閑話:1912(明治45)年春分 夫婦の会話と親子の会話
1912(明治45)年3月27日水曜日午前11時、東京市本郷区本郷元富士町にある東京帝国大学医科大学付属病院。
「あのさ、栽さん」
特別個室のベッドの上に身体を起こし、自分が昨日出産した子を抱いていた有栖川宮家の嗣子・栽仁王の妃である章子内親王は、見舞いに来ていた夫の栽仁王をじっと見つめた。
「何?」
5歳年上の妻の不満げな視線を、栽仁王は微笑で受け止める。少し頬を膨らませた妻の仕草はまるで少女のようで、29歳という年齢より彼女を幼く見せていた。
「私、怒ってるんだけど」
それは見れば分かる、と栽仁王は思った。ただ、妻が自分に怒りを見せるのは滅多にないことではある。これは、真剣に対応しなければならないだろう。
「ごめんね、梨花さん」
栽仁王は非常に美しく、非常に変わっている妻の前世の名前を呼んで謝ると、
「何で怒っているのか、訳を聞かせてもらってもいいかな?そうじゃないと、僕はまた同じ理由で梨花さんを怒らせてしまうから」
そう言いながら、彼女の美しい漆黒の瞳を真正面から見つめた。
すると、
「ち、違うの……」
章子内親王は顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまった。
「そ、そりゃ、栽さんにも、ちょっと怒ってるけど……。でも、万智子が生まれたすぐ後に、“2人目を考えるのは、月経が再開してからにしよう”って言い始めたのは私なのに、私、栽さんと、その……」
そっぽを向いたままの内親王は、耳まで真っ赤に染めながら、震える声でこう続ける。そして、更に何かを付け加えようとする素振りを見せたけれど、
「ちょ……こ、これ以上は、無理!」
と小さく叫び、うつむいてしまった。
「うん……それについては、僕も反省する。気持ちがどうしても抑えられなかった」
栽仁王は素直に妻に頭を下げた。
「い、いや、その……私も、だから……」
うつむいたまま、顔を真っ赤にした内親王は、小さな声でこう応じる。
(ああ、この人、本当に可愛くて、愛しいなぁ……)
妻が垣間見せた表情に、気持ちが昂ってしまった栽仁王が、必死に心を落ち着けた時、
「……でも、産休が、今月の頭ぐらいから、取れていればよかったのよ」
内親王はようやく、まとまった言葉を口にし始めた。
「私が、“自分の出産経過は節子さまと同じ”と思い込んで、それをいろんな人に言ってしまったせいで、弥生先生の目まで曇らせてしまった。最終月経日が分からない妊娠は、ただでさえ分娩予定日の推測が難しいのに、私があんなことを弥生先生に言ってしまったら、弥生先生の診断も狂っちゃうわ」
そう言うと、章子内親王は大きなため息をついた。
「あーあ、医師免許を取ってから何年も経つのに、自分の言葉の重みに全く気付けずに過ごして、しかもその結果、議会の閉会式を滅茶苦茶にするなんて……本当に私、最低だわ。退院したら、弥生先生にも、家達さんにも、土下座して謝りに行かないと。いや、土下座で足りるかしら?後ろ手に縛られたり、鞭で打たれたり、磔にされたりする方が……」
「……梨花さん、触るよ」
栽仁王は一言断ると、だんだんと言葉の向きが怪しくなった妻の両肩をそっと抱いた。その途端、章子内親王は両目を見開いて身体を硬くした。
「反省はしっかりしたから、もう自分を傷付けるのはやめないとね」
「た、た、栽さん……私、全然、反省が、足りて、なくて……」
「反省は、自分を闇雲に切り刻むことではないよ。冷静に事態を分析して、もし同じような事態に遭遇した時にどうするか、策を考えることだ」
