尿病の患者さんたちの命を救ってきた。“史実”でインスリンが発見されたのはもっと後、1921年だったから、“史実”通りの時期にインスリンが発見されていたら、ルドルフ君は助からなかっただろう。
「そうか……梨花さんがいたから、ルドルフ君の命が助かったんだね」
そう言って頷いた栽仁殿下に、
「まぁ、そういうことにはなるわ」
と頷いてから、私は眉根にしわを寄せた。
「でも、これから大変だよ。ルドルフ君がかかったのは、たぶんインスリンが身体でほとんど作れなくなって発症する糖尿病だから、食事をするたびに注射をしないといけないの。それに、今は命が助かっても、糖尿病の慢性的な合併症のせいで、心筋梗塞や脳梗塞を起こしたり、失明したり、腎不全になったりするから、それにも対応が必要なの。はぁ、そのあたりの研究がどうなっているか、東京に戻ったら医学雑誌を読んで確認しないと」
「雑誌を読んで……ああ、今、梨花さん、医科研の総裁じゃないからね」
「総裁のままだったら、北里先生たちに質問すれば済むもの」
栽仁殿下の苦笑いに、私も苦笑で返した。
実は謙仁を出産した直後、今年の4月に、私は医科学研究所の総裁をいったん辞任した。空いた総裁職は、義父の威仁親王殿下に引き継いでもらっている。これは、今後の私の立場……特に、貴族院議長としての私の立場を考えた結果だった。
組織の長として皇族を奉戴する場合、普通は皇族には全く権限はなく、組織の運営は別の人がやるのだけれど、医科研の場合は、名誉職であるはずの私も、ある程度運営に関わっていた。ところが、私が現在務めている貴族院議長は、中立であることが強く求められる。来年の3月末までは私は予備役なので、来期の議会に出席しなければならない。再び貴族院議長に選ばれる確率は高い。その状況で医科研の総裁を続けると、議長の中立性が保てなくなってしまう。そう考えたのだ。
と、
「でも、梨花さん。マリー妃殿下へのお返事を書くのも、東京に戻ってからにするの?」
栽仁殿下が私に尋ねた。
「いや、この避暑中に書き上げるわよ。書かないといけないことがたくさんあるもの」
私はそう答えると、「だけど、返事をどう書くかは、考えないといけないかな」と付け加えた。
「梨花さん、どういうこと?」
「あー、そのね……私がこのまま返事を書くと、医学の難しい話をつい書いてしまいそうで、マリーが付いてこられなくなってしまうかな、って……」
このままだと、糖尿病のことについてマニアックに語った手紙を書き上げてしまう気がする。それは親友として、非常によろしくない行為だと思う。私が考え込んだ時、
「梨花さまも、ご自身のことを客観的にとらえられるようになったようです」
大山さんがニッコリ微笑んだ。
「物事に夢中になるのは長所でもあるけど短所でもあるって、小さいころから大山さんにさんざん言われているもの」
私が大山さんに言い返すと、
「ふふふ……では、その短所は、若宮殿下に直していただきましょうか。マリー妃殿下へのお手紙は、梨花さまと若宮殿下が一緒にお書きになるのがよろしいかと」
大山さんは微笑を崩さずにこう言った。
「そうね、それがいいかも。日本語で下書きをして、それを見てもらえばいいかな。……栽さん、文章の手直し、お願いしてもいいかな?」
「もちろんだよ。じゃあ、今から文章を作ろうか」
私の頼みに、栽仁殿下は笑顔で頷いてくれた。
……こうして、謙仁が昼寝から目を覚まして泣き始めるまで、私と栽仁殿下は、マリーへの返事の下書きを、ああでもない、こうでもないと言いながら作ったのだった。




