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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第53章 1911(明治44)年大暑~1912(明治45)年春分
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議長であるということ

 1912(明治45)年2月26日月曜日午後1時、東京市麴町区内幸町2丁目にある帝国議会議事堂。

「知恵を貸して欲しい?」

 1階の議長室でいつものように議事打ち合わせが始まった直後、私の叔父で、無所属議員たちの議事打ち合わせ担当者である千種(ちくさ)有梁(ありはる)さんが発した言葉に、私はこう応じた。

(さっさと終わらせて欲しいなぁ……)

 今日は大事な打ち合わせなのだから、と思った瞬間、

「実は、今度の“医療五師(ごし)法”の改正案のことなんですが……」

叔父はこう話を切り出した。

「医療五師法の?」

 それは、まさに今日の打ち合わせで予定されていた話題である。叔父が「ええ」と私に頷いた時、顔をゆがめた私は椅子の上で背中を丸くした。下腹部に痛みを感じたのだ。

「妃殿下?!」

 立憲自由党の大木さんが、慌てて椅子から立ち上がる。立憲改進党の渋沢栄一さんも、太田書記官長も顔色を変えた。

「も、申し訳ありません、妃殿下!ご不快でしたら、この話は無しに……!」

 ガバっと頭を下げた叔父に、

「ち、違います……。話を不快に思ったわけではありません……」

私は痛むお腹をさすりながら答えた。

「お腹の子供に、蹴飛ばされてしまって……ごめんなさい、皆様を驚かせて。私のことは気にせずに、話を続けてください」

 私がそう言うと、議長室にいる人全員が、一斉にほっとしたような表情になった。……いや、1人だけ、私の左前に座っている副議長の徳川家達公爵だけは、表情を全く動かしていなかった。

(相変わらず、何を考えているか分からないなぁ……)

 2か月ほど一緒に仕事をしているけれど、家達さんの表情から彼の心の中を覗き込むことが、私には出来ない。彼の表情が動いたのは、私が覚えている限り2回だけで、1回目は初対面の時、そして2回目は、先週の水曜日、彼が打ち合わせの時に机の角に左足の先をうっかりぶつけて痛がっていた時だった。

(あれは痛いわよねぇ……)

 左足の先をぶつけて数分間悶えていた家達さんの顔を思い出した時、

「わ、分かりました。では、続けさせていただきます」

叔父は私にそう断り、「公家衆(バカども)が、今回の五師法の改正の意味、いまいち分かってくれないんですよ」と続けた。

「分かり切ったことだと思いますけれど……」

 私はお腹をさすりながら首を傾げた。

 医師法・歯科医師法・薬剤師法・看護師法・助産師法……5つまとめて“五師法”とか“医療五師法”と呼ばれることが多いけれど、この5つの法律は、1895(明治28)年の年末からの帝国議会に提出された。もちろん、当時内務大臣だった山縣さんに私が頼んで作ってもらった法律である。

――は?!“史実”で医師法が出来たのは、今から10年ほど後のことだぞ?!医師たちの了解が得られるのか、主治医どの?!

 当時内務次官だった原さんにはさんざん言われたけれど、医科研と東京帝国大学医科大学の主要な医学者たちが全員賛成に回ったために目立った反対もなく、医療五師法は1896(明治29)年3月に無事に公布された。ちなみに、保健師に関する法律も作って欲しかったのだけれど、“今の日本の状況にはまだ馴染まない”と山縣さんと原さんに言われて断念した。

 そんな経緯で公布された医師法に、“医師は勅令の定めるところにより医師会を設立すること”という文を付け加える、他の医療五師法にも同じような文章を付け加える……というのが、今回の改正の目的である。たったこれだけの改正ではあるけれど、勅令で全国組織の医師会・歯科医師会・薬剤師会・看護師会・助産師会を作らせるのは、私にとっては、医療制度構築のための大きな足掛かりだった。

 すると、

「そうなんです、俺も分かり切ったことだと思ってたんですよ」

叔父はこう言ってため息をついた。

「ところが、公家衆(バカども)ときたら、後藤閣下や若槻厚生次官の説明が、いまいち飲み込めないみたいなんですよ。“医者によって、支払う代金が違うということがあるのか?”なんて、寝ぼけたこと言いやがって」

「ええ?後藤さんの衆議院での説明、相当分かりやすかったですよ?」

 両肩を落とした叔父の言葉に、私は困惑した。医療五師法の改正案は、貴族院より先に衆議院に送付され、本会議で全会一致で可決された。その第1読会や特別委員会の会議録は、他の議題と同じように、既に貴族院の全議員に配布されている。それに掲載されていた厚生大臣の後藤さん、そして厚生次官の若槻(わかつき)禮次郎(れいじろう)さんの医療五師法に関する答弁はとても分かりやすく、改正のメリットを素人にも伝えられるものだった。

(その答弁が分からない……一体どういうことなの?)

