前代未聞の閉会式(2)
※セリフミスを修正しました。(2022年1月31日)
1912(明治45)年3月26日火曜日午前11時、東京市本郷区本郷元富士町にある東京帝国大学医科大学付属病院。
「到着しました!」
玄関前に自動車を停めた川野さんが叫ぶように報告すると、
「動けるか?」
私の身体を支えていた兄が私に尋ねた。
「この陣痛を、やり過ごせば……」
下腹部の痛みをこらえながら私は答えた。破水とともに始まった陣痛はあっという間に強さを増し、移動の車中で私を2、3度苦しめた。
「今で、陣痛の間隔は7分だな」
兄が左手首にはめている腕時計を見て、私にこう教えてくれる。
「そう……やっぱり、2回目のお産だから、早く進んでる」
「辛くは……いや、辛くない訳はないな。耐えられるか?」
「うん……。万智子を産んだ時の、一番辛い痛みよりはマシだから……」
「そうか。……何か俺に出来ることがあったら、遠慮なく言えよ」
「ありがとう、兄上……。その気持ちだけでも嬉しい……」
私は兄が握ってくれている右手を、ギュッと握り返した。幸い、陣痛の波も引いてきたようだ。兄にもたれかかっていた上半身を起こした時、
「妃殿下!」
医科大学の内科学教授・三浦謹之助先生がこちらに向かって走ってきた。そのすぐ後ろには、産婦人科学教授の中島襄吉先生など、数名の医師の姿が見える。
「三浦先生……?!」
診療や講義はどうしたんですか、という私のツッコミを、
「ちょうど手が空いている時間でしたので、急を聞いて参上いたしました」
三浦先生は先回りして封じた。その顔にはいつもの春風のような穏やかさが全くなく、緊張の色に染まっていた。
「中島先生、妃殿下は我々にとって大恩あるお方、何か我々にできることがあれば、全力で援助いたします!」
「お言葉、大変ありがたく存じます」
必死の形相の三浦先生に、中島先生は一礼する。そして、私に向き直ると、
「とにかく、診察させていただいて、状況を把握したいと思います。議長殿下、お立ちになれますか?」
と私に聞いた。
「はい、今なら」
私が頷いて自動車の外に出ると、
「では、診察室まで抱えて連れて行ってやる」
兄が私に続いて車外に降り立ちながら言った。
「い、いや、自分で歩いていくよ!」
「遠慮するな。ほら、横を向いて、俺の首の後ろに手を回せ」
「あのさ、さっきは訳が分からないうちにお姫様抱っこされたから止められなかったけれど、私を抱えて腰を傷めたらどうするのよ!」
「安心しろ。お前を抱えてへこたれるほど軟弱ではない」
「そういう問題じゃなくて!」
言い合っていると、私に身体を寄せた兄が、断りもなく私の身体を横抱きにする。私は慌てて兄の首の後ろに両腕を回し、しっかり兄にしがみついた。
「良かった、妃殿下がお元気そうで」
一連のやり取りを聞いていた三浦先生が、安堵の吐息をついた。「万智子女王殿下のご出産の時、妃殿下が大変苦しまれて、うわごとをおっしゃっていた……そうベルツ先生に伺いましたから」
「今回も、破水して陣痛が来たと分かった時、章子は相当混乱していたぞ」
私の身体を抱えた兄は、病院の入り口へと歩きながら三浦先生に言った。
「それゆえ、有無を言わさず抱え上げて、ここまで自動車を走らせたのだ。叱りつけたら、いつもの聡明さを取り戻したが。……中島先生、章子と章子の子供のこと、よろしく頼む」
「かしこまりました。全力で対応いたします」
兄と私に向かって、中島先生は最敬礼した。
そこからの進行は早かった。中島先生に診察してもらうと、一昨日閉じていたはずの子宮口が、既に5cmまで開いていたのだ。
「ここまで子宮口が開いて、破水もしているのであれば、週数に関わらず、このままお産みになる方がよろしいでしょう。妃殿下が産褥熱に罹患する確率も、お子様が感染症に罹患する確率も下がりますから」
診察した中島先生の言葉に頷いた時には、陣痛は5分間隔になっていて、強さも更に増していた。その痛みをこらえながら、私は小礼服から寝間着に着替えた。流石に、勲章を佩用したまま出産するわけにはいかない。
