演説の日
1912(明治45)年1月23日火曜日午前10時5分、東京市麴町区内幸町2丁目・帝国議会議事堂1階にある貴族院議場。
「それでは、本日の会議を開きます」
有栖川宮家の紋が入った空色の和服を着て議長席に座った私は、今年初めて、お決まりのフレーズを口にした。今日は、去年の12月28日以来、久しぶりの貴族院本会議の日である。
例年12月下旬に召集される帝国議会通常会は、官庁の仕事納めの日の前後で、1月20日までの休会に入る通例になっている。今回も、12月28日の第1回本会議の最後で、1月20日までの休会が議決され、貴族院は冬休みに入った。
そして、年が明けて最初の本会議である今日は、内閣総理大臣の施政方針演説、外務大臣の外交演説、そして大蔵大臣の財政演説が行われる。まずは陸奥さんの施政方針演説からだ。
「これより、陸奥内閣総理大臣、加藤外務大臣、高橋大蔵大臣の演説がございます。……陸奥内閣総理大臣、お願いします」
私の右にある国務大臣席から、黒いフロックコートを着た陸奥さんが、一分の隙も無い身のこなしでこちらに歩いて来る。議長席の近くで私に最敬礼すると、陸奥さんは演壇に立った。
(それにしても、休み期間中だったはずなのに、年末から今日まで、本当に忙しかったわね……)
陸奥さんの演説の要点をメモに取りながら、私はここ20日余りのことを思い返していた。
まず、年末の12月27日には、この貴族院の議場で帝国議会の開会式が行われた。もちろん、お父様が行幸しての開催である。議場で兄や梨花会の面々、そして貴衆両院の議員たちに見守られながら勅語を受け取った翌日には、本会議を中座し、勅語奉答文を持って貴族院を代表して参内した。元日の朝には、新年拝賀のために再び参内して、女性皇族たちの香水とお化粧のキツい香りに耐えながら、お父様とお母様に新年のご挨拶を済ませた。3日の元始祭と5日の新年宴会にも、“軍籍を持つ内親王”として出席した。その他にも、議事の打ち合わせのために休会中の帝国議会に何度も通ったし、呼んでもいないのに盛岡町の家にやって来る梨花会の面々の相手をしなければならなかったし、万智子の育児に自分の勉強に、息つく暇のない日々が続いた。……いや、大山さんが、私の面会者や時間の管理をきっちりやってくれて、適度に休息は取れたから、“息つく暇がない”は言い過ぎだった。私のお腹の中には赤ちゃんがいるのだから、これからも体調には気を付けないといけない。
(私の場合、助けてくれる人が周りにたくさんいるからやっていけるけれど、誰も助けてくれる人がいなかったら大変だな……。将来、皇族ではない子育て中の女性が議長になったら、議長の職務は無理なくこなせるのかしら。まぁ、時代時代で業務内容が変わる可能性もあるし、家電製品が発展すれば、家事の負担は減るだろうけれど……)
そんなことを考えていると、陸奥さんの施政方針演説が終わった。5分くらいの演説だったけれど、官営鉄道・私鉄の運賃調整の遂行と、多摩川などの河川改修事業の推進、そして区画整理・農地改良事業を進めていくこと……梨花会では何度も話されていた内容だった。
「次に加藤外務大臣、お願いします」
国務大臣席に退いた陸奥さんにかわって演壇に進み出たのは、外務大臣の加藤高明さんだ。この時の流れでは外交官として着実に実績を積み重ねた彼は、極東戦争の講和が見え始めた頃にイギリス公使を務めており、“樺太と沿海州をユダヤ人銀行家に売却してユダヤ人国家を作らせ、その売却益を日本・清・ロシアで3等分する”という私の突飛な策を実現させるために、欧米のユダヤ人銀行家たちと交渉する大役を担ってくれた。前の井上内閣では、外務次官として小村外務大臣を助け、欧米各国から関税自主権を取り戻す交渉で活躍した。そして、陸奥さんが内閣総理大臣になると、体調を崩していた小村さんの跡を継いで外務大臣に就任したのだ。
「既に皆さまご承知おきのように、我が国は清国・英国との同盟を基調として、極東と我が国の平和的安定を目指すことを国是としております。新イスラエル共和国は永世中立国ではありますが、我が国とも友好的な関係を保っており……」