 疑問符が頭の中に湧き上がった時、

「つまり……、常識をご存じない、ということでしょうかね?」

立憲改進党の渋沢栄一さんが叔父に尋ねた。

「たぶん、そういうことなんだろうと思うんですよ。俺が説明しても、正親町(おおぎまち)伯爵が説明しても、首を傾げられるばかりで埒が明かないんです」

(そ、そっちか……)

 叔父が再び両肩を落とす。私も大きなため息をついた。

 私の時代では、医療行為や薬剤・検査などの金額は、全て細かく値段が設定されていた。そして、その値段は全国統一だった。例えば、風邪を引いて医者に掛かるとしよう。東京にあるクリニックと、大阪にあるクリニックで、同じ内容の検査と診察を受け、同じ内容の処方箋が発行された場合、患者に請求される金額は、東京でも大阪でも同じである。

 ところがこの時代は、同じ医療行為を受けたとしても、かかった医者によって請求される金額が違うのだ。例えば、私が患者さんを診察して、合計30銭を請求するとしよう。その患者さんは、叔父に私と同じ内容の診察を受けた場合、叔父から30銭ではなく、25銭を請求されるかもしれないし、35銭を請求されるかもしれないのだ。その相場は、地域ごとで大体決まっているけれど、医者によっては患者に極端に高い請求書を突きつけることもある。私の時代の感覚で考えると不思議なことに思えるけれど、これがこの時代の常識なのである。

「厚生省が言うように、医師会や歯科医師会が出来て、医療行為に対して統一価格が出来れば、極端に高額な請求をする医者を排除できる仕組みも作ることもできると思いますけれど……」

 私が何とか気を取り直してこう言うと、

「妃殿下のおっしゃる通りなんですよ」

叔父は深く頷いた。

「貧者に対する医療をどうするか、これは済生会の意見も聞きながらやっていく必要があると思いますが、不当に高い請求をする医者を排除することも大事です。だから俺としては今回の五師法の改正と、その先で厚生省が考えていることに大賛成なんです。だからこそ、今回の五師法改正は、貴族院でも全会一致で可決されて欲しいと俺は思います。じゃないと、改正案に賛成しなかった公家衆(バカども)に悪徳医者が取り入って、将来の医師会結成や医療行為の統一価格の制定に対する反対運動を起こさせる可能性がある。そこで、公家衆(バカども)を説得するために、妃殿下のお知恵を借りたいと思ったんですが……」

「そうですね。私もそう思います。この医療五師法改正は、全会一致で可決されるべきです。何とか公家衆を説得して……」

 私がこう言った時、

「妃殿下」

突然、家達さんが私を呼んだ。

「あ、家達公、ちょっと待ってください。先にこちらを決めないと……」

 左に軽く振り向きながらの私の返答は、

「妃殿下!」

岩が砕け散るような大きな声でかき消された。

(……!)

 私をじっと見つめる家達さんの目つきは、驚くほど鋭い。刀の切っ先を鼻先に突き付けられたような感覚に襲われた私の身体は一瞬震えた。

(怒ってる……何で?何が、家達さんの気に障った?)

 家達さんの激しい怒気を受けながら、私は必死に脳みそを働かせた。けれど、突然のことで慌ててしまっているのか、なかなか答えにたどり着けない。

「恐れながら」

 その時、家達さんの口が再び動いた。いつもより硬い彼の声に、私の聴覚が鷲掴みにされる。

(何を言われる……?何を?)

