会津にて
※松平保男さんの年齢ミスを訂正しました。(2021年12月13日)
1911(明治44)年7月25日火曜日午前11時、福島県檜原村。
「ありがとう、栽仁殿下。ここに連れてきてくれて」
1888(明治21)年7月の磐梯山噴火で生まれた檜原湖のほとり。そこに立つ磐梯山噴火の犠牲者の供養碑の前で、拝礼を終えた私は夫にお礼を言った。
「そう言ってもらえてよかった」
背広服を着た栽仁殿下は、そう言うと私に微笑んだ。
7月22日、栽仁殿下は18日間の夏休みをもらって、装甲巡洋艦“日進”から盛岡町邸に帰ってきた。年末年始以外で、栽仁殿下と長い期間一緒にいられるのは、結婚休暇以来初めてのことだ。そこで、栽仁殿下の夏休み期間中、万智子も連れて、福島県の猪苗代湖のそば、翁島村にある有栖川宮家の別邸で避暑をすることにした。別邸に入ったのは一昨日だったけれど、一昨日は雨、昨日は曇りで、足元が悪くて遠出が出来なかった。今日は天気が良くなったので、栽仁殿下が“絶対に行きたい”とずっと言っていたこの檜原湖畔に行くことが出来たのだ。
「……翁島の別邸に初めて来た時、父上が僕をここに連れて来たんだ」
栽仁殿下は真面目な表情になると、視線を供養碑に向けた。
「猪苗代町にも磐梯山の噴火の供養碑がいくつかあるけど、父上はそこにも僕を連れて行った。それで、父上にこう言われたんだ。“あの磐梯山の噴火で苦しんでいる人は、まだたくさんいる。噴火でこの土地の地形が大きく変わってしまった結果、堰き止め湖が作られて家屋や田畑が水没した。そして、大雨が降ると、この土地では水害が発生するようになった。磐梯山の噴火は、この土地の人々にとっては、本当の意味ではまだ終わっていないのだ”って」
「……お義父さまのおっしゃる通りね」
私は軽くため息をついた。「ここまで来る途中、荒れ地も多かった。治水工事も進めないといけないし、植林もしないといけないね。私の時代、もっと緑が多かったと思うの」
「そうなんだ。……梨花さん、前世でこの辺りに来たことがあるの?」
私たち2人の他には、ここには大山さんしかいない。夫は遠慮なく、私のことを“梨花さん”と呼んだ。
「大学生の頃に、猪苗代城や檜原城の跡を見に行ったことがあってね。磐梯山の噴火のことも、その時に知った。噴火の少し前に、私がこの時代に転生したと分かったから、お父様に噴火のことを伝えたのだけれど、お父様に信じてもらえなくて……」
私は再び、供養碑に目を移した。
「私が、お父様を信じさせることができたら……この周辺の住民を避難させるように、もっと強く言えていたら、この人たちの命は助かっていたのかな……」
すると、
「梨花さん」
栽仁殿下が、私の右手を握った。
「その時のことは、聞いたことがある。僕が梨花さんとの結婚を陛下に直訴した時、陛下がお話しになったから。……その話を聞いた時、僕、梨花さんはすごいと思ったんだ」
「わ、私が?!」
動揺した私は、思わず叫んでしまった。「そんな……あの頃の私は、今よりも意気地なしで、できることも少なかったし……」
「もし、普通の人が、あの時の梨花さんと同じ状況に置かれたら、陛下と話すなんてことはできなかったと思うよ。例え自分が内親王だと分かっていてもね」
栽仁殿下は微笑すると、私の手を握ったまま、真正面から私を見つめた。
「それに、あの時、梨花さんが“史実”を伝えようとしたことが、時の流れを変えて、この国がより良くなることにつながったんだ。自分のできる精一杯のことをやった梨花さんのこと、僕はすごいと思うよ」
栽仁殿下の澄んだ瞳の光が、戸惑う私をそっと包み込む。ああ、そうだ。この人はいつだって、物事の良い面を見逃さないのだ。つい、悪い面だけを見てしまいがちな私とは違って……。
「どうしたの、梨花さん?」
「……反省も大事。けれど、前を向くことも大事ね」