演壇に登った加藤外務大臣は、堂々とした態度で演説を続ける。“史実”なら、昨年の1911(明治44)年に辛亥革命が発生した影響で、清は今頃大騒ぎになっているはずだ。幸い、この時の流れでは、清は近代的な立憲君主制国家として、着実に歩みを進めている。……おととし併合した朝鮮の統治には手こずっているようだけれど。
(日英同盟は5年後のお正月まで有効だ。あとは、世界大戦が起こらないようにできれば上々だけれど、オスマン帝国がなぁ……)
私は今月の梨花会で報告されたオスマン帝国の現況を思い出し、少し眉をひそめた。オスマン帝国での中央情報院の責任者・山田寅次郎さんからの報告には、ドイツの銀行の言葉を信じ込んだオスマン帝国が、公共事業の資金に充てるため、ドイツの銀行から多額の借金をしていると記されていた。その借金がオスマン帝国の事業者に支払われるのであれば、帝国の中でお金が循環することになるからまだいいけれど、ダム建設や水路整備などの公共事業の工事を担当するのはドイツの企業だ。
(これだと、オスマン帝国の企業が育っていかないよ……。それに、この構図だと、オスマン帝国がドイツの銀行から借りたお金が、ドイツの企業に支払われるだけで、オスマン帝国には資本がほとんど注入されなくて、借金ばかりが残ってしまうことになる。公共事業だって、採算が取れるか分からない代物ばかりだと言うし……。オスマン債務管理局は何をやっているのかしら。オスマン帝国が借金を返せなくなるようなことを始めようとしたら、それを止めないといけないのに……。オスマン帝国を借金漬けにして、皇帝は一体何を狙っているの?)
そこまで考えた時、加藤さんの演説が終わった。彼が議場の議員たち、次いで私に一礼して演壇から去ると、私は大蔵大臣の高橋さんを呼んだ。
「先ほど政府より衆議院に送付いたしました明治45年度予算について、概略をご紹介申し上げます」
演壇に登った高橋さんは、簡単に挨拶を済ませると、早速予算案の説明に入った。
「まず、歳入におきましては、経常収入2億5500万円、臨時収入1000万円、合計でおよそ2億6500万円としています」
私が転生したと分かった20年以上前、国家予算は約8000万円だった。その時と比べて、歳入が3倍以上になっているのは、“史実”ほどではないにしろインフレ傾向があること、それから、日本の人口における所得を多く得られる人の割合が増えてきて、納税額の合計が上昇したことなどが原因である。……これは高橋さんと、前大蔵大臣の松方さんからの受け売りの知識だ。
ところが、斎藤さんと原さんによると、“史実”のこの時期、国家予算の歳入は約5億5000万円……今回の予算の2倍以上だった。これがなぜなのかを説明するには、“史実”の明治政府がどのように税金を集め、日露戦争を財政的にどう戦ったのかということに触れなくてはならない。
明治維新の後、政府は、今まで藩ごとにバラバラな税率で、しかも物納で行われていた税の制度を改め、“土地の地価の3%を貨幣で納める”という方式にした。ところが、この納税額は、今まで農民が納めていた年貢とほぼ同額になるように設定されたので、他の要因で農民の不満がたまっていた地域では、それが一揆や暴動の形で噴出することになった。結果、地租は地価の3%から2.5%に引き下げられた。
日清戦争の後、更なる軍備拡張をするために、政府は地租の税率を上げることを計画する。すったもんだした挙句、“史実”では1899(明治32)年から5年間限定で、地租の税率が地価の3.3%に引き上げられた。引き上げ期間の最後の年・1904(明治37)年2月に日露戦争が勃発した。その結果、地租は引き下げられるどころか、逆に引き上げられることになった。2回の増税の末、市街地の宅地の地租は地価の20%、それ以外の場所にある宅地の地租も地価の8%に引き上げられ、その他の農地などの地租も地価の5.5%にまで上昇したのだった。
しかし、残念ながら、地租の税率を上げただけでは、18から20億円とも言われる日露戦争の戦費を全て調達することは不可能だった。そのため、地租以外の税金の税率も上げられた。営業税は日露戦争前の2.5倍に、所得税は所得額に応じて、最低でも戦争前の1.8倍、最高で4倍に引き上げられた。他の税金も引き上げられ、相続税や通行税など、新しい税金も作られた。日露戦争を遂行するために、国民は相当な増税に耐えなければならなかったのだ。
