平民宰相と変わった歴史
「ほう……やはり、俺の考えが正しかった、という訳か」
私の隣に座った大山さんが、静かに言った。
「増宮さまから事実を告げられた時の反応が、少し物分かりが良すぎる気がしたし、何かを隠している感じもあったのだが……」
「なんと……大山元帥、あなたがわたしのことを見破ったと……?」
原さんは目を丸くしたけれど、すぐに、納得したように頷いた。
「いや、ありうるか、“知恵者の弥助”なら。“史実”では、その“知恵者”の顔を完全に覆い隠しておられたが」
「元帥……?」
私はつぶやいた。大山さんは今月の初めに、歩兵大将に昇進したばかりだ。元帥なら、それよりも上の階級だろう。
「確認するけれど……、あなたにも、前世の記憶がある、ということよね、原さん?寺内内閣の後を受け、立憲政友会総裁として政党内閣を組織し、東京駅で暗殺された、その前世の記憶が……」
「前世、と呼ぶべきかはわかりませんが、そう考えてもらってよいのでしょう。すると、あなたは、前世のわたしが死んだ約100年後から来た、ということですね」
「あなたが暗殺されたのが、大正10年、西暦1921年……確かにそのくらいになりますね」
「しかし、不思議だ……」
原さんは、両腕を組んだ。「あなたは、前世で死んだあと、赤子の頃の身体に転生したと言った」
「周りの話からの推測ですけれどね。はっきり転生したとわかったのは、5歳の時です」
(どうも、私を“殿下”や“増宮さま”と呼ぶつもりがないみたいね)
私の前世が、皇族ではないとわかったからだろうか。まあ、中身は平民だから、この方が気楽でいいのだけれど。
「なぜ、あなたとわたしとで、転生の仕方……というか、記憶の流れ込み方が違うのか?」
原さんはそう言って、首を傾げた。
「記憶が流れ込む?」
「わたしは、そう呼んでおります。……わたしは若年のころ、新潟に居たのですが、そこで天然痘にかかりまして、生死の境をさまよいました。その時ですよ、前世の私の記憶が、今生の私に流れ込んだのは」
原さんは、薄く微笑を浮かべた。
「はじめは、戸惑いましたよ。しかし、その記憶の通りに、物事が進んでいくのを体験して、わたしは、これを利用しようと思ったのですよ。藩閥政治を、あなたの言う“史実”より早く崩壊させ、今の皇太子殿下の下で立憲政治を確立しよう、戊辰戦争で、東北諸藩が理不尽に逆賊扱いされた恨み、わたしが総理大臣になることで晴らそう、とね」
(なるほどね……)
明治初年の高官は、どうしても、討幕に功があった、薩摩、長州藩出身のものが多かった。現に、今の内閣も、薩摩藩と長州藩の出身者が多数を占めている。それに対する反感も、自由民権運動が盛り上がる一因になったのだろう。自由民権運動は政党を産み出し、最終的に原さんによって、本格的な政党内閣が組織されるまでになる。その原さんの根底に、ここまでの強烈な藩閥への反感があるなんて、……知らなかった。
(私のバカ野郎……っ!)
何が“日本史が面白い”だ。表面的で一方的な理解しかできていないくせに……。
私は歯を食いしばった。
だけど、自分のバカさ加減を思いっきり後悔するのは、この“平民宰相”との話し合いに、決着をつけてからだ。今は全力で、誠心誠意、この話し合いに臨まなければ。
「だから……あなた、皇太子殿下を見て、涙を流したのね。そして、皇太子殿下のことを“陛下”と呼んだ……」
私は口を開いた。
皇太子に付く敬称は“殿下”だ。“陛下”では絶対ない。
「聞かれていたか……」
原さんは軽くため息をついた。
「俺にも聞こえた。それであなたにも、増宮さまと同じように、前世があると思ったのだ」
大山さんはそう言って、原さんに厳しい視線を向ける。
「流れ込んだ前世の記憶の中で、私が仕えた天皇陛下はお二人……もちろん、今上……明治大帝も、尊敬申し上げるべき方です。しかし、どちらか一人を選べと言われたら、わたしにとっての天皇陛下は、前世の私が総理大臣として仕えていた、今の皇太子殿下なのです。本当に、本当に素晴らしいお方だったのに……」
原さんは、また涙を流した。
「……話を戻しましょう。パリで勤務した後、私は農商務省に配属になり、参事官となりました。前世の記憶の通りなら、そこで、陸奥先生が農商務大臣として着任し、その引きで、私の出世が始まります」
「陸奥先生って……陸奥宗光さんね。“史実”では、彼が治外法権の撤廃を成し遂げていたけれど」
「よくご存じだ。私も前世では、陸奥先生の下で、条約改正をいささか助けさせていただきました」
原さんがニヤリと笑う。「今回の人生では、記憶の通りに、農商務大臣として着任する陸奥先生に巡り会ったら、先生とともに、藩閥の力を削いでいくつもりでいたのですが……」
(あれ?)