私は夫の瞳を見つめ返すと微笑した。「ここの治水と植林が少しでも助けられるように、資金援助をしたいな。もちろん、東京に帰ってから、お義父さまと相談してだけれど」
「そうだね、とてもいい考えだと思う。猪苗代町にある供養碑を全部お参りしたら、早速今日、父上に手紙でお願いしようか」
「うん。……ありがとう、栽仁殿下」
「こちらこそ、梨花さん」
手をつないだまま、夫と微笑を交わすと、心が優しく温められたのが分かった。
1911(明治44)年7月27日木曜日午前10時、福島県一箕村にある飯盛山。
「今日は東京からわざわざ僕たちのためにおいでいただき、ありがとうございます」
飯盛山のふもとで出迎えてくれた東京帝国大学の総長で、会津松平家の家政顧問でもある山川健次郎先生に、栽仁殿下は最敬礼をする。もちろん私も、栽仁殿下の隣で、山川先生に深く頭を下げたし、私の後ろで、大山さんと捨松さんも山川先生に最敬礼している。
「とんでもございません!」
山川先生も、私たちに負けないくらい深々と頭を下げた。「皇太子殿下、皇太子妃殿下、有栖川宮殿下のみならず、若宮殿下ご夫妻にも、会津のことを気に掛けていただき……感謝の言葉もございません。本来でありましたら、松平子爵にもお出迎えいただくべきところなのですが、あいにく、艦隊勤務中でございまして……」
“松平子爵”というのは、今の会津松平家のご当主・松平保男さんのことだ。私より4、5歳年上の保男さんは、海兵士官学校を卒業し、現在戦艦“三笠”で勤務している。今回の私と栽仁殿下の訪問は、2週間ほど前に急に決まったから、予定を合わせられなかったのだろう。山川先生や福島県の知事さんと予定を合わせられたのが、むしろ奇跡に近い。
「構いませんよ。軍務であれば仕方がないことです。僕も妻も軍人ですから、それは承知しております。では、ご案内をお願いします」
山川先生、そして福島県知事の後ろに続き、私と栽仁殿下は、飯盛山の白虎隊墓地へと続く参道に足を踏み入れた。
山腹にある広場、玉垣に囲まれた中に、戊辰戦争の時、飯盛山で自害した白虎隊士たちの墓が並んでいた。白虎隊は、会津藩が戊辰戦争の時に組織した部隊の1つで、16、7歳の少年たちを中心に構成された。本来は、城下町の守備など、後方での活動が想定されていた白虎隊だけれど、会津藩の軍勢が新政府軍に押されていく中、兵力として各所に投入せざるを得ない状況になった。
そして、白虎隊の一部、士中二番隊は、猪苗代湖の北西、戸ノ口原の防衛線に派遣された。1868(慶応4)年8月23日早朝、新政府軍は戸ノ口原の会津軍に向かって攻撃を始めた。会津軍も奮戦したけれど、兵力・装備ともに優れた新政府軍に押されて後退し、士中二番隊も本城・若松城(鶴ヶ城)近くの、この飯盛山まで撤退した。
「……その頃には、新政府軍が若松の城下町に攻め入っておりました。その光景は、ここから遠望できたと思います。それを見て、“生きて敵に捕らえられるのは武士の恥”と思ったか……結果、彼らは自刃して果てました」
19基ある墓石に、それぞれ拝礼し終わると、若松市の町並みを眺めながら、山川先生は絞り出すように言った。山川先生も、戊辰戦争の時、若松城に籠城していたのだ。
「この方たちが生きていたら、きっと今頃、国家の色々なところで活躍されていたのでしょうね」
栽仁殿下の言葉に、「ええ……」と頷いた山川先生は、
「優秀な者もたくさんおりましたから、おそらくは……」
と答えた。この飯盛山で亡くなった白虎隊士の中には、少年時代の山川先生と家が近所で、親しくしていた人も何人かいたそうだ。
「悲しすぎますね……」
私は両肩を落とした。戊辰戦争の当時は、まだ数え年で年齢を数えていたから、16、7歳と言ったら、満年齢で14歳から、多く見積もっても16歳……私の妹の聡子さまや多喜子さまと同じ年頃だろう。戦争は、そんな年若い命を奪った。