(そりゃあ、“賠償金が得られない”と分かったら、日比谷を焼き打ちしたくもなるわよねぇ……)
「租税収入は約1億5000万円を予定しており、そのうち地租が約4700万円、所得税が約1800万円、関税は約5000万円でございます……」という高橋さんの演説を聞きながら、私は伊藤さんや原さん、斎藤さんに聞いた話を思い出していた。この時の流れでは、日清戦争は発生しなかった。更に、極東戦争の戦費も全体で約2億円と、“史実”の日露戦争より大幅に少なかった。相続税や毛織物消費税、石油消費税など、新しい税金はいくつかできてしまったけれど、“史実”で新設された税金より種類は少ない。地租は地価の2.5%のままだし、所得税や営業税の税率も引き上げられていない。国民の負担は、“史実”よりかなり減っている。
「さて、歳出に話を移しますが、軍事費は経常・臨時合わせて1億円ほどです」
大蔵大臣の高橋さんの説明は歳出へと移った。“史実”のこの時期の軍事費は、陸海軍合わせて約1億8000万円ほどだったそうだ。この時の流れと“史実”では、物価も違ってきているから一概に比較は出来ないけれど、軍事費の額が減っているのは、兵士の数や建造している軍艦の数が“史実”より少ないことが大きな要因だろう。軍事費が減っていると言っても、飛行器や戦車などの新兵器の開発・改良はきちんと進んでいるので、そこは安心である。
「また、本年度の臨時事件公債の償還額は、約1000万円を予定しております」
そして、歳出に関して、“史実”と大幅に違うのは、債券支払いに使うお金が大幅に減っていることである。“史実”の日露戦争の18から20億円という戦費を、増税だけでは賄えなかった。そのため、政府は国内で約6億8000万円の国債を、欧米で合計8200万ポンド、日本円にしておよそ8億円余りの外債を発行しなければならなかったのだ。
ところが、この時の流れで発生した極東戦争の戦費2億円は、開戦直後に発行した600万ポンド(約6000万円)の外債と、国内で発行した臨時事件公債1億円で何とかなってしまった。あと2500万円ほど国債を発行することも大蔵省では検討されたけれど、沿海州と樺太の売却益の200万ポンド(約2000万円)が入ったので、発行しないで済んだそうだ。
その結果、今の日本は、債権の償還に年1000万円ほどしか使っていない。“史実”ではこの時期に、年に1億4000万円ほどの支出を強いられていたのとは対照的である。
(でも……今の状態じゃ、国民皆保険制度なんて作れない)
高橋さんの財政演説をメモに取りながら、私は思った。
私の時代では、国民は何らかの公的医療保険に入ることが義務付けられていて、一定の保険料さえ支払えば、医療は定価より大幅に安い値段で受けることができた。医療保険の運営に必要なお金は、国民が支払う保険料と、保険者――私の時代では企業や市町村が運営する健康保険が主だったけれど――それが出すお金で運営される。つまり、市町村が保険者の場合、医療保険の運営に税金が使われることになるのだ。
しかし、市町村にも国にも、医療保険の保険者になれるような財政的な余力はない。歳出が“史実”より少ないと言っても、歳入も“史実”より少ない。そして、軍隊の整備の他にも、港湾や河川の改修などなど、税金を使ってやらなければならないことはたくさんある。もし、健康保険を市町村や国が運営することになれば、税金の額を上げなければならない。
(私の時代で言う、“小さな政府”か“大きな政府”か、ということよね……。国民が将来、その規模の政府を望むかは分からないけれど、医療行為の値段を全国で統一することは悪いことではない)
そのための第1歩が医師法の改正、そして、それと同時に行われる予定の歯科医師法・薬剤師法・看護師法・助産師法の改正だ。絶対に改正法律案は議会を通してみせる、そう私が決心した時、高橋さんの財政演説は無事に終わったのだった。
※高橋さんが言っている予算については、「明治大正財政史」(大蔵省編)の明治44年度予算を見ながらかなり適当に設定しました。物価の考察に関してはおそらく滅茶苦茶おかしくなっています。ご了承ください。
※地租改正反対一揆については、様々な要因が絡んでいるため、今回は非常に大雑把な書き方をしています。ご了承ください。