中島先生の処置はとても的確で、安心して指示に従っていられた。一応、今回の妊娠が発覚した時にも、“万が一、異常分娩になった場合は、応援をよろしくお願いします”と、有栖川宮家からも弥生先生からも頼んでいたから、非常事態への心構えはしていただろう。それに加えて、彼は山階宮家の範子妃殿下のお産以来、節子さまや他の宮家の妃殿下たちのお産を何件も担当している。その経験の深さが、自信につながっているのだろう。中島先生の指示に従っていきみ始めると、手際よく会陰切開がされ、私が産まれた子の産声を聞いたのは午後2時20分のことだった。
「た……体重、何gですか?!」
元気な産声が聞こえてすぐ、私が気になったのはそのことだった。一般に、新生児の出生時体重は軽ければ軽いほど、死亡率が上昇するのだ。
「少しお待ちを」
テキパキと処置をしながら、中島先生が答える。室内には手術道具一式の他、2重になった湯槽が運び込まれている。手術道具は出番を与えられずに終わりそうだけれど、湯槽はこれから活躍するかもしれない。あの湯槽の内側に赤ちゃんを、外側の湯槽にお湯を入れて、赤ちゃんを保温して体力の低下を防ぐのだ。私の時代の保育器と比べてしまうと、本当に単純な装置ではあるけれど、あるのと無いのとでは死亡率に差が出る。
(妊娠33週で出産か……3000gは無理だろうけれど、お願い、2500gは超えていて!)
後産の処置を受けながら、私が必死に祈っていると、
「体重は3040g、身長は48㎝……お元気な王殿下でございますよ」
中島先生は思いがけない答えを私に返した。
「へ……?」
私はキョトンとした。
私の妊娠は、34週には入っていなかったはずである。……いや、正確には、33週から35週の間だったはずだ。けれど、妊娠35週と考えても、この子の身体は大きすぎる。
「あの、中島先生、本当に3040gもあります?先生、私を喜ばせようと思って、ウソをついておられるんじゃ……」
そう言いながら視線を中島先生に向けると、
「いえ、決してそのようなことはございません。医師でもあらせられる議長殿下にそのようなウソをつけば、すぐに露見してしまいます」
彼は首を左右に振った。
「お疑いなら、もう一度王殿下の体重を測りますから、どうぞご覧になっていてください」
中島先生は私に言うと、産まれた子に産着を着せ掛けていた助産師さんに、もう一度子供の体重測定をするように命じた。室内に持ち込まれているはかりで子供の体重を測ると、確かに、中島先生の言ったように、3040gではかりの針が止まった。
(本当だ……)
手足をバタバタさせ、元気よく泣く赤ちゃんを私は見つめた。よく見ると、目元が栽仁殿下にそっくりな赤ちゃんは、チアノーゼも無く、手足を曲げて活発に動いている。
「とにかく、処置を全てしてしまいましょう。お話はそれからでも」
中島先生の提案に、私は素直に頷いた。
産後の処置が全て終わったのは、午後3時になる少し前のことだった。静かになった部屋に足を踏み入れたのは、勲章を付けたままの兄と、義父の威仁親王殿下だった。
「あ、兄上?!まさか、ずっと病院にいたの?!」
私の驚きの声に、
「ああ。お父様に詫びに行くのも、お前の出産の顛末を見届けてからと思ってな。ずっと病院の応接室にいた」
兄は落ち着き払ってこう応じた。
「ふう、嫁御寮どのが議事堂で産気づいたと聞いた時にはたまげましたが、終わってみれば大安産。しかも、元気な男の子を産んでくださるとは、これで有栖川の家も安泰です。……ああ、栽仁は、夕方にはこちらに到着できるそうですよ」
義父は満足げにニコニコ笑っている。確かに、彼の言う通り、私は将来、有栖川宮家を継ぐ男の子を産んだ。義父が上機嫌なのも納得である。
「今、応接室はすごいことになっているぞ。陸奥総理と西園寺大臣と原大臣は、閉会式が終わるやいなやこちらに駆け付けたし、そのほかの梨花会の面々も押し掛けている。これで牧野大臣と高橋大臣と斎藤参謀本部長と高野がいれば、応接室で梨花会が開けるな」
「心配してくれるのはありがたいけれど、みんな、仕事してよ……。行政に支障を来たすわよ」
兄の言葉に私がツッコミを入れると、
「家達公と千種子爵と太田書記官長も来ましたよ。真っ青になった家達公を、千種子爵が必死になだめていましたね。いや、家達公のあんな顔を見たのは初めてでした」