「人が理不尽に死んでいくのは、本当に辛いです。極東戦争の時も思いましたけれど……もう二度と、こんなことが起こって欲しくないです……」
(でも……もっと理不尽なことが起こったのよね、会津では……)
そう思った時、県知事さんが私たちに移動を促した。私は栽仁殿下と一緒に、立ち並んだ墓石に一礼すると、次の目的地へと向かった。
1868(慶応4)年8月23日、白虎隊士たちが自決した日、新政府軍は若松城下に攻め入った。新政府軍に破られた外郭の門を守っていた家老2人は自決して果てた。彼らだけではない。城下町では、“戦いの足手まといになるのが耐えられない”“生き恥をさらしたくない”“家の名を汚したくない”“国に殉ずる”……様々な理由で、多くの老人や女性たち、そして子供たちが自決した。
「……それから、何とか籠城戦に持ち込むことはでき、会津の将兵もよく戦いましたが、奥羽越列藩同盟の諸藩も次々と新政府軍に降伏し、頼みにしていた米沢藩も新政府軍に降伏し、会津に救援が来る希望は失われました。やむなく会津も降伏することになりまして、9月22日、この若松城は開城したのです」
若松市内に人力車で移動した私たちは、若松城の本丸跡、かつて天守閣のあった場所に立ち、山川先生の話を聞いていた。私の時代には、天守閣が再建されていたけれど、今はそんなものはなく、石垣と堀が当時を偲ぶよすがとなっている。辺りの風景を眺めながら、私は山川先生の話に聞き入った。
「城下町は……あちらですか?」
山川先生が話し終わった時、私は右手で北を指しながら、周りにいる人たちに確認した。
「はい。その方角でございます」
若松市の市長さんが頷くのを確認すると、私は北を向いて立ち、深く頭を下げた。集団自決の他にも、略奪、一揆、強姦など……戊辰戦争当時の会津では、様々な悲惨な事件が発生した。その犠牲者たちに……戊辰戦争が無ければ、理不尽な理由で命を落とすことはなかった人たちのご冥福を祈りたかったのだ。
「……栽仁殿下」
私が頭を上げたのは、頭を下げてから、たっぷり1分は経った時だった。
「何、章子さん?」
ここには、山川先生と大山さんだけではなく、私のことを知らない県知事さんや捨松さんもいる。私を“章子さん”と呼んだ夫に、
「万智子が大きくなって、物事の分別が付くようになったら、ここに連れて来ましょう」
私はこう言った。
「戊辰の役以来、この国で流れた血は、意見の違いはあっても、皆、お父様を大切に思ってくれた人のものだもの。だから、かつての敵味方、かつての官軍・賊軍の区別なく、犠牲者のご冥福を祈り、戦いで傷を負った人たちの回復を祈り、心を寄せること……それはお父様の子としての、皇族としての私の義務よ。それを私の子供には、知っておいてもらいたいと思ったの」
「……それは、とてもいい考えだ」
栽仁殿下はニッコリ笑って、頷いてくれた。
「僕たちが皇族として、何を考えているか。それを伝えるいい機会になるし、それを抜きにしても、戊辰の役で起こったことは知っておくべきだ」
「ありがとう、栽仁殿下」
「万智子が大きくなるまでは、翁島の別邸に来たら、2人でここと飯盛山にお参りしよう」
「そうね、磐梯山噴火の供養碑と一緒にね。兄上と節子さまも言っていたけれど、一度墓参をしたからと言って、それで終わりではないから」
私は再び、北の方角に目をやった。かつて凄惨な戦いが繰り広げられた会津盆地には、夏の始まりを告げる強い日の光が降り注いでいた。若松の城下町の町並みを、私と栽仁殿下は、時間の許す限り見つめていたのだった。
※今回磐梯山ジオパークのホームページ、「磐梯山噴火からの観光復興:「防災教育と教訓の伝承」の視点から」(橋本俊哉、立教大学観光学部紀要、第20号)、「会津戊辰戦史」(会津戊辰戦史編纂会)、「戦況図解 戊辰戦争」(木村幸比古、三栄書房)、「奥羽越列藩同盟」(星亮一、中公新書)などを参考にしました。