身体を硬くしたまま、栽仁王の言葉を黙って聞いていた内親王はこくりと頷き、
「わ、わかった……これからは、自分の言葉が相手に与える影響についても、考えながら発言する……」
囁くような声で言った。
(なんで梨花さんは、いちいちこんなに可愛いんだろう。このままここで、何もしなくていいから、ずっと一緒にのんびり過ごしていたいなぁ……)
そう思った栽仁王だったが、何もしないでいいという訳ではない、ということを彼はすぐに思い出した。昨日、元気に生まれてきてくれた自分の長男の名づけをしなければならない。
「ねぇ、梨花さん。この子の名前を決めないといけないけれど、梨花さん、何か候補はある?」
栽仁王は妻の肩から両手を離すと、優しく彼女に問いかけた。
「こ、候補……ごめん、栽さん。候補って言われちゃうと、急には出せないわ……」
内親王はそう言うと、腕の中の我が子を見つめた。そんな彼女に、
「じゃあ、どんな子に育ってほしい?」
と、栽仁王は別の問いを試みる。
「そうねぇ……」
内親王はしばし考えこんでいたが、やがて、
「人を敬うことを知っている子になって欲しいの」
と静かに答えた。
「この子は将来、有栖川宮家を継ぐことになる。もちろん、将来の宮家当主としてふさわしい威厳も身につけて欲しいけれど、皇族の身分を鼻に掛けるような人間になって欲しくはないの」
「そうだね」
栽仁王は頷いた。「それはとても大事なことだ。宮家の長男だから、本人が遠ざけようとしても、媚びを売って取り入ろうとする悪い人間が近寄って来る。そんな奴らに乗せられて増長して、陛下に迷惑を掛けるようなことをしたら大変なことになるからね」
「うん、だから、謙譲とか、慎みとか、そういうことを忘れない子になって欲しいな、と思うの。もちろん、賢くて優しい子にもなって欲しいけれど……」
「謙譲、か……じゃあ……」
栽仁王はベッドのそばの机に置いてあった鉛筆を持った。そして、机の上に載っていた紙に、“謙仁”と丁寧に書いた。
「これで、“かねひと”と読ませるのはどうかな?」
そう提案してみると、
「ああ、それ、いいと思うな。謙仁……謙仁かぁ……ふふ」
内親王は右手を持ち上げ、人差し指でそっと我が子の頬をつついた。内親王の腕の中で、謙仁と名付けられた赤子は、すやすやと眠っていた。
「でも梨花さん、謙譲の心を持つことは大事だけれど、謙譲が過ぎると、梨花さんみたいに自分を傷つけてしまう可能性もあるからね。自分を傷つけないこと。それは謙仁にも梨花さんにも、しっかり身につけてもらうよ」
栽仁王が念を押すと、妻は「はぁーい」と少し間の抜けた返事をして、軽く唇を尖らせる。そんな妻の様子を見て、
(愛しい……)
栽仁王は、妻への想いがいっそう膨らんだのを感じたのだった。
同時刻、皇居。
「まことに申し訳ございませんでした!」
人払いがされた表御座所で、天皇に向かって最敬礼をする1人の男性がいる。この8月で33歳になる皇太子・明宮嘉仁親王である。彼は、昨日、帝国議会の閉会式で天皇に供奉する役目を放棄したことを詫びるために参内したのだった。
「表立って褒める訳にはいかぬが……章子と、章子の子をよくぞ守ってくれた、嘉仁」
自分に向かって頭を下げ続ける皇太子に、天皇は穏やかな声で言った。
「ただ、そなたは、章子に危機が迫ると見ると逆上せてしまう。極東戦争が開戦した時もそうであった。……それだけが、そなたの欠点だな」
天皇は顔に苦笑を浮かべると、「嘉仁、面を上げよ。話がしにくい」と皇太子に声を掛ける。それに応じて、嘉仁親王は静かに頭を上げた。
「非常に騒がしい結末とはなったが、これで章子も、貴族院議長を1期務め上げた訳だ。嘉仁、今期の章子の仕事ぶりはいかがであった?」