現在の農商務大臣は、井上さんだ。
「大山さん、陸奥さんが農商務大臣になったことってある?井上さんの前とかに……」
「いえ、ありませんね」
私の質問に、大山さんが首を横に振る。
「あなたの言う“史実”で、陸奥先生が農商務大臣に就任されたのは、明治23年の5月……」
原さんがそう言ってうつむいた。
(え……)
明治23年5月と言えば、憲法が発布されて1年後だけれど……憲法が発布されたころから、農商務大臣は井上さんのままだ。
「つまり……憲法発布のころから、あなたの計画が狂いだしたということ?」
私が言うと、原さんは、ぎょっとしたように私を見た。私は構わず、言葉を続けた。
「私が前世の記憶を取り戻したのは、憲法発布の前年の夏、磐梯山が噴火する直前だから、明治21年。私が“史実”の知識を高官たちに伝えて、彼らが協議した結果、憲法の内容は“史実”と変わりました。私もびっくりしたけれど」
「それは、あなたが先ほど言った、迪宮殿下の世になってからの、軍部の政治介入を防ぐためか。総理大臣に軍隊の指揮権を与えたのも……」
「ええと、迪宮殿下って……裕仁親王殿下、私の生きていた時代で言う昭和天皇のことでいいのかな?私が枢密院の議論に参加するわけにはいかないから、私は後で結果だけ知ったけれど……」
「陸海軍の合同についても、あなたの差し金なのか?」
「それは、山縣さんと信吾どんと俺が、話し合って決めた。増宮さまから聞いた、陸軍海軍の作戦の進め方が、様々な要素を割り引いて考えても、あまりにも連携が取れていなかったからな。飛行機による戦闘という概念が出現すれば、それも組み込んで、陸海空が連携した作戦を取れるようにしなければならない、という目論見もあった。外交方針についても、増宮さまの話を聞いて、“梨花会”で話し合って決めたのだ」
大山さんが言った。
「何……?まさか、大隈の襲撃事件が起こらなかったのも……」
「ああ、それは私が、“史実”の黒田内閣の結末について教えたから、大隈さんが、条約改正案の中にあった、憲法違反の可能性のある条項を削除できたのよね。情報のリーク、じゃない、漏洩に気をつけろ、と大隈さんにも進言したし。だから、犯人の国権主義者たちを刺激しないで済んだんじゃないかしら」
私が言うと、原さんは項垂れた。
「すると、その流れで治外法権の撤廃が成功し、それゆえに、大隈と関わりの深い立憲改進党が、衆議院で議席を伸ばして内閣の与党となり、外交方針の転換により、大幅な軍拡を目的とした予算も衆議院に提出されずに、無事に成立し……待て、そうなると民法典論争も、法典調査会が“史実”より何年も早くできたがゆえに、回避されていることになるのか?」
「あ……」
そういえば、憲法発布の後に、一部公布された民法が、急進的すぎるという批判を受けて、実施が延期されたということが“史実”であったけれど……。
「あれ?“史実”で民法が一部公布されたのって、確か1890年……」
「さよう、明治23年。こちらの時の流れでは、まだ民法は公布されていませんな」
原さんが憮然とした。「しかも、調査会の委員に、穂積・富井・梅と、“史実”でも法典調査会の委員だった者が選ばれ、更に、他の委員にも伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎と人材が揃えられている。おまけに、総裁は伊藤さん。これは“史実”でもそうだ。付け加えるならば、1894年末までに民法・商法を制定しなければ、治外法権の撤廃が達成されないという状況もある。……建設的な議論以外が、起こりようがない。そして、順調に議論は進んでいて、次の国会に民法が提出されると聞いた。おそらく、立憲改進党の賛成多数で、すんなりと成立するでしょうな」
(あ、よかった……)
私は胸を撫で下ろした。これで民法が成立しなかったら、山田さんの血圧が、ストレスで上がってしまうかもしれない。それは何としてでも避けたい。