 身構えた私の耳に、

「もし、五師法が改正されて、後藤閣下のおっしゃるような全国規模の医師会が創立されたならば、当然、妃殿下は名誉総裁におなり遊ばされるのでしょうな」

家達さんの言葉が届いた。

「それは当然……」

 私は医師免許を持っていますから……と答えようとして、私は気が付いた。

 ……だからこそ、私は口を出してはいけないのだ。

 貴族院議長である私が、議論の行く末に関して口を出すことは、絶対にやってはいけないことなのだ。しかも、私は皇族であり、皇族で唯一の医療関係者でもある。この医療五師法の議論に関しての私の発言は、議員たちにとっては、絶対に逆らえない命令になってしまう。それこそ、兄の令旨、いや、お父様(おもうさま)の勅語に匹敵するような……。

「……申し訳ありませんでした」

 私は家達さんに頭を下げると、「千種さま」と叔父を呼んだ。

「先ほどから私が五師法について言っていたことは、全て忘れてください。議長である私は、議論の結論はかくあるべしということはできません。まして、議決を左右するために知恵を授けることなど持っての他です。私が先ほどまで喋っていたことは、全て夢だとお考え下さい」

 一気に言って、叔父をじっと見つめると、顔を青ざめさせた叔父は黙ったまま首を何度も縦に振った。それを確認してから、私は打ち合わせに出席している一同を順々に見つめた。

「皆様も、先ほどから私が話していたことは全て忘れてください。私は何もしゃべっていない。今日の打ち合わせで何が話されたかをお仲間に聞かれたら、そう答えてください。……太田さん、今日は最初に、五師法の議事の打ち合わせをする予定でしたよね?」

 太田書記官長に確認すると、「はい、その通りです」と、彼は操り人形のような口の動きで答えた。

「では、私はそれが終わるまで、2階の控室で休んでいます。……それから、本会議で五師法が扱われる時は、私は議場から出て、家達公に議事進行をしていただきますので、そのつもりで手配をお願いします」

 本当は、今日の打ち合わせの冒頭でこう言うべきだったのだ。打ち合わせの議題も、その順序も、前もって決まっていたのだから。

「では、私はしばし休息します」

 そう言うと、私は椅子から立ち上がり、一礼して議長室を後にした。


 午後1時25分。

「さようでございましたか」

 議事堂2階にある皇族控室。私の向かいの椅子には、黒いフロックコートを着た大山さんが座っていた。

「……ええ、かなりしくじったわ」

 打ち合わせの冒頭からのことを一通り話し終えた私は、ため息をついた。万智子(まちこ)がここにいたら頭を撫でていたところだけれど、1歳1か月になった彼女は、最近、色々なものが食べられるようになり、授乳のために議事堂に一緒に来る必要がなくなったのでここにはいない。その代わり、私は静かになったお腹をもう一度さすった。

(本当、やらかしたよなぁ……)

 そう思った瞬間、

「議長室を出ていらっしゃるのが少し遅かったので、何があったのかと思っておりましたが、そういうご事情でしたか」

打ち合わせの最中、議長室近くの廊下に控えていた大山さんはこう言った。

「!」

(読んでいたわね、この人……)

 私は穏やかに微笑する我が臣下を軽く睨みつけた。そう言えば、この人には、今日の打ち合わせで何が話されるか、その順番まで伝えていたのだ。打ち合わせの着地点がどこになるか、非常に有能で経験豊富な我が臣下には、手に取るように分かっただろう。

「……言うタイミングが完全に遅すぎたのは事実ね。本当は、今日の打ち合わせの最初に、“医療五師法については、中立を保つために、打ち合わせの段階から退場する”と宣言しないといけなかったから」

 抗議をしても、笑ってはぐらかされるだけだろう。そう思ったので、ため息を再びつきながら私が口にしたのは反省の言だった。

「“全会一致で可決されるべき”……それは、私が絶対に言ってはいけない言葉だった。議長は中立でなくてはならないのに、賛成の方に肩入れしたのだから。……でも、医者としては、その先に、医師会の結成を命じる勅令が見えている。医師会が出来れば、医師会を、医療行為の価格の統一や、育成プログラムの策定の基盤にすることもできる……それが見えるから、この五師法の改正は、何としても成立させたい、そう思うの」

「医師会令の草案まで作成なさったのですから、その思いはなおのことお強いでしょうね」

「そうね。そう考えると、医者というより、厚生省の官僚に近い立ち位置かもしれないわね、私」

 大山さんにそう応じると、

「でも、議長として、それはいけないのよね」

私は自分に言い聞かせるように言った。

「難しいわ、中立でいるということは。でも、私は中立でいないといけない。議長であっても議長でなくても、皇族である私の一言は、議会を左右しかねない。議長であったら余計にね。もし、中立でない偏った言葉を口にしたら、折角梨花会の皆が育て上げた、私の時代よりはるかにまともな議会が跡形もなく崩れ去るわ」