兄の横から、義父が少し自慢げに答える。と、部屋の扉がノックされ、「議長殿下、中に入ってもよろしいでしょうか」と中島先生の声がした。
「あ……」
部屋の中に入ってきた中島先生は、室内に兄と義父がいるのに気が付くと、すぐさま最敬礼した。
「議長殿下にお話をしようと思って参りましたが……後に致しましょうか」
中島先生はそう言いながら、兄と義父の方をそっと見る。そのしぐさを見て、中島先生が何を話したいのかピンときた私は、
「兄上、お義父さま、申し訳ないですけれど、この部屋から出てください。中島先生と2人で話がしたいです」
と、兄を見つめながら言った。すると、兄が反応する前に、
「い、いえ、また明日の朝に致します!」
中島先生はサッと一礼して、部屋を出て行ってしまった。
「……俺がいては、話がし辛いことなのか」
「ええ、とっても」
中島先生を視線で見送った兄を、私は軽く睨みつけた。
「だから明日の午前中は、絶対病院に来ちゃダメだからね。来たら滅茶苦茶怒るわよ」
「分かった、そうしよう。だが、栽仁が来るまではずっとここにいるぞ。お前が心配だからな」
そう言った兄の背中に、凄まじい殺気が浴びせられた。廊下に控えていた奥歩兵大将と大山さんが、開いていたドアからこちらを覗き込み、兄を睨みつけたのだ。
「皇太子殿下、お気持ちは大変ありがたいのですが、妃殿下もお疲れですから、そろそろ御退出を……」
我が臣下の静かな、しかしすさまじい怒りの籠った声に、流石の兄も一歩退き、
「……仕方がない。帰るとしよう」
そう言い残して私の病室から去って行った。
そして、
「昨日は大変失礼を致しました、議長殿下」
私と中島先生が2人きりで向かい合えたのは、翌日、3月27日の午前10時のことだった。
「いえ、こちらこそ。多分、先生がお話になりたいのは、私の最終月経がいつから始まったのか……ということだと思ったので」
赤ちゃんを抱っこした私が答えると、中島先生は「流石、議長殿下でございます」と私に深く頭を下げた。
「実は、私、結婚してから月経が来ていません。結婚してすぐ、万智子を身ごもったので……」
私は小さな声で中島先生に言った。
「では、今回の妊娠週数について、吉岡先生はどのように診断を?」
「診察の所見だけです。万智子が産まれた後、授乳回数が少しずつ減って来たのに、月経が再開しないので、何か悪い病気がないかと思って弥生先生に診察してもらいました。そうしたら、妊娠3か月から4か月の間という診断が下って……」
今回の妊娠を告げられた時のことを思い出しながら、私は中島先生の質問に答えた。
「なるほど。その診断が下ったのはいつでしょうか?」
「確か、去年10月の最後の土曜日でした。それで、その診断を受けた日を仮に4か月目の初日として、今まで動いていました。ちょうど、節子さま、いいえ、皇太子妃殿下と同じくらいの妊娠の経過だと思っていて……」
中島先生は一瞬眉をひそめると、
「恐れながら……大変失礼なことをお聞きしますが、最終月経のことは抜きにして考えると、受胎の可能性があるのはいつからでしょうか?」
と私に尋ねた。
「それは……」
私は顔を赤くしてうつむいた。だから、中島先生が昨日出産後に現れた時、兄と義父には席を外してもらいたかったのだ。
「去年の3月、仮議長に選ばれた時から、ずっと……です」
何とか絞り出すように答えると、
「なるほど……分かりました。ならば答えは1つです。議長殿下と吉岡先生が想定されていた時期より、受胎の時期が3、4週ほど早かった……」
中島先生は、私が思いもしなかったことを言った。
「え?!」
私は目を見開いた。
「そんな……そんなはずがあるわけ……」
「恐れながら」
中島先生は頭を再び下げると、
「議長殿下もご存じのことと思いますが、最終月経の開始日が分からない場合、妊娠週数の推定は非常に難しいものです」
と、私に説明を始めた。
「まして、受胎の可能性がある日が特定できないとなれば、いっそう難しくなります。それでも、子宮の大きさや、胎児の成長の経過から何とか推定するのですが、妊婦にも胎児にも個人差があります。子宮の中の胎児を直接検査できるような機械でもできれば、妊娠週数の推定の精度も上がるのでしょうが、現在の医学では、どんな名医でも、この条件で正確に妊娠週数を推定することは難しいでしょう」