「……議事録を読んだ限りでの判断になりますが、非常に手際よく議事を進めていました」
天皇の質問に、皇太子は淀みなく答え始めた。「意外に思ったのは、“医療五師法”が議題で取り上げられた時には退席して、副議長の家達公に議事進行を託したことです。梨花の性格なら、議長として必ず“医療五師法”の改正案を成立させる、と言うと思いましたから」
「実はな、議事の打ち合わせの段階では、そなたの言ったようなことを章子は言ったそうだ」
天皇はそう言って、再び顔に苦笑いを浮かべた。「ところが、家達に諌言されて、“自分が今言ったことは忘れろ”と打ち合わせの出席者たちに厳命して、“医療五師法”の議事には出席しないと決めた……大山がそう報告してきた。それさえなければ、章子に満点をやれたのだが」
「そのような事情でしたか」
「……まぁ、軌道修正が出来ただけでも及第だ。来期も章子が議会に出席することは確実だから、また議長として修業してもらおう。自分の発言の重さというものも身に染みただろうし、来期は朕から満点をもぎ取って欲しいものだ」
「はい、梨花ならきっとやれます」
嘉仁親王は明るい顔で頷く。非常に優秀な妹に対する信頼が、その表情からにじみ出ていた。
「あとは、この時代の世界を肌身で感じさせて、世界各国の王室に改めて顔を売り込めば、そなたを補佐するための修業は、一通り終えられることになるな」
「そういうことになります。もちろん俺も、梨花の成長に甘えることなく、引き続き研鑽に励まなければなりませんが」
「それはますます頼もしいな」
天皇は微笑すると、座っていた椅子から立ち上がった。ゆっくりと歩くと、机の後ろにある大きな窓のそばに立つ。嘉仁親王は視線で父の背中を追った。
「“史実”では、朕は今年死ぬ。糖尿病と尿毒症で、7月29日の夜遅くにな」
「梨花がそう言ったのですか?」
嘉仁親王の質問に、
「いや、章子から聞いたのは死ぬ年だけだ。日付と死因は斎藤に吐かせた」
窓辺に立った天皇は、少し楽しそうに答えた。
「幸い、今のところ、糖尿病の徴候は全くない。章子に言われて、食事にも気を付けておるし、たくさん運動もしている。そのおかげだろうが」
「本当ですね、お父様?」
嘉仁親王は念のために確認をする。この父親、娘が医者になっているのにも関わらず、医者に掛かることが大嫌いなのだ。数か月に一度は毎朝の侍医の診察を拒否し、そのたびに山縣宮内大臣から諌言されている。
「そなたまで朕を疑うか。嘘だと思うなら、章子に聞いてみろ。侍医たちの診療録には、章子が全て目を通しているからな」
天皇は少し不機嫌そうに嘉仁親王に答えると、軽くため息をつく。嘉仁親王が慌てて頭を下げると、「まぁ、それはともかくとして、だ」と天皇は呟くように言った。
「そなたと章子に、政を万全の態勢で引き継がせたい。多喜子が輝久と婚儀を挙げて、朕の孫を生むまでは生きていたい……欲は尽きぬし、死ぬつもりも毛頭ないが……いつ死ぬかは分からぬからな」
「はい」
それは自分もそうだ。愛しい妹も、そして“史実”の記憶を持つ斎藤や高野も、巧妙に言及を避け、決して言おうとはしないけれど、自分も“史実”では、父の没後、何年も経たないうちに健康を害して死ぬのだ。
「さよう心得て、修業に励め、嘉仁」
「かしこまりました」
(天皇の位を継いで、残されている時間がどのくらいあるかは分からぬが、命尽きるまでは、この国のために、梨花と2人で、できることを全力でする。そして、裕仁に天皇の位を継がせる……それが俺の務め……)
再び天皇に深く頭を下げながら、嘉仁親王は決意を新たにしたのだった。