「それこそ、ダイナマイトで爆破されたように、ですな。……梨花さま、心してくださいませ。もし梨花さまが奔馬のようにあらぬ方向に走り始めて、そのダイナマイトを爆発させてしまったら、(おい)も手が回りかねますよ」

「……わかっているつもり。ただ、医療が絡むと、どうも、ね」

 おどけるような調子で言う大山さんに、苦笑しながら私が答えた時、皇族控室のドアがノックされた。椅子から立ち上がった大山さんがドアを開けると、そこには徳川家達さんと叔父が立っていた。

「五師法の議案に関する打ち合わせが終わりましたので、お迎えに参上いたしました」

 怒りの色が全くない、普通の時と変わらぬ表情で淡々と言った家達さんは、私に向かって最敬礼した。

「ありがとうございます。……あの、家達公」

 私は椅子から立つと、副議長に頭を下げた。

「先ほどは議長の本分から外れたことをしてしまって、本当に申し訳ありませんでした。最初にも言いましたけれど、今後も何かございましたら、今回のようにご遠慮なくご指摘いただければ幸いです」

「これは、ありがたいお言葉を……」

 一度頭を上げた家達さんは、また私に深々とお辞儀をした。

「ご気分を害したかと思い、叱責されることも覚悟の上で参上したのですが……」

「怒る理由がありませんよ。悪いのは私ですから」

「いや、妃殿下。元々、悪いのは俺です」

 そう言った私に、叔父が最敬礼した。「医療のことだから、つい夢中になってしまって……。あれは、中立を保たれるべき妃殿下に言うことではありませんでした」

「気にしないでください。乗っかってしまった私も悪いですから。けれど、これからは……」

 注意していただけるとありがたいです、と続けようとした瞬間、下腹部がまた痛くなった。お腹の中の子供に、強烈なキックをお見舞いされたのだ。これは、万智子の時より強いかもしれない。

(今は、おとなしくしててほしいなぁ……)

 着物の上から再びお腹を撫でていると、

「あの、妃殿下……失礼なことをお伺いしますが、今は妊娠8か月目ということでしたよね?」

叔父が訝しげな表情で私に尋ねた。

「ええ。10日ほど前に弥生先生に診察していただいて、妊娠26週から30週ぐらいではないか、という結論になったのですけれど」

 そう答えると、「ということは、今が27週から31週……うーん?」と呟いた叔父が首を傾げた。

「どうなさったのですか?」

「いや、さっき椅子から立ち上がられた時のお姿を拝見して、臨月が近いんじゃないか、と一瞬思ったんですが……うーん、でも、診察するわけにもいかないし、俺も産婦人科が専門って訳じゃないし、臨床を離れてから、だいぶ時間が経ってるからなぁ……」

 叔父は答えながら、私の横に回ったり、前に回ったりして、しきりに首をひねっている。そして、ブツブツと何事か呟いていたけれど、

「うん……たぶん、俺の目の錯覚だな。重ね重ね、申し訳ありませんでした、妃殿下」

深く、大きく頷くと、私に最敬礼した。

「ただ、早産になる可能性はいつだってあります。くれぐれも、ご無理はなさらないようにお願いしますよ、妃殿下」

「分かっています、叔父さま」

 私は叔父に微笑んでみせた。その時、家達さんの表情が、一瞬だけゆるんだけれど、また彼の顔はすぐに元の無色透明なものに戻ったのだった。

※実際には、医師法・歯科医師法の公布は1906(明治39)年、薬剤師法の公布は1925(大正14)年のことでした。


※正親町伯爵……正親町実正さんのことです。幼少時に孝明天皇の侍従を務め、東京大学を卒業して薬舗主(のちの薬剤師)免状を得て侍医寮の薬剤掛に勤務。日本薬剤師会の初代会長でもあります。


※なお、しれっと出ていますが、済生勅語は実際と同じように出されている設定です。申し訳ありません。

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― 新着の感想 ―
[一言] そもそもの話議長やってるのが間違いになるんじゃないのかなあ カリスマというか、アイドル性が高すぎるからフリーにした方が危ないのもありますよね
[気になる点] 太り過ぎて産気づくまでまで妊娠に気づかない人や、妊娠中も慎重に筋トレをしたおかげであまりお腹が出なかった人がいるらしいですね。 ソナー技術の開発に力を入れれば、医療にも軍事にも産業にも…
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