「……まさかとは思うが、郡制が施行されていないのも、あなたの仕業か?」
「ええと……山縣さんがやろうとしていたのだけれど、私が生きていた時代では郡制は施行されていないと聞いて、施行をやめたはずね」
「文官試験改革や、役人の大量解雇案や、帝国大学の複数設置案についても、あなたが口出ししたのか?」
「結果として、そうなっちゃったのかな……」
私は腕を組んで、ため息をついた。まさか、未熟者の私が言いだしたことを、“梨花会”のみんなが採用するとは思わなかったのだけれど……。
「なんと……」
原さんはうつむいて、右こぶしで自分の膝頭を叩いた。
「郡制廃止は、前世でわたしがやったことだ。山縣の息の掛かった官僚の牙城になっていた、郡制に寄生する役人たちを排除する目的もあった。そして、役人に試験を受けさせて解雇するのも、山縣の力を削ぐために、わたしが内務大臣の時にやったこと……ただ、今回のような大きな規模ではなかったが……本当に、あなたは何者なのだ!」
「と言われてもね……さっき言った通りで、ちょっと歴史をかじった、城郭マニアの医者ですけれど……」
私は少し困りながら答えた。原さん、私の力量を、明らかに過大な方向に見誤っているようだけれど……。
「医者……すると、三条公の寿命を延ばしたのも、あなたなのか?!」
(ん?)
「寿命を延ばした……?」
私が首を傾げると、「知らなかったのか?!」と原さんは目を丸くした。
「“史実”では、三条公は今年の2月に、インフルエンザから肺炎を併発して亡くなっている。痰を吐き出せずに、呼吸困難になったとかで……」
「え゛」
変な声が出た。
「臨終の床に、陛下が行幸され、正一位を授けられて……」
(はい?)
「国葬の際には、侍従の堀河どのを勅使として差し遣わされ……」
(爺が……?)
「増宮さま?!」
大山さんが叫んだ。
「いかがなさいました?!」
「大丈夫、大山さん……」
両目から涙があふれだし、私は大山さんにこう言うのが精一杯だった。
「一体、どうしたのだ……まさか、まさか本当に、あなたが三条公の寿命を……?!」
「原さん……」
私は、必死に心を落ち着けた。涙を出し切って、呼吸を整えてから口を開いた。
「三条さんの診察に行ったのは本当。ベルツ先生と相談しながら、私の時代の医療知識を使って、痰を出させるような処置をしていたのも本当。途中から、私もインフルエンザにかかって寝込んでしまったから、実際に治療をしていたのはベルツ先生だったけれど、酸素の投与量の相談はしていました」
「なんと……」
原さんは天を仰いだ。
「酸素の投与など、“史実”ではこの時期、まだ行われていない。大正の御代に、スペイン風邪が流行したときに、“吸入するといいらしい”という話があった程度だ。あなたは、それをこの時代にやったというのか……」
(そうか……)
私は下を向いた。
この時代の医療技術は、前世よりもはるかに劣る。
私が前世で頼っていた医療機器や医療器具、医療技術も、そのほとんどが姿を見せていない。それは本当にもどかしく思う。
けれど……私の知識から実現したいくつかのことでも、……未来の医療の知識と技術の、ほんの何百分の一かのことでも、何とか、人を助けられたのだ。
「増宮さま……」
大山さんが、私を見つめているのがわかる。
「ごめん、大山さん……胸がいっぱいになってしまって、涙が止まらない……」
私は下を向いたまま答えた。
出しきったはずの涙が、またポロポロ流れ出してしまう。
「助けられたんだって、三条さんを……陛下やみんなに、悲しい思いをさせずに済んだんだって……そう思ったら……」
「そうか……」
原さんがぽつりとつぶやいた。
「あなたならば、皇太子殿下を助けられるのかもしれない」
「え……?」
私は顔を上げた。
※実際には、原さんの天然痘は「ごく軽い」ものだったそうですが、お話の都合上、病状を重くしております。