「……」
それは、確かにその通りだ。その通りなのだけれど……。
「そして、……もう1つ、診断を更に難しくした要因があるかもしれません」
「もう1つ?」
聞き返した私に、頭を下げたままの中島先生は、
「恐れながら議長殿下、皇太子妃殿下と妊娠の経過がほぼ同じであるというお考えは、どなたかにお話になったでしょうか?」
と私に尋ねた。
「ええ。弥生先生にも話しましたし、家族や、私と親しい人たちは全員知っていますけれど……」
そう答えると、
「やはり、ですか。大変申し上げにくいことですが……それが今回、診断を更に難しくした要因でございます」
中島先生はこう言った。
「議長殿下は覚えておいででしょうか。山階宮妃殿下が、安子女王殿下を分娩された時のことを」
もちろん覚えている。今から11年前のことだ。女医学校に通っていたころ、山階宮家のご当主・菊麿王殿下のご好意で、山階宮妃殿下のお産を見学させてもらったのだ。その時、癒着胎盤による大出血で妃殿下が命の危機に陥りそうだったのを、分娩を担当していた中島先生が子宮全摘術を施行し、妃殿下の命を救ったのだけれど……。
「あの時、山階宮妃殿下の手術をためらう私に、議長殿下はこう仰せられました。“治療に関しては、直宮であるこの私が全責任を持ちます。もし、皇族が手術を受けるのがしきたりから外れると言う人が出てきたら、私がその人たちから範子さまと先生方を守ります。範子さまにも、先生方にも、指一本触れさせはしません”と……。あのお言葉に、私は背中を強く押されたのでございます。そして、山階宮妃殿下のお命を救うことが出来ました。まだ医師免許をお取りになっていなかった議長殿下のお言葉の力が、私を動かしたのです」
「……」
「まして、今の議長殿下は、医師免許をお持ちでいらっしゃいます。それゆえ、我々医療者にとっては、議長殿下のお言葉は、天皇陛下の勅語と同じような響きを持ちます。発する側、受け取る側、双方で努力したとしても、議長殿下のお言葉は、我々医療者を縛り付けようとするのです」
「つまり……先生がおっしゃりたいのは、弥生先生は、私の“節子さまと同じ妊娠経過だ”という思い込みに引きずられてしまって、妊娠週数の推定を誤った、ということでしょうか」
私が静かに結論を述べると、
「申し訳ございません。ご不快に思われたでしょう。どうかわたしを罰してください、議長殿下」
中島先生は、床についてしまうのではないかと思うくらい深いお辞儀をした。
「頭を上げてください、中島先生。私には、先生を罰する権限はありません」
私はなるべく優しい声で中島先生に言った。
「先生に、お礼を申し上げないといけません。私は今まで、自分の言葉が持つ力について、余りにも無知でした。いえ、自分が皇族であり、医師でもあるという意味を、深く考えてこなかったという方が正確でしょうか。兄とお父様が病気やケガをした時にしきたりを超えて助けたい、そして、医療をもっと良くしたい……そんな思いで医師になりましたけれど、自分の言葉がどれほどの力を持つのか、それに思いを致していませんでした」
反省しなければならない。医学でも、そのほかのことでも、私が常に正解を導き出せる訳ではないのだ。今回だって、帝国議会の閉会式を混乱に陥れてしまったのだ。もし、私が国政に預かった時、致命的なミスを犯してしまい、それに他の人が盲目的に従ってしまったら、国を滅ぼす可能性もあるのだ。
「中島先生、私の分娩を引き受けてくださって、ありがとうございました。それから、大切なことに気付かせてくださって、本当に感謝申し上げます」
分娩の余波で、身体はまだ少しフラフラしている。けれどその中で、私は飛び切りの笑顔を中島先生に向けると、深く頭を下げたのだった。
※保育器に関しては、「産科学講義」(中島襄吉.南江堂書店.1907)や「西洋教育事情」(下田次郎.金港堂.1906)によると、お湯で保温する仕掛けのものが実際にも当時あったようです。この当時だとマーティン・クーニーの事例が知られているのでしょうが、今回は触れませんでした。ご了承ください